平工京子(ひらくきょうこ)です。
現役の雑誌編集者、
そして究極の
おひとりさまである私が、
「ブログ添削」という、
新しい道を見つけました。
あなたの大切なブログを
たくさんの方に
読まれるブログへ
大変身させるために、
雑誌編集者歴35年の
スキルを持つ私が
お手伝いさせていただきます!
[ネタあり過ぎの私的自分史]
というテーマで
あらためて自己紹介を
させていただいています。
私の家族構成と
幼児のころに始まった
母からの虐待の話。
成績マシーンと化した小学校時代。
70年代のカルチャーを吸収した
フェリス時代。
研究室にこもって
フランス映画を分析した大学時代。
女子大生ブームに自信喪失するも
一発奮起してコーデ術を身につけるまで。
『流行通信』入社。
私の編集者人生は挫折で始まった。
女編集長に鍛えられて、
強い女に成長した80年代。
からの続き
通勤に往復3時間かかった
横浜の実家を出て
念願のひとり暮らしを
ようやく始めたのが
1988年、私が28歳のとき。
出版業界のなかでも
低賃金で有名だった
『流行通信』。
お金には変えられない経験を
山のようにさせてもらった。
そう思えるようになったのは
ずっと後のことです。
世はバブル全盛の時代。
私が仕事をお願いする
フォトグラファーや
スタイリストなど
業界の同年代の仲間たちは
私とは桁違いに稼いでいました。
お給料が安いことを
ずっと不満に思っていた私は、
1990年、30歳で会社を辞め、
フリーになります。
先のことは何も
考えていませんでした。
ただ、何をしようと
『流行通信』のお給料よりは
マシなはず。
そう、思っていました。
最初にいただいた仕事は、
創刊後、まだ間もなかった
『FIGARO japon』の
ファッションページ。
『流行通信』で
自分が担当したページを切り取って
ブックと呼ばれる
1冊のファイルにまとめ、
以前から面識のあった
副編集長に
売り込みに行ったんです。
私の『流行通信』での
実績を知っている彼女は
私のブックをパラっと見ただけで
すぐにお試しの仕事を
発注してくれました。
社員編集者ではない、
フリーと呼ばれる私のような
外部スタッフのギャラは
ページ単価制になっています。
私がスタイリストと編集者を兼ねた
『FIGARO japon』の初仕事の
ページ単価は45000円。
4ページの企画だったので、
この仕事1本でサクッと18万円。
会社員時代は
毎月何十ページも担当して
手取りの月給が
この倍くらいの金額。
その後、毎月レギュラーで
お仕事をいただけるようになり、
『FIGARO japon』とのご縁は
何の契約もしないまま、
10年続きました。
ラフコンテを描くのもエディターの仕事です。
養う家族がいるわけではない
気楽な独り身。
私は、稼いだお金で
流行のファッションを買って
身につけ、
私の着こなし自体が名刺、
と言われるようになります。
このころは、
私自身が誌面に
登場することもあって
実家の母もこれには
大喜びでした。
30代で独身、
ばりばり仕事をして
雑誌に出ている娘を
ずいぶん自慢していたようです。
結婚なんてつまらない。
するものじゃない。
そう言っていた母。
意外なことに、
以前は私の一挙一動に
口出ししていた家族も
結婚しろというプレッシャーを
かけてきませんでした。
90年代の私は
セックス&ザ・シティの
ドラマのように
いろいろなメンズと
付き合っていました。
結婚まで話がまとまる
つきあいには誰とも
なりませんでしたけれどね
自分のスキルとキャリアを武器に
とにかく稼ぎたかった当時の私は、
ギャラのいい仕事がしたいと
公言していたので、
希望通りペイの良い仕事ばかり。
海外ロケや
有名人のインタビュー、
毎月のようどこかで開催される
レセプションパーティの
招待状が届きます。
映画『レオン』の宣伝で
来日していたジャン・レノと。
刺激のある日常に
慣れっこになっていた私には、
メンズとのデートは
プラスαの彩り程度のもの。
家庭を持つことがどんなことか、
まったくイメージできて
いなかったと思います。
注文していたエルメスのバッグがパリから届いた日。
ところで、
ファッション誌の主な収入源は、
雑誌の売り上げではありません。
ファッション業界では
売りたい服を宣伝するために
雑誌のページをお金で買って
撮り下ろしの撮影を
編集部に依頼します。
私が編集部から請け負っていた
ギャラのいい仕事の大半が
このタイアップ広告と呼ばれる
ファッションページでした。
お給料の安かった
『流行通信』の編集者のころは
人気ブランドから
自分がいいと思う服を選んで
自分の好きなように撮影するのが
仕事だった私。
お金のために
自分のいいと思えないものを
できるだけ良く見せる仕事ばかりを
するようになっていた私は、
だんだんストレスがかさみ、
自信も失っていきました。
私はその反動で
ブランド物の服やバッグを
中毒のように買い続け、
人からはおしゃれのプロと
呼ばれて、注目を集めるように。
今で言う、
インフルエンサーの走りですね。
外からは格好良くに見えていた
かもしれませんが
内側は満たされない思いで
いっぱいでした。
飲まないとやっていられない
と、お酒をよく飲んでいた
このころの私。酔っぱらうと
仕事が思うようにいかないと
愚痴ってよく泣いていました。
へ続く…。
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