第4章 新宿支店 パート2

 

【1階カウンター】

 

3階の営業の仕事も大変だが、1階カウンター業務も大変だ。

同じ旅行会社なのに、仕事の内容が全然違う。

3階の営業マンは、ある程度、自分のペースで仕事が出来る。

しかし、カウンターでは、朝から夕方まで、来店するお客様の

接客を待ったなしで、こなしていかねばならない。

 

航空券や列車の指定券の予約、

ハネムーンなどのパック旅行、

自社のもあれば、他社の分もあり、

店頭に並んだその数は何百種類にも及ぶ

それぞれ予約方法も違うので、

それに対応する知識が必要となる。

 

この時代は、一部の予約は機械を使って出来たが、

殆どの手配は電話を使って申し込むしかなかった。

だから、電話1本あれば、旅行代理店がやっていけた。

 

特に、年末年始、お盆時期、帰省の為の予約は

お客さんも必死だが、予約手配の担当はもっと必至だ。

この時期が近づくと、胃が痛くなり、夜も眠れない。

 

特に航空券・指定券の発売日は殺気じみていた。

発売は全国一斉、同時開始だ。

日本中の全ての旅行会社が、この一瞬に勝負をかける。

 

発売開始時間が迫ると、カウンター職員は全員配置に着き

事前に受けた、リクエストデータ用紙を握りしめ、

一斉に機械を動かし、電話をかけ始める。

開始数分間で勝負が決まる。

 

カウンターの責任者の中村は、入社10年のベテランだ。

入社当時は本社総務部。和文タイプの技能資格の保有者で、

内勤専門の事務要因だったが、新宿支店が開設されたときに

無理やり現場に配属された。

何も分らず、誰も教えてくれない状態で、

歌舞伎町の海千山千の客を相手に鍛えられた、

早口で妥協を許さない電話の会話は、誰も真似できない。

 

また、前節でも登場した春田は、新宿支店にやっと配備された

国鉄のマルス(専門機械)を巧みに操り、駅名の表示された

穴の開いた鉄板とそれに挿入する小さな鉄ネジのようなものを

鬼の形相で、めくりながら、キーを叩いていた。

大学時代から鉄道研究会に所属して全国の鉄道巡りをし、

時刻表を全て暗記している、その能力も只物ではない。

 

その他、女性職員も数名、必死に電話をかけまくっていた。

まさに1階メンバーの総力戦だった。

しかし、全力を尽くして、頑張ったが、

全ての予約を確保するのは無理だ。

熾烈な戦いが終わり、緊張が解けて、全員疲れ果てた。

 

そんな事情を知ってるはずなのだが、この時期になると、

来店のお客様だけでなく、営業マンが持ち込んでくる分、

支店長から新人まで、お客様から頼まれた航空券・指定券

を確保するため、1階の裏口から何度も顔を出し、

あの手、この手でプレッシャーを掛けてくる。

 

つまりウンターの担当は、前からの客だけでなく、

後ろからの営業マンの攻撃にも、備えねばならない。

 

特に支店長や古株の営業マンの案件は無視できない。

必然的に、可愛そうだが、新人の分は後回しとなる。

これが現実だ。

 

発売の記録整理が終えた、一段落した頃、

営業マンたちが、1階に下りてきて、

裏口からその結果を聞きに来る。

希望通り予約が確保できた場合は

「ありがとう、中村さん。さすがだね!」

笑顔で結果記録をもって行く。

逆に、希望が叶わなかった営業マンは

「なんだダメだったの、あんなに頼んでおいたのに。」

「いつも偉そうなことを言ってるのに、力がないね~」

など、勝手な事を言って、去って行く

 

やがて、店舗の開店時間となり、一般客も結果を聞きに来る。

また、電話での結果問合せに対応する作業も増えて来る頃

営業マンの最後に、間が悪く、遅れて林が入って来た。

 

「中村さん、お疲れ様でした。僕の分の発売どうでしたか?」

「今は忙しいの。あんたの分を確認している暇はないのよ。」

「あなたのは、営業マン分の最後だったから、多分ダメね。」

と冷たくあしらわれた。

 

そうだろうとは、想像していたが、現実が判ると

がっかりするお客さん、怒って怒鳴るお客さん等々、

頼まれたお客さんの顔が浮かび、憂うつになった。

 

すると、ちょうどその時、カウンターの店頭デスクから

こちらに向かって、大声で騒いでいる強面の男がいた。

そしてその男と、林は偶然目が合ってしまった。

カウンター内を見回すと、全員、下を向いて、

事務処理をしていて、気が付かない振りをしている。

 

