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 タイトルと表紙の絵がイカシテいたから読んでみたけれど、「なんだかなぁ~」と言う感じ。魔女なんて全然出てこない。前作の『司書はときどき魔女になる』には魔女に関わることが記述されているのだろうか?
 前半は司書を職業とする方のブログみたいな記事で、後半はブックレビューと映画レビューだった。
 読んでいて句読点の違和感や意味の分かりにくい文脈がいくつかあったので、著者のプロフィールを見たら1948年生まれとあったから納得した。比較的高齢の日本人女性って、変わった文章を書くのである。2007年6月初版。

 

 

【『バスラの図書館員』】
 イラク戦争で被災したバスラ中央図書館の本を救うために働いたアリマ・ムハマンド・アクバルさんという図書館員の実話が記述された本。
 街の人の助けを借りながら「図書館の本には私たちの歴史が全部詰まっている」と3万冊の本を避難させた。その9日後図書館は消失する。(p.10)
 インドからトルコにかけての一帯は、古代文明の叡智が書物や物として保管されている地域。しかし、世界支配者にとってそれらの重要な叡智(情報)は不都合なものばかり。故にそれらを末永く表に出ないように、また根本的な国力(教育)破壊のために、図書館や博物館を意図的に破壊するのである。
    《参照》   『本の歴史』 ブリュノ・ブラセル (創元社)
              【思想を運ぶもの】
    《参照》   『ガリレオの遺伝子』 (日テレ) 《後編》
              【イラクvsアメリカは、「スターゲイト」の争奪戦】

 戦後日本占領当時のアメリカも、知の源泉としての図書館を検閲するだけで日本を支配できると考えていたことが下記リンクに書かれている。
    《参照》   『国家の正体』 日下公人 KKベストセラーズ
              【日本人は世界で最も知的である】

 図書館とは関係ないけれど、イラクのバスラに関する著作をリンク
    《参照》   『バスラ風土記』 山田重夫 (朱鳥社)
 この本はアメリカの絵本作家、ジャネット・ウィンターにより、心打つ美しい絵本になっている。ニューヨーク・タイムズの記者によってこの事実が報道され、本になった経緯がある。そして本の収益の一部が全米図書館協会の基金を通じて、バスラ中央図書館の再建のために使われるとか。戦争を起こした国が債権(⇐誤植)の援助をする(?)、アメリカ国民すべてが開戦を望んだわけではあるまいが、皮肉な話である。(p.10)
 日本も「戦争を画策しているアメリカの勢力」に加担してアホみたいなことをやっているのである。
    《参照》   『リチャード・コシミズの未来の歴史教科書』 リチャード・コシミズ (成甲書房) 《前編》
              【シリア内戦に関する露骨な真実】

 

 

【「読む」ということ】
 清水真砂子さんの近著〈『「ゲド戦記」の世界』(岩波ブックレット)〉の中で、目から鱗の文章に出くわした。・・・中略・・・。「ものを読むということは、言うまでもなく、書かれているものを読むだけではだめで、何が書かれていないか、新聞だったら何が取り上げられていなかがわかって、はじめて読めたことになるんですよね」・・・中略・・・。
 これは私にとっても衝撃だった。・・・中略・・・。“読む”ということは、自分と言う小宇宙から、世界への窓が開く。それは見えないものを見る力でもあると思う。(p.18)
「読むとは、見えないものを見る力でもある」、という記述をそれぞれの読者はどう理解するのだろう。少なくとも、国語の先生が文学作品をもとに言いそうな「行間を読む」というような心情的な意味合いではない。
小泉首相がドイツでワーグナーを賛美した無神経さとも通じる。世界にセンシティブであるためにも、世界史を“読む”ことが大切になってくると思う。(p.19)
 著者は、国際化の時代にあって世界史に対する無知は世界を正しく読めないことに通じるということを書いているけれど、ワーグナーに言及しているなら「トリスタンとイゾルデ」の元になっているケルトの伝説に繋がるのだから、この本のタイトルにある「魔女」に関わって、ヨーロッパ中世史を蔽っていた 魔女 や 占星術 の意識世界へと展開してもよさそうなのに、それはない。
 魔女であるなら「見えない世界(オカルティズム)」に行き着くのが普通だと思うけれど、それどころか「これは私にとっても衝撃だった」などと書いて、なおかつ世界史と言いながら近代史止まりなのだから、書物の叡智になど全然触れていないのである。
 「“読む”ということは、自分と言う小宇宙から、世界への窓が開かれ、見えないものを見るようになること」という認識は、「人類進化(神化)」という目的意識があるなら当り前の認識である。超古代からの書物というのは、人類進化の叡智が託されてきたものなのだから、そんなのは当然のことである。だからこそチャンちゃんは学生時代から、神智学や人智学といった密教的なるものの世界に意識が向いていた。それらの著作は、精神世界というジャンルを経て、今日、ターミナルとしてのアセンション系著作に繋がっているのである。
    《参照》   『まもなく世界は5次元へ移行します』 エハン・デラヴィ&中丸薫 (徳間書店) 《後編》
              【魔女の究極の目的】

