第10章 ペルー・アルゼンチン

 

バハマに続き、一行は、いよいよペルーに入った。

ペルーと言えば「インカの遺跡見物」だが、

まずは定番の市内観光、

 

旧市街ではマイヨール広場、

スペイン人がインカ帝国を滅ぼした上

インカの遺跡の上に、教会等の建物を築く

この説明を聞いたチョビ髭院長は、大いに憤慨し、

「ほぼ無抵抗の民族を滅ぼし、

その上、その文化を完全に破壊して、

全ての黄金を奪い、植民地にしたスペイン人は、

極悪非道の大悪人だ。

おまけに、キリスト教を利用し、住民を洗脳し、

統治した政策は、許せない。」

と盛んに批判を続けていた。

 

その後、新市街で「黄金博物館」に続き、「天野博物館」を

見学した時に、館長と面会し、前回訪れた時の話をして、

日本人が、インカ文明の歴史と保存に貢献している事を、

大いに誇りに思う、と賛辞を表し、やっとご機嫌が直り、

一同安心して観光を続けた。

 

団長をはじめ、以前の来たことがある人は、

余裕でショッピングがてらの街歩きだった。

今回のガイドは日本人だったので、

更に、全員安心して観光ができたが、

ガイドの話では、最近ひったくりが横行しているので、

私も監視していますが、各人注意して下さい。

との説明が有った矢先、

突然、歩いていた後方から、悲鳴が聞こえた。

その方を見ると、岩手の先生の腕から何かが落ちた。

それは、高級腕時計の金属バンドだった。

林が慌てて近づき、心配して尋ねると、

「いやぁ~びっくりした。すれ違い様に、

腕時計の本体を盗られた。

怪我はないが、たいしたもんだ。」

盗られた怒りより、その技に感心していた。

ガイドが、「怪我が無くて何よりですが、

警察に行って、被害届を出しますか?」

と聞くと、

「いや心配せんで良いよ。

以前ローマでバックを取られた時、

警察に行ったら、長蛇の列、

そして待っている内に、もう1回盗難に有った。

そんなことで、無駄な時間を使うより、

予定通り観光を続けましょう。」

と冷静な答えが返ってきた。

それから全員、シャツの袖口を目いっぱい伸ばして、

腕時計は見えないようにして、肩掛けバックも内側にして、

なるべく盗られないよう用心しながら、観光を続けた。

 

市内観光を終え、ホテルに戻り、夕食を迎えた。

「フォルクローレ」の生演奏を聴きながらの、

夕食では、昼間のひったくりの話題で持ち切りだった。

チョビ髭院長は、

「君たちは平和呆けで、緊張感が足りない。

隙だらけで、まるで、「どうぞ盗ってください。」

と言わんばかりの態度でいるから、こうなるんじゃ。

私の目つきを見給え、常に周囲に目配りをして、

相手に付け入るスキを与えない様にする。

戦後、大陸からの引き上げ時や、

新宿の闇市の中を歩いた時の様に、

喰うか喰われるかの状況で、生き抜く為に、

自分で自分を守る術を、学んだお陰だ。」

とまたお説教を述べていた。

 

夕食が終わり、明日の予定を林が発表した。

「明日は「ナスカの地上絵」を見に行きます。

リマから空路で海岸線を南下し、

現地でセスナに分乗して、空中から見下ろす形で、

地上絵を観賞して頂きます。

日中は暑くなるので、日除け帽子と飲み水も忘れずに、

ペットボトルの水は、炭酸ガス入りを購入下さい。

ガス無(ノンガス)は、巧妙にキャップを誤魔化した

水道水入りが、横行しているらしいです。」

と注意を付け加えた。

 

翌日予定通りに出発して、ナスカの飛行場へ到着した。

セスナは午後のフライトなので、

近くのホテルで昼食を取った。

レストランはプールサイドに位置しており、

プールを囲む様に、植木の列が整然と並んでいた。

その植木には、きれいな赤い大きい花が咲いていて、

その花を巡って、蜂のような物が飛んでいる。

近づいてよく見ると、それは「ハチドリ」だった。

林が感激して、皆に告げると、

皆集まって来て、感心して写真を撮った。

その様子を、葉巻を咥えながら見ていた団長は、

最後に近寄り、一言放った。

「こんなところに普通に飛んでおり、

地元の人が、誰も気に留めないのは、

珍しくないからなのだ。

確かに、我々日本人には珍しい物だが、

ここでは当たり前の風景ということじゃな。」

 

そんな一同の行動を、遠くから観察していた

一人の金髪の白人女性が一同に近づいて来た。

まずは、彼女の説明を聞くと、

どうも「ナスカの地上図」を永年研究している

ドイツ人の博士の娘らしい事、

そして地上図に隠された、「インカの財宝」の

隠し場所の地図を所有していると説明したのだ。

これには一同驚いた。

真っ先にその話に、飛び着いたのは、第8章に登場した、

大阪の「インド宝石商事件」の先生だった。

「それは、一体どのような物でんがな?

