「衝撃!!この世界はハエ人間に支配されていた?!ΣΣ(゚д゚lll)」

みたいな月刊ムー的なノリのオカルト話ではなく、もちろん哲学的な抽象化ではあるのですが・・・。

実は、先日ニコ生の放送中に信州読書会の宮澤さんがスカイプをかけてきてくれました。何やら話を聞くと私のことは3ヶ月ほど前から知っていたそうで、3カ月間かけて「果たしてコンタクトを取っても大丈夫な人物なのか?」という見極めを行っていたそうです。

で、まあアレコレニーチェやらキルケゴールやら政治やら社会問題やらについて話し合ったのですが、何度か指摘されたのが、「もう、どうでもいいような評論家みたいな奴は放っておけ」ということでした、これをまさにニーチェは「蠅たたきとなることはあなたの運命ではない!!」と表現しているのですが・・・。

これと似たようなことは実は、以前、藤井聡さんにも指摘されていて、「もう、あまりしょうもないクソ評論家についてイチイチ批判しても仕方がない」と、もちろん、もっとマシな話をすべきなのでしょうが、ただ、悲しいのは、この世の中はニーチェやキルケゴールの水準で動いているのではなく、J念やらK也やらの水準で動いていることであったり、その象徴が保守速報を愛読し、国会で日刊ゲンダイを批判する総理大臣であって、高卒職歴なしで学も教養もないYouTubeの意見を有り難がって参考にしている右翼女性政治家であったり、貧困JKを寄ってたかって率先的に誹謗中傷する自称愛国者の評論家だったりするワケです。

一人の女子高生をネットで寄ってたかって誹謗中傷しながら、一方で愛国心を声高に叫んでいる評論家なる人物が一人や二人ではなく、それこそ腐るほど大量に存在するということがこの国の惨状であって、果たして、女子高生をツイッターで誹謗中傷することが愛国心だと信じて疑わない侮蔑すべきゴミクズに、「ニーチェが」「キルケゴールが」「ドストエフスキーが」と語りかけることに何の意味があるのか?とも思ってしまうんですね。もちろん、「何の意味もない」というのがその結論になるのでしょうが・・・。

実はその辺のことに関しても、ニコ生の放送終了後に宮澤さんとお話したところ、宮澤さんは「私は、そういったどうしようもない評論家の言説にウンザリして、もう一つ上の次元で読書したり、物事につてい考える人のために活動をしている」と話してくれました。ただ、そのような質の高い読書、質の高い思考、質の高い言説といったものを求めている人がどの程度存在するのかに関しては大いに疑問ではありますが・・・。

ところで、以前評論家の東裕紀氏がツイッターで面白いことをつぶやいていて、曰く、現在日本で言論をやろうと思ったら「(大学教授になるという選択肢を除くと)政治権力にすり寄るか、資本にすり寄るか、教祖化するしかない!!」と。このツイートをニコ生で紹介したら、即座に、「でも、教祖になってビジネスを成立させられるほど信者を集めるなら、世論とか大衆に媚びるしかないよね?」とのコメントが返ってきました。

つまり、何か言論をやってなおかつそれをビジネスとして成立させようと思うならば、権力か資本か、大衆に媚びるしかないんですね。しかし、よくよく考えてみれば選挙という市場的な権力の選択システムを採用している状況における政治家や、大衆の欲望の最大公約数に資本を投下する大資本といったものも、結局のところ本質的には大衆の奴隷であるので、突き詰めていけばすべては大衆の奴隷というところに行き着きます。

大衆の奴隷が法律を作り、正義とルールを決定し、大衆の奴隷が製品を作り、大衆の奴隷が世論を作る、これらの一群のシステムの中で生きることで大衆はより大衆的な生活態度を獲得し学習強化することで、どこまでも大衆性と劣悪さを拡大再生産させていく。このような濃縮された愚劣さの行き着いた先が、先の愛国心という大義名分のもとに女子高生をネットでリンチにかけて悦に浸るゴミですが、もしかしたら、10年後には「ああ、あの保守速報を愛読してたバカが総理大臣だった時代はどれだけ素晴らしかったか・・・」と現在の状況を羨むようなことになっているかもしれません。

