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 世界各国で用いられている「愛」という言葉を巡って、それぞれの意味合いを記述している。

 

 

【西洋の「愛」の源泉】
 西洋の「愛」の源泉は、トルバドゥールと言われる詩人たちの中に見られるのだという。
 12世紀を中心に、南フランスにトルバドゥールと言われる詩人たちが出現した。吟遊詩人と訳されることもあるが、楽器をかかえて吟遊した人々とは一応別なので、ここではトルバドゥールと言おう。 (p.12)

 

 

【トルバドゥールの「愛」のかたち】
 トルバドゥールの本領は、 「雅びの愛」 と言われた礼儀正しく節制されたかたちにのっとった「愛」に典型的に示されており、肉体的な快楽はそのかたちの究極に置かれていた。しかも、このかたちは次第に洗練されて、肉体的快楽の最後の一線の前で踏みとどまるという「愛」の儀式が、尊ばれるようになる。 (p.18)
 西欧・中世の文学批評で必ず語られる 『シラノ・ド・ベルジュラック』 のような作品が、典型的なトルバドゥールの「愛」のかたちを示しているのだろう。それとも『シラノ・ド・ベルジュラック』 はトルバドゥールたちの教科書だったのだろうか。これほどまでに完璧な純愛小説は恐らく他にない。
 およそ「愛」の詩は、不幸に出会い、「愛」の望みが妨げられたときにうたわれる。満ち足りた「愛」の中では、言葉は必要ではないからだ。その意味では、挽歌や心中物を愛した日本の文学伝統は、トルバドゥール以降の西洋文化とかなり似ているところもある。 (p.19)
 大学時代、日本文学にほとんど触れないまま、『シラノ・ド・ベルジュラック』 と 『トリスタンとイゾルデ』 を読んだところで、興味が文学から別の分野に移ってしまっていたから、この記述はピンとこない。
 直感的にではあるけれど、似ているとかいないとかの比較ができないカテゴリーの違う世界の作品のように思えて仕方がない。当時はシュールレアリズムに迷い込んでいったほどから、肉のかおる現実を看たがっていなかったのだろう。 『シラノ』 の純愛と、『トリスタン』 の異空間からレアルに帰還しそこなったままだったのかもしれない。日本文学自体は不可避的なレアルな世界であると思い込んでいたのだ。つまり、日本文学は私のイメージを壊す、と。今でも、そのイメージを抱えたままである。


【エロスとアガペー】
 西洋語の「アムール amuour 」 あるいは 「ラブ love 」 や 「リーベ Liebe 」 には。男女の「愛」の意味と同時に、聖書に書かれたキリスト教の神の 「愛」 の意味もある。 (p.12)
 そうなったのはいつからかと言うと、12世紀のトルバドゥールの出現以降である。
 近代の宗教改革で、聖書のアガペーを、エロスの意味に近いはずの 「リーベ Liebe 」 の一語に翻訳したのは、宗教改革の時代を開いたルター(1483-1546)であった。 (p.42)
 イギリスではティンダル(1494-1536)が、アガペーを「ラブ love 」 と翻訳して、宗教裁判にかけられ、火刑に処せられたのだという。

 

 

【日本における「愛」の舞台】
 男女が席を同じくすることのない時代が続いていた。
 そのような時代、席は一応別れていても、若い男女が公然と、一つの部屋に同席できる場があった。キリスト教の教会堂である。 (p.63)
 そして、キリスト教会が「愛」の舞台であったということは、現実の教会の建物についてばかりでなく、その思想的・文化的意味においても必然性があった。「愛」という言葉が、その必然性をつくり出していたのである。(p.64)

 

 

【仏教・儒教・キリスト教】
 仏教では、一方にカルナーやマイトリーの慈悲があり、他方でトリシュナーなどの否定的意味の、後の中国語で「愛」と訳される言葉がある。両者のこの関係は、すでに述べた西洋世界におけるアガペーとエロスとの対立関係とどこか似ているのではないか。初期のローマ・キリスト教会では、エロスの理論を継承した教理論は、しばしば異端として否定された。それにもかかわらず、やがてアウグスティヌス (354-430) が現われて、エロスをアガペーにまで高めて教理として統一した。
 中国仏教界・思想界には、結局アウグスティヌスの役割を果たす者は現われなかった、ということであろうか。墨子の説いた「兼愛」という思想は、あるいはそうであったかもしれないが、儒教の世界では受け入れられなかった。
 結局のところ、儒教とは人間の世界の教えであって、超越的な教えを説く宗教ではない。儒教の最高の徳とされる「仁」は、アガペーのような無差別の「愛」ではない。「修身、斉家、治国、平天下」と説かれるように、近くより次第に遠くへ及ぼしていくことを求める、極めて現実的な教えである。人間的な「愛」の厳しい否定も、超越的な「愛」の肯定も、中国思想ではなかったのであろう。 (p.85)
 仏教用語で言うところの「愛着」は、ほぼ「執着」の意味で、「渇愛(タンハー)」は「渇えるほどの執着」を意味している。

 

 

【近代以前の辞書での「愛」】
 ザビエル以来の、いわゆるキリシタンがあった。・・・(中略)・・・。アガペーに相当するボルトガル語は、「大切」、「ご大切」 と訳されている。 (p.85)
 もうひとつ、
 時代は下って蘭学者の桂川甫周(1826-81) の表した辞書 『和蘭辞彙』 (1855-58) では。・・・(中略)・・・。アガペーが「慈悲」「寵愛」、人に対する 「愛」 が 「仁」 および 「恋」 とに訳し分けられているのが注目される。「仁」をアガペーの意味に使うことを明らかに避けているわけで、・・・(中略)・・・、元来儒教の「仁」は人間関係の徳であるから、桂川の訳はもっともであろう。 (p.86)
 キリスト教の 「愛」 = 仏教の 「慈悲」 = 儒教の 「仁」 という単純化は、まったく不可能である。というよりデタラメに近い。
 キリスト教の 「愛」 も、細分化するならば、エロス(男女の愛)の次に、フィレオ(兄弟の愛)があって、最後にアガペー(神の愛)である。

 

 

 
 
<了>