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 東京子ども図書館 の理事長さんの著作。女性やおかあさんが読者であれば、無批判に読みとおすんだろうけど、チャンちゃんのお臍は背中についているから、「ああそうですか」と読み通すことはできない。2009年8月初版。

 

 

【子供たちの変化】
 わずか十年ほどのあいだに、かつて何人もの子どもを夢中にさせた本があまり借りられなくなる、大きな笑いを誘ったお話が静かに聞かれる、といった例を目のあたりにすると、なぜだろう、どうしてだろうと思わないわけにはいきません。1970年代の後半をピークにした、そのような子どもたちの変わり方を見つめているうちに、私が辿りついたのは、子どもたちが身につけていることばの問題でした。(p.9-10)
 子供たちが変わってしまった原因を、「子どもたちが身につけていることばの問題」であるとして、以下のように記述している。
 本やお話は、つまるところ、ことばでできています。私たちは、ある本がおもしろいとか、あり人の語る話がおもしろいとかいいますが。それは ・・・(中略)・・・ ことばを手掛かりに、自分で自分の中にイメージをつくりあげ、そのイメージが描き出す物語世界をおもしろいと感じていることなのです。 ・・・(中略)・・・ その読書の質を決めるのは、本のよしあしと同じくらい重要な読み手のもつ「ことばをイメージにかえる力」だといえましょう。
 ことばをイメージにかえる力は、基本的には想像力といってよいのかもしれません。しかし、これには広い意味での言葉の知識――語彙の量、意味や用法の知識、音の響きやニュアンスの違いに対する感覚など――や、体験が大きくかかわっていると思いますから、ここでは、それらをすべてひっくるめて、ことばの力と呼んでおくことにします。何年か前の子どもが夢中になって楽しんだ本を、今の子どもたちがそれほどたのしましないとすれば、それはことばの力の弱まりではないか、というのが私の考えたことでした。(p.10-11)
 子供たちの嗜好が変わってしまった原因は、「イメージにかえる力(想像力)」の基礎となる「ことばの力」が弱まったからであると言っている。
 そうだろうか? 順序が逆のような気がする。
 1970年代後半あたりにテレビアニメが隆盛した結果として、子どもたちの嗜好が変わり、「ことばの力」が弱くなったのだろう。テレビから流れるイメージ化された映像が、「ことばの力」を奪ってしまったのだろう。
 しかも、近代のアニメ文化は、映像だけでなく音響をも伴っている。長調主体のアニメソングは、短調主体の童謡がもっていた日本人のやや暗く落ち着いた精神基調を、こともなく一掃してしまったのだろう。
   《参照》   『温泉風水開運法』 光悠白峰 (明窓出版)
             【音楽の効用】

 音や映像は、世界を構成する波動の(直接)形態に近いものであり、言葉は波動ではあっても文字となれば間接形態である。情報メディアの進化に則して考えれば、言葉<音<映像と、多くの情報量を扱える媒体が優勢になってゆくのは必然的なことであり、この趨勢は替えられない。映像や音響が情報媒体として主役でなかった時代は、文字や言葉が想像力を司る主たる媒体にならざるを得なかったというだけのことだろう。
 言霊(波動)としての日本語は限りなく重要であるけれど、意味としての言葉は、言霊に比べたらそれほど重要ではない。しかし、知的な高次化という点で考えれば、抽象度の高さは重要な指標だから、若者を中心に抽象概念を理解できない語彙力の貧困が生じているのなら、これは困ったことなのである。とはいえ、子どもの頃は抽象的なことなんて理解できる年齢ではないのだからそんなに急ぐ必要はないのだけれど、抽象概念は読書を通じてでなければ高まらないはずだから、読書の習慣を持てないと生涯にわたって抽象度の低い(つまり即物的な)人生を送ることになってしまう。これは悲惨である。

 

 

【ことばの過剰】
 ことばが過剰であるために、みんながことばをおろそかにするようになり、体験や気持ちの込められた重いことばも、時間や空間を埋めるためだけに使われる軽いことばも、おしなべて同列に扱うような風潮にあります。子どもたちが、こういう社会に出ていくことを考えると、家庭を根に過ごす最初の1、2年――これがまさにことばの胎生期であるわけですが――を、できるだけ騒音のない、静かな環境で、実のあることばに触れて、ことばを、おもしろい、美しい、大切だと思う基本的な体験をして育ってほしいと願わずにはいられません。(p.29-30)
 これを実現しようとするなら、要は、テレビなどの情報メディアのない生活をすればいいのである。
 チャンちゃんの場合は、高校を卒業してから10年間、テレビのない生活をしていた。だから、呼んでもいないのに勝手に上がり込んできた連中とマージャンをしている以外は、たいてい本を読んでいた。学生時代にスーパーで買うのはいつも人参とワカメと納豆と1個45円のマルシンハンバーグだけで、頭の餌代に使ったお金の方が遥かに多かったように思う。だから今でも貧食が全然平気で、体の餌代に多くを使いたがる人々の気が知れない。

