今回も、『脳・戦争・ナショナリズム 近代的人間観の超克』のレビューです。

この本では、前半部分で原理原則や、根本原理といったものを掲げる原理主義者、復古主義者と保守との違いに関しても論じています。

剛志 日本の歴史を振り返ると、古代から「日本」という共通意識があったわけではないはずですが、歴史を語るときに、いかにも古代から日本というかたまりが存在していたかのように物語る―それを捏造というのは言い過ぎかもしれないけども・・・。

信子 いや、捏造していますよ。捏造というと言葉は悪いですが、歴史は単なる事実の羅列ではなく、人の手がかなり入っています。そこは、多くの人が認めるところでしょう。その最たる例が神話です。

剛志 そう物語としての神話ですね。保守は歴史のつながりを大事にしますが、そこに物語的な捏造された歴史という側面があるのは確かです。ナショナリズムと保守に親和性があるというのは、そういうことではないでしょうか。

適菜 むしろ神話に投影されている民族の美意識を見出そうとするわけですね。それをフィクションという単純な理由で拒絶しないのが保守ですね。


ここでは、ある種の復古主義、原理主義的な保守を擁護しているようにも思えるのですが続く発言では、はっきりとラディカルな復古主義者、原理主義者と保守とを区別します。

剛志 もう一つ、保守―本来の意味での保守は、ラディカルな変化を嫌がります。

信子 そのラディカルは、根本的、根源的という意味ですね。

剛志 ええ、原理原則にあまりに忠実であることを忌避するのが保守です。たとえば一口にイギリスといっても、元来、イングランドとスコットランドとウェールズは違うものであって、それが一緒にされているのはナショナリズムという偽物のせいである。本物の愛国心はパトリオティズムなんだから、三分割しよう―こういう考え方もあり得ます。しかし、もしそういう原理原則に立って考えると、国なんてまとまりません。保守はこういう考えを「ラディカル」「革命」だとして嫌うのです。

信子 ユーゴスラビアは第一次世界大戦後に汎スラブ主義の名の下に建国され、のちに共産主義という人工的な枠組みの下にネイションを維持していました。しかし冷戦終結後それぞれの民族が自己の権利を主張し始め、見事に空中分解しました。

剛志 民族紛争というものはたいていそうです。それぞれの民族が「ここはもともと俺たちの土地だった」「昔あいつらはナチスに加担して俺たちを弾圧した」とか言い出すと、必ず内戦になる。
そうした民族主義に流されるのではなく、もう昔のことは置いといてとりあえずうまくいっているのでこれを保守しよう・・・というのが保守主義の発想です。


この辺りの発言を読んでみて最初に思い浮かんだのが、日本国憲法の問題です。日本国憲法の成立過程を見てみれば、やはり客観的に見て敗戦時に押し付けられた押し付け憲法であり、その制定プロセスが正当性を欠くものだという見解は正しいのでしょう。しかし、一方で、この(保守派が言うには)どうしようもないロクデナシの酷い憲法の体制で戦後70年なんとかかんとかやってこれたということもまた紛れもない事実です。

また現代の人権意識から考えて、現実的に明治憲法に戻すことは不可能であり、さらに現在の自民党の憲法草案などはまさに論外のシロモノです。一方で、現行憲法否定派の論者が、どれだけ「日本国憲法はGHQがたったの1週間で作ったものだー!!」と叫んでみても、それでもやはり立憲主義や人権に関する基本的な要点はしっかりと抑えてある。腐ってもアメリカというか、人権や立憲主義の基本的なあり方をしっかりと抑えているので、たとえ1週間で殴り書きしたような内容であったとしてもやはりしっかりと憲法の重要な論点を押さえてある憲法になっているのです。