 この本の著者にとって、“読む”意味としての“衝撃”は人生の後半に起こったらしいけれど、それは、一般的に女性の視野って男性に比べて狭いところがあるからなのだろう。男性なら読書遍歴する過程で、もっと早く、知の境界域に思い至った段階で、それを超えるための技法としての「人類進化の謎(鍵)」になど、普通に思い至っているだろう。
    《参照》   『運命におまかせ』 森田健 (講談社) 《後編》
              【視野を狭くしない】

 

 

【家庭文庫が3000件?】
 2006年夏IFLA(国際図書館連盟)ソウル大会に参加した。・・・中略・・・。そこでは日本からの報告(天理市立図書館副館長高橋樹一郎氏)があった。いわゆる“文庫”についてのテーマ、1980年代日本では公共図書館が1300館ほどであったが、家庭文庫はピーク時には5000ほどあったという。現在でも3000ほどあり、子ども図書館として大きな役割を果たしている。それが経済的にも労働力においても、家庭の主婦を中心としたボランティアで成り立っていることに、大きな驚きを感じたのである。(p.24-25)
 家庭文庫って、篤志家のような個人ないし小規模な集団によって維持されている図書館のことらしいけれど、現在でも3000なんてあるだろうか。世界各国に比べたら日本は昔から各家庭に多くの図書があった国であることは間違いないけれど、個人蔵書を公開している施設が今でもこんなにあるとは知らなかった。
 公開している家庭文庫なのだから、その3000件ある一覧があってもよさそうなのに、インターネット上にそれらしいサイトはない。
 東京子ども図書館 のような家庭文庫の個別のサイトがいくつかあるだけである。この図書館名に覚えがあったから、館長さんの著作をついでにリンク。
    《参照》   『ことばの贈りもの』 松岡享子 (東京子ども図書館)
 インターネットを調べていたら、日本で初めての家庭文庫は、『赤毛のアン』を訳した村岡花子が長男の名前をつけて1952年に開設した「道雄家庭文庫ライブラリー」であると 書かれて いた。
 ところで、この3000件と言う数字はかなり疑わしいだろう。図書館を生業の場としている日本の公務員が発表するこの数字は、自分等の職域と資金確保が目的のヤラセだろう。中国政府発表の数字と同じくらい信用できない。

 

 

【夫婦間の対等性】
 私が秘かにチェックしている言葉の一つに“主人”がある。外国映画やTV番組の吹き替えを聞いては、いつも一人で怒っているのであるが、NHKでは見事なほど夫は“主人”である。欧米は日本よりも夫婦間の対等性は顕著なはず、それなのにその国の社会的背景を無視した“主人”一点張りの訳語の滑稽さ。
 ちょうど新聞の投書が反響を呼んでいた。“夫婦は対等なはずなのに「主人」と呼ぶのはおかしい”(『朝日新聞』2006・10・22) この趣旨のことを30年ほど前、作家・山崎朋子さんが新聞のコラムに書いていたのを思い出した。夫を主人と呼ばないという主張に、当時の私は洗礼を受けた。その主張は清々しく印象的で、深く共感した。(p.27)
 「欧米は日本よりも夫婦間の対等性は顕著なはず」とあるけれど、“事実無根かつデタラメな思い込み”である。世界の実状を知らないばかりか、日本文化に関する深い見識もまるでないらしい。タイトルに「魔女」と付けていながら霊学的な見識もまるでないのである。
 司書と言う方がこういう思想を持っているのだから、日本の公共図書館に叡智を秘めたマトモナ本などありえないことは容易に推測できるだろう。「男女共同参画委員会」に関わる職場で働く人々の中では、日本文化破壊思想の受け入れが昇進の条件になっているらしいけれど、著者の世代は自発的な鴨(エージェント)なのだろう。
 著者と同様な思い込みをしている方は、下記リンクに紐付くタコ足リンクを末端まで全て辿ってくださいね。
    《参照》   『アタラシイ女子の光!』 蝶々 (小学館)
              【天照大神からのメッセージ】
    《参照》   『この国を変える力』 中丸薫 (PHP研究所)
              【ジャンヌ・モローが語るウーマンリブ運動】
    《参照》   『霊止乃道』 内海康満 (たま出版) 《後編》
              【「男らしさ」「女らしさ」】

 

 

