「旅の男の添乗日誌」⑰ エピローグ
〈エピローグ〉本文の中でも、何度も言い重ねているが、バブルの時は、本当に大変な時期だった。町中活気にあふれ、全てがパワー全開、人々は、仕事も遊びも、目いっぱいやっていた。その中でも、華やかなそうに見える、旅行業界は、人気が高く、特に添乗員は、世界中に行けるので、若い人の憧れの的だった。しかし現実は、確かに世界中旅行に行けるが、自分が楽しむ時間は、絶対に無い。何処に行っても、電話を掛け、走り回る。次の移動や、食事・宿泊の確認作業に追われる。最優先事項は、お客様の安全と満足だ。その為にベストを尽くす。それが添乗員の仕事だ。やってみて初めて判る、やらなきゃ分からない。そんな業界に飛び込んで、既に数年が経ち、新人から、中堅となった林は、ドンドン増えてくる後輩と、先輩達の間に挟まれ、添乗員の仕事以外に、もう一つの悩みを抱えていた。「おじさん世代」と呼ばれる、先輩達と「新人類」と呼ばれる、後輩の若者達と、の間に挟まれ、両方から、愚痴を言われ、相談を受ける。先輩達からは、「どうもこの頃の新人は、文句ばかり言って動かない。どうしてですか?何故ですか?ばかりだ。黙って、先輩の命令を聞こうとしない。おまけに、権利、権利と言いやがる。仕方が無いので、説明すると、そんなやり方は、もう古いですと意見する。反抗的で、使い物にならない。これは林、お前のせいだ!お前の教育が悪いので、こうなった。何とかしろ。」と言われ、後輩達からは、「林さん、聞いてくださいよ。支店長がまた、新人がカギを管理して、最後まで残り、朝から掃除、お茶出しをするのが、当たり前だって言うんですよ。今どきこんな会社有りませんよ!」などなど、旧態依然とした支店内の、組織や風習の改善を、求められる。年代的に、林がちょうど中間なので、どちらも言い易いのだろうが、自分の仕事だけでも忙しいのに、余計な仕事はしたくないので、適当に聞き流し、まともに相手をする時間もなかった。そんな或る日、支店長から呼ばれ、「林君、君もお客様から、ベテランと呼ばれる位に、なったのだから、肩書も大切だ。今度、昇進試験を受けなさい。」と言われた。だが、「支店長、毎回そのお話は頂くのですが、いつも試験日が、添乗最中に重なり、受験できておりません。今回は試験を、優先させて宜しいでしょうか?」と答えると、「当たり前だ。私も先日「管理者研修」を受けて、本部長からお褒めを頂き、支店内の古株職員にも、徹底するよう、指示を受けて来たばかりだ。」と言われた。しかし、この話は、毎年この時期に在るのだが、実施されたことはない。試験日が決まり、エントリーはするのだか、その日が近づくと、色々問題が生じて、支店長からは、「試験なんかに、行ってる場合では無いだろう!お客様が望むなら、君が行かなきゃ仕方ない。君は自分の利益のみを優先するのか?お客様に満足を、会社には利益をが、私のポリシーだ。黙って行きなさい。」ということの繰り返しだった。結局、林は今年も試験が受けられなかった。運良く受験できた後輩が合格し、昇進した。後輩は、「林さん、とうとう僕の方が先に、偉くなってしまいましたね。林さんも組合に出向して、権利を主張し、仕事に似合った給料を、もらうべきですよ。」と言われた。林は今まで、肩書や給料の事はどうでもよく、入社以来の目標どおり、国内や世界中を旅が出来れば満足していた。それがどんな内容で、どんな大変な事でも。林を応援する先輩達からは、「お前、若いやつに、抜かれたんだってな。あいつは組合に行って、権利ばかり主張して、生意気な奴だ。徹底的に焼きを入れなきゃいかん。