今回は前回記事(『夏目漱石の『こころ』について その①~視点の多様化と悲劇の乗り越え方~』)の続きです。

前回記事では、夏目漱石の『こころ』のKがなぜ絶望に対処出来なかったのか?という問題に関して「ユーモアの不足だったのではないか?」ということを説明したのですが、この絶望に対する対処に関しては様々な思想家や哲学者が様々な答えを出しています。

最も代表的なのがキルケゴールですね。キルケゴールの代表作『死に至る病』は、「死に至る病とは絶望である」というテーゼのもとに絶望について解説し、その上で絶望を乗り越える手段として唯一「神の前には一切が可能である」と信じ、信仰の道に入ることを挙げています。

また、ニーチェなどもキルケゴールの信仰の変形であると解釈することも出来ます。もっともニーチェの場合は、自己執着を捨て去り神に全てを委ねるような信仰ではなく、自己を鍛練し現実の絶望を超越する超人という概念を提唱しているワケですが、どちらにしても現実の世俗の世界に絶望し、超越的な概念を持ち出してそれを克服しようという意味においては非常に類似した論理構造を持っていると言えるかもしれません。

しかし、これらの思想家のように現実や世俗の絶望を前にして、超越的な概念を持ち出したり、神秘主義に逃げ込むことをマックス・ウェーバーははっきりと拒絶します。

わたしたちが目の前にしているのは「花が咲き乱れる夏」ではなく、凍てつくような暗く厳しい極地の夜です。外側からみてどの集団が勝利を収めるとしても、同じことなのです。というのは何も存在しないところでは、皇帝だけでなく、プロレタリアもまたすべての権利を失ってしまうからです。やがてはこの夜もゆっくりと明けてゆくことでしょうが、そのとき、一見すると現在は〈わが世の春〉を謳歌しているようにみえる人々のうちで、誰が生き延びているでしょうか。みなさまは一〇年後にどう感じておられるでしょうか[反動に]憤慨しているでしょうか、俗物になって、世界のありかたと自分の仕事をぼんやりと甘受しているでしょうか。あるいは第三のあり方として(これはそれほど珍しいものではありません)神秘主義に頼って世界から逃避しているでしょうか。そうした素質のある人や(多くの場合もっと悪いことに)それが流行だと思って真似している人は、こうした道に進むことが多いのです。そのどの人にたいしてもわたしは、次のように結論するでしょう。こうした人は、自分の行為にふさわしい人物にまで、成熟していなかったのだ、現実の世界に、日常の世界にふさわしい人物にまで、成熟していなかったのだ、と。むしろ出会ったすべての人に同胞愛でも説いて、ふだんは毎日の仕事に専念していればよかったのだ、と。(『職業としての政治 職業としての学問』 マックス・ウェーバー 中山元 訳 p152)

でもって、超越的な観念や高尚な神秘主義に逃げ込むことを拒否して、娑婆の現実で頑張れと言うんですね。

政治という、仕事は、情熱と判断力を同時に使いながら、堅い板に力をこめて、ゆっくりと穴を開けていくような仕事です。世界のうちで不可能と思われることに取り組むことがなければ、いま可能と思われることも実現できないことはたしかですし、歴史が示す経験からも、それは確かなことです。しかしこれをなしうるのは、指導者でなければならないのであり、たんに指導者であるだけではなく、素朴な意味で英雄でなければならないのです。そして指導者でも英雄でもない人は、すべての希望が挫折しても耐えることのできる心の強靭さを、今すぐにそなえなければなりません。それでなければ、今可能であることでさえ、実現できないでしょう。
現実のうちで貢献しようとしているものと比較して、世界がどれほどに愚かで卑俗にみえたとしてもくじけることのない人、どんな事態に陥っても、「それでもわたしはやる」と断言できる人、そのような人だけが政治への「召命」「天職」をそなえているのです。」


もっとも、これを成し遂げるためには「英雄でなければならない」と言っている点においては、ニーチェの超人思想に通じるところもあるのかもしれません。その意味で彼らの思想はある種の対立構造を持ちながら部分的にはオーバーラップする部分があるのだと言えます。

また、三島由紀夫は前日に絶望して自ら命を絶ちました。

「二十五年間に希望を一つ一つ失つて、もはや行き着く先が見えてしまつたやうな今日では、その幾多の希望がいかに空疎で、いかに俗悪で、しかも希望に要したエネルギーがいかに厖大であつたかに唖然とする。これだけのエネルギーを絶望に使つてゐたら、もう少しどうにかなつてゐたのではないか。私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである」(1970年(昭和45年)7月7日付のサンケイ新聞夕刊の戦後25周年企画「私の中の25年」『果たし得てゐない約束』三島由紀夫)

