カルト極右の経営者夫妻が代表を務めていることで知られるアパホテルが、客室に南京大虐殺を否定する内容の歴史修正本を置いたことが発覚し中国を中心に大炎上しているそうです。

 

馬鹿だなーと思いつつも、半ばまあどうでもいいやと思って投げやりな感じでいくつか今回の件に関してツイートしてみました。

 

 

 

 

 

ちなみに、今回の件で一部ネトウヨ界隈では、「素晴らしい!!」「これからは積極的にアパホテルを利用したいと思います!!」とかツイートしてる連中もいたようです( ^ω^)・・・

 

まあ、南京大虐殺が本当にあったのかなかったのかに関しては、散々論争がなされていますのであえて触れません。なのですが、今回話題にしたいのは、そもそも「南京大虐殺を否定すれば日本人が自国の歴史に対して誇りを持つことができるようになって日本人の真の素晴らしさが発揮されるはずだ!!(日本人を超えた日本人・・・スーパー日本人論?)」とか、デマや誹謗中傷のヘイト発言をたれ流して日本が良くなると本気で信じているまさに愛国カルトとでも呼ぶべき人間が一定数・・・それも現在においては少なくない数存在するということです。

 

そもそも普通に考えて、ニート生活や、低賃金労働に甘んじてワーキングプアから抜け出せない生活苦の状況で、「南京大虐殺はなかったんだ!!」とか「日本人としての誇りを取り戻せ!!」とか2ちゃんやTwitterに書き込むことで、本気で日本人としての誇りが取り戻せると考えているとしたら相当ヤバイですよ、と・・・( ̄▽ ̄;)

 

別に、正しい歴史認識を求めるとか、祖先の名誉を回復するとかそれ自体は結構毛だらけてなもんですが、それによって何かそれまで抑圧されていた日本人の真の能力が解放されるとか、日本の政治に素晴らしい変化が発生するとか考えているとしたらそれはもう完全にカルトの一種であって、非現実的な妄想というほかないです。

 

そもそも、現在では例えば20年前に比べれば、遥かに南京大虐殺が真実ではないと考えている日本人の数は増えていますし、ネット上で「日本人としての誇りを―!!」とか言ってる人間の数も増えましたが、一方で社会状況や政治状況は1ミリたりとも好転していません。むしろ、日本社会や日本経済がジリ貧でどうしようもない状況に追い込まれていく中で、そのような残酷な現実から目をそらそうと必死になって「日本人の誇りを―!!」「正しい歴史認識をー!!」と叫ぶようになったのではないか?とすら感じます。要は「日本ってこんなに凄い!!」と叫ぶ人間が増えてきたことは、現実には日本がドンドン凄い国ではなくなっていったことの裏返しでしかないのではないかということです。

 

ちなみに私はそもそも愛国心などというものを大して信頼していません。せいぜい、怪しいカルト宗教の教祖が「私を信じれば幸福が訪れます!!」などと豪語しているのと同じくらいに信じられない。何かを信じれば幸福になれる!!何かを愛すれば成功が訪れる!!なんて真顔で言っている人間がいたら頭がイカレてるか、何か都合の悪い現実や真実を糊塗しているのではないか?と一度は疑ってみるべきなのではないかと思ってしまう性質なので、愛国心も同様に疑ってしまう。

 

若くして南北戦争に従軍したO.W.ホームズは、戦後「愛国心とは何か」を問われ、かなり真面目に「兵士が、自分ではほとんど分からぬ大義のため、考えもつかない戦略の中で、有効性も不明な作戦に従事し、盲目的に命を投げ出すこと」だと答えたそうです。

 

 

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ずいぶん前に、上巻を読んでそのまま放置していた『ノルウェイの森』ですが、とりあえず下巻まで全て読み終わりました。

 

なんというか、面白いと思う一方で、凄く気持ち悪い意識高い系文学男子のオナニー本という感じが・・・。

 

村上春樹作品を解説するキーワードに「デタッチメント」(関わりのなさ)と「コミットメント」(関わること)の言葉がよく使われるそうなのですが、この『ノルウェイの森』は典型的なデタッチメントの作品です。