【見た目が9割】
 未読ではあるが『人は見た目が9割』という本がある。この論理で行けば、本の場合はどうだろう。タイトルが9割とはならなくても、かなりの部分を占めることは体験上実感するところである。(p.36)
 書籍内容がタイトルで判断できないことなど当たり前。
 見た目が9割と言ったって、その人の内容(人格)が見た目で9割正しく判断できると言っているのではなく、固定観念やら先入観やらで見る側が9割方勝手に判断していると言っているだけだろう。
 これまでに記憶に止まったタイトル 『世界は「使われなかった人生」であふれている』 。これは 『深夜特急』 はじめ多数の著作があり、現代日本を代表すると言ってもいいノンフィクション作家、沢木耕太郎の本のタイトルである。
 映画の本である。が、彼の凄さはその視点の凄さである。・・・中略・・・。
 そしてもう一冊私が衝撃を受けたタイトル、これもその早世が悔やまれる米原万里の本である。これは大宅壮一ノンフィクション賞を受賞している『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』、このタイトルにも舌を巻いた。(p.36)
 「舌を巻いた」とかいう定形の慣用句表現に捉われている人にとっては、人生を真摯に見つめる人々ならおもむろに首肯するであろうような内容がタイトルなっているだけで印象的なのだろう。

 

 

【ファーストフード的読書】
 ファーストフード的読書は、一切何一つ私に残さなかった。ぼんやりしたあらすじさえ記憶にない。苦労して読んだ『戦争と平和』では、ピエ-ルが戦場で寝転がって見たシンとした青空を、脈絡もなく思い出すときがあるというのに。また、ロシアの上流階級は、日常会話をフランス語でたしなむのだと知ったのも、この壮大な小説からである。
 簡略化したものは、文学では何も残さない。冗長ささえ文学なのだ。ファーストフードの味と一緒である。たっぷり時間をかけた素朴な家庭料理には、絶対かなわないのだ。苦い思い出である。(p.44)
 言えてる。
 ポイントは、ストーリーではなく、それぞれの場面で読者それぞれがもつであろう心象風景によって記憶が保たれるからなのだろう。
 ダイジェスト版だけとかインターネットで得られる情報だけ読んで、本を全部読まない人って、話してみても底が見え透いてしまって話が続かない。そんな時は、こっちが“カクッ”って感じでひたすら俯いてしまうのである。

 

 

【クリストファー・コロンバス】
 ゼミの時間に毎年ジョージ・キューカー監督キャサリン・ヘプバーン主演の『若草物語』をDVDで見ている。何度も見ていると、それまで気に止めなかった妙なことに気がついた。
 感嘆詞が「クリストファー・コロンバス」、一度ならず登場人物がそれを言う。聞いたこちらが「オー・マイ・ゴッド」である。アメリカ大陸発見者を連呼しているのだ。この映画の製作は1933年、感嘆詞は時代と共に変化しているのだろう。(p.60-61)
 「へぇ~」と思いつつ、『若草物語』のビデオがあったのを思い出したから、確認しようとしたけれど、製作年度も監督も違っていた(マービン・ルロイ)ので止めた。

 

 

【ターキッシュ・ディライト】
 C・S・ルイスの『ナルニア国物語』の中のお話。
 彼(エドマンド)を誘惑するために女王が差し出したお菓子が“ターキッシュ・ディライト”だった。
 白い粉がまぶしてある、色とりどりの餅菓子が画面に現れた。「えっ、これだったの!」 あとで本を確認すると、日本語訳はプリンだった。・・・中略・・・。
 たまたまトルコでこの菓子に出会っていたからわかったことである。(p.71)
 日本で訳書が出たのは1960年代。当時の日本人に理解できる洋菓子はプリンだからという訳者の工夫らしいけれど、2015年の今だってターキッシュ・ディライト(トルコ人の喜び)ではチンプンカンプンである。
 と、ここで ウィキペディア を見たら、フィクションの欄に書き出したのと同じことが書かれていた。

 

 

【排架】
 大型本や画集などを利用しやすくするための、排架の工夫もしている。(p.69)
 この「排架」は誤字だろうと思って調べたら、図書業界ではこの文字が用いられているらしい。
 インターネットの記事には、図書館用語として最も古い(1912年12月『図書館雑誌』16号付載の「図書館用語」)文献に使われていた文字だから、という理由が記述されている。
 「排」という字を用いた「排除」と言う単語がすぐに思い浮かぶけれど、この場合の「排」は「しりぞける」の意味。しかし、新漢語林を引いてみたら「排」には「ならべる」の意味もあることがわかった。意外である。

 

 

