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 バスラとは、バクダッドに次ぐイラク第二の都市のこと。イラク戦争のテレビ報道を見るに及んで、1976年から1年数か月に渡って仕事で滞在した時の体験を出版しておこうと思いたったと書かれている。2004年2月初版。
 著者はインフラ系企業管理職として現地に滞在していた方らしい。あくまでも体験記として身近な経験が書かれているだけで、イラクの歴史や文化に関する深い考察が記述されているわけではない。

 

 

【建設ラッシュゆえの国際都市】
 当時、イラクは戦争もなく平和な時代であり、バスラやその周辺では発電所・変電所・配線網・道路・橋梁・各種工場の建設ラッシュで、日本人を含む多数の外国人がバスラやその周辺で働いていた。(p.7)
 オイルマネーのパワーによるインフラ建設ブームによって国際都市となっていた。
 日本人だけでも以下のような状況であった。
 バスラ周辺には多数の日本企業が、橋梁、港湾、発電所、肥料、ガスパイプラインなどの建設工事を行っていた。当時、主契約者として仕事をしている会社だけでも十数社もあり、その協力企業を含めると、何百社になるか分からないほどである。そのため日本人も最盛時には三千人近くにも達すると言われていた。(p.144)
 主契約を結んでいる企業が、自国の企業だけに下請けさせるということはなかったらしい。
 非常に興味がある事は、外国の会社がそれぞれの外国企業に下請けさせており、また技術者、労働者を含めていろいろな国の外国人を雇用するというように、外国人同士がきわめて複雑な関係にあることである。(p.155)
 中東地域には、1930年代から石油を巡って、ソ連、ポーランド、イギリス、ドイツ、アメリカなどが関与しており、それぞれに企業が進出しビジネスを営んでいたことが先にあるのだろう。利益を上げようとすれば、自国から下請け企業を呼び寄せるより、どの国であろうと現地にある既存企業を使ったほうが圧倒的に得策である。

 

 

【現地人の使い方】
 現地人の使い方について、ドイツ人やフランス人は1対10くらいでイラク人を使いこなしているのに、日本人はせいぜい1対1でたいていは自分でやってしまう、と書かれている。
 植民地経営で堂々と現地人を使役して利益を持ちかえっていた歴史がある欧米人と、多大な財政出動で朝鮮・台湾の殖産興業化を行ってきた日本人はメンタリティーが違うのである。

 

 

【説教放送】
 バスラの朝の静寂はモスクからの説教の放送で破られる。宿舎近くのモスクが毎朝5時きっかりに説教をスピーカーで近所に流す。 ・・・(中略)・・・ 。我々無信者にとっては目覚時計としてはちと早過ぎるのではなはだ迷惑であった。(p.14)
 イスラム圏のモスクでは、このような放送は世界共通に行われているらしい。意味不明の質の悪い大音量は、一過性の観光客にとっても必ずや印象に残っているはず。

 

 

【イラクの休日】
 イラクでは日曜日は休日ではなく、金曜日が休日だった。(p.164)
 祭日も日にちが固定しているものと、年によって直前まで決まらない祭日があるらしい。後者の場合、企業活動にとってはおおきなデメリットなのだけれど、たいていの国々は、ビジネス・ファーストではない。

 

 

【木材】
 国土に利用できる樹木のないイラクでは、木材は非常に貴重な存在である。 ・・・(中略)・・・ 。我々が工事で持ち込む梱包材の板や角材は客先の所有物として一か所に集められ競売に付される。丹念に釘を抜かれた梱包材は家具製造人に引き継がれ、やがて椅子、テーブル、戸棚などの家具となって商店に出ることになる。現に自分が座っているソファーのクロスの破れ目から顔を出している角材には多数の釘穴が見られた。(p.20)
 イラクの大地の殆どを占めるのは砂漠ならぬ土漠であり、しかも塩分濃度が高くて樹木は殆ど育たないらしい。河川沿いにナツメヤシが茂っているけれど、柔らかすぎて木工材料にはならないらしい。

 

 

【イラクのお土産】
 イラクにあるのは土のみ。木材どころか石すらない。だから緻密な加工技術など到底発達せず、民芸品も日本人からすれば粗悪品にしか思えない。砂漠・土漠の中東諸国はどこも同様である。つまり、イラクの土産にこれといった物はないのである。
 そんな中で私にとってたった一つ欲しいお土産があった。それは羊の毛皮である。これはイラクならではのお土産であると思った。(p.180)
 帰国してからクリーニングし、大満足していると書かれている。