 

(↓「デタッチメント」と「コミットメント」に関しては、コチラを参照して下さい

『「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」 書評 ④~「デタッチメント」と「コミットメント」』

『『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』②~なぜ、この作品ではネタバレがないのか?前編~』

 

  前期村上春樹作品では、主人公は、世間や社会と関わりのないように生きていきます。世間や社会がどうであろうと、僕は僕で生きていくさ、やれやれ、という感じです。こうした主人公のライフスタイルが「デタッチメント」というキーワードでくくられています。
 
しかし、これは主人公が好き好んでそうしているわけでもなく、ファッションでもありません。(書評②~主人公の孤独参照)で示したとおり、主人公は主人公の特殊な事情により、他者と感覚を共有できず、共有できないが故に孤独なのです。こうした事情により孤独な主人公が、世界の中で生き延びること。これは切実な問題です。主人公は生き延びるために、自分だけの世界をつくります。好きな音楽を聞き、好きな本を読み、自分だけのルールを作り、自分だけのライフスタイルを築きます。こうした、「自分の世界」を構築することにより、主人公は生き延びることができたのです。
 
しかし、これはもちろん大きな問題があります。主人公に愛する恋人や妻ができたとしても、彼女は「自分の世界」に閉じこもる主人公に対して疎外感を感じます。そして、やがて「あなたは空っぽ」だと言って、主人公から去っていきます。村上春樹の小説では、恋人や妻が主人公を見限り去っていくテーマが繰り返し、繰り返し語られます。かけがえのなかった過去を喪失し、特殊な孤独を抱えた人間が、いかに現在の愛する人間とともに生きていけるかが、村上春樹の小説の大きなテーマでしたし、これは現在も変わりません。

 

 先の解説では、この後に、「「自分の世界」をつくって閉じこもることで満足な人間は、実際には少ない」と指摘しているのですが、この『ノルウェイの森』ではこのような都合の悪い事実を実に綺麗に糊塗してくれます。つまり、それが緑であり、永沢さんの作品上における存在意義の一つです。

 

デタッチメントとは要は、社会や世の中を「やれやれ」なんか呟きながら斜に構えて見て、「世の中下らないことだらけだ」とか言いながら淡々と自分の趣味に没頭するようなスタイル・・・まあ、要はこのブログみたいなスタイルだと思うのですが(笑)、ただ、私がこんな姿勢で生きていられるのは、親が会社を経営していてそこで雇ってもらって毎月決まった給料を受け取っているからです。ハッキリ言って、普通のサラリーマンがこんな姿勢で生きてたら皆から嫌われて、あっという間に会社から放り出されるか、窓際や閑職に追いやられ相当に辛い思いをさせられるでしょう。

 

しかし、この『ノルウェイの森』で主人公がそのような惨めな境遇に陥らない理由は主に二つあって、一つは主人公が大学生であることです。大学生というのはある意味で人生において最も社会性を必要としない時期で、大人の世界の企業社会はもちろん、小中高生における学校社会とも違う、特殊なモラトリアムの時間が存在します。つまり、何も強制されず、自分で取りたい科目を履修し、授業に出席するもしないも、サークルなどに参加するもしないも、さらには、バイトなどの課外活動もやるかやらないかは全て個人の自由です。

 

まあ要は単位を落とさないための最低限の勉強と授業の出席さえ行ってしまえば、あとは「やれやれ」とか言ってようが、「この社会には底なし沼に放り込んでやりたいようなゴミ野郎ばかりだ!!」とか言ってみたり、「それに比べて『グレートギャッツビー』を愛読書にしている俺はなんてまともな感覚の持ち主なんだろう?」とか自己陶酔しようが全て許されます。

 

そして、もう一つは他者からの共感と理解です。この点で重要になるのが緑と永沢君の存在です。

 