 

 

【「わかる」ためのことば】
 わかっていることを本当のものにするためにはことばがいる。ことばによる確認がいる。ことばになったものは記憶することができる。それが単なる経験であるうちは、モヤモヤとしてとらえどころがなくすぐ逃げていってしまうものが、いったんことばになると、自分のものとしてうちに蓄えることが可能になる。いわば自分の財産になる。経験を蓄積することが可能になる。これはことばの働きのもっとも基本的なもののひとつだと思います。(p.43-44)
 モヤモヤしたイメージを、言葉にして言ってみる。できれば書き出してみるのが最上である。
 そもそも人とのかかわりにおいては、言葉にしないと伝わらないことって、いっぱいある。
 言葉は、伝達方法として次元が高いとは言えないけれど、それゆえにこそ確実な方法である。
 個人の内面においても「ことばにする」というのは、具体的に人生を駆動させてゆく上で重要な作業だろう。
   《参照》   『人生の錬金術』  荒俣宏・中谷彰宏 メディアワークス
             【言葉による所有】

 「なんとなく・・・」は、自分にとっても周りにとっても取りつく島がない状態。
 であれば妖怪を支配するのではなく、妖怪に憑かれて支配されてしまう可能性が生ずる。

 

 

【人間がそんなに急に変わるわけがない?!】
 聖書に限らず、本の中には、時代の変化を越えて生きつづけているものがあります。 ・・・(中略)・・・。
 永続きする本、変わらない本があるということは、逆にいえば、読者である人間の方も昔からそう変わっていない、ということでしょうね。そう考えると、ちょっと安心します。そして、ここ十年や二十年の変化でうろたえた自分が、恥ずかしくなります。人間がそんなに急に変わるわけがない。第一、脳の仕組みが一世代や二世代で変わるはずがないのだから・・・と、少し落ちついた今は、考えることができるようになりました。(p.82)
 宇宙のエネルギー変動に応じて、地球磁場の固有振動数であるシューマン共振の波動値は、下記二つのリンクに書かれているように漸次上昇している。地上に住む人間は、その影響を受けないわけにはいかないのである。ひと頃、学級崩壊が騒がれていたけれど、その頃は、シューマン共振の波動値が、敏感な子どもたちに対して最も不快な値を示していたからであると言われている。学校側が手を拱いている間に波動値がさらに上昇することで自然収束したのである。
   《参照》   『波動経営力』 七田眞 (ビジネス社)
             【フォトンエネルギーの影響】
   《参照》   『地球大改革と世界の盟主』 白峰由鵬 (明窓出版)
             【フォトン・エネルギー】

 人類や生物の進化は、殆どが突然変異である。今日の情報メディアの発達だって、過去の数千年の人類史からみれば、ありえないような凄まじい激変状況にあることは客観的に理解できるだろう。これは、近未来の人類史の激変を映しているひとつの現われ(予兆)である。
 類稀なる時代に生きている今日の人類は、DNAの変化によって根本的な変貌を遂げるのだろう。
 聖書には、その時のことも預言として記述されている。だからこそ読み継がれてきたともいえるのである。
   《参照》   『日本人ならぜったい知りたい十六菊花紋の超ひみつ』 中丸薫他 《後編》
             【ヨエル書】

 

 

【子どもは言葉だけで感受しているのではない】
 私の館で、お茶の時間にある職員が話してくれたことですが、その人は、家でずっと子どもに本の読み聞かせをしていた人です。それで、ある日、本を読んでやりながら、一瞬、あしたの晩のおかず、あれ買って、これ買ってと頭の中で考えてたんですって。でも、口ではちゃんと本の通り読んでいたんですよ。それなのに、そのとき4つぐらいだったお子さんが、すかさず「お母さん、今のところ、よく見えなかった」といったんですって。(p.122)

 現代という時代は、左脳(言語・知性)主体から、右脳(イメージ・感性)主体へとシフトしつつあるから、最近生まれてきている子どもたちは、この例にあるように、イメージ力が高くなっている。 今後は、インディゴ・チィルドレンといわれる子どもたちが、陸続と地上に生まれ出てくるのだろう。彼らは、本など読むことなく、本に手を触れるだけで、そのエッセンスを理解してしまうのである。彼らこそが、地球を末長く平和に維持してゆくことを可能にする “人類への贈りもの” だろう。

 

 

<了>