仕方がないので、男はこちらを向いて

「おい兄ちゃん、そこの兄ちゃん、あんただよ。」

「みんな、忙しそうで、俺の相手をしてくれない。」

「俺は客だぞ。ちょっと来てくれ。」

そういわれて、もう無視はできない。

覚悟を決めて、男の前に出て、話を聞いた。

 

「この間、ここで頼んだ、切符の件だけど、

用意は出来てるだろうから、金を持ってきた。」

「早く出してくれるか?」というので、

「はい、少々お待ちください。」

「出発日は何日ですか?確認しますので」

と答え、カウンターの奥に確認に入った。

 

すると、中村さんが

「あのお客さんの指定券は、今日発売だったけど

満席で取れなかったのよ。」

「病気で寝ている母親に会う為、久しぶりに帰省するって、

言ってたけど」

「この日は無理、他の日に換えれば少しは可能性が

有るんだけどと、アドバイスしたんだけどね。」

「やっぱり、ダメだったみたいね。」

「人それぞれ、いろんな事情があるけど、

私たちは神様じゃないから、全ての望みを叶えることはできないの。」

「今日はあんたが受けたのだから、ちゃんと説明してね。」

と言って、任されてしまった。

 

仕方がないので、覚悟を決めて、男の処に戻ると、

「全部でいくらだ?現金で払うぞ。」といわれたが、

「今、確認して来ましたが、残念ながらお客様の分は、

満席で取れなかったみたいです。」と説明すると

 

男は徐に、カウンターの下から、出刃包丁を取り出し、

カウンターの上に置いてあったパンフレットに突き立てた。

「キャー」と言う悲鳴を上げて、その場にいた女子社員は逃げ出した。

 

しかし男はそんなことは気にもせず、訥々と話し始めた。

「俺は、これを使って、毎日料理を作る。東京に修行に出て早20年、

一人前になるまでは、故郷には帰らないと決めて、一生懸命やってきた。

しかし先日、女手一つで俺を育てたくれたお袋が倒れた。

しかも、どうも長くないらしい。だから今回だけは帰ってやりたいが、

この間申し込んだ日しか、店は休めないんだ。」

「兄さんもプロだろ、取れない物でも取るのがプロってもんだろ。」

「何とかしてくれよ。」と言って、寂しそうに、男は出て行った。

 

すると、先ほどまで下を向いていた、女子社員たちは

「林さん、大丈夫ですか?あの人絶対、また来ますよ。」

と言って、心配してくれた。

それが気に入らないのか、責任者の中村は林に

「あんた馬鹿ね。あんな時は毅然として断るのよ。」

「ハッキリ断らないと、つけこんでくるわよ。」と言った。

分っていたけど、敢えてきつく注意されたので、

「それなら、中村さんが、断ってくださいよ。」

「あんなに困っている人、可愛そうじゃないですか。」

「人間は神様じゃないけど、他の支店分を回してもらうとか、

まだ他の手があるでしょう?プロとして出来る限り努力すべきですよ。」

と、つい反論してしまった。

すると「あんたは人間が甘いの、人生はシビア、情けは禁物よ。」

と言って打ち切り、後は相手もしてくれなかった。

渋々3階へ上がり、たまたま、在席していた、

先輩の榎本に相談すると、

「まあ、そういうお客さんも、たまにはいるんだ。

でも、こればかりは、仕方ないな。」と言われ、

それより、自分のお客さんへの連絡で時間は過ぎていった。

林も翌日からの添乗で3日間が過ぎた。

添乗明けの朝、1階の中村さんから内線で連絡が有り

「あの切符の男の人が今日も来ているわよ。

昨日も来たので、の切符は絶対無理だから、

諦めてと、言ったのに・・・

とにかくあんたを呼び出せと言ってきかないのよ。」

「出張から、まだ戻ってないと、言ってください。」

「ダメよ、今朝あなたが事務所に入っていくのを見たと言ってるわ。

さっきから、座り込んでて、動かないのよ。

他のお客さんの迷惑になるから、早く下りてきて。」

と言って、電話は切れた。

仕方が無いので、1階まで下りて、男と対面した。

「おう兄ちゃん、今日は朝から目の前の喫茶店で待っていたら、

あんたが裏の階段を上がるのが見えたので、急いでやって来た。」

「今回はありがとう!大変だったろ。」

また怒鳴られるのかと、覚悟していた林は意味が判らず、

言葉が出なかった。

「あのお局さんに聞いたよ。あんたがいろいろ頭を下げて、

用意してくれたって。本当にありがとう!」

「それだけ言いたくて、待っていたんだ。」

「今度、うちの店へ来てください。ご馳走しますよ。」

と言って、今日は満面の笑顔で、帰って行った。

まだ、事態を理解できずに、中村女史に訳を聞こうとすると

「私は今忙しいの、今晩一杯付き合ってよ。7時にここを出発、

その時詳しく説明するから。」といわれ、

キツネに鼻をつままれたような気分で3階に戻り、

夕方まで仕事をした。

 

