6月15日、内閣府が、景気の拡大や後退を判断する景気動向指数研究会なるものを、約2年ぶりに開きました。

 

その報告によると、安倍政権が発足した2012年12月から今年4月までの景気拡大期間が53カ月で、バブル景気の51か月を抜き、このまま9月まで続けば昭和40年代の「いざなぎ景気」を抜いて、戦後2番目の好景気となるそうです。

 

驚くべきことは、この報告によると2014年の消費税引き上げ時にも、2015年の4-6月期、7-9月期と2四半期連続でGDPがマイナスになった際にも、そしてうるう年効果を除いて統計的に確認できる期間では、史上最長である20カ月連続で日本国民が実質の消費を対前年比で減らし続けている現在においても景気後退は存在しなかったことになるそうです。

 

「一体、どんな指標を使えばこんな滅茶苦茶な結論が導き出せるのだろうか?」と思うのですが、この景気判断は、先に紹介した景気動向指数なる数値を使って導き出されたそうな。

 

ただ、問題となるのが、この景気動向指数というものが専門家でない一般人には如何なる基準で導き出されるデータなのかが分からない点です。

 

景気動向指数(けいきどうこうしすう)は、景気に関する総合的な指標のことである。
多数の経済指標の変化方向を合成することにより景気局面を把握するディフュージョン・インデックス(DI)と、景気動向を量的に把握することを目的としたコンポジット・インデックス(CI)の二つの種類がある。DIとCIのそれぞれについて、景気動向に先行する先行指数、景気動向と同時に動く一致指数、景気動向に遅れて動く遅行指数の3つがある。なお、DIとCIの採用指数は同じである。

(Wikipedia『景気動向指数』 より)

 

アメリカでは、2四半期連続でGDPが下落することをリセッション(景気後退)と定義しているのですが、日本でははっきりとした景気後退の定義付けはなされていないようです。

 

結局は、そのように景気後退の定義を曖昧にしたままに、景気動向指数なる専門家にしか理解できない奇怪な数値データを作り上げ、無理やりにバブル景気越えの戦後3番目の長さの景気回復などと言って国民を煙に巻く。現在では地上波のテレビメディアでは「不景気」「景気後退」といった言葉は全く使われなくなっていますが、まるでかのジョージ・オーウェルの『1984』の世界を彷彿とさせます。

 

かつて、アリストテレスは「その家の住み心地が良いか否かは、建築家ではなく、そこに住んでいる家主が決める」という趣旨の言葉を残したそうですが、これに倣って言うなら、その国の経済が良いか否かは「経済学者が決めるのではなく、その国で暮らす国民が決める」とでも言うべきでしょう。

 

多くの若者が、ブラック企業や過度な長時間労働、あるいは低賃金などのワーキングプアの状況に苦しんでいるというのであれば、経済学者がワケの分からないでっち上げのような数値データを持ち出して、「現在の景気状況は良好である!!」などと強弁してみたところでそんな言葉には何の意味もありません。

 

まるで、かつて地獄のような環境の中で、「ここは地上の楽園だ!!」と信じ続けたお隣の国のようではありませんか。

 

現在の、加計学園問題などで国会が紛糾している状況で、このような報告を発表してくる政府の意図はあまりにも見え透いていますが、同時にこのような明らかな政府のプロパガンダ情報を報告されるがままに垂れ流しにするメディアの在り方も、もはや呆れるほかないと言ってよいでしょう。

 

 

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なんか、色々と読んだ本のレビューを何冊分も並行して書いていっているのですが、今回も新しい本のレビュー記事です。

 

最近は、ドストエフスキー『罪と罰』村上春樹『海辺のカフカ』トーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』といった作品に関してレビュー記事を書いているのですが、なんで並行して色々書いているのかというと互いに連関しているからなんです。

 

例えば、ドストエフスキーの『罪と罰』であれば、ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』で述べられている超人思想や、『デスノート』と関連性があり・・・

 

『『罪と罰』ドストエフスキー レビュー②~ニーチェ思想とドストエフスキー~(※コメント返し中心)』

『『罪と罰』レビュー③~『罪と罰』と『デスノート』~』

『『罪と罰』レビュー④~ラスコーリニコフと夜神月~』

 

トーマス・マンは『トニオ・クレーゲル』でニーチェをボロカスにこき下ろした上で、「俗人愛」という概念を用いて超人思想にアンチテーゼを突きつけていて・・・

 