さすがにコレは言い過ぎかもしれませんが、人権も立憲主義もよく分かっていない国民が1年かけて作った憲法よりも、そのような憲法の基本的な考え方をしっかりと理解している人間が1週間で作った憲法の方が、少なくとも近代憲法としての体裁をしっかりと整えている、なんてことは十分にあり得ると思うんですね。その証拠とでも言うべきものがアメリカ人が1週間で作った日本国憲法と、自民党の改憲派が結構な時間をかけて作った自民党の憲法草案なのだと思います。

ちなみに、保守派の改憲派の代表的な論者の一人である西部邁さんも最近のチャンネル桜の討論では、「現行憲法は9条を除くなら、日本国家の歴史や伝統を踏まえたうえで、しっかりと解釈運用することは可能である」という趣旨のことを述べています。つまり、例えば「文化的な最低限度の生活水準」というものも、抽象的な文言ではありますが、日本の過去から現在に至る歴史や文化のあり方を考えたうえで、「おそらく、日本国憲法によって政府が保証すべき文化的な最低限度の生活とはこのような程度のものだろう」といったことを導き出していき得るものだということです。

そうなると、現行憲法における基本的な問題は、(制定プロセスを別にするなら)9条と前文のみということになります。前文に関しては条文ではないので、私はある種の憲法の日本国憲法の制定理念として捉えるのが妥当であると考えます。そのように解釈するなら、現在ではあまりにも非現実的すぎると批判される、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」という一文も、戦争をしてボロボロになり、「もう争いは沢山だ!!」と心の底から考えた当時の多くの日本国民の偽らざるところの素直な心境であったかもしれません。

また、憲法9条と自衛隊の合憲性に関しては、私は現行憲法の解釈で十分通用しうると思っていますし、また同時に、「自衛隊は絶対に必要だ!!」と主張する論者がわざわざことさらに、9条と自衛隊が合憲であるという解釈の論理的な不整合を殊更に強調することも理解しがたいところではあります。もちろん、ある種の原則論として「現行憲法において自衛隊を合憲とする解釈には無理があるんじゃないか?」と疑問を唱えることはわかるのですが、かといって「自衛隊は違憲だから廃止すべきだ!!」などという論者が一定数以上存在するというワケでもない現在の状況でことさらに、「憲法9条のもとでは自衛隊は違憲なのだから、憲法9条を改正して自衛隊を合憲にすべきだ!!」と主張する意味もそれほどあるのか疑問です。「いや、そもそももう誰も自衛隊の違憲性について問題視してないですから・・・」と。

長々書きましたが、次回以降も引き続き、この本のレビューを続けていきます。


↓応援よろしくお願いします(σ≧∀≦)σイェァ・・・・・----☆★



↓Asreadさんに記事を寄稿しました!!
Twitterで大炎上した自称貧困JKうららさん問題
AD
『脳・戦争・ナショナリズム 近代的人間観の超克』大体読み終わりました・・・。

前回記事(『『脳・戦争・ナショナリズム 近代的人間観の超克』中野剛志 適菜収 中野信子 レビュー①』)ではディスりまくってましたが、中盤以降かなり面白くなって気づいたらメッチャ付箋貼ってチェックしてました・・・( ̄▽ ̄;)



色々と気になった個所も多かったので複数回に分けて解説していきたいのですが、今回は、後半の安保法制議論に関しての論評に関して・・・

適菜 二〇一五年の安保法制をめぐる騒動では、右も左もどうしようもないということが分かりました。憲法とは国家の連続性を守るためのものです。これは常識ですけど、いわゆる自称保守は立憲主義の基礎の基礎も理解していなかった。一方左翼は、民意と立憲主義を同時に崇め奉っている。立憲主義が民主権力の暴走を防ぐものであることを理解していないのです。

剛志 ここまで堕ちると、もはやどこから議論していいか分からないですね。


あまり左翼を擁護しても仕方ないとも思うのですが、一応この部分の発言に関しては一部訂正したいなと思います。右系の論者が立憲主義の基礎の基礎すら理解していなかったというのは事実でしょう。例えば、上念司などは、十七条憲法と近代憲法の違いすら理解していなかったり、Twitterで「牛丼は合憲だから核も集団的自衛権も合憲だ」などという意味不明な書き込みをしたりといったところから(参考⇒『上念司のトンデモ憲法論2:牛丼は合憲だから核も集団的自衛権も合憲だ』)、右の論者が立憲主義の意味すら理解してであろうことは確かです。