いつか痛い目に合わせてやる。」林を慕う後輩達からは、「林さん、しっかりして下さいよ。ちゃんと試験を受けて、早く偉くなってもらわないと、私達もやりにくいですよ。この頃、三階のおじさん達が、何かにつけ、近頃の若い奴らは・・・って、言掛りを付けてくるんですよ。」林には、両方の声が聞こえていた。しかし、どうしたら良いのか分からず、その方法を、探していたが、既に支店内には、不協和音が響き始めていた。流石に支店長も、この事態を無視できず、近くの喫茶店に、林を呼び出し、「林君、支店内の雰囲気が悪い。古株連中は、何か機嫌が悪いし、若手連中は、反乱の兆しが見える。両方とも、ハッキリ言わないし、何を考えているか、サッパリ判らん。君は中間管理職なのだから、何とかならんかね。」と相談されたが、「私におっしゃられても、どうしたら良いのか?」と答えるしかなかった。そんな中、日ごろの憂さ晴らしに、伊五沢と浅草のすし屋へ行く事になり、たまたま残業をしていた、女子連にも声を掛けた。伊五沢は、新宿支店の古株おじさん達とは違い、盛岡支店から来た、異色な存在なので、女子連からも人気がある。伊五沢からの誘いに、「伊五沢さんのおごりなら、喜んで。」と意外な、返事が返ってきた。それに応えて伊五沢が、「心配すんな、オラが持つ。そんじゃ、行くべ、行くべ。」と結果的に、林は伊五沢だけでなく、女子も二人連れて四人で行った。その浅草のすし屋は、知る人ぞ知る、下町の食通には有名な店で、銀座と違い、手ごろな金額で楽しめるので、常連は、その存在を他人には教えず、ましてマスコミには、決して紹介しない店だった。席に着き、お通し代わりに出てくる板盛は、何と刺身の三層造りで、ボリューム満点、新鮮な刺身をつまんで、日本酒をやれば、普通の人なら、とても四人でも食べきれない程だった。その日は、女子も同伴なので、刺盛だけでは可哀そうだと思い一緒に寿司も頼もうとしたら、古株の店員から、「お客さん、内はこの刺盛が定番で、これを食べ終わってから、寿司を注文してもらうルールです。女性の方もいらっしゃるので、刺盛を食べてる途中でも、寿司の注文を受けに来ますから、まずは、残さずに召し上がって下さい。」と言って、自信満々に、店の奥へ行ってしまった。仕方がないので、刺盛を囲んで乾杯し、食べ始めた。すると女子連は、「さすが林さん、良い店、知ってますね。どれも生きが良くで、美味しそうですね。」と言って、凄い勢いで食べ始めた。林と伊五沢は、乾杯のビールから、日本酒に変え、箸も持たずに、お銚子を傾けて、一口飲んだ時、「刺盛のお代わりと、お寿司頼んでも良いですか?」と女子連から言われ、テーブルの上を見ると、刺身は完全に消えていた。その食べる異常なスピードにびっくりしたが、仕方がないので、店員を呼ぶと、さっきの店員も驚き、「あら、もう食べちゃったんですか。仕方がないので、お代わりをお持ちします。」と言って、さっきの威勢は跡形も無く、戻ろうとした時、「それから、お寿司の盛り合わせも四人前、お願いします。」と女子連からの追加注文も渋々受けて、戻って行った。刺身のお代わりと寿司が来た時に、林と伊五沢はその日初めて、刺身に箸をつけた。しかし二切れぐらいで、また刺盛は姿を消した。林と伊五沢は、その現状を認識して、呆れていたが、次は寿司を摘まもうと手を伸ばした時に、すでに寿司も消えていた。そして、女子連はもう勝手に追加注文をし始めた。自分たちのテーブルだけが、追加注文の嵐になり、他の客から注目を浴びている事に気付き、林と伊五沢はバツの悪さを感じて、酒を飲むペースが上がったが、酔えなかった。