約束の時間になり、飲みに出る。

中村女史と飲むのは久しぶりだ。

1階の飲み会に誘われて何度か参加した経験はあるが、

二人で行く事は初めてだ。

 

「今日は新規開拓、初めての店よ。付いてらっしゃい。」

と一人で新宿駅の方へ進んで行く。

「歌舞伎町じゃ無いんですか?」と聞くと

「そっちはダメ、うちの連中の誰かが必ずいて、

何かしら面倒な事に巻き込まれるので、鬼門なの。」

と言って、暫くすると、一軒の高級割烹の店の前に着いた。

「この店だわ。」と勝手に一人で入っていく。

 

後について、中に入ると、朝の切符男の顔があった。

どうも、この店の主人だったらしい。

「へい、いらっしゃい。林さん、中村さん。」

「今回は本当に、ありがとうございます。」

「お蔭様で、生まれて初めて、親孝行ができます。」

「今日は遠慮なく、思いっきり、やってください。」

「私に取っちゃ、あんた方は、神様みたいなもんですよ。」

と言われ、高そうな美味しい料理が、どんどん出て来る。

中村さんも、

「今回はご招待ありがとうございます。

チャンとお代は支払いますので安心してください。

それよりご主人、このお店のお客さんは、偉い方が多そうですので、

これをご縁に、この林に仕事を紹介してやってください。」

と言うと、乾杯のビールのジョッキを煽った。

一段落した間合いを計り

「中村さんこれは、一体どうなってるんですか?」

と小声で問うと、

中村女史は、すでに次の日本酒を手酌で一杯やりながら、

「簡単よ、あんたが余りに偉そうなことを言うので、

私もたまには、神様になってみただけ。」

「神様は、佐藤さんのお客さんの切符と

この店のご主人の切符を取り換えただけ。」

「どうせ、佐藤さんは、自分で何とかするだろうし、

航空券と違って、指定券切符には名前がないので、心配はないわ。」

「とりあえず、この件はここだけの内緒にしてね。」

「私は何を言われても平気だけど、あなたが絡んでいると知れると

佐藤さんが怒って大変よ。本当は、蛇みたいにしつこい人だから。」

と説明した。

そうだったのかと、一応納得して、

佐藤さんには申し訳ないけど、佐藤さんなら何とか出来るだろう。

これは秘密にしておこうと自分に誓い、林もビールを一気に煽った。

 

しかし何で、今回は私のお蔭となっているのか?疑問が残る。

「中村さん、でもどうして私の手柄になっているのですか?」

と再度質問すると

「そんなのチョッと考えれば判るでしょう。

妙な事に、今回の発売で、あなたの分の指定券ばかりが、

いっぱい取れて、その分を佐藤さん初め、皆に回してあげたの。

だからあなたが今回の一番の功労者なの。」

と簡単に言い放った。

 

「それより、あんた今年の営業予算達成できるの?

他人の心配より、自分の心配をした方がいいんじゃない。」

「今年こそ、予算を達成しないと、またボーナス査定、最低よ。」

「あんたはいいけど、支店全体の全国査定もあるので、

私にも影響が出てきたら、許さないからね。」

 

「恐るべし中村女史」

 

全てを理解した林は、もう遠慮なく飲み食い始めた。

とにかく、困っている人が救われたのだ、それだけで良しとしよう

 

最後に女史は

「ここは、店のご主人のおごりだけど、次はよろしくね。」

「それより、あんた今年の営業予算達成できるの?