しかし、左派の論者が「民意と立憲主義を同時に崇め奉って」いたからといって、「立憲主義が民主権力の暴走を防ぐものであることを理解していな」かったとは限りません。例えば、伊藤真氏などはYouTubeにアップしている動画の中で繰り返し、「民主主義社会における憲法は、民主主義の暴走に歯止めをかけるものである」という趣旨の発言を繰り返し、現在の政治システムは民主主義と立憲主義の二本の柱で成り立っているといったような発言もしています。

この辺りの問題は、当然ながら憲法学者の小林節氏や木村草太氏も十分に理解しているハズですから、国会前でアホみたいに「民主主義が―」「立憲主義が―」と騒いでいた学生連中ですら、仮にまじめに小林節や伊藤真の言っていることを聞いていたとしたら、立憲主義が民意や民主権力の暴走に歯止めをかけるものであるということを理解していたハズです。

一方で、右派の連中は、「立憲主義などと騒いでいるのは左翼の憲法学者だ!!」とか「そもそもアレはアメリカから押し付けられた憲法だ!!」などと言って、まともに議論するどころかそれについて考えてみることすらしませんでした。

つまり、議論とか知性の領域においては、反対派の陣営が完全に優越していたのですね。なんとも嫌な構図ですが、論理的には正しいことを主張していたハズの陣営が、「お前の小賢しい議論なんて役に立たない!!」などと言って一切の議論も拒絶し、思考を停止した連中に数の力で押し切られたということです。これが、一般的な政治イシューであれば「民主主義とは所詮多数決に過ぎない」と思えるところではありますが、今回は、数の論理で憲法すらも無視して押し切ってしまったワケです。

どれだけ声高に正論を叫んでも全く無力な左派陣営と、明らかに倒錯した論理を振りかざして数の力で押し切って堂々と居直っている右派陣営・・・なんとも気持ち悪い構図ですが、この構造は当分継続するでしょう。

このような論理や議論などが無意味化されている状況に関して中野剛志さんは次のように述べています。

剛志 なぜ保守系が爽やかさを望むのかというと、それは左翼系の責任でもあると思う。最近、左翼は右翼のことを“反知性主義”と揶揄するのが流行っている。自分たちは知性があると自負しているわけですね。
しかし左翼が叫ぶ“知性”とは、インテリぶった議論をしているだけで、何を言っているか分からないシロモノですよ。朝日新聞の論説にしても、「ちょっと待ってほしい」とか「いかがなものか」とか「これをおかしいと思うのは筆者だけだろうか」といった持って回った言い回しでイライラさせられる。そういう左翼的な“知性”にイラついてきた人たちは、どうしても爽やかさに飛びついてしまう。


うーむ、確かにある意味で政治的イシューに関連する分かりやすい駒を右派に取られちゃってるのは事実でしょうね。「愛国心」「伝統文化」「天皇」「安全保障」どれも、なんとなくそれを口にしただけで納得してしまうような説得力を持ったワードです。こういった分かりやすい駒をあらかた取っておいて、「立憲主義とか左翼の憲法学者のシャラくせえ議論だ!!」とか「あんなものはアメリカから押し付けられた属国占領憲法だ!!」とか言ってみると実に気持ちよくて爽やかじゃないですか、「ああ、そうか、立憲主義ってのは売国パヨク共の専売特許なんだ!!」とか「そもそも押し付け憲法なんだから守る必要はないんだ!!」と思えてきますよね。

一方で、仮に反対派が「よくよく考えてみると、それっておかしくね?!」と気付いたとしても、結局、どんなに声を上げようが安保法制が通過するのは確実だし、誰だって無駄な負け戦なんかしたくない・・・。