で、まあついでと言ってはなんですが、久しぶりにカンパの募集を再開することにしました。叩かれるのは承知の上ですが、現実問題として、もう真面目な言論やら哲学的考察をビジネスとして成立させることはほとんど不可能ですし、金が無ければ広告を使って情報を拡散させるような手法も取れないので、とりあえず金がないとどうしようもないという現実問題があります。実のところ、個人の力でどの程度の影響力を獲得できるのかは分からないのですが、それでも過去のニコニコで広告を大量に打ちまくってランキング上位を独占するという手法を使えば、一個人でも結構な影響力や情報発信力を獲得できるということは分かっていますので、イヤらしい話ですが、「金次第」みたいなところはあります。また、バイトスタッフを雇ったり、色んな作業を外注出来ればもっと情報発信や情報収集の効率化も出来ますし、私が発信している情報やらコンテンツやらが少しでも「良い内容である」と思ってくださっていて、同時に、「質の高いコンテンツを埋もれさせたくない」という思いが少しでもある方であれば、本当に千円でも1万円でもいいのでカンパしてもらえればありがたいです。ニコニコ動画などはランキングシステムとの相乗効果もあるので、月に5~10万円もかければ、かなり強力な情報発信力を持つことが出来ます。

「同情するなら金をくれ!!」じゃないですけど、実際に広告費用をほんの少しでも負担していただければ、相当強力な支援になるのも現実なんです。「良いコンテンツだ」と思ってブログ記事を読んだり、生放送にコメントしたりしてもらえるのは非常にありがたいですが、実際に情報発信や情報拡散を少しでも支援したいと思ってくださる方がいましたら、カンパしていただくことが最も有効な支援になりますのでもしよろしければカンパによるご支援よろしくお願いします(実際にどのように広告や情報拡散に利用するのか教えて欲しいという方がいましたらTwitter等で連絡いただければ細かく具体的に説明します)。



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『小池百合子はゴリゴリの女性差別のアンチフェミニスト?!~小池百合子新都知事の「子育て・教育論」がヤバイ件~』
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今回もニーチェの『ツァラトゥストラ』に関する話です。

これは信州読書会の宮澤さんも指摘していることなのですが、ニーチェの『ツァラトゥストラ』は人によって二通りの読み方をすることが出来ます。一つは、いわゆる社会批判の書として読む読み方であり、自分を超人の側、もしくはツァラトゥストラの側に立ってどうしようもない大衆社会や末人を上から目線で批判するような読み方です。このような読み方をする場合、ツァラトゥストラの言葉は自分を力強く鼓舞する激励の言葉として捉えることが出来ます。

そして、もう一つの読み方はツァラトゥストラによる末人批判を、まさに自分自身への批判として捉え、ツァラトゥストラの説教を聴いているような気分で読む読み方です。このような読み方をする場合、ツァラトゥストラの言葉の一つ一つがグサグサと胸に突き刺さり、身につまされるような想いになります。

たとえば、第二部の「名声高い賢者たち」という章では、次のようにあります。

狼が犬どもに憎まれているように、民衆に憎まれている者がある。それは自由なる精神、束縛の敵、崇拝を拒む者、森に住む者だ。
こうした人物を、その隠れ家から狩りだすこと―これがつねに民衆のいわゆる「正義感」であった。こうした人物にたいして、民衆はいまもなお最もするどい犬をけしかける。


民衆は、優れた人物に攻撃を仕掛けるますが、その際に持ち出すのが「正義感」であるというワケです。人々は嫉妬と復讐の念から優れた人間に攻撃を仕掛け、ひきづり降ろし、そのような卑劣な行為を『平等への意志』もしくは『正義』の名を持ってそれを行います。

また「毒ぐもタランテラ」という章では、次のようにあります。

かれらがあげるすべての不平の声からは、復讐の念が聞こえる。かれらが呈するすべての賛辞には、ひとを傷つける意図がある。ひとを裁く者だということが、彼らには無上の幸福と思われる。

要は、人々は「正論」や「正義」(それが誰も否定しようがないようなものであれば尚良い)を持ち出して、悪を権力者を不正を裁くことで道徳的優位に立ち、そのような道徳的優位とう高みから何者かを裁くことを「無上の幸福とする」これが、終わりの人間だというワケです。