『『トニオ・クレーゲル』(著 トーマス・マン)と至高の金髪美少女の話・・・』

 

ついでに、村上春樹の『海辺のカフカ』では、「アイヒマン裁判」やフランツ・カフカの『流刑地にて』の内容に触れているので、一つの作品を解説するにしてもどうしても別の作品に言及していかないといけないんですね。

 

まあ、そうこうするうちに、「あの作品にも触れておかないと・・・」「この作品にも言及しないと・・・」となって、どうしてもアレコレ色んな作品について解説しなくてはならなくなってしまう。

 

一見、支離滅裂に様々な本や作品について雑多に解説しているようで、一応自分の頭の中だけではアレコレ概念を関連付けながら上手く解説しようとはしてるんですね・・・( ̄▽ ̄;)

 

で、まあ今回紹介するのは『ナイルパーチの女子会』という作品なんですが、文章はかなり読みやすくでサクサク読み進められるのですが、内容はドロドロでサクサクした文体にドロッとした中身という外はサクサク中はドロドロな作品となっていますw

 

主人公は、都内の大手商社に努める30歳のエリート女子会社員の栄利子と、同じく30歳の主婦で子どもを持たず仕事もせず家事もロクにしないままダラダラとした日常を送りそんな日常をブログに書き込む人気主婦ブロガーの翔子(HN おひょう)の二人です。作品は常にこの二人の視点が交合に入れ替わりながら進んでいくので、この二人は主人公でありながらストーリーテラーの役割を担っています。

 

物語の冒頭は、朝一番で会社に到着し他の社員が出社する前に、自分のデスクを整理し、翔子のブログを眺めながらブログの記事内で紹介されているかりんとうメロンパンというコンビニ新商品を食べるシーンで始まります。

 

かりんとうメロンパンを紹介する翔子のブログ記事はこんな感じ・・・

 

『かりんとうとメロンパンを一緒にしちゃうっていう発想がアホですよね。コンビニで見つけて、爆笑しました。でも、油っこくてざくっとした、かすかにみたらし風の醤油味がする生地をかみしめてみれば、トンネルを抜けたように広がる爽やかなメロンの香り。今、やみつきなんですよ。アホな味。アホな値段。こういう「アホ食」で昼飯を済ませてしまうと、色々楽なんですよ。人生なめてる感じにやすらぎます。あ、おすすめはしませんけど』

 

学生時代から真面目一辺倒で生きてきた栄利子は、この翔子の力の抜けた飄々とした文体と生き方に憧れを抱きます。

 

人生なめてる。いい言葉だな、と思う。栄利子にとって人生とはずっと真剣に向き合い、取っ組み合うものだったから。

 

次に翔子の登場シーンに移るのですが、翔子はブログを書籍化したいという依頼を持ち掛けてきた編集者の女性里子と喫茶店で会話を交わします。

 

「現在、主婦ブロガーは様々な棲み分けがなされていますが、おひょうさんのウリは『自然体』です。こうあれ、こうあるべき、がないところがすごくいいですね。多様な価値観が認められる中、揺れている主婦は多い。主婦に限らず、おひょうさんのブレないマイペースさに共感する人は多いはずです。押し付けがましさがなく、働く独身女性にも嫌われない個性をお持ちかと思います」

「はあ・・・。でも、あんな日記、本になったところで誰が読むのか・・・」

「ええ、ですから日記をアレンジして、エッセイとして仕上げるのはどうでしょう。頑張らずに暮らす等身大の女性として、生き方指南本を書いていただきたいと思います」

なんだか背中が痒くなるのは気のせいか。これだからインテリと呼ばれる人種は苦手だ。そんなに深い考えを持って文章を書いたことなんてただの一度もない。勝手に意味を押しつけられ、カテゴライズされるのは不愉快だった。

 

面白いのは、このように「カテゴライズされるのは嫌い」と思っている翔子自身が思いっきり初対面の里子に対して、「人間は簡単な分類でカテゴライズしてくる良くいるインテリタイプ」というカテゴライズしているという点です。ちなみに、この本では、このカテゴライズという概念が非常にキーになっている面があります。

 

この里子が去っていった後に、偶然(?)居合わせた栄利子が声をかけてきます。

 

