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 日本の伝統美術を擁護した功績で、明治天皇により外国人としては最高位の勲三等瑞宝章を与えられたアーネスト・フェノロサ。
 海外(日本)で最大級の栄誉を得ながら、故郷の町、セーラムには彼の功績を讃えるものがほとんどないのだという。何故なのか?
 時間がたつのも忘れて読み通してしまう本には、そう出会えるわけではない。この本は、正にそれである。男性であれ女性であれ、読者を書物が描く世界に引き込んでくれるだろう。 

 

 

【アーネストの父と母】
 アーネストの父マニュエルは、スペインからの移民として新大陸にやってきたのだった。
 裕福な文化奨励者のなかにジョージ・ピーボディという人がいた。・・・(中略)・・・。フェノロサの父がセーラムに永住する決意をしたのは、彼の懇意があったからである。 (p.149)
 このジョージ・ピーボディは、ロスチャイルドの金庫番として名をはせた金融王、J・P・モルガンの片腕として著名なジョージ・ピーボディではない。同名の名士がセーラムに居たのである。
 町(セーラム)の担い手は、言うまでもなく、建国以来中枢をしめてきた英国出身のピューリタン(正教徒)だった。その代表ともいうべき富裕な海運業者のシルスビー家の娘が、無一文の、英語もろくに話せない移民と結婚する。――
 マニュエルがなまじ若き音楽家としてもてはやされていただけに、それは、ほとんど、スキャンダルだったのだろう。 (p.19)
 フェノロサ一家が帰属した宗派は、エピスコパル派といわれる英国国教会の流れをくむ宗派であり、清教徒の正統とは違った。
 父親を早くに亡くしていたシルスビー家の娘メアリは、残っていた母親が亡くなった年に、マニュエルと結婚している。
 階級社会の宗教国家アメリカでは、階級、宗派の異なる結婚は、スキャンダルとなる。

 

 

【日本への旅立ち】
 セーラムの上流階級と、孤立無援な移民の身との懸隔―――
 一家が出発のときから抱えていた負荷は、父親の自殺という最悪の結末をむかえてしまったのだった。
 アーネスト・フェノロサはそのとき25歳で、いまだ職がなかった。この絶望を、彼は海外飛雄によって乗り越えようとする。
 日本への旅立ちである。
 学生時代の彼の優れた成績に目をつけ、東京大学に招いたのは、同じセーラム在住のエドワード・モースだった。 (p.21)
 大森貝塚の発見者である。京浜東北線の大森駅のプラットホームには、モースの業績を伝える碑がある。
 提示された月額は300円。当時としては大変な高給で、父を失った彼にとっては夢のような誘いだったという。

 

 

【セーラムに残っていない彼の名前】
 セーラムは、アーネストの生まれ故郷の町である。しかし、
 世界最大といわれる東洋美術コレクションを完成した栄誉は、無残に彼から奪われた。
 公立図書館においてもそうだった。彼の名前は、いっさい無視され、消えていた。  (p.61)

 セーラム社会が誇り、理想と仰ぐ、ジョージ・ピーボディ。全米に知られる彼の名を冠したピーボディ博物館において、フェノロサの名前が不当に抹殺されている・・・・・。 (p.127)
 なぜ? 

 

 

【セーラムという町】
 フェノロサの時代、セーラムは海運で栄えていた。しかし、船舶の大型化に伴い水深の浅いセーラム港は繁栄を失い、今日では 『緋文字』 の作者ホーソンなどの遺産に依存した観光都市である。
 宗教的な歴史はというと、
 セーラムで最も早い時期に立てられたファースト教会は、清教徒諸派の人々が立てた教会であり、神の国をうち建てることを第一義とした彼らは、インディアンとの流血の争いを辞さなかった。
 しかし、これを拒み、非暴力主義をつらぬこうとした人たちがいた。クエーカー教徒である。清教徒たちは、インディアンが襲いかかってきてもただ祈るばかりのクエーカー教徒を激しく弾圧し、拷問をくわえて、信仰を棄てさせようとした。 (p.84-85)
 教会各派ごとに厳格な違いをもつキリスト教は、各派どうしにおいても容赦はしない。
 そもそもセーラムという地名には、どんな意味、因縁が生じているのか?
 ヘブライ語で 「平和」 を意味するというセーラムは地名として人気があって、これを関する町は全米に13箇所あるという。なかでもこのセーラムがアメリカ人にもっとも知られているのは、魔女騒ぎのせいだという。(p.25)
 17世紀にヨーロッパを席巻した魔女裁判。アメリカでは、ここのセーラムにおいて20人が処刑されるという史実があったのだという。宗教的確執が非常に強い土地柄であることを示している。
 セーラム [ Salem ] は エルサレム [ Jerusalem ](イスラエルの首都)と同語源である。そもそもからして宗教的因縁に満ちた地名のようだ。
 
