新渡戸稲造のこと
誰でも時々思い出す偉人は何人かいるのではないでしょうか。私にとってそのうちのひとりに新渡戸稲造がいます。新渡戸は「武士道」の著者、初代東京女子大学学長、5千円紙幣の顔などで有名ですが、そういった外面ではなく内面にある部分が理由で心に浮かぶのです。それは「寛容」の精神です。元検事総長の原田明夫氏から教えていただいたのですが、新渡戸の人柄が現れているものがあります。国際連盟の初代事務局総務担当次長として7年間の任期を終えてジュネーブを去る際に、世界40ヶ国から来た数百人の職員が新渡戸に贈った送別の辞と署名簿です。「あなたはこの不寛容な西洋社会に、寛容な東洋の精神を持ち込んでくれた。それを自らの働きによって私たちに教えてくれた。紛争、勝利よりも大切なビジョンがあることを教えてくれた。西洋の地にあって、東洋社会の理念を教えてくれた。この地で西欧文明とは違った、もう一つの同等な文明があることを示してくれた。それも自らの実例で教えてくれた。少年時代の夢(※1)は、あなた自身の行動によって今日現実のものとなった。あなたは平和を守る基地ジュネーブを去っていく。平和を守る砦-前哨基地を通行していくあなたに“Pass Friend-友を通せ”という合言葉を贈る。」※1 1881年20歳で札幌農学校を卒業し、開拓使御用掛として勤務するが、さらに学ぶため東京大学に入学する。その際に文学部教授外山正一から「英文をやって何をするのですか」と問われ、「太平洋の架け橋になりたいと思います。日本の思想を外国に伝え、外国の思想を日本に普及する媒酌になりたいのです。」と応えた。Pass friendとは、敵味方のわからない危険地帯を通らねばならない友人、新渡戸のために、仲間が持たせた合言葉です。「友達だから通してくれ」という言葉に新渡戸への思いが結実していると思います。“寛容”を体現した新渡戸に対して、最大限の敬意と謝意を表しているこの送別の辞は、新渡戸にとって望外の喜びであったと思います。当時の西洋社会は、東洋を植民地のように支配する地域、西洋に比べて遅れた地域と見下していたなかで、国力をつけてきた日本から事務局次長として赴任してきた新渡戸稲造。国際連盟の職員が多少の偏見をもって接してきたことは容易に想像できます。そうした状況にあって、新渡戸は平和希求活動を見事なリーダーシップを発揮し前進させていきます。国際連盟には、現在の国連・安全保障理事会のような平和を維持するための機関がなく、新渡戸は平和を守る組織としての国際連盟の重要性を各地で説いて回りました。そして、知的な教育によって平和を確保するという研究会である「知的協力委員会」を立ち上げます。主なメンバーには、フランスの哲学者アンリ・ベルグソン、ドイツのアインシュタイン、フランスのキュリー夫人、イギリスの哲学者ギルバート・マレーなど、新渡戸がやるならば(※2)ということで、世界の知性が集まり、教育と科学と文化の分野で人々が協力しあって、平和を作っていこうという活動が始まりました。現在の国連連合・安全保障理事会はもとより、ユネスコ(国連教育科学文化機関)も新渡戸の活動が端緒といっても過言ではないでしょう。これは“太平洋の架け橋”を超えて、平和を守るための国際協力活動というべきものであり、その精神は現在の国連に引き継がれています。新渡戸の考えが端的に表れている一節を紹介してこの小文を終えたいと思います。「人間は大きな心で人と和していかなければならない。絶対的な考えを盾に取り、理屈を一つも曲げずに、他人をことごとく小人視して、我独り澄めりという心がけでは、世の中は少しも良くはなるまい。どれほどの高い理想を描こうと、実行にあたっては譲れるだけ譲り、折れるだけ折れていくのが大切である。」※2 1920年(59歳)国際連盟事務局次長となり、任期満了後の1926年(65歳)国際連盟知的協力委員会担当。なお、これらに先んずる1899年(38歳)米国にて「Bushido, the Soul of Japan」を出版し、これを読んだルーズベルト大統領が感動し、多くの人に配った話は有名である。また、エジソンも日本・日本人を知り心打たれる愛読書、との賛辞を残している。