あまり、三島由紀夫のような人物に対して上から目線で云々と論評するのはあまりにも恐れ多いワケですが、あえてキルケゴールの哲学的議論を用いて三島を批判するとするなら、三島は永遠なるものに対する信仰の領域で挫折したということになります。

信州読書会の宮沢さんは、「キルケゴールの哲学をもとにすると色々なことがスッキリと解釈出来るようになる」と述べていますが、このキルケゴールの考え方をもとにするなら、なぜ三島由紀夫が天皇の人間宣言をあれほどまでに批判したのかが理解できます。

つまり、三島由紀夫はキルケゴールにおける永遠なるもの、つまり神への信仰と同義のものとして、天皇とそれが象徴する(抽象的な)日本というものを信仰していた。しかし、その聖なるものであってハズの天皇が人間宣言をされて世俗の領域に降りてきてしまった時に、三島は永遠なるものを失い、信仰の領域で挫折して絶望したのだと解釈出来ます。

この辺りの三島の挫折に関しては、また別の機会に解説したいと思います。まあ、ここまで書いてみて、思うのがキルケゴールの理論というのはあまりにも的確であり、なおかつ汎用性が高いがゆえに、結構危険な気もしますねwマックスウェーバーの文章も三島由紀夫の文章も読んだ当時は非常に強く感動したものですが、こうして理路整然とキルケゴールの理論に従って分類、解説してしますと、逆にそれらの文章の微妙な機微がそぎ落とされて、無味乾燥した味気なさだけが残ってしまうような気もします。

これはあらゆる理論につきまとう危険性ではありますが、なんというか、その文章に没入することなく傍観者の視点や上から目線で、「はい、この文章は○○理論に当てはめるとこういうふうに説明できますね」みたいなことをしたり顔で説明するクソ野郎にはなりたくないなと思いましたw


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今回も信州読書会のネタです。夏目漱石の『こころ』のKの自己欺瞞についての話です。

夏目漱石の『こころ』を読んだことがない人のためにあらすじを説明すると、主に先生とKとお嬢さんという3名が主な登場人物であって、この3人の三角関係が物語の中心になっています。

Kは先生の大学生時代の親友なのですが、不遇な人生を送りながら意志の力を鍛えて強い人間になることを目的として非常にストイックに修行と勉学に励む学生でした。そんなKを見て先生は「コイツは凄い!!彼は現実世界で様々な不幸を体験しながらもそれを乗り越えて強い意志を持って乗り越えようとしている。彼は、現実世界の苦悩を乗り越えて超越的な何かを見つめている男だ!!」と感じて尊敬するんですね。

しかし一方で、親に勘当されて貧しい生活を送りながらバイトと勉学に励むKの様子に見かねて、先生は自分の下宿屋に来るようにいます。その下宿屋は奥さんとお嬢さん(後の奥さん)が経営しています。しかし、その下宿に来たことでKの様子に変化が起こります。

それまで、意志の力を鍛えて強い人間になることを目的に生きていたKが、下宿に来たことで下宿先のお嬢さんに恋してしまうんですね。また、Kが下宿先に来たことで、先生とお嬢さんの関係にも変化が起こります。それまで先生はお嬢さんのことをなんとも思っていなかったのですが、Kが下宿先でお嬢さんと仲良く話している様子を見て、先生は「自分がお嬢さんのことを好きだった」ということに気づきます。

そこで、先生はKにお嬢さんに惚れてしまったことを告げます。そして、Kが昔言った「精神的に向上心の無いものは馬鹿だ。」という言葉をK自身にぶつけて、Kに対して、「お前は精神的向上心が無い者はバカだ、と言ったのにお前は精神的な向上心を忘れて堕落している」というような趣旨のことを言います。さらに先生はお嬢さんの母親にお嬢さんとの結婚の約束まで取り付けます。

このことを知ったKは、二日後に遺書を残して自殺します。

このKの自殺に関して、コチラのブログ記事では次のように解説されています。

『Kが自殺した本当の理由 <こころ/夏目漱石>』

Kの自殺の理由は一言であらわすと「断罪」です。

ただこれだけでは納得していただけないと思いますので、もう少し詳しく書いていきます。

Kの自殺の理由を知るためには、まずKのパーソナリティと時代背景について知らなければなりません。
Kは求道者です。普段から「精神的向上心のないものは馬鹿だ」と口にするように「道」の高みに到達することこそが彼の信条でした。彼の言う「精神的向上心」には禁欲的な意味も含まれています。現代ではこのような人はほとんどいませんが、Kにとって、あらゆる欲望は「道」をきわめる上での「妨げ」でした。
もちろん「恋」もその例外ではありません。
Kは勘当されることすら厭わずに確信を持って養家を欺いてまで、自分の「道」を進もうとした男です。言うなれば自分から進んで勘当されたようなものです。
その根底には「道」のためにはすべてを犠牲にしなければならないといった信条があったからです。道こそが彼のそれまでの人生のすべてだったのです。
そのような性質をもった人間が他者による裏切りによって自殺したりはしないものです。