他人の心配より、自分の心配をした方がいいんじゃない。」

「今年こそ、予算を達成しないと、またボーナス査定、最低よ。」

「あんたは個人はどうなってもいいけど、支店全体の全国査定もあるので、

私にも影響が出てきたら、許さないからね。」

 

「やはり人生はシビア」

 

新宿支店の人間は、女性も怖い、

特に中村女史「あなたは、絶対神様じゃない。

そのことを思い知らされた、一日だった。

 

 

【 経理 】

 

どこの会社でも経理部署はある。旅行会社も同様だ。

そして経理担当者のイメージは、細かくて、うるさい。

まして支店ごとに客層が違うので、それぞれのやり方をせざるを得ない。

しかも営業担当者の癖もあり、おまけに添乗が多く、不在がちだ。

1本の添乗が終わり、直ぐに精算しておかないと、

細かい部分が分らなくなるので、次回の添乗前に必ず終了させるよう、

営業マンには、うるさいほどしつこく指示しないと。収集がつかない。

旅行会社に入社して、何故経理をしなければならないのか疑問だが、

誰かがこの仕事をしないと、会社は成り立たない。

営業マンには恨まれるが、これも仕事と割り切るしかない。

新宿支店の経理責任者矢野主事は、入社15年のベテランで、無口な男だ。

2階の支店長席の前に陣取り、いつも恐い顔をして、事務処理をしている。

出身は九州だそうで、少々博多訛りが特徴だ。

「自分は、まだ先週の団体を精算しておらんね。はようせんと、

また判らんことになる。」と、林はいつも叱られる。

 

入社した頃は、「自分」と言われて、その意味が分からず戸惑ったが

この頃は「お前」と言う意味だと、すんなり理解できる様になった。

どうして経理をしているのか?営業の先輩たちのうわさでは、

「入社した当時、前の支店では、営業に出されて、大分苦労したようだ。

地方支店だったので、お客さんとの付き合いが濃く、

体質的にあまり強くない酒を、無理やり飲まさせる毎日が続き、

まじめだから、一生懸命頑張り過ぎて、体を壊し、

内勤に回されたと聞いている。」

「だから、滅多に俺達とも飲みに行かないし、いつも胃薬を飲んでるだろ。」

「だけど社員旅行で、気分が乗った時の、「芸者ワルツ」は、最高だ。」

との話だ。

そんな人だから、この業界の裏の裏まで、良く知っていて、

営業マンのやりそうな事は、全てお見通しだ。

自分にも厳しいが、他人にも厳しい。

 

民間Bチームに、ベテラン営業マンの岡田主事がいる。

この人のお客さんは呉服店が多く、旅行費の入金が遅い。

浅草橋から人形町近辺の呉服問屋さんが軒を並べる通りは、

社内では、通称「岡田ストリート」と呼ばれている。

全ては岡田のセールス先で、一日中、店から店へと廻っている。

 

月末が近づくと、営業マン毎の未収金リストが配られる。

それを見て、長期未収の有る者は、2階の支店長に呼び出される。

支店長席の前で座らされ、厳しい質問攻めに会う。

大半の営業マンは反論するが、返り討ちに会い、項垂れて3階へ戻る。

 

しかし岡田の場合は少々違う。今月もたっぷり絞られたはずの岡田だが、

「蛙の面に小便」状態で、何を言われても、飄々としている。

支店長の方が疲れて、「とにかく、月末までには回収しろよ!」

と言うのが、せいぜいだ。

 

岡田が戻った後、支店長は前の席にいる矢野にぼやく。

「チーフ(支店長が使う矢野の別称)よ、聞いてたろ。

あいつはばかりは、どうにもならない。」

「そうですね、呉服問屋は、構造不況産業ですからね。

そんなお客さんばかりを、相手にしてるのだから、

当然、うちの分も遅くなる。困ったものです。」

 

数日後、林は矢野主事に呼ばれ、或る特命を受けた。

「岡田しゃんと同行して、未収金を回収してらっしゃい。」

「ええっ僕がですか?僕が行っても、無理ですよ。」

「それは、やってみないとわからんと。3か月前のはもう限度。

あん男は、人が良いので、頼まれると、いやとは言えん。

お客さんには好かれるが、お金はちゃんと集金せにゃいけん。」

と言われて、林は岡田主事と横山町へ向かった。

 

「岡田さん、今日はいくら集金するのですか?」

マイペースで前を行く岡田に問いかけると

「そうだね、百万かな?払ってくれると良いのだが・・・」

なんだかはっきりしない返答だった。

目的の呉服問屋に到着して早々

「こんにちは、今日は番頭さんいますか?」

奥から、それらしき人が、出てきて

「ああ、岡田さん、今日は何の御用ですか?」

岡田が、勇気を出して

「3か月前のツアーの残金を集金に来ました。」

というと

「だから、それはもう一月待って下さいと、お願いしたじゃないですか。」

と返答

「そうは言われても、うちも経理がうるさくて、困っているんです。」

「今日は、後輩もいるし、是が非でも、集金しないと帰れないのです。」

と切羽詰まった言葉でいった。

 