「あのう。ちょっといいですか」

唐突に話し掛けられ、翔子は驚いて顔を向ける。まさにお人形のような美人が立っていた。きめの細かい肌と肩までの艶やかな黒髪。ターコイズブルーの半袖ニットに小粒のダイヤ。年齢が今一つよく分からないが、目尻にかすかに集まる皺から推測するに、三十代だろうか。

「あの、ひょっとして、あなた・・・、『おひょうさん』ですか?」

なんと言っていいか分からず、曖昧に笑みを浮かべると、彼女はぱっと目を輝かせた。

「ごめんなさい。今のやりとり耳に入ってしまって。あと、ブログでここのお店紹介されていましたよね。私、あなたのブログの大ファンなんです!」

 

このようにして出会った二人は、最初は互いに自分にない長所や特徴を見出して互いに仲良くなりたいと願います。

 

志村栄利子とは「ジゼル」で十数分ほど向かい合っただけだが、また会いたいと思っている。ブログの熱心な読者というのは本当のようで、翔子でも意識していないような長所や面白さを、生き生きと語ってくれた。営業畑の人間らしい笑みを絶やさず、さりげない気配りが行き届いていた。正直なところ、直前に会った花井里子よりよほど好印象を抱いた。何より、この街で生まれ育ったというところに強く惹かれる。彼女と親しくなれば、いつまで経ってもよそ者感が拭えない、この街との距離が縮まる気がした。(中略)

 

せっかくだし、栄利子のことをブログに書こうと思った。彼女も喜ぶだろうし、なんとなく今日のことを記録に残しておきたい気がした。

 

『行きつけのカフェで、私のブログを読んでくれているという女の子に遭遇!ひえええ~、すごい美人!すごい頭良さそう!こんなダメ日記を読ませてしまって申し訳ない・・・うう~』

 

と、まあこのように何か女性同士の素敵な出会いのようなシーンから始まるのですが、ここからドロドロの人間関係が展開していきます。

 

お互いに、女友達が出来ず、父親のコネも使って入社した会社で何とはなしの疎外感を感じる栄利子と、地方から上京して頼れる友達も親戚もいない中で同じく疎外感を感じる翔子、正反対の性質と深い部分での共通点を持った二人ですが、熱烈に翔子を求める栄利子と、栄利子とのライトな関係性を望んでいた翔子との温度差も手伝ってドンドン関係性がこじれてきます。

 

読んでみた感想としては、登場人物の内面描写がかなり絶妙で、さすがに小説なのでかなり極端な人格を描いてはいるのですが、どこか誰もが心の中に抱えている欠陥や異常性を描写しているようでもありかなり共感出来るような部分が多いように思います。

 

二人のメインの登場人物が結構極端な人物として描かれてもいることから、あまり「うんうん、こういう人っているよね!!」といういわゆるあるあるなネタというより、むしろ、「うん、この二人の気持ち分かる!!自分もこういう面があるかもしれない!!」と思ってしまうような描写になっています。

 

サラッと読めてしまうような読みやすい文体でありながら、結構重要な哲学的社会学的概念に関連するようなテーマも含まれていたりして非常に面白い作品ですので次回以降も紹介と解説をやっていきたいと思います。

 

 

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今回は最近読んだ本『自己啓発の時代:「自己」の文化社会学的探究』のレビューです。

 

自己啓発研究というと、意識高い系やら、ライトなビジネス書やらを面白オカシク批判するような書籍が多いのですが・・・

 

(※ちなみに、そういった書籍に関しても過去記事でレビューを書いています、旧ブログで文体もだいぶ変わっていますがw

 

『『ビジネス書大バカ辞典』を読んで・・・』

『『ザ・シークレットの真実』(著 カレン・ケリー)を読んで・・・』

 

どうでもいいことですけど、今過去の文章を読み返すと大分力んだ感じで書いてるなぁ、とw今より、強く社会に対して憤りを感じていたという事でしょう。他人が読んでどのように感じるかは分かりませんが、自分で読み返すを何か過去の自分の持っていた社会に対する怨恨のような感情を感じます( ̄▽ ̄;))

 

この本は、大分真面目に社会学的な研究として取り扱っています。これは筆者の博士論文をまとめて修正加筆を加えて1冊の本にまとめあげた書籍なのですが、あとがきの最初には

 

「文体が冷たい、色気がない」「自己啓発メディアの、のめり込むような面白みを切り落としている」-本書の草稿に目を通してもらった方から、こんなコメントをいただいたことがあった。

 

