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 このような内容のものをマンガで読んだ場合、時間がかかる割に内容が希薄すぎて、たいそうな時間の浪費になってしまう。2百数十ページにもわたるマンガの内容を文章でコンパクトに記述するならば、10ページほどですむことだろう。
 そもそも政治・経済・芸術に係わる人間の複雑な心模様は、マンガだから詳細に描けるというようなものではない。むしろ文筆に依らねば奥深い面白みは描けないものである。塩野七海さんの著作を好むような読者が、このマンガを読んだら、私と同じことを言うに違いないのである。

 

 

【メディチ家の概要】
 イタリア、トスカーナ地方の中心地、フィレンツェに住んでいたメディチ家は、「人に恨まれず、よい評判を保つ」 ことに心がけて財をなした銀行家のジョヴァンニ・ディ・ビッチ(1360~1429)によって発展の礎ができたらしい。ジョヴァンニには二人の子どもがいた。
 兄のコジモ・イル・ヴェッキオ(1389~1464)の血脈がルネッサンスのパトロンとなり、二人の教皇を輩出するなどして最盛期のメディチ家の中心となっていた。16世紀初頭までである。
 その後の衰退期のメディチ家は、弟のロレンツォ(1395~1440)の血脈によって保たれた。血脈の最期は、アンナ・マリア・ルイーザ(1667~1743)ということになる。
 権力と名声を力にして、文芸復興という歴史的に偉大な役割をはたしたメディチ家であるけれど、その過程で、無理に人を押しのけてのし上がった慢心と奢りに耽った家系の行き着く先は、畢竟するに家系の断絶である。
 

【ヨーロッパ初の公共図書館】
 1464年コジモが死去したとき、フィレンツェ共和国は 「祖国の父」 の称号を贈り、その業績を讃えた。これは古代ローマが偉大な哲学者キケロに送った称号だった。(p.52)
 コジモは統治者としての外交手腕、そして芸術のパトロンとしての名声を博していた。
 サンマルコ修道院も彼(ミケロッツォ)の設計で、コジモが寄贈した書物をもとにしたヨーロッパ初の公共図書館が設置されている。(p.52)
 ルネッサンスというと、絵画や彫刻と言った芸術ばかりが印象的だけれど、パトロンであるメディチ家2代目のコジモはヨーロッパ初の図書館も作っていた。

 

 

【贈り物にされたレオナルド】
 争いを嫌い平和外交に努めた4代目のロレンツォ・イル・マニフィコ(1449~1492)も、偉大なる芸術のパトロンだった。しかし、レオナルド・ダ・ヴィンチに対して、
 「ミラノへの贈り物になってくれないか。 ・・・(中略)・・・ 芸術花盛りのこの町で新たに作品を依頼する金がない。逆に諸外国は人材不足。 ・・・(中略)・・・ 贈り物とは芸術大使という意味で・・・」(p.110-111)
 レオナルドは、これに応じてフィレンツェからミラノへ移住した。
 各国へ芸術家を送り出すロレンツォの政策によって、ルネッサンスはイタリア全土へそしてヨーロッパへと広まっていった。(p.112)
 レオナルドは30歳から47歳までミラノとその周辺で暮らしていた。故に『最後の晩餐』や多くの手稿が書かれたのは、フィレンツェではなくミラノ。
 但し、 『モナリザ』 は52歳の頃、フィレンツェで描かれたらしい。
 レオナルドは1519年5月2日に、フランスのアンボワーズで亡くなっている。67歳だった。

 

 

【彫刻と絵画】
 レオナルドは自身の手記を集めた 『絵画論』 の中で、肉体労働によって生まれる彫刻を絵画より一段低いものと見なしたが、ミケランジェロはこれを痛烈に批判している。(p.181)
 『最後の晩餐』 や 『モナリザ』 の名画で有名なレオナルド・ダ・ヴィンチに対して、ミケランジェロといえば、おチンチンくっきりの 『ダヴィデ像』 だろうか。バチカンのシスティーナ礼拝堂にある壮大な天井画もミケランジェロの作品である。

 

 

【腐敗の時代】
 レオ十世の浪費のせいで教皇庁の財政は火の車だった。そのため聖職売買が横行し、免罪符が乱発された。これを激しく非難したのがマルティン・ルターで、宗教改革のきっかけとなる。(p.182)
 レオ十世とは、ロレンツォの子どもでありメディチ家5代目に相当するジョヴァンニのことである。37歳で史上最年少の教皇となり、途方もない浪費家ぶりを発揮し、ヴァティカンを 「新しいバビロン」 にしていたのである。
 渡部昇一先生の 『腐敗の時代』 という著作を読んだことがあるけれど、江戸時代にしても芸術文化が興隆し爛熟した時代は、政治的には腐敗した時代だった、ということが書かれていた。ルネッサンスにしても、やはりこの見方が当てはまる。

 

 

【メディチ家最後の女性】
 70歳になったアンナ・マリア・ルイーザと新(トスカーナ)大公との間で、メディチ家の財産はすべて新大公に委譲するが 「何一つフィレンツェ及び大公国の領地から持ち出されてはならない」 という取り決めがなされた。
 フィレンツェの歴史と不可分なメディチ家の膨大な芸術品が現在も散逸することなくこの町に残されているのは、この取り決めのおかげである。
 メディチ家最後の人間アンナ・マリア・ルイーザ・デ・メディチは、1743年2月18日、75歳でこの世を去った。フィレンツェの全市民が涙にくれたと、時の記録に残されている。(p.236)
 家系の盛衰には、それぞれの先行世代がなした “功罪” が累積して、後の世代の子孫の宿命に関与している。
 男として生まれた場合は “罪” の 「業」 を背負って生き抜く天命を与えられ、女として生まれた場合は “功” の 「徳分」 を継承して世に還元するというような天命となっている場合があるらしい。
 メディチ家一族の積み重ねた 「業」 は、最終的に家系の断絶ということに結実したのだろうけれど、そんな中にあってもアンナ・マリア・ルイーザが、当時としてはかなり長命であったのは、女性として生まれた場合の天命をキッチリはたさんがためだったのだろう。
 
 
<了>