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 本書は2003年初版だけど、著者が24歳(1992)の時に書いた 『ウッチクラフト(魔女術)――都市魔術の誕生』 の改訂増補版とある。どうりで、やや学術書っぽい書き方で、多くの読者が著者の作品に望む書き方ではない。でも、まあ、それはそれでいい面もある。

 

 

【魔女】
 魔女を意味するウイッチっていう言葉は、男も女も区別しないんです。 ・・・(中略)・・・ おそらくその理由のひとつは、根強くキリスト教のなかにある女性蔑視の考え方と結びついているんですよ。クリスチャンの方に怒られるかもしれませんが。男を誘惑して、人類を堕落させたのがイブなんですよね。(p.147)
 仏教も、女性は今生では悟れないと言ったりするから、双魚期の2000年間を主宰してきたキリスト教・仏教共に女性蔑視である。
 それにしても東洋では西洋における魔女狩りに相当するような悪しき事態は生じなかった。東洋では西洋ほど二項対立的世界観が強烈ではなかったからとも言えるだろう。
 いずれにせよ、世界は双魚期を過ぎ、キリスト教・仏教以前の、ケルト・神道の世界観に回帰する時代に進みつつある。女性は魔女ではなく巫女としての才能が再認識されて行くのだろう。
   《魔女狩り・参照》   『フェノロサと魔女の町』 久我なつみ  河出書房新社
                  【セーラムという町】

 

 

【トスカーナ生まれのエルトリア人の魔女】
 リーランド自身の言葉では、マッダレーナは 「イギリスでならジプシーとみられるかもしれないような風貌の若い女性だが、イタリアでは、その顔にある神秘的なムードと、そして魔女として、なんともいえない優美さをうかべていることから、古代エルトリアの血をひいていることがわかった。 ・・・(中略)・・・ 。
 イタリア西北部のトスカナに生まれそだったマッダレーナは、いつしか、自分が魔女の家系に生まれていたことを知った。(p.32)
 民俗学者であるリーランドが出会った魔女である。
 下記リンクは、エルトリアと日本の関係について。
   《参照》   『古代日本人・心の宇宙』  中西進  日本放送出版協会  《前編》
               【雷】

 

 

【魔術と魔女】
魔術 Magic, あるいは Highmagic, Ceremonial Magic
 ネオ・プラトニズム、カバラ的な階層宇宙論にもとづく宇宙観をもち、その階層を順次あがることによって最終的に 「神との合一」 をめざす。現代のこの魔術は19世紀に魔術結社ゴールデン・ドンーン(黄金の夜明け)で体系づけられた。

魔女術 Witchcraft, あるいは Natural Magic, Pagan Magic
 キリスト教以前のヨーロッパ土着の自然宗教の系譜を継承すると主張するもの。厳密にいえば新異教主義(Neo-Paganism) というべきだろう。魔術の要素をうちにふくむ自然崇拝的宗教の再興運動である。ドルイド、ウイッカ(ウイッチの古語にあたるという)などがその代表例だ。(p.19-20)
 魔術と魔女術の違いって、これを読む限りでは、金剛九重曼荼羅に託されている密教と古神道の違いに似ているかも。

 

 

【スカイクラッド】
 ガートナーの魔女術では、儀式は男女とわず、裸体で行われる。それは、自然の霊力を敏感に感受し、また、いったん魔方円のなかに入れば、すべての世俗的な地位や権力を無化し、「完全な愛」 「完全な信頼」 という魔女たちのモットーを守るためだ。儀式的に裸体になるとき、魔女たちは、だが 「裸」 なのではない。彼らはスカイクラッド、つまり 「天空をまとう」 のだ。(p.62-63)
 魔術を行うのに、裸体になる必要などいささかもないものなのだけれど、この様なことが行われるようになった背景には、秘密結社的な掟らしきものが影響していたのであろう。この様な儀式の様子は 『アイズ・ワイド・シャット』 という映画の中に描かれている。
 しかし、青カビを性器に塗ることで変性意識になりやすいという事実はあるらしい。
 魔術という枠を外しても、スカイクラッド(sky-clad) という表現は、詩的で面白い。