その時、別の客が支払いに来た様で、別の店員と会話をしながら、

近くの机に百万円の束を置いた。

それを店員が受け取り、店の奥へ戻ろうとすると、

それに岡田が飛びついた。

「お金有るじゃないですか、これを集金させて頂きます。」

と叫んで、札束を握りしめた。

店の番頭は慌てて

「なんてことをするんだ、これじゃ泥棒だ。」

中々、札束を離さないので、帳簿で岡田の頭を叩く

「痛いじゃないですか。でもお金下さい!」

岡田も譲らない。

「そうは問屋は卸さない。警察を呼ぶぞ!」

番頭も必死だ。

この繰り返しの攻防が暫く続いたが、とうとう番頭が根負けして

「他のお客さんも見ているので、今日はそれを持っていけ。」

すると、岡田は大切そうに札束をつかんだまま。

「ありがとうございます。次の仕事も下さい。」

と、信じられない言葉を発した。

 

数日後の有る土曜日、休日にも関わらず、事務処理が終わらずに

溜まっている林は、会社に来てみると、同様の理由で出社している

先輩が数人いた。休日なので全員普段着、リラックスした雰囲気だった。

 

昼頃、経理の矢野主事に呼ばれた。土曜日なのに矢野さんも出ているのか、

経理も大変だなと思い、また精算の遅れた件かな?と思い2階へ行くと、

「チョット、自分、駅横の販売所まで、個人的にお使いに行ってくれんね。」

「販売所って、馬券売り場の事ですか?」

「そうそう、これお金、この丸の付いてるやつね。」と競馬新聞を渡す。

「自分は競馬やらんとね。このお金で馬券を買わずに、自分の物にしても

良いけど、もし当たっとれば、それなりのお金は払ってもらう。

どっちでも、好きなようにせんしゃい。」

と言われたが、少し考えてやっぱり買いに行くことにした。

あの固い経理の矢野さんの唯一の趣味が、競馬だと知って意外な感じだった。

買ってきた馬券を、矢野に渡すと、

「馬券販売のアルバイトの女の子は、給料が良いらしい。今度海外旅行に行きたいと言っとったので、セールスに行ってみんしゃい。」

「全額前金で支払ってくれるよ。」と満足そうにアドバイスをくれた。

そうだ、旅行は水物、終わったら、何も残らない。

だから、必ず、前もって、お金は全額収受!これが原則。

 

【 渡航手続き 】

 

海外旅行をする際は、必ずパスポート(旅券)が必要だ。

また、国によってはビザ(査証)が、必要な場合もある。

それに、予防注射の接種が義務付けられている国もある。

その他の書類として、入出国カード、税関での申請書、等

渡航書類関係の一切を準備するのが、渡航手続きの仕事だ。

外国の大使館や、入国時に提出する書類が全て横文字の為、

そのほとんどを、英文タイプライターで作成している。

 

大型団体になると、預かったパスポートや必要書類含めて

その管理は、膨大な仕事量になる。

特に初めて海外旅行をする人は、初めて見る書類に戸惑う。

それを親身になって、説明し、時には付き添い、

代行できるところは代わりに行って準備する、

旅行会社の仕事としては、地味な仕事だ。

 

この仕事を長年やっている内山は、専門学校のビジネス課を経て

この会社に入社し、新宿支店に配属になった。

彼女は、英文タイプを、上手に使いこなす、この道のプロだ。

 

この種の仕事は、相手が相手だけに、許可が下りるまで、時間が掛かる。

それなのに営業マンは、締め切りを守らない、出発の近い団体は要注意だ。

 

「佐藤さん、パスポートと写真もらって来て呉れました?」

「明後日申請しないと、出発までにビザが、間に合わなくなりますよ。」

と、営業マンの尻を叩く。

「悪い悪い、お客さんが写真忘れちゃったんだ。明日必ず貰って来るよ。」

と、佐藤が言い訳をする。

「明日は、朝からに千葉、午後に神奈川の旅券課、夕方に米国大使館なので、

昼間はいませんから、夜にタイプ打ちして、明後日の朝一番で申請します。

必ず忘れないでくださいね。」

と、念を押す。

 

前回佐藤は、お客さんの分は間に合ったが、自分の分が遅れて間に合わず。

出発当日、お客さんを見送り、翌日追いかけるという、失態をさらした。