【フェノロサの傾倒】
 フェノロサをして日本美に目覚めさせたのは、そのころ欧米でブームとなっていた浮世絵でも工芸品でもなく、徳川家の威光を失って顧みられなくなった狩野派絵画だったのである。
 大学の講義のかたわらとはいえ、没頭するあまり授業にしばしば遅刻し、その頃もうけた長男には、「カノー」 と名づけたほどだった。 (p.67)


 美術だけではなかった。
 彼は、東洋思想そのものに、とりつかれはじめていた。(p.80-82)
 例えば、

 

 

【有空中の三諦】
 「勢至が知恵をつかさどり、観音が慈悲をつかさどる。この知恵と慈悲を兼有するのが弥陀であると説くのが、わたしたち浄土真宗の常道なのです。これも、今あなたがお話になった、西洋の 『3を以って成る』 の理をいうにあたるのではありませんか」 (p.95)
 西洋の 『3を以って成る』 の理とは、ヘーゲルの弁証法のことである。これを聞いたフェノロサは感銘にたえぬ風だった、と書かれている。

 

 

【フェノロサの改宗】
 空虚をかかえたフェノロサは、哲学、美術そして宗教と、精神世界を遍歴して、ひとつの結論にたどりつく。
 仏教への帰依である。
 彼はキリスト教を棄てて、改宗してしまったのである。
 明治十八年の秋のことだった。来日して、いつの間にか、7年の歳月が流れていた。 (p.80-82)


 アーネスト・フェノロサは、自らの改宗について、のちにこう述べている。
「(最後の審判で)無数の人々を地獄に送り込むキリスト教より、かぎりなくやり直しを許してくれる仏教」 を自分は信じる、と。
 キリスト者は残酷に人を裁くと、彼が非難するのも、無理はない。セーラム社会には、忘れることのできない記憶があった。魔女裁判の悲惨である。 (p.90)

 

 

【セーラムの首領】
 セーラムの首領とは ―――
 いうまでもなく、建国時代には公民または選民とよばれた、神の約束の地をアメリカに実現せんといそしむ清教徒たちだ。ジョージ・ピーボディも、宗派は清教徒の正統である会衆派である。セーラムの始祖に連なる家系なのである。 (p.127)


 現在ボストン美術館が保管する手紙から、アメリカにおけるフェノロサ批判がもっぱらキリスト教を棄てたことに集中していたことがわかる。故郷セーラムがフェノロサに対して無言でおこなった異端排斥は、止むどことか、全米に広がってしまったのだ。 (p.138)
 タイトルにかかわる結論は、この記述で完了している。

 

 

【二人の女性】
 セーラム出身のリジー・ミレットと、アラバマ育ちのメアリ・マクニール。・・・(中略)・・・。寄りそった女性たちにフェノロサの人生を重ねると、隠された彼の心が、はからずも透けて見える。 (p.144)
 フェノロサ夫人となった二人の女性について、かなりのページを割いて興味深い記述がなされている。女性の著者ならではなのだろう。

 

 

【運命の浮沈】
 日本で大いに名声をはせたフェノロサであったけれど、日本で活躍を共にした婦人(リジー)と離婚したのち、フェノロサの運命は浮沈が激しくなる。
 また、フェノロサが日本で教鞭をとっていた時の学生であった岡倉天心についても、その人生が有様が簡略に記述されている。
 日本の 「美」 を語った、著名な二人の人物の人生は、いずれもかなりひどい行跡、つまり 「不行跡」 なのである。このような事実を知ってしまうと興醒めてしまうけれど、そのような人生模様を経たからこそ生じたであろうフェノロサの内的変遷を、著者は認めている。

 

 

【フェノロサ、美の視点】
 かつて東京大学教授として名を馳せていた頃のフェノロサは、浮世絵よりは狩野派、歌舞伎よりは能の中に 「日本美」 を見ていた。つまり世俗的な世界より、高踏的な世界に美を見出していた。
 しかし、運命の浮沈を経験したフェノロサの見解は、変わったのである。
 北斎が大衆とともに生きたことの意義を、フェノロサは認め、心から讃えているのだ。彼は挫折をへて、ようやく、俗なる生に宿る美、その儚さの愛しさを、知ることができたのだった。 (p.164)
 

<了>