 

 

【魔女たちが求めていたもの】
 魔女たちが求めていたものはなんだったのだろう。
 それは、たぶん、身体性の回復、女性原理、エコロジー、そして意識の変容の4つのキーワードに集約できるのではないかと思う。
 この4つは、いずれも近代がおきざりにした、あるいはおきざりにしたと考えられてきたものだったといえるだろう。(p.83)
 んだ。一般的には。
 しかし、究極の目的はそんなんもんじゃない。
   《参照》   『まもなく世界は5次元へ移行します』 エハン・デラヴィ&中丸薫 (徳間書店) 《後編》
            【魔女の究極の目的】

 

 

【没入 「なりきること」 】
 アレイスター・クロウリーは、演劇的なものが魔術の儀式の形式としてもっとも魅惑的なもののひとつだ、とのべており、そのシナリオには古今の詩人の名作をたぶんにとりいれるべきだといっている(『魔術 理論と実践』)。
 魔術の儀式の重要な点は、ひとことでいえば 「なりきること」 である。物語のなかで、磁器のカップは光かがやく聖杯となり、そしてブラスチックの棒は魔法の杖となる。それは、子どものような心の没入から生まれてくるのだ。
  ・・・(中略)・・・ 。
 魔女や魔術がくぐるドアは、そんなファンタジーの世界にもつうじている。そして、彼らはその世界とこの世界をいまでも自由に行き来する数少ない大人なのだ。(p.92)
 つまり、魔女や霊覚者が舞台を演ずるときは、さながら日本の伝統芸能である能が神事そのものであるように、そこはマジック・フィールドとなっているのである。
 高度な霊覚者って、良い年かっくらって幼稚園の子どもみたいに 「なりきる」 のが得意である。少年や少女の瞳を失ってしまったら、そんな才能は消えてしまう。
 ステージやハリーポッターのような映画を見ていて、配役になりきっているようなら魔女の才能がある。「どんなレビューを書こうか」 などと考えるようになったら終わりである。それは、“魔術師や魔女の落ちこぼれ” というより、既にこの世でしか生きられない “ただの大人” である。

 

 

【イシス友邦国】
 アイルランドに本拠をおくイシス友邦国(Fellowship of ISIS)などは多様なる女神を、ひとつの原理の表れとみて信仰している。
・・・(中略)・・・ 
 このグループは、エジプトの大女神イシスの名をかかげてはいるが、べつにイシスを 「本尊」 としているわけではない。マリアだろうが、観音(観音は中国の女神として理解されている)だろうが、ケルトの女神ケリドウィンであろうが、アマテラスであろうが、かまわない。実際、クロンガル城の地下には世界各国の女神をまる神殿、祭壇がしつらえてあり、そのなかには日本の女神ウズメをまつるものさえあるそうだ。
  ・・・(中略)・・・ 。つまり、世界中の女神は、さまざまな相(アスペクト)にすぎないわけだ。いや、いわゆる神格としてのみならず、魔女たちにとって、岩に、風に、体に、女神はいたるところに顕在している。ガードナー派の女神への賛歌(チャージ)に、「千の名を持つ女神よ・・・」 とあるのはそういう意味なのだ。(p.104-105)
 神道の神観もこのようなものであろう。多神教と見るのは浅薄な見方で、一即多多即一という場合の、多が表で一が裏であろう。表裏一体なのである。一なる神は、化け猫なんて目じゃないほどの化けっぷりである。猫の親分なんて全然目じゃない。

 

 

  鏡リュウジ著の読書記録

     『魔女入門』

     『魚座の君へ』

     『オルフェウスの卵』

     『魂の言葉』

     『女神の法則』

 
<了>