 

 

【なつめ椰子の伐採価格】
 なつめ椰子の所有者は民間人が多い。工事の都合でそれらの林を伐採するとき、 ・・・(中略)・・・当時八千円から1万円払わなければならなかった。 ・・・(中略)・・・ 。農林省の専門家が来て、伐採する木の品定めをして、木の伐採価格を1本何千円と決めることになっていた。(p.99)
 なつめ椰子以外何もないような国だから、これも重要な資産なのである。

 

 

【ムシケラチビル】
 日本語と語呂が同じで意味が反対のおもしろい言葉がある。それは 「ムシケラチビル」(虫けら禿びる)。「ムシケラ」 は “問題” “トラブル” の意で、 「チビル」 は “大きい” “重要な” の意であり、二つ合わせて “大問題” “大トラブル” という意味になる。(p.186-187)
 “小さい” は 「ザゲール」 とあるから、 “問題ない” は 「ムシケラザゲール」 とでもいうのだろうか。どっちにしても、生真面目な日本人のオジちゃんに 「ザケンナ!」 って言われそうな気がする。

 

 

【日照権】
 真夏などなまじ太陽の光線にでも一日中照らされていたら日干し人間かミイラにもなりかねない。日本では日照権で裁判沙汰になっていると、イラク人に話したら信じてもらえなかった。(p.102-103)
 暑い地域に住む人々にとっては、日照権なんて 「アホか!」 というものである。お金持ちは、インドから大理石を輸入し、ヒンヤリとして気持ちのいい床の大きな家を建てている。

 

 

【水】
 バスラで飲む水は塩分があるためか、かなり塩辛い。硬水なので味はとても悪く、大げさに言えば胃のレントゲン検査のとき、飲まされるバリウムみたいに飲みづらい。(p.118)
 日本人にとって当たり前の、美味しい水が確保できない地域が、世界には意外に多い。そんなところで働いている大勢の日本人のために、飲料水の淡水化技術が日本企業によって開発され進歩してきたという経緯もあるのだろう。
   《参照》   『マーシャルの奇跡』 三枝篤夫  蝸牛新社
   《参照》   『「抜く」技術』 上原春男  サンマーク出版  《後編》

              【海洋温度差発電の副産物】

 

 

【バスラのゴルフ場】
 商売道具の建設機械をつかって2週間で余暇用のゴルフ場を作ってしまったという。
 ナイスショットが空中高く舞い上がると地平線の彼方に飛んでいき、日本のように比較できる山も木立ちもないため落下地点を見失う。それだけではない。ボールは方々にあるトカゲの穴へ転がり込んでロストとなる。こんなことも土漠のゴルフ場ならではであった。(p.170)
 山も谷もない土漠平原に住んでいれば遠近観は希薄になり、四季なきゆえに時に流れも意識から薄れてゆく。山紫水明の地に住む日本人と、砂漠や土漠の地に住む中東人とでは、時空間の認識が明らかに異なり、そこから生ずる文明・文化は大きく異なっているという基本的なことが、このボールを見失うという記述から十分推察できる。

 

 

【 「シヤト・アル・アラブ河」 と エデンの園】
 バスラの北方70キロメートルの所でチュグリス河とユーフラテス河が合流し、それ以降を 「シヤト・アル・アラブ河」 と呼ぶことになる。この合流点にクルナという小さな町があった。有名なアダムとイブの物語のエデンの園がある所である。
 「シヤト・アル・アラブ河」 を航行する巨大な貨物船の写真が掲載されている。工事資材を積んできた日本の貨物船は、船長以下すべての船員は台湾人だったと書かれている。35年近くも前であってすら人件費の安い外国人を雇用していたのだろう。現在はもっと人件費の安いフィリピン人などが日本船に乗務しているらしい。
 「シヤト・アル・アラブ河」 の シヤト・アル の意味が書かれていない。シヤトが河の意味だろうか。
 エデンの園には、ちゃんと大きなリンゴの木が植えられているという。

 

 

【アブラハムの故郷】
 ウルはメソポタミア最南部のシュメールの地に存在した古代都市で、現在名は 「テル・エル・ムカイヤル」 である。旧約聖書には 「カルディアのウル」 と記され、イスラエル民族の先祖のアブラハムの故郷である。(p.41-42)
 エジプトのテーベも今日ではルクソールと呼ばれているし、現在名を知っていないと歴史が切れてしまう。

 

 

<了>