また、自分から進んで養家を裏切っておいて、勘当された寂しさから自殺というのは考えにくいと言えます。
Kの遺書の最後に「もっと早く死ぬべきだったのになぜここまで生きてしまったのだろう」と書かれていますが、その「死ぬべきだった時」というのは「恋をしてしまった時点」です。
Kは「先生」から「君の心でそれを止めるだけの覚悟がなければ。一体君は君の平生の主張をどうするつもりなのか」と詰問されたとき、「覚悟ならないこともない」と独り言のように呟きます。
なぜこのときのKが先生には夢の中の独り言のように映ったのか。
その覚悟が「お嬢さん」に思いを告げる覚悟などではなかったからです。
つまり、「自殺する覚悟」だったからこそ先生の目にはKが独り言を言ってるように映ったのです。
Kの「覚悟」とは「自分は道を踏み外してしまったが、自分で自分を裁くくらいの覚悟はある」という「覚悟」です。
Kは「自分で自分を裏切った罪」を自殺でもってして裁きました。
「精神的向上心のないものは馬鹿だ」と言うくらい禁欲的に生きてきた、Kにとって「恋」そのものが「道」を踏み外すことと同義でした。
失恋が自殺の理由であれば遺書に「もっと早く死ぬべきだった」という言葉は残しません。
自分を裁く覚悟があり、「道」を踏み外した時点で死ぬべきだったのに死ななかったからこそKは「もっと早く死ぬべきだった」という言葉を遺書に残したのです。
つまりお嬢さんを先生に取られてしまったことは自殺の理由の本質ではありません。


思うに、Kは自己の意志の強さと、意志の弱さの挟まれて追い詰められたてしまったのではないかと思います。つまり、Kは意志の強さで恋の誘惑を乗り越えられるほど強くはなく、かといって、自分が道を踏み外してしまったことを「ちょっとした気の迷いだったんだな・・・」と思って改めて修行の道に入ろうと気を取り直すにはストイック過ぎたワケです。

ところで、信州読書会の宮沢さんはこの夏目漱石の『こころ』に関して面白い指摘をしていて、この作品では、Kの背負っていた苦悩や絶望が、Kの自殺を境にKから先生へと引き継がれたというんですね。で、まあ結論を言ってしまうと、この後で先生も絶望して自殺することになります。つまり、おそらくKにとって数少ない友人であったであろう先生も、ほとんどKと同種の人間、つまり、誘惑を意志の力で振り切る程には強くなく、自分の過ちを忘れて開き直るにはストイック過ぎる人間だったのです。

私の考えでは、この『こころ』の悲劇は、Kや先生の外的な体験にあるのではなく、むしろ彼らの内面にあるのではないかと。つまり、Kに「いやー、意志の力を鍛えて強い人間になることを目的にしてたけど、ついつい下宿先のお嬢さんに恋して道を誤っちゃったよwおまけに、そのお嬢さんは親友だと思ってた先生と結婚しちゃうし・・・いやぁ踏んだり蹴ったりだな(笑)」と言って笑い飛ばせるだけのユーモアや諧謔精神があれば、あるいは、そういって笑い話にして一緒に笑いながら酒を飲めるような友人がいればKは自殺しなくて済んだのではないかと思うんですね。

こう考えると、笑いやユーモアというのはある種の強靭性なのかもしれません。つまり、強固な意志力だけでは、どれだけ頑丈に見えてもその頑丈さを超えるショックがあればポキっと折れてしまう。しかし、一方で、笑いやユーモアというものは大きなショックを吸収して、ゴムや柳のように受け流してしまえる。

これは、どこかさやかちゃん問題とも通じるところがあると思うのですが、クソ真面目な人間と言うのは全ての問題を真っ正面から受け止め過ぎるきらいがあるんですね。一方で、心にアソビがある人間はそれをヒラリと交わしたり、上手く受け流したりして飄々としていられる。

笑いというのは、一見不真面目なようでいて、実は自分自身を冷静に客観視しなければならないことであって、ある意味では、真正面から深刻に受け止めて苦悩すること以上に高度な知的作業であるかもしれません。つまり、真正面から受け止めた場合一つの事象に対してたった一つの目線だけからしか眺められないの対して、それを笑いにして受け流すためには、一つの事象を自分自身の主観的な視点、他者から見た客観的な視点、それを悲劇として考えた場合の解釈、それを喜劇として考えた場合の解釈とより多様な観点から捉える必要が生まれますが、この視点の多様化そのものが一つの高度な知的作業であると言えます。