まことに終わりの人間、末人にとって「平等主義」とは素晴らしい宝石のような思想であって、この思想を持ち出すことであらゆる自分より優れた人物を「公平と正義」の名の下に裁き、復讐を成し遂げることが出来ます。

また、この「正義」の名の下に行われる裁きをキルケゴールは『現代の批判』の中で「水平化」という概念を用いて説明しています。

そんなわけで、公衆は退屈しのぎに一匹の犬を飼っておく。この犬は文学界の卑劣漢である。いまだれかちょっとした人物が現れるとする、おそらく傑出した人物ならもっとおあつらえ向きだろう。するとその犬がけしかけられて、退屈しのぎがはじまる。この犬は人にかみつく癖があるので、その人の上衣のすそをひっ裂き、無礼ないたずらのかぎりをつくす―ついには公衆のほうが飽きてしまって「もうたくさんだ」と叫びだす。
これで公衆は水平化をなしおえたことになる。少し強い男、ちょっとすぐれた男は、ひどい目にあったものだと思う―そして犬のほうは、むろん犬はどこまでも犬のままである。


ここでいう犬とは末人であり、ツァラトゥストラのいうところの物書く賤民(末人や賤民にも色々と程度や種類があります)のことです。ツァラトゥストラと同様、キルケゴールも末人、物書く賤民、卑劣漢には容赦在りません。「犬のほうは、むろん犬はどこまでも犬のままである。」とは、つまり末人や賤民はどこまで行っても末人や賤民であり続けるということです。オルテガは『大衆の反逆』の中で、「悪人はたまに悪ではなくなることもあるが、バカは死ぬ瞬間まで、いつ如何なる時でもバカである」との趣旨の辛辣なコメントを残していますが、まさに、ニーチェやキルケゴールも全く同じ認識で、末人や賤民や卑劣漢は、どこまでいっても末人、賤民、卑劣漢であると考えていたようです。

なぜ、末人は末人であり続けるのか?それは世間や世間の道徳、まさにツァラトゥストラの言うところの畜群道徳が彼らの卑劣極まる行為に正当性を与え続けてくれるからです。

つまり、世間が畜群道徳である「平等思想」を価値ある道徳、最高の善として崇め奉ってくれている間は、賤民や卑劣漢は、時には聖人君子のように、またあるときは不正を糺す正義の味方のような顔をしながら、彼らの腐りきった劣情をちょっとした自分より少しばかり優れている人物にぶつけてストレスを発散させられるというワケです(もちろん、これはあくまで「平等主義」のもつ一側面に過ぎないということは付け添えておきます)。


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今回から、また新しい哲学的なテーマ設定です・・・色んな問題を問いかけてはそのほとんどを途中でブン投げるといったことを繰り返してるのですが、今回のテーマはワリと真剣に考えたい問題だったりします。

私は、高岡英夫という運動の研究家の昔からのファンなのですが、まあこの人がネット上では脳機能学者を自称している苫米地英人氏に並んで、二大インチキ科学者扱いされているんですね。それで、この人が何故インチキ学者扱いされているのか?というと、「身体意識」という何とも言えない妙な概念を取り扱いオカルティックな論を展開していることに原因が原因の一つになっています。

では、「一体、身体意識とはなんなのか?」というと、高岡英夫氏の説明を借りると、精神と身体の中間領域に展開する意識ということになります。これを私なりにさらに解釈の幅を広げて説明すると、精神世界と物質世界の中間領域に存在し、なおかつ三次元的に展開する意識の構造です。

なぜ、わざわざ三次元的に展開する構造を持っているということを付け加えなければならないのかというと、この特徴が非常に重要な意味を持つからです。物質というのは言うまでもなく体積や質量を持ち三次元的に展開しています。位置は特定出来ても長さも質量も持たない一点や、体積や面積を持たない直線などとというものは頭の中にしか存在しないということになっています。つまり、物質の特徴の一つは、物質世界において三次元的に展開し、同時に体積や質量など様々な性質が付与されているということです(「重い―軽い」「大きい―小さい」等々)。

それに対して、精神や思考の特徴は非物質的であり、空間における三次元的な展開もなく、人々の頭の中、もしくは現実の物質世界の空間から切り離された思考や精神の領域にしか存在しないということです。頭の中で鉄の塊を思い浮かべても質量は発生しませんし、炎を思い浮かべても現実の物質的世界において熱量は発生しません。