まあ、なんにしても左の陣営にとっては完全に冬の時代だと思いますよ・・・なにしろ、分かりやすさも、爽やかさも、愛国心も取られてしまって、残るのは苦々しい敗北感だけですからね。

とりあえず、過去の安保法制議論を振り返りつつアレコレ解説してみました。次回以降もレビューと安保法制に関する議論を続けていきたいと思います。


↓応援よろしくお願いします(σ≧∀≦)σイェァ・・・・・----☆★



↓Asreadさんに記事を寄稿しました!!
Twitterで大炎上した自称貧困JKうららさん問題
AD
『脳・戦争・ナショナリズム 近代的人間観の超克』

図書館で予約していたのが届いたので早速読んでいます(「買えよ!!」というツッコミは華麗にスルー(^ω^))。

まだ、60ページくらいしか読んでないんですが、凄くテンポの悪い本ですw

これは、中野剛志さんと適菜収さんと、脳科学者の中野信子さんの鼎談本なのですが、なんというか、いわゆる対談形式、鼎談形式の本としてはあり得ないテンポの悪さです・・・基本的には、中野剛志さんと適菜収さんの政治問題や社会問題に関する議論に中野信子さんが脳科学の観点からツッコミを入れていくという形式なのですが、なんというか、政治評論家が対談しているところに無理やり茂木健一郎がお得意の脳小噺でチャチャを入れていくような感じと言うと分かりやすいかもしれません(いや、逆に分かりにくいか?w)。

まあ、「様々な政治問題や社会問題に関して脳科学の視点から解説を加えていく」という編集者の意図はなんとなく分かるのですが、「これをワザワザ中野剛志さんと適菜収さんを使ってやる必要があるのだろうか?」という感が凄くあります。おまけに、脳科学と心理学がごっちゃになっていて、脳科学やら心理学やら神経医学やらの見地がごっちゃになり、ごっちゃになったまま無理やり政治問題、社会問題と掛け合わせることでますます何がやりたいのか分からなくなる・・・コンセプトや構成がうまくまとまっていないのを無理やり「鼎談形式でざっくばらんにやりましょう」的なノリで誤魔化してる感が凄くあって、なんというか凄くモヤモヤ感のある文章になっています個人的には、最初から脳科学の観点から様々な政治現象、社会現象を解き明かしていくという形式でしっかり1冊の本にまとめた方が良いんじゃないかと感じました(もっとも、そういう本があっても僕は読みませんが・・・( ̄▽ ̄;))。

とは言っても、内容自体は面白いので解説していきたいと思います。とりあえず前半部分を読んでみて面白いなと感じたのが中野剛志さんのナショナリズムと多様性との関係についての解説です。ナショナリズムと言うと排他性、排外主義とワンセットになっているような印象がありますが、視点を変えるとナショナリズムはあるレイヤーにおいては多様性を確保するのに必要な要素であるということが言及されています。

剛志 ひとつ読者のために言い添えておきます。ナショナリズムは非常に排他的で寛容性を欠くものだという認識が流布していますが、けっしてそんなに単純なものではありません。ネイションの外側に対して排他的であることは事実ですが、ネイションの内側にあって声を挙げることができる(中略)という意味では、ナショナリズムは不寛容なものではない。民主主義を成立させるためには、ナショナリズムという束縛は必要なのです。(中略)
ネイションが出来る以前、前近代においては、貴族階級と農民階級が同じ人間だとは誰も思っておらず、お互いの交流すらほとんどなかった。宗教も、異なる宗派の間には仲間意識も交流はまったくないわけです。地域にしても、日本でいえば藩、身分、あるいは一族ごとに孤立していました。それだが人工的にまとまったのがネイションです。そうして同一国民としての共通意識を持てるようになったからこそ、お互いの交流も生まれ、いろんな価値観が共存する多元的な社会―リベラル系の人たちがよしとする社会が成立したわけです。
なのに、そうした社会は気に入らないといって飛び出して、同じ趣味、同じイデオロギー、同じ宗派や、同じ血縁・地縁の集団に分裂してしまうとしたら、これは共存でもなんでもありません。


