超人列伝:南方熊楠 第一幕 少年時代「和漢三才図会」 | 真の国益を実現するブログ

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以前、神社合祀反対運動で触れた、南方熊楠について、再度ご紹介いたしたいと思います。

南方熊楠は、
・外国語を何十か国語も理解した
・神童と言われ、少年時代から天才であったが、学校の勉強は嫌いだった
・孫文と友情を温めた
・大英帝国図書館で暴力沙汰を起こした

など、数多くの仰天エピソードがある人物です。南方熊楠は、まさに日本人で挙げるべき超人、天才といえる人だと思います。南方熊楠の人生は、大きく分けて以下のようになると思います。

・神童といわれた少年時代
・東京で学んだ学生時代
・アメリカ遊学時代
・ロンドン研究時代
・地元和歌山での研究時代

今回は、少年時代のエピソードをご紹介します。

熊楠は、12歳から「和漢三才図会」の筆写を始めて、14歳で完了しています。105巻もある百科事典を、少年の熊楠はほんの数年で筆写したのです。

これはものすごいエピソードですが、このことが、彼の人生においてどんな意義があったのか、「南方熊楠事典」から引用したいと思います。


 三才つまり天・地・人の三つの世界を総合的に記述しようというこの日本初の百科全書的図鑑の試みは、中国民代の『三才図会』を真似たものである。だが、日本の学問風土に合わせた形で東アジアに蓄積された知識を展開していった寺島良安の戦略の確かさ。いったんページを開くと、そこには『三海経』以来、何千年にもわたる中国の膨大な類書の引用からなる故事来歴や博物誌が地層のように積み重なるかと思えば、日常用具の解説や海外の最新情報、さらには初級中国語・ハングル・琉球語講座まで、古今の必要な知識が巧みに織り込まれており、読者は飽きることがないのである。

(中略)

 現在なお続いている西洋科学の大規模な移入によって、日本や東アジアの学問的水準が多くの面で飛躍的に上がったことは否定できない事実である。だが、一方で、そうした西洋科学に対する全面的な依存傾向が、従来の日本の学問的基盤を育んできた伝統的な知の体系、とりわけ東アジアのそれを、我々の視界から覆い隠す結果になってしまったこともまた、確かなことなのではないだろうか。

 そう考えると、南方熊楠という明治維新の前年に生まれた人物が、『和漢三才図会』という日本における最後の東アジア固有の辞典を座右の書として少年期を送ったことの意味が、ようやく決定的なものとして理解されてくるのではないか。

(中略)

 そして、そうした古きよき時代の知識をいっぱいに吸収した状態でもって、南方青年は米国、英国にわたり、西洋の学問と直接にわたりあうことができた。伝統的な学問の徹底的な学習と、西洋文化との直接の対決。熊楠の前の世代も、後の世代も、彼が経験したほどの強烈な相克の中で、学問・文化の差異を生きることは不可能だった。しかも、彼の多くの同時代人が、結局は西洋文明の優位をア・プリオリなものとして認め、何とかその枠組みの中に東洋的知を滑り込ませようとしていたのに対して、熊楠は徹底して東洋的な学問土壌の中に西洋の知的発見を取り込もうという態度をつらぬいたのである。



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