対して、高岡英夫氏が身体意識と呼び、私が物質世界と精神世界の中間領域と呼んでいるものの特徴は、非物質的でありながら様々な性質が付与されているということです。

例えば、鉄より100倍重い物質というものは物質の世界には存在しません。しかし、意識であれば鉄より100倍重たい何かというものは存在しえるでしょう。また、太陽よりも100倍熱い何かや、ダイヤモンドより100倍硬い何かも存在し得ます。

今回は、如何なる意味において精神と物質の中間領域における意識が次元的に展開するかについては説明しませんが、この領域においては意識に様々な性質が付与され得て、尚且つ、それが現実的な物理的制約から解放されているということについて説明しました。

では、何故わざわざデカルト的な心身二元論、つまり精神世界と物質世界の存在の他にワザワザ第三の中間領域を設定(もしくは仮定)しなくてはならないのか?様々な理由があるとは思うのですが、一つにはそのような第三の領域が存在すると仮定しなければ説明できないような事象が存在するからです。

例えば、作家による比喩表現の解釈がその一つです。例えば、非常に有名な哲学書であるニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』を例に取り上げましょう。

『ツァラトゥストラはこう言った』の第一部の最初の章である「超人と「おしまいの人間たち」」という章には次のような記述があります。

わたしが愛するのは、人間たちのうえにかかっている暗雲から、一しずくずつ落ちてくる重い雨滴のような人々である。かれらは稲妻がくることを告知し、告知者として破滅するのである。
見よ、わたしは稲妻の告知者であり、雲から落ちる重い雨滴である。そして、この稲妻の告知者こそ超人なのだ。
(岩波文庫『ツァラトゥストラはこう言った』(上))


ここで、ツァラトゥストラは「自分は雨滴であり、稲妻であり、超人である」と宣言します。このような表現が物質的世界に関する記述でないことは誰の目にも明白です。ツァラトゥストラはニーチェの代弁者のような存在だと思うのですが、ニーチェ自身がそのまままさに物質的に「自分は稲妻だ!!」と述べているとしたら、ただ単に頭がイカレているとしか言いようがありません。

しかし、またこの「自分は稲妻だ!!」という宣言が純粋に精神的な記述であるとするなら、この「自分は稲妻だ!!」という表現は単なるニーチェの頭の中の妄想、もしくは、文学的な比喩表現を以上の何物でもないということになります。

しかし、多くの方がこのニーチェによる記述に触れた際に、単なる妄想や比喩表現を超えたリアリティーでもって稲妻のような激しさを感じ、「まさにツァラトゥストラこそが稲妻の告知者なのだ」というリアルな予感を感じさせます。

このような、単なる精神病的妄想や、思考と文学的センスのよって捻り出された上手い比喩表現を超えたリアリティを持った稲妻のような激しさがどこに存在しているのかと考えた際に、私は精神世界と物質世界の中間領域といったものを想定せざるを得ないのではないかと思うのです。

仮に、ニーチェが感じ取ったであろう稲妻のような激しい衝撃が単に物質的領域から完全に切り離されて、ニーチェの思考の内部にのみ存在したのであれば、果たしてこのような激しい衝撃のリアリティーに対して、時代を超越して世界中の人々が共感し得たでしょうか(ニーチェの『ツァラトゥストラ』は生前には四〇部程度しか売れなかったそうで、この意味でまさにほとんどの読者は同時代における時代を共有するシンパシーを超越して稲妻のような激しさのリアリティーを共有しているということになります)。

このような三次元的に展開する意識、精神世界と物質世界の中間領域に存在する様々な性質やリアリティーを持った意識の存在を仮定した場合、むしろ、心身二元論的な現実空間の領域と頭の中にある現実空間から完全に切り離され独立した思考や精神の領域の二つが存在するという考え方は、むしろ非常に窮屈な印象を与えることになります。

もちろん、このような三次元的に展開する意識が非物質的な存在である以上、このような展開する意識も含めて精神なのだという解釈を行うことで心身二元論的な理解を保持することは出来ますが、その場合、精神や思考といったものは今まで我々が思い描いていた閉鎖的なイメージからは大きくその印象を変えることでしょう。


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