結局、二人はろくに寿司も食べられず、勘定にした。店を後にして散々食べつくした女子連は、満足そうにして、「今度は、屋形船で天婦羅が良いですね?」と言っていたが、聞こえないふりをした。最近の若い奴は、限度をわきまえない。先輩を立てるということをしない。思わず、古株連中と同じことを思ってしまった。しかし、美味しい食べ物には、貪欲で素直だ。何だかんだと言っても、人間は「食」だ。このキーワードは共通で、世代間の溝を埋める、ポイントかも知れない。そんなことを感じて、女子連を見送り、伊五沢と飲み直しをするために、次の店へ向かった。数日後、都内野球大会の、組み合わせが発表された。20支店のトーナメント表を見て、古株連中は、「新宿の初戦は、虎ノ門か?ここには、負けられない。いつも売り上げ成績で負けているからな。二回戦目は、上野か?ここも強敵だ。油断はできない。」野球の強さを言っているのか、営業成績で争っているのか、良く分からない会話で、盛り上がっていた。一方、若手連中、特に内勤女子達は、「なんで日曜日に、休日を返上して、わざわざ、遠い球場まで、おじさん連中と、野球しに、行かなきゃならないの?この日は約束があるので、欠席ですね。」と不評な意見ばかり。社内で、様々な会話が飛び交う中、営業から戻って来た後輩の了木が、「あれ、その前日の夜は、「屋形船の夕べ」じゃないですか?林さんが女子連に頼まれて、いつも仕事で世話になっている、知り合いの、屋形船の親方に、破格な値段でお願いし、花火を見ながら、ディズニーの夜景を海から楽しんで、特別料理で、大宴会をやろうと、計画している日じゃないですか?僕も楽しみにしていますが、若手女子連は、もっと楽しみに、しているみたいですよ。」林は、了木の言葉で思い出した。そうだ、以前に若手女子連に、「林さんは、下町育ちで、花火好き。美味しい店も沢山知ってますよね。それに、いつも屋形船に乗れて良いですね。私たちはまだ、乗った事が無いんです。一度で良いから、乗せて下さいよ。」と頼まれて、手配していた事を思い出した。また、岩手出身の伊五沢先輩からも、「林、今度、屋形船で宴会さやると聞いだ。面白そうなんで、オラも混ぜてくれ。金はオラが出すから、心配すんな。」と言われたので、この際おじさん連中も加えて、野球大会の前祝とするか?と考え、早速、若手女子連に相談すると、「ええ~おじさん達と、一緒ですか?毎年の社員旅行でも、大騒ぎして、いつも大変な目に、合わされてるから、考え物ですねー」そこで、林が、「屋形船は貸切にするし、おまけに料金は全て伊五沢さん持ちだ。豪華料理も、タダで楽しめるんだよ。こんないい条件は無いだろう?」と言うと、「タダなら良いです。」と即答が有った。近頃の若者は、やっぱり現金なものだ。と、再認識した。その後、野球大会の前夜、屋形船の夕べの日となった。伊五沢先輩のお蔭で、参加者が増え、結局、支店長を含む上層部を除き、若手を中心に、ほぼ全員が集まってしまった。しかし、この日は、あいにく天気が悪く、雨はまだ大丈夫だったが、風が強かった。乗船場に集合した参加者達からは、「この風で、船は出るのか?波が高いと船酔いするぞ。花火はやるのか?」などの不安そうな声が上がっていた。しかし若手女子連からは、「今日しか無いんです。延期は考えられません。ずっと楽しみにしていたんだから、絶対実施して下さい。」の声、これは、我儘なお客さんより強烈だ。仕方ないので、林が船の親方に相談すると、「若い女の子に、あそこまで言われちゃ、俺も江戸っ子だ。しょうがない。