小林緑は、主人公の独特の言い回しやそのもととなる思考や世界観に惹かれて、主人公を好きになります。作中、「あなたって独特な喋り方をするのね」とか「あなたのそういう言い回し好きよ」と繰り返し述べています。つまり、小林緑は主人公がイケメンだからでも、頭が良いからでも、金を持っているからでもなく、その独特の視点と世界観に惹かれて恋をします。

 

一方で、超秀才でエリートの完璧超人永沢君もまた、スコット・フィッツジェラルドの『グレートギャツビー』を3回も熟読している主人公の嗜好に惹かれて親しくなります。

 

他人と同じモノを読んでいれば他人と同じ考え方しかできなくなる、そんなものは田舎者、俗物の世界だ。まともな人間はそんな恥ずかしいことはしない。なあ知っているか?ワタナベ?この寮で少しでもまともなのは俺とお前だけだぞ、あとはみんな紙くずみたいなもんだ

 

要は、小林緑も永沢君もどちらも、主人公の独特の世界観を主人公の側からアピールすることも認めてもらおうと努力することもなく、彼ら、彼女らの側から勝手に発見して理解して共感してくれるんですね。しかし、言うまでもなくこんなこと、普通現実にはそうそう起こりえず、大抵の場合は誰にも理解されない辛さや孤独感から自己の独自な世界観と世間的な価値観との妥協とすり合わせを行うことになります。

 

この辺がどうにもご都合主義というか、オナニー的だと感じてしまうんですね。村上春樹はラノベのはしりだなどと言われているそうですが、客観的にはパッとしないし、何かモテるための意識的な努力を行っているワケでもない。にも関わらず、自分からアプローチしたり告白したりすることもなく、色んな女性が周りに集まってくる。これだけなら、まあ分かり易いハーレムモノのライトノベルなのですが、村上春樹は「主人公の独特の感性や世界観に惹かれて、周りに魅力的な人物が集まってくる」と一つひねりを入れている分、余計に気持ち悪い。

 

要は、世の中を斜に眺めながら、「俺は独特の世界観を持っているぜ」などと心の中で思っているトニオ・クレーゲルのリザヴェータが言うところの「ねじ曲がった俗物」に向けて書かれたハーレム小説なんですね・・・。

 

ハーレムモノのラノベなんかは、もう見るからに現実離れしたバカバカしい世界が描かれるワケですが、村上作品の方は一定のリアリティーと文学的修辞とそこそこに鋭い社会批評が含まれているだけに、少し知的でお洒落な空気感を醸し出している。

 

もっとも村上春樹は自分の作品の読者すらも信用してないというか、馬鹿にして批判しているようなフシもあるので、その点もある程度俯瞰した視点から考慮する必要があるかなとは思うのですが、しかし、この春樹的世界観にズブズブにハマり込んでしまう人の感性は結構ヤバいんじゃないかな?とか思ってしまったりします( ̄▽ ̄;)

 

 

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『ヒトはなぜ笑うのか』のレビュー第二弾です。

(第一弾はコチラ⇒『『ヒトはなぜ笑うのか』 著マシュー・M. ハーレー, レジナルド・B. アダムズ 他 レビュー①』

 

基本的に、こちらのブログは政治系の読者が多いので、書評系の記事よりも政治系の記事の方がアクセスが伸びるのですが、個人的な備忘録(&頭の中の整理)も兼ねてアレコレ読んだ本について感想や解説を書いていっています。政治記事を期待している読者が多いのは理解しているのですが、まあ毎回政治記事ばかり書いているとどのブログもある程度似たり寄ったりの内容になってしまいますし、ある程度ブログの個性を確保するためにも書評記事は良いかなーと個人的には思っています。現実的な問題として私自身が毎日四六時中政治的な問題、社会的な問題について考えているワケでもないですし・・・。

 

というワケで今回は『ヒトはなぜ笑うのか』という本を参考に、ユーモアについて考察したいのですが、先の記事では、ユーモアやおかしみが発生するための条件として、

 

人びとが心の中に抱いている特定の認知的フレームを少しずらしてあげたり、あるいはその認知的フレームを解体して新しい認知的フレームに転換することでおかしみが発生する。