と書かれています。まあ、まさにその通りで、良く言えばかなり真面目な文体で書かれた文章で、悪く言うと非常に退屈な上に、結論が最後に置かれていることもあって何が言いたいのか良くわかない文章になっています。

 

特に私が読んでみてよく分からなかったのが、著者が文中で重視している概念の一つである社会学者アンソニー・ギデンズの提唱する「後期近代」と近年の自己探求との関係性についてなのですが、この関係性に関してこちらの書評で非常に簡潔に説明がされていました。

 

「書評」

 

社会学における一つの有力な見方として、現代社会には特有のダイナミズムがあるとするものがある。A・ギデンズによればそれは「後期近代」と呼ばれるものであり、伝統的共同体で保持されてきた慣習が、近代国家の介入や科学的知識の浸透によって相対化され、すべてに対する自明性が揺らぐとする見方である。物事の自明性が失われた時代において、自己は常に臨機応変に対応できる適応性を保持しなければならなくなり、自己理解を再構成し続けなければいけない。結果的に、自分以外の何ものにも頼らない志向が生まれ、内的世界の探求欲が過熱する。そして個人化の進展の結果、それぞれの人が自分の在り方に責任を持たなくてはならなくなる。

 

自己啓発と関係の深い人生訓に関連する書籍は発行点数、出版点数全体に対する割合ともに戦後ほぼ一貫して上昇傾向にあり、自己探求やそれに関連する書籍の需要は高まり続けていたと考えてよいでしょう。

 

このような社会の中で、力を持つようになっていくのが心に関することを専門とする集団である。心の専門家集団が提供するのは、自分自身を管理、変革、治療するような心理療法的知識及び技術である。このような自分自身を技術的に操作可能とするようなものを、N・ローズは「自己のテクノロジー化」と呼んだ。ただ、自分自身を技術的に調整しようとするこの図式自体も、既に他者の行為の管理・統制の実践に組み込まれている。このように、人々の最も親密な自己の領域において作動する権力こそが自己実現を掲げる自己啓発メディアである。

 

細かい説明は省きますが、この本では、自己啓発メディアに関していくつかのターニングポイントを設定しており、

 

行動主義・外形主義(趣味やファッションによって自己を形成変革する)

⇒自己の発見(自分探し)・自己の再定義

⇒自己への働きかけ(自己のテクノロジー化)

 

と、まあ非常に強引かつ大雑把に分類するならこのような自己に対する意識の変遷が見られるとしています。

 

これまた、非常に私なりに非常に大雑把にこれらの概念の変遷を説明するなら、最初の段階では、いわゆる大衆社会化大量消費社会化における消費とファッションによる自己の形成と自己表現から、観察する自己観察される自己という、自己の主体と客体の分離から、さらに自己にはたらきかける自己と、自己からはたらきかけられる自己という自己のテクノロジー化へと自己の意識が変遷していったということです。

 

さらに重要なのは、これらの自己や自己意識、自己認識の変遷といったものが、一部の熱心なスピリチュアル本や自己啓発本の読者に限られる広く社会全体に薄っすらと広まっていき、それらの書籍を直接には一度もまともに読んだことがないような人々にまで共通の認識と化していくという事実です。この本では、いわゆる典型的な自己啓発本ばかりでなく、より広範な読者を獲得しているであろう、「ビジネス雑誌」「就活本」「女性誌『an・an』」の研究も行っているのですが、このような問題意識を前提としていることを考えれば、何故一見直接的には自己啓発メディアとの関りの薄そうな「就活本」「女性誌」などの研究分析が行われているかを理解できるでしょう。

 

ちなみに先のレビューではまとめとして、この書籍の傾向として「文献の調査・分析に偏り過ぎているのではないか?」と指摘されているのですが、この本で書かれているテーマは結構広がりがあるというか、政治問題や社会問題にも適応しうるような問題意識が含まれているように思います。

 

例えば、先のギデンズの提唱した「後期近代」という概念に関して言えば、文化伝統や慣習の揺らぎや相対化により、自己に責任を帰していくような自己責任論の高まりが発生するといった指摘や、特定の思想や主張に関して、それらの思想に直接的に触れなくとも社会全体に薄っすらと広まっていく等の指摘は、政治問題・経済問題・社会問題等々を考えるうえでも有益な示唆を与えてくれるかもしれません。

 

まあ、あまり立ち入った議論はしないかもしれませんが、とりあえずこの本については次回以降の記事でも少し解説してみたいと思います。

 

 

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