つまり、本来てんでバラバラだった部族や習俗や価値観の集団を無理やり一つの国民としてまとめたものがナショナリズムであり、国家であるというワケです。このような解説を考えていると、ナショナリズムを否定した多文化共生的価値観や思想の危険性や不安定さが見えてきます。

基本的に、多文化共生社会を唱える論者は多様な価値観の重要性を説きながら、同時に国家や国民という枠組みに縛られない価値観や共同体意識を持たせることを目的としています。しかし、一方で先の中野剛志さんの議論を考えると、現実には国家や国民という枠組みを抜きにして多様な価値観を共存させることは難しい。つまり、国家や国民といった枠組みを無くして、各人が自分自身の多用や価値観やイデオロギー、あるいはアイデンティティーを尊重しようとすると、共存のための大枠がないために簡単に分裂してしまうということです。

要は、多文化共生論者の考えるような多文化共生社会を実現するにはナショナルな枠組みを超越する必要があるのですが、実際にそういったナショナルな枠組みを超越すれば逆に多様な価値観やイデオロギーを共存させるための土台が破壊されるというジレンマに陥ります。ここで、基本的には二者択一を迫られます。ナショナリズムを保持して対外的には排他主義で対内的には多様性を確保するか、あるいはナショナリズムを捨てて様々な価値観を押し込めながら対内的には分断され、様々な価値観を持った集団ごとに分裂し蛸壺化した社会構造に甘んじるかです。あるいは、代替的な手段として、「多文化共生社会」という価値観を一つの強烈なイデオロギーに押し上げ、「多文化共生社会」という強烈なイデオロギーの元に団結した社会集団を作り上げるという発想があり得るかもしれません。

おそらくは、この選択肢のどれも多文化共生論者の望むものではあり得ないでしょう。もっとも、現在の日本の状況は排外主義と蛸壺化が同時進行した悪いところ取りの社会になっており、対外的には排他主義で、対内的には他者への無関心や思想的分断が進行しています、しかもこのトレンドは一定期間は継続するでしょう。おまけに、感情的には排外主義や蛸壺化が進んでいながら、政治的には外国人の受け入れや価値観の画一化を進める教育改革などが行われており、しかも、そのような矛盾や問題点に関して多くの人々が無関心であり続けています。オタク化、ノンポリ化、他者への無関心というのが個々人の生活習慣上のトレンドであり、政治的、教育的には、価値の画一化、個々人の無個性化を強烈に推し進めている状況です。

このような社会においては、個人は極端に自己中心的な性格を形成し、画一的で無個性でありながら他者との僅かな価値観の違いにも強いストレスを感じる矮小な人間が大量に生み出されるのではないかと思います。また、同時にそのような不満の募りやすい状況においても、社会が全体的に豊かさを増していく状況であればそれほどの摩擦や軋轢は生まないかもしれませんが、現実にはこのような矮小でストレスを抱えやすい人間集団がどんどん貧困化していくのですから、到底良い方向に社会が進展していくとは考えづらいでしょう。

そうなると、無個性で、自己中心的でありながら、常に社会に不満を持つ人間が社会の大半を占め、それでいて政治的関心が低いために、不満が社会的な運動につながりにくいという状況が生まれるでしょう。そのような鬱屈した不満のはけ口がネットなどの炎上案件や著名人のスキャンダルやゴシップのブームを生み出す・・・それでいて、皆貧困なので金を落とすこともなくただただネット上で情報を集めてネット上で不満をぶちまける・・・将来的に日本はこのような社会に・・・いや、もうすでにそういう社会になっちゃってますね( ̄▽ ̄;)


↓応援よろしくお願いします(σ≧∀≦)σイェァ・・・・・----☆★



↓Asreadさんに記事を寄稿しました!!
Twitterで大炎上した自称貧困JKうららさん問題
AD