 

と説明しました。この理論は案外面白いユーモアやジョークを分析するより、むしりつまらないジョーク失敗したユーモアを分析するのに役に立つかもしれません。一般に、つまらないギャグを称して「ひねりが無い」と言われるワケですが、おそらくこのひねりというのがつまり認知的フレームのズラしや転換のことなのでしょう。

 

例えば、失敗したユーモアの典型としてはすみとしこの自称風刺画が全く面白くないのは、このひねりとか認知的フレームの転換がないからです。要は馬鹿だから、特定の認知的フレームから、少し視点をズラしたり、別のフレームに転換させることが出来ない。ですので、本人はユーモアのつもりでやっていても単なる差別や誹謗中傷になって、多くの人間にはただただ不愉なだけになります。

 

 

 

↑ほら、認知的な転換が何一つないでしょう?

 

一方で、素朴ですが非常に分かり易いカタチで「予測の誘導⇒認知的転換」という基本を踏まえたギャグを例示すると・・・

 

単発ロロロロマンガ

↑コレなんかは、非常に分かり易いです。二人の格闘家が戦いを行い、一方が指で目を突いてきたことから、読み手は非常に残虐な目潰し攻撃を行ったと予測します・・・しかし、ここで予測をずらして、実は単にコンタクトを抜き取っただけだった、と。非常にシンプルですが、認知的フレームの転換の理論からすると非常に上手く出来たギャグになっています。

 

それから、まあ自画自賛になってしまうのですが、コチラもある種の予測のズラしを行っています。

 

 

やみんてんてーの「不倫した奴は女の子になって、女の子の気持ちを理解すればいい!!」⇒「じゃあ、女の子の気持ちを理解するために一回男に掘られてみよう!!」という話の流れになっていて、いわゆる発想の転換というヤツですが、これも結構ユーモアの基本形の一つと考えてよいでしょう。

 

こう見ていくと、案外ジョークやユーモアというものが結構高度な知的作業であることが理解できます。つまり、基本的なユーモアの形式は一つは、他者の抱いている特定の認知的フレームを認識しそれを少しずらしてあげたり、別の認知的フレームに転換させてあげることであり、さらに高度な形式になると、前振りとして、ジョークの受け手を特定の認知的フレームに誘導し、そこからそのフレームをずらしたり転換してあげたりすることになります。

 

つまり、ユーモアが高度な知的作業であるにも関わらず頭が良くて真面目一辺倒な人物からはあまりユーモアが感じられず、一方でそれほど論理的思考能力が優れていなくても柔軟な発想能力の持ち主が時に非常に高いユーモアのセンスを発揮するのかというと、論理的思考能力とは「1の次は2、2の次は3、3の次は4・・・」とやっていくのに対して、ユーモアで必要なのはいわば「1、2、3、4・・・」と数えていって、4の次にいきなり7や8を出していく必要があるからです(相手の予測を外すために)。

 

で、まあ最後に言いたいのが、こんとりあえずこのようなユーモアの構造が理解されたことの意義は結構大きいと思っていて、その意義の一つはそれまでアート(芸術)だと思っていたユーモアやジョークがとりあえずある程度構造が解明されたことによって、サイエンス(科学)になったことです。

 

もちろん、ユーモアには柔軟な発想力やある程度の経験やセンスが必要になるのは当然なのですが、これまでは仮にユーモアセンスを磨こうと思って、ギャグマンガや落語や漫才などを繰り返し見てみても、面白いネタが何故面白いのか分析出来なかったワケです。ですが、近年の研究により、ユーモアの構造が解明されてきたことによって、面白いネタが「何故面白いのか?」つまらなかったネタが「何故、つまらなかったのか?」が分析可能になりました。まあそれでも尚、ユーモアには話し手の技術や臨機応変な対応能力が必要であることに変わりはないとはいえ、このような構造が解明され、「面白いジョーク」と「つまらないジョーク」が選別できるようになったことで、ユーモアセンスを磨くことは格段にやり易くなったのではないでしょうか。

 

 

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