社会学の先駆者デュルケームから学ぶ2 | 真の国益を実現するブログ

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 過日、デュルケームの『自殺論』からの引用として、職業集団の再建、職業集団を今日の政治の基礎にすえることが、現代社会における個人の存立の危機を克服するための唯一の方策としてご紹介しました。しかし、彼は職業集団を無条件に肯定しているわけではありません。当然ながら、公共から乖離し、経済的私的利益のみを追及、また単に選挙での集票組織ではいけないとしています。

 今回は、彼が自殺の原因の一つに分類したアノミー的自殺※の原因等を分析する中で、経済的見地から人間の欲望のあり様とからめて記述しているところを抜粋します。
 
※アノミー 
 もとは「神法の無視」「無規則性」を意味するギリシア語の anomiaが語源であるが,フランスの社会学者 É.デュルケムが,近代に移行する過程で,それまで人間の行為を規制してきた伝統的価値や,社会的規準の喪失に従って社会の秩序が崩壊したことを論じるのに使って復活した。
(出典:コトバンク https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%8E%E3%83%9F%E3%83%BC-26487

《現実にアノミーが慢性的状態にあるような社会生活の一領域がある。商工業の世界がそれだ。じっさい、19世紀の初頭以来、経済の発展は主として、産業上の諸関係をあらゆる規制から解き放つことをつうじてすすめられてきた。(中略)

 正統派経済学と極端な社会主義という正反対の両学派は、種々の社会的機能のあいだの多少とも消極的な媒介の役割を、政府権力に求めようとしている点では、主張を一にしている。前者は政府権力を単なる個人間の契約の保護者に仕立てあげようとし、後者は、集合的な経営を担当する任務、すなわち、消費者の要求を把握して、それを生産者に伝えたり、また全体の所得を評価して、それを所定の方式にしたがって分配したりする任務を与えようとしている。しかし、政府権力にその他の社会的機関を従属させたり、あるいは政府権力の目的に向けてその他の機関を集中させたりするいっさいの資格は、両学派がともにこばんでいるところである。また、両者とも、産業の発展をかちえることが国家のもっぱらの、あるいは主要な目的でなければならないとしているが、この点は、表面的には対立している二つの体系の共通の根底をなしている経済的唯物論のドグマに、もともと内在しているものである。そして、この理論は、世論の現状をそのまま表現しているにすぎないので、産業はひきつづきそれに優越したある目的のための手段であるとはみなされず、かえって個人および社会の至上の目的となってしまった。こうして産業によってあおりたてられた欲望は、それを規制してきたあらゆる権威から身を解き放つことになったこの物質的幸福の神格化は、いわば欲望を神聖化し、欲望を人間のあらゆる法の上位におくようなものである。その欲望をさまたげることは、あたかも冒瀆であるかのようにさえおもえる。そのために、産業界自体が、同業組合を通じて欲望の上に行使してきたまったく功利的な規制さえも、維持され難くなってしまった。最後に、この欲望の解放は、産業の発展と市場のほとんどとどまることを知らない拡大によって、いっそう拍車をかけられた。生産者が、自分の生産物を直接の隣人に売りさばくことしかできなかったかぎりでは、得られるわずかな利益は、欲望をとくに刺激することもありえなかった。しかし、いまやほとんど全世界の顧客を相手にすることも期待しうるときになっては、このかぎりなくひらかれている前途をまえに、どうして情念はかってのような制限を甘んじて受け入れることができよう。

 社会のその部分(商工業の世界)を支配している沸騰状態、またそこから他の部分には波及していった沸騰状態は、以上のようにして生じる。つまりそれは、危機とアノミーの状態が、そこに不断に存在し、いわば常態になっているからである。階級の上下をとわす、欲望が刺激されているが、それは最後的に落ち着くべきところを知らない。欲望の目ざしている目標は、およそ到達しうるすべてに目標のはるか彼方にあるので、なにをもってしても、欲望を和らげることはできないであろう。その熱っぽい想像力が可能であろうと予想しているものにくらべれば、現実に存在するものなどは色あせてみえるのだ。こうして、人は現実から離脱するのであるが、さて、その可能なものが現実化されると、こんどはそれからも離脱してしてまう。人は新しいもの、未知の快楽、未知の感覚をひたすら追い求めるが、それらをひとたび味わえば、快さも、たちどころにして失せてしまう。そうなると、少々の逆境に突然おそわれても、それに耐えることができない。(中略)かれを盲目にしてしまったのは、ほかならぬ、いまだ出会ったことのない幸福がやがては見つかるであろうとつねに当てにしてきたこと、そのことである。(中略)
 
 今日、経済的破綻がこれほどにも自殺を増加させているのは、とくにそうした精神状態が原因しているのではないかと考えられる。人が健全な規律に服している社会では、人は運命の与える打撃にも労せずして耐えることができるものである。自己を縛り、抑制することに慣れている人にとって、多少のよけいな窮屈さを自分に課するための努力くらいはさほど辛いものでもない。それに反して、いっさいの制限が、それだけでいとわしいときには、さらに厳しい制限は、当然耐え難いものと感じられる。(このとき)人びとをとらえる狂気じみた焦燥は、あきらめとはほど遠い感情である。到達した点をたえずのりこえることをもっぱらの目的としているとき、後方にとりのこされることはどんなに苦痛なことであろうか。ところが、今日の経済的状態の特徴である無秩序は、そうしたあらゆる危険な冒険へ扉をひらいている。人びとの空想は真新しいものに渇え、しかもそれを規制するものがないので、空想はあてもなく手さぐりすることになる。いきおい、危険が大きくなるにつれて挫折も多くなるが、さらにこれがますます人を殺めるようになると、その危機も倍加されるのだ。
 しかし、こうした傾向はいまやあまりにも慢性化しているので、社会もそれに慣れてしまい、むしろ常態とみなす習わしになっている。(中略)ともかく進歩を、それも可能なかぎり急速な進歩を強調する説が、一つの信仰箇条となってしまった。


 我が国は自殺大国です。平成26年は若干減少したとはいえ総数は25,427人、裕福な国であるにもかかわらず自殺率では18位と上位にあります。そして、職業別にみると圧倒的に多いのは無職者、失業者です。
無論、失業による貧困が自殺の一原因でもあるのでしょうけど、貧困国が必ずしも自殺率が高いわけではありません。我が国においては、失業保険もあれば生活保護も受給できます。

 そのような意味からも、人びとの欲望の解放と経済的規制緩和が倍加する現代においては、アノミー的自殺(あるいは自殺まで行かなくても、精神が侵される)を減少させることはできないのでしょうね。

 まあ、朝鮮半島も中国も、いよいよキナ臭くなってきたことですし、戦争になれば、自殺なんて関係ないか!(動乱時には自殺は減少するそうです)


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