少々波が有っても出発しますよ。それに今日は、刺身の舟盛や、天婦羅も、特別良いネタを、仕込んでいるので、もったいない。飲み物も飲み放題。日頃世話になっているんで、あんたの好きな日本酒も、用意してあるよ。思いっきり楽しんでくれ。」と言ってくれた。一方古株連中は、船着き場のベンチで、「俺は船酔いするのが嫌なので、その前に酒で酔ってから乗る。皆も酔い止め薬だと思って飲め!」既にかなり酔っていた。その後、覚悟を決めた親方の舟は、出航した。乗船した一行は、既に船内で大騒ぎ、女子連も、隠し持ってきた変装道具を身に着けて、付け髭で、ラッパやタンバリンを鳴らして踊りはじめ、日頃の憂さ晴らしに、酔っぱらったおじさん達にも、化粧や、変装をさせて、楽しんでいた。花火を見る為、船が沖へ向かい、波で揺れが段々激しくなって、てんぷらを揚げる、鍋の油も揺れ始めた。豪華舟盛が並び、山もりの天婦羅が並んだ時には、酒酔いのせいか、船酔いのせいか分からないが、おじさんたちは、頭にネクタイを蒔いて、一升瓶を抱えて倒れていた。女子連も変装したまま、顔に刺身を乗せて、窓辺でうずくまっていた。結局、花火を見る前に全滅だった。少々酔っぱらっていたが、責任上、添乗員モードに戻った林は、復活し、「これじゃ、いつもの社員旅行と同じだ。いや、いつもよりひどい。」と感じて、立ち上がると、その横で、呆れ返って、その状態を見つめる親方に、「すいませんね。いつもこれだ。沢山料理を用意してくれたのに、誠に申し訳ない。」と謝った。親方は、「これじゃ、あんたも大変だね。この人達と、毎日仕事してるんだろ?折角だから、持ち帰れるように、用意するよ。」と言って、奥へ行き、船は帰還した。下船した時に、雨が降りはじめ、三々五々に解散した。今回のタニマチ役、先輩の伊五沢は、大いに満足し、参加した女子連を、タクシー送り届け、自分はまた一人で、歌舞伎町へ戻ったらしい。豪華料理を楽しみにしていた後輩の了木は、財布を落として帰れず、交番で夜を明かした。しかし身に着けたリックの中には、刺身や天婦羅の包みが満載だったらしい。何とかタクシーを拾い、帰宅した林は、自宅前で倒れ、降り出した雨の水たまりに、顔を付けて、溺れそうになりながら、「旅行会社の会社員、屋形船を楽しんだ後、自宅前の水たまりで溺死する。」の記事を連想して、これはいかんと、最後の力を振り絞り、玄関を叩いた。それぞれ、無事(?)に帰宅した様だった。幸い、翌日の野球大会は、雨の為中止となった。その後、社内の雰囲気に変化が出た。古株連中は、若手の話にも、耳を貸し、親身に相談を受ける様になった。一方、若手女子連も、あんなに嫌っていた古株連中との間に有った壁が無くなり、なんでもストレートに相談し、冗談を言える様になった。毎年の強制的な、社員旅行とは違い、今回、自発的に同じ船に乗った経験が、「呉越同舟」とは少し違うが、運命共同体の様な、仲間意識を目覚めさせたのか、単なるストレス発散の、ガス抜きだったのか?それは不明だが、良くなったのは事実だ。屋形船に呼ばれず、何も知らない支店長は、支店内の雰囲気が、改善させた様子を見て、林に、「君に頼まなくても、支店内の雰囲気は、良くなって来た。やはり、各人の予算数字を増やせば、文句なんて、言ってる暇は無いんだ。数字が一番効果的だ。」と言って、一人で満足していた。林は、「やはり、人生は長い旅だ。途中いろいろな事があるが、ゆかいな仲間たちと、楽しい仕事を、助け合って、一緒に出来ればそれだけで良い。」そう思って、懲りずにまた、明日からの添乗の準備に入った。林の旅は、これからも続く。