平工京子(ひらくきょうこ)です。
現役の雑誌編集者、
そして究極の
おひとりさまである私が、
「ブログ添削」という、
新しい道を見つけました。
あなたの大切なブログを
たくさんの方に
読まれるブログへ
大変身させるために、
雑誌編集者歴35年の
スキルを持つ私が
お手伝いさせていただきます!
[ネタあり過ぎの私的自分史]
というテーマで
あらためて自己紹介を
させていただいています。
私の家族構成と
幼児のころに始まった
母からの虐待の話。
成績マシーンと化した小学校時代。
70年代のカルチャーを吸収した
フェリス時代。
研究室にこもって
フランス映画を分析した大学時代。
女子大生ブームに自信喪失するも
一発奮起してコーデ術を身につけるまで。
からの続き
大学教授の夢が折れ、
家族の手前、
就職せざるを得ない。
そんな私に
扉を開いてくれたのが
『流行通信』という、
時代の最先端を行っていた
ファッション雑誌。
ただし、試験の結果は補欠…。
8カ月間の自宅待機の末に
私がようやく
編集部というものに
初めて足を踏み入れたのは
1983年1月のことでした。
新米ファッション編集者として
なんとかスタートを切ったものの、
ただ雑用に追われる日々。
当時はまだ
PC、メールはもとより
FAXさえもありません。
『流行通信』は基本、
スタイリストを起用せずに
編集者がスタイリストを
兼ねていました。
なので、
編集部の雑用に加えて
撮影用サンプルのリースと返却、
アイロンかけ、靴の裏張り
などなど、
スタイリストアシスタント的な
仕事もてんこ盛りでした。
コンプライアンスなき
80年代のことです。
仕事の終わりが
10時、11時になることも
日常茶飯事。その状況で、
実家から片道1時間半の
距離を毎日通勤。
仕事が楽しいとは
まったく思えなかった私は、
ことあるごとに
「こんな仕事が
したかったわけじゃない」
と愚痴を言っていました。
『流通』のおしんと呼ばれていたころ
そして入社早々、
私は身体を壊して入院。
2カ月近い病気欠勤の後に
なんとか復帰したとき、
できる女として
業界で名をとどろかせていた
編集長がひとこと
私にこう言い放ったんです。
「ふつう、
そこで消えて行くんだけどね」
その時、カチッと、
私の中で何かひとつ
スウィッチが入りました。
このままでは
ぜったい終わらない。
そう思えたのは、
母親の虐待で
メンタルを鍛えられていた
からだと思います。
女子大生気分のロングヘアを
ばっさり、刈り上げにして
もうこの世界で
生きて行くしかないと、
踏ん切りをつけます。
肝が座った私は、
不当なアシスタント業務は
ガンを飛ばしてきっぱり断る
凄みのある部下に変貌。
すると、
自分ひとりで担当する
ファッションページも
少しずつ増えて、新米ながらも
責任を負う立場になっていきます。
そこからは、
海外出張が嵐のように
ふってきました。
初海外どころか、
初めての飛行機だった
初めてのパリコレ出張
でもありました。
当時、無法地帯と化していた
LAロケでは盗難にあい、
連日ロス市警に通う経験も
しました。
『流行通信』の
お給料は決して良く
ありませんでしたが、
どんなにお金を払っても
できないような経験を
山のようにさせてもらいました。
母親と同じ種類の
強い女だった
編集長に鍛えられて
私自身も強い女に
成長していったのです。
どんどん強くなっていった『流行通信』時代の私
へ続く…。
************
★現在ご提供中のメニューはこちら
(↓クリックすると飛びます)
★モード誌編集者 平工京子のブログ
「お茶の時間」ちょっと、一息入れましょう
(↓クリックすると飛びます)
★お客様ご感想はこちら
(↓クリックすると飛びます)