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 図書館の展示コーナーにあった本。今日では、技術が発達して本など個人であってすら容易に作れてしまうけれど、 「昔は大変なことだった」 という当たり前のことがよく分かる。

 

 

【 「本」 の語源】
 ラテン語の 「本(liber)」 とは、もともとは樹木の内皮を表わす言葉だった。樹木の内皮は石とともに、最も古くから人間が文字を書きつけた素材だったのである。 ・・・(中略)・・・ 
 ギリシャ語の 「本(biblion)」 の語源は、パピルスを意味する 〈biblos〉 である。現在欧米語で用いられている 「聖書(bible)」 や 「愛書家(bibliophile)」、「図書館(bibliotheca)」など、多くのことばがこれに由来している。(p.18)
 書籍の普及とは、聖書の普及とほぼ同じようなものだったということ。
   《参照》   『古代エジプト千一夜』 吉村作治 (近代文芸社)
             【バイブルの語源】

 

 

【紙が登場する前の素材】
 紙が出現するまでは、羊皮紙が中世の本の主たる素材であった。
 羊皮紙で1冊の本を作るには何頭分もの皮(平均的な大きさで約15頭分)が必要だったので、かかる費用は決して馬鹿にならない。(p.22)
 羊皮紙の時代は、印刷ではなく書写で行っていた時代だから、1冊作るのに費用も時間もたくさん必要だった。採算の取れる事業ではなかったので、パトロンが必要だった。

 

 

【君主とパトロン】
 フランス国王シャルル5世(在位1364~80)は、翻訳事業を推進し、1千冊以上の蔵書を持つ学術図書館(現在のフランス国立図書館の前身)を創設した。 ・・・(中略)・・・ 。一方イタリアでは、スフォルツァ家、ヴィスコンティ家。メディチ家などの名門貴族が学問芸術の保護にとりわけ力を注いだ。(p.33)
 書写時代の書籍文化の中心はパリだったらしい。しかし、活字印刷の時代になると、部数で最大は商業都市ヴェネチアになる。

 

 

【カルチェ・ラタン】
 写本装飾は、12世紀末までは修道院内で行われていたが、民間の工房の出現とともに、都市に住む写本装飾師(女性が多かった)の仕事になった。彼らは本の主要な消費者である大学街(パリのカルチェ・ラタンなど)に集まり、大きな工房では一種の分業も行われた。(p.41)
 重そうで派手な装飾の当時の書籍が写真で掲載されている。読むための本というより装飾品として購入していた資産家も多かったに違いない。
 名前だけは耳に見覚えのあるカルチェ・ラタン。広辞苑には、「中世以来西ヨーロッパにおける文化・政治・経済の中心地のひとつ。また世界的な芸術・流行の中心地」 と書かれている。

 

 

【活字印刷の金字塔】
 2段組、フォリオ(二つ折)判の 『四十二行聖書』 は、活字印刷による最初の書物であり、まさしく活字印刷の金字塔といってよい傑作である。使用された活字は約300種。のべ335万個。その形状は典礼写本に用いられるゴシック書体をまねたものであった。
 印刷部数は160~180部ほどで、およそ30部がヴェラム(上質紙)に印刷されている。 ・・・(中略)・・・ 。1452年から54年の約2年間に、6人の植字工が印刷作業に携わったことも分かっている。(p.53-54)
 作られた所はドイツのフランクフルト。作ったのは言わずと知れたグーテンベルグさんである。この本はよく売れたというけれど、出資金を回収するには遠く及ばなかったという。
 一か月でおよそ7冊の製造ペースということになるから、人件費や材料費を含めたら、現在の価格で1冊30万円くらいでなければ元は取れないだろう。

 

 

【北イタリア】
 北イタリアでも活字印刷術は急速に広まった。もっとも、フィレンツェではメディチ家が写本の伝統に固執したため普及が遅れ、活字印刷の中心となったのは、1469年にヨハネス・フォン・シュパイアーが工房を開いたヴェネチアだった。 ・・・(中略)・・・ ヴェネチアは、1500年までに4000点もの印刷本を出版し、(150もの印刷工房が設立された)、ヨーロッパにおける活字印刷の中心となったのである。(p.57-58)
 イタリア同様、15世紀の終盤から16世紀初頭までにヨーロッパ中部・西部一帯に印刷術は普及している。

 

 

【インクナブラ】
 ヨーロッパの約250の都市で1500年以前に刊行された印刷本を 「インクナブラ(揺籃期本)」 と呼ぶ。この呼称は 「ゆりかご」 を意味するラテン語からきている。本の体裁や生産方法の変化にもとづいた分類ではないが、図書館の所蔵目録などはみなこの分類を採用している。(p.68)
 “インク油” が染み出ていそうな初期の本、と覚えておけばいいかも。

 

 

【図書館の発展】
 18世紀は、人々が読書熱にとりつかれた時代であった。主たる読書の場は家庭だったが、読者層の拡大は図書館の発達に負うところも大きい。(p.121)
 自主管理の 「読書クラブ」 などもできて、図書館は社交の場にもなっていたそうである。
   《参照》   『マンガ メディチ家物語』 樋口雅一 (講談社)
            【ヨーロッパ初の公共図書館】

 

 

【ナポレオンの移動図書館】
 小説偏愛のナポレオンが3000冊の書物からなる移動図書館を作って、遠征軍に随行させた。こうすれば旅のあいだにも読書ができる。いい迷惑だったのは、臣下のほうである。(p.134)
 ちょっと笑えるけれど、遠征といえば、今みたいに直ぐ行って直ぐ帰ることもできないのだから、ナポレオンの気持ちはよく分かる。

 

 

【子供むけの書店】
 子供向けの書店が初めてできたのは、1745年ロンドンでのことである。もっとも、学校の教科書や教理問答書、それにいくつかの民話集や寓話集を別にすれば、18世紀以前には、厳密な意味で児童文学と呼べるようなものは存在しなかった。そこで子供たちは、もっぱら親の蔵書を読むことになる。(p.160)
 ルソーの 『エミール』 には、親の蔵書を読んでいた子供時代の様子が描かれている。

 

 

【思想を運ぶもの】
 かつてトルコ皇帝アフメトは。風流人を自称する者たちの執拗な要求に負けて、コンスタンティノーブルに印刷所を設けることに同意した。ところが、印刷が始まるやいなや、工房を取り壊し、機械を井戸の中に投棄しなければならなくなった。また、カリフのウマルは、アレクサンドリアの図書館をどうすべきか問われて、こう答えたという。その図書館の書物がコーランに反する事柄を含んでいるのなら、悪書だから焼かなければならない。それらの書物がコーランの教義と同じ内容しか含んでいないのなら、余計なものだから、やはり焼いてしまうがよい、と。(p.168)
 カリフ・ウマルの命を受けたサラセン軍将軍アムリは、アレクサンドリア図書館の蔵書をこの地の公共浴場に配給させ、6カ月にわたって、書物は湯を沸かす火にくべられたのであった。(p.169)
 キリスト教とイスラム教の対立を例に出すまでもなく、思想を運ぶものとしての印刷物は、時代の支配者から常に監視され内容が制限されてきた。そして、その監視の目を潜って思想書は民衆を啓蒙してきたのである。

 

 

<了>