張学良からの奴隷状態から満州人を解放した日本 | 子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい

 

明治31年(1898年)2月15日、米国の軍艦メイン号が、ハバナ沖で爆発炎上して沈没する事件が起きました。

 

事件当時、キューバはスペインの植民地でしたが、砂糖など輸出で米国と経済的な関係が密接でした。

 

米国の関税が高騰すると、キューバの経済が大打撃を受け、スペインからの独立運動が活発となっていきました。

 

メイン号沈没事件の後、米国による秘密裏の爆発原因調査が行われ、またスペイン側の独自の事故調査も行われました。

 

外部から爆発させた証拠もなく、機雷を沈めたという証明もできませんでした。

 

爆発は艦内で起こった痕跡が見られましたが、内部爆発は、外からの衝撃により引き起こされた可能性もありました。

 

艦内でヒューズ箱があり、その中に太い銅線が取り付けられていました。

 

もし、この銅線がショートしたら、発火しているでしょうし、もし、ワイヤが火薬庫近辺を通っていたら、爆発の原因も説明がつくかもしれません。

 

米国海軍審判所は、いずれかの個人や集団の責任を断定する証拠は見つからなかった、と結論を出しました。

 

しかし、新聞各社は、次のように結論を出しました。

 

「メイン号爆発事件はスペインの仕業である」と。

 

米国世論は沸騰しました。

 

ウィリアム・マッキンリー大統領は、米国連邦議会の承認を得て、1898年4月25日、スペインに対し宣戦布告をしました。

 

カリブ海で、スペイン艦隊は米国大西洋艦隊に敗北し、12月10日にフランスのパリで、米国とスペインは講和条約を締結し、キューバの独立が承認されました。

 

もし、米国がスペインからの共同調査の提案を受け入れるか、利害関係のない仲裁法廷に委ねていれば、その裁定により世論の沸騰は収束し、戦争は回避されていたでしょう。

 

一方、昭和6年(1931年)から昭和7年の満州国はどうだったでしょうか?

 

昭和6年(1931年)9月18日、南満州鉄道の線路爆破事件が起きました。

 

この事件は、張学良軍閥軍の仕業であるとして、日本軍(関東軍)が満州に侵攻し、張学良の軍隊を満州から駆逐しました。

 

そして、昭和7年(1932年)3月1日、満州国が建国されました。

 

昭和7年(1932年)3月、国際連盟から派遣された、リットン調査団が満州国に入りました。

 

その後、約半年に渡り、満州各地でそれぞれの国の在留者や宣教師、新聞記者たちから聞き取りを行いました。

 

そして日本陸軍将校たちに対して、厳しい審問を行いました。

 

中国国民党軍側(蒋介石軍閥側)を支持している、外国人記者や宣教師、商人達との証言の食い違いがあると、日本陸軍将校の証言は削除されました。

 

その結果、国民党軍側(蒋介石軍閥側)の都合のいい証言だけが採用されました。

 

国際連盟から派遣された調査団は初めから結論ありきで、証拠を積み上げていきました。

 

日本は、このような圧倒的不利な状況になることをわかっていても、あえて調査団を受け入れて、厳しい尋問を受けたのは、真実を世界に知らせたいという、切なる思いがあった重要な証拠であります。

 

この満州事変が起きるまでの満州では、張学良が独裁政権を取っていました。

 

40万人という軍隊を維持するために、満州人民から搾取しており、満州人民は漢民族(張学良軍閥)の奴隷と成り下がっていました。

 

満州人は、国際連盟やハーグ国際裁判所に訴えることもできたかもしれません。

 

しかし、武器を持たない満州人民にとって、それは死を意味していました。

 

なぜなら、明治44年(1911年)10月10日から起きた辛亥革命のとき、西安、南京、広東など様々な都市で無抵抗の住民が大虐殺されたからです。

 

辛亥革命とは、満州人による清国を倒し、それまでの君主制から、漢民族による共和国を目指した革命です。袁世凱を初代総統とする中華民国が成立しました。

 

この革命の最中、西安で漢民族による、満州人大虐殺を目撃した米国人の記述です。

 

「憐憫という人間の感情は、彼ら(満州人)の悲惨な運命を食い止めることはできなかった。

 

血に飢えた支那人(漢民族)の渇きは、女達への肉欲によってのみ満たすことができた。

 

銃殺され、惨殺され、自殺を余儀なくされ、生きたまま焼かれ、逃げ出せばあらゆるところで滅多斬りにされ、

 

一週間続いた虐殺行為によって、死を免れた女性をのぞいて、2万人から3万人もの人口が消滅した。」

 

(Percy Horace Kent, "The Passing of the Manchus"1912年ロンドンEdward Arnold)

(J.C. Keyte "The Passing of the Dragon" 1913年ロンドン Toddler & Stoughton)

 

満州人は、さらなる迫害、侮辱、死から逃れるために、武器を持たない旗人とその一族は、漢民族の名前を名乗り、漢民族の血筋だと嘘をついて、漢民族の軍隊に入りました。

 

日本は、このような満州人民の惨状を目の当たりにし、張学良独裁政権を倒し、満州人民による国家を建設しようという理想を掲げて、立ち上がったのです。

 

それは、かつてスペインによる圧政に耐えかねて苦しんでいたキューバ人を解放しようと、立ち上がった米国のように。

 

しかし、国際連盟の場で、満州国の独立は認められず、日本の自衛行為も認められることはありませんでした。

 

(参考図書:「満州国の建国は正当である」ジョージ・ブロンソンレー著)