このような視点の多角化は、それ自体が悲劇を相対化し、悲劇の相対化はその悲劇を乗り越えることを容易にします。もちろん、全ての事象を相対化し、「絶対的なものなど何もない」とニヒリストを気取ることも気持ち悪いのですが、一方で、世の中の全ての事象をあまりにもクソ真面目に捉え過ぎれば精神は摩耗しますし、乗り越え難い悲劇を前にして自殺するよりは、それを相対化してやり過ごすような知恵も必要なのではないでしょうか。


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前回記事(『保守的態度の本質とは・・・?』)で、適菜収さんにお会いしてお話したことを書きましたが、藤井聡さんとも会っていました。実はそこで、とある文章を読んでもらい口頭で解説させてもらったのですが、そこでまあ次のような指摘をされました。

「君の文章や感性は面白い」と、ただし、「それはある種の直感や感性であって、厳密性に欠ける」ということが一つ、それからもう一つ指摘されたのが新規性の無さで「あくまで君のやっているのは、特定の論理などに関して、別の角度から解釈したり、説明したりすることに過ぎない。ブロガーとしてそういった活動をすることに意義はあるかもしれないが、学術的には新規性や新しい概念やコンセプトを打ち出さなければならないし、毎日ブログ記事を書くこととは別にそのような訓練をしなくてはいけない」とのことです。

あと、これは直接的にそこで書かれた文章に対する批判ではないのですが、単純に「もっと高みを目指せ」と・・・。基本的に私の文章というのは何かに対する批判とかアンチテーゼであって、何かを新しく生み出すという性質のものではないんですね。おそらく、それが良くわかった上で、「下を見て批判してもどうしようもない。自分自身をどうしようもない人間との比較で優位に置くのではなく、例えば、自分をニーチェやキルケゴール等と競っているようなつもりで考えてみろ」というようなことを言われました。

実は、このようなことを以前友人にも言われたことがあります。たまたま先日のちゅうつねカレッジのはあちゅうさんの投稿で、

「「それじゃ、人生変わらないまま終わっていくよ」と言いたい。」

ということが書かれていたのですが、小学校時代からの友人で東大に行ってトップで卒業して大学院まで行った奴がいて、そいつから散々「お前はつまらなくなった」とか「お前は、もっとレベルの高い人間のいる環境に身を置くべきだ」とか言われていたことがありました。

心の中では、余計なお世話だと思いつつもやはりどこか引っかかる言葉であって、今回は似たようなことを藤井聡さんに指摘されて、「ああ、やはり他者からはそういう印象を受けるんだな・・・」とも思いました。

とは言っても、いきなり今やっていることを明日から全て投げ出して「俺は自分自身を鍛練するための修行の道に入る!!」なんてわけにもいかないし、また現在どんなに他者からクソだと思われようと、ネットビジネスで金を稼ぐということはもう何年の前からの目標だったので、そっちもやはり途中で投げ出すわけにはいきません。

それから、どうしても欲しいものがあるので、とりあえずあと数カ月~1年くらいはそれなりにネットビジネスに注力することにもなると思いますが、ただ、ある程度成功して金も貯めたら、出来るだけ人を雇うなり、ノウハウを確立させて他人に手伝ってもらうことになると思います。

そこからは、仕事の時間を今より減らして、自己を精神的にも身体的にも知的にも鍛えるための鍛練の時間を増やそうと思っています。まあ、夏目漱石の『こころ』のKみたいなもんですね。

実際のところ、最近は色んなことに絶望しまくっていて、出来ることなら今すぐにでも鍛練の道に入りたいと思っているのですが、とりあえず、ネットビジネスで金を稼ぐことだけはそれなりに上手くいっているので、これだけはとりあえずある程度区切りのつくところまでは続けよう、と。

何か、これは過去の自分との約束みたいなものなんですね。以前、26歳だか、27歳の時に、「3年以内にネットビジネスを成功させて金を稼ぐ」という目標を立てたということを記事で書いたのですが、まあ、とりあえず3年越しの目標を叶えるというか、何か、過去の自分と交わした約束を守るような気分でやっています。もっとも、過去に想像したような活動とは大分ズレはあるのですが・・・。

まあ、実際に金を手に入れて、欲しいものも手に入れた時には、案外それをきっかけにさらに俗物的になっていく可能性もあるんですけどね・・・その時はその時ってことで、とりあえず現在の考えとしては、半年~1年くらいで欲しかったものを手に入れて、そこからはもう少し高みを目指した生活にしていきたいと思っています。


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