【図書館に住む猫】
 インターネットが普及し、目録がオンラインになってから、われわれ司書はそれを“キャット”と言う。Web-catalog の省略であるが、門外漢の人が聞くと、“キャット、キャット”と猫が空でも飛び交っているような想像をするらしい。
 さて“The Library Cat”という絵本がある。この本の猫は図書館に住み、本に書いてある猫を見るのが好き、ふんわり幸せな気分を味わっている。があるとき、外国の本の猫を見て、がぜん旅心が刺激される。新しい世界を見てみたい! ・・・中略・・・。さらなる別世界を夢見る猫の物語である。(p.78)
 西欧諸国には動物を人間のような主人公にした物語が比較的多いのかもしれない。下記リンクの著作もその一例だけれど、動物に託して権力や人間を風刺する様式の名残なのだろう。
    《参照》   『人間になりたがった猫』 ロイド・アリグザンダー (評論社)
    《参照》   『ラマー 愛と魂への旅』  ダレルT・ヘア  飛鳥新社

 

 

【図書館のワンコ】
 アメリカ、ソルトレイクシティー中央図書館でのこと。
 セラピー犬オリビアを育てた看護師でもあるサンディは、自らの本好きも手伝って図書館での活動を思いつく。しかし、それを図書館に提案したとき司書たちの反応は「じつにしらけたものだった」という。
 馬鹿げたプログラムと一蹴されたが、・・・中略・・・。その結果はというと本嫌いの子どもたちが変容していくのである。それもかなりの落ちこぼれの子どもたちに、本を読む楽しさを教え、それが他の勉学にもいい影響を与える。(p.92-93)
 いろんなところで動物介在療法に効果があることは認められている。
    《参照》   『シャーマン・ブルドック』 レナルド・フィッシャー (読売新聞社)
              【イヌの役目】

 動物による癒しは、読書の前提である心の安定を促すのだから効果があって当然である。図書館にスタッフ猫やセラピー犬として訓練されたスタッフ犬がいるのは歓迎すべきことだろう。
 しかし、保身と事なかれ主義が蔓延している日本のお役人は、おそらく「猫嫌いの人がいる」とか「犬嫌いの人がいる」とかの出来ない理由をタラタラと言い続けることだろう。猫や犬ほどの《癒し力》もないくせに、実行しないための《言い訳力》は抜群にあるのである。

 

 

【愛は愛の属性そのものに裏切られる?】
 『愛のあとにくるもの』 孔枝泳(コン・ジヨン)著 を引用した記述から
 「わたしには自信があった。わたしが心から誰かを愛したら、全宇宙の豊かさがわたしを助けてくれると、頑なに信じていた。問題は、愛が愛そのものにそむくなどとは想像もしなかったこと。愛にも有効期限があるということ。それは愛の属性だったのに、それでもわたしだけは永遠だろうと、わたしたちにそう信じさせること自体が、愛のもっているまやかしであったことを見抜けなかっただけなのだ」
 愛は愛の属性そのものにうらぎられる、それでも人はそれを止めることができない。一般的思考の裏面をたどるような、的確な愛の定義である。(p.103-104)
 この記述には、100%同意できない。
 あまりにも不的確な愛の記述である。
 これこそが“悲劇を美化しようとする文学表現の詐術”というものだろう。
 そもそもからして、「愛」の捉え方に大きな誤りがあると思うから同意できないのだけれど、百歩譲ってこれを看過するとしても、「愛にも有効期限がある」などという定義は、そのような心理回路が刷り込まれている人のみが結実させるに至るだけの手前勝手な定義である。つまり定義という言葉の使用は不適切である。
 いずれであれ、読むに堪えない。
 下記リンク著作といい勝負である。
    《参照》   『私のなかの愛』 安井かずみ (大和書房)
    《参照》   『美学入門』 淀川長治 マドラ出版

 女性というのは、下記リンクにあるような「愛」の認識には至れないものなのか?
    《参照》   『愛』 柳父章 (三省堂)
    《参照》   『愛は愛をも超えて ニーチェの恋愛論』 白取春彦 サンマーク出版

 

 

【映画レビュー】
 この本で記述されている7本の映画のうち、たまたま 『マッチポイント』 『フラガール』『あなたになら言える秘密のこと』 の3つがこの読書記録内にあった。
 著者とは年代も性別も異なるのだから、見ているところが違って感じ方も違うのは当たり前と思いつつ読んでいたけれど、『あなたになら言える秘密のこと』だけは、多くの人が同じような感想をもつはずである。なぜなら、この映画に関しては主題がはっきりしているから。

 

 

【司書関連】
 下記リンクも司書さんの著作。
    《参照》   『図書館のある都市への旅』 堀田穣 (鹿砦社)
 司書に関して役割の大きさが書かれている箇所をリンク。
    《参照》   『世界を知る力』 寺島実郎 (PHP新書) 《後編》
              【書物を扱う人々】

 

 

<了>