金額にしたら、相当の額でんな?」

と前のめりになって質問した。

「死んだ、父の遺言では、

インカ文明より前に、ここに存在した王国の皇帝が

インカ帝国に滅ぼされそうになった時、

全ての黄金を、隠したらしいのです。

父はそれを発見する為に、この地で死ぬまで研究し、

この地図だけ残して、夢叶わず、他界しました。」

と答えた。

次に、バハマでトローリングをした鹿児島の先生が

「それは気の毒な話でごわす。

ロマンに生きた男の一生、感動し申した。」

と続けた。

最後に、今回のツアーに相見積を出し、

バハマ経由のコースに変更させた、岩手の先生が、

「金額次第だども、それを買っても、よかっぺ?」

と言い始めた。

そこへチョビ髭院長は、が現れ、

「皆さん、いい加減な話に、騙されてはいけません。

この話は真っ赤な嘘じゃろ。

しかし、この娘さんは、生活に困っている様だ。

どうせなら、縁日の的屋の口上に騙されたと思って、

ナスカ土産に、この地図を買ったらどうでしょう?

どうせ何枚も持参しているはずじゃ。」

この発言で、ほとんど全員が百ドルづつ支払って、

地図を購入した。

チョビ髭院長は、買わなかったが、後でその理由を聞くと、

前回マチュピチュで、同じような地図を買ったらしい。

 

いよいよ、何機かに分乗して、セスナが飛び立ち、

地上図を空中から観る体験が始まった。

同じようなコースを飛び回るので、衝突しないか、

ハラハラしたが、操縦士たちは慣れていた。

最初はその規模に驚いたが、沢山の動物のような絵や、

幾何学模様の図ばかり観ていると、目が回るようだった。

これはテレビで見ている方が楽だと感じた。

フライト体験が済み、一同は十分に満足した。

バスで空港へ向かう途中、ガイドが特別に

北米まで続くパンアメリカンハイウェイを通り、

その横に広がる地上図の横でバスを停め、

間近で、見せてくれた。

地上図の線の深さは、10センチ位で意外に浅い。

砂漠地帯だが、ここの場所は、普通の砂ではない。

小石を砕いた様な、もっと硬くて重い砂に思えた。

気候的に雨がほとんど降らないのが幸いして、

この地上図は、手つかずで残されていたらしいが、

地上からは、その地上図は認識されず、

世間に知られるまで、何も無い、普通の場所だった。

その為、知るや知らずや判らないが、

幾つかの地上図の一部は、

ハイウェイからはみ出し、暴走した

不貞の輩のタイヤの跡で、傷ついていた。

それを見た団長は、

「何処の世界でも、馬鹿な事をする奴がいる。

取り返しの付かない事をした後に、

いつか後悔するだろう。」

と寂しげに語った。

 

翌日もまた「インカの遺跡ツアー」

インカ以前の文明も含めて、いくつかの遺跡を巡る。

何処も砂漠ばかり。いい加減に飽きた一行に、

ガイドが

「皆さん、退屈そうなので、「ミイラ掘り」でも、

やりますか?」

と提案した。

直ぐに、全員賛成したが、

「こんな服装で大丈夫?」

「スコップなど道具はどうする?」

などの質問があった。

「安心して下さい。このままで、大丈夫です。」

と言って、運転手に指示を与え、バスを進めた。

暫く行くと、

アルパカか?リャマの牧場らしき場所に着いた。

ガイドは慣れているらしく、

管理者らしき男に、チップを渡し、

入口ゲートを開けさせ、一同中へと進んだ。

けれどもそこに有るのは、

今まで散々見て来たのと同じ、

砂漠の様な場所だった。

ガイドは目印の様なものを見つけると、

近づいて行き、足で地面を蹴飛ばし始めた。

すると、段々と、ミイラが出て来た。

「皆さんこの辺は何処でもOKですから、

私と同様にしてください。」

との説明に応じて、全員が真似をした。

足で穿ると、簡単に現れるミイラ!

果てしなく、いくらでも出てくる。

「これは頭部だ、巻いた布が外れて、

髑髏が出ている。」・・・・など騒いでいた。

初めは物珍しく、夢中でやっていたが、

暫くすると、全員その作業を止めた。

その時団長が、

「諸君!やはりこれは死者に対する冒瀆だ。

直ぐにやめて、元に戻そう。」

と言った。

全員同じ思いを感じていたらしく、

元に戻す作業続け、完了すると、

その場で合掌して、立去る事にした。

案内したガイドも、バツが悪そうで、

「ペルーには、ミイラの埋葬方式が長く続き、

至る所に。このような場所があります。

一方、文化財保護の財源は少なく、

全てを管理する事は、難しいのが現状です。」

と説明した。

団長はそのガイドに、その苦悩と、

観光客に対するサービス精神を感謝し、

管理人らしき男に、多額のチップを渡し、

後で死者に、花束を捧げるように告げた。

 

ホテルへ戻った後、フロントロビーでは、

「ケイナ」の生演奏をしていたが、

外の展望ロビーでは、

夕焼けを見ながら、一人寂しそうに、

愛用のハモニカを吹く、団長の後ろ姿があった。

林が静かに近寄ると、

「林君、人間は愚かだが、

生きて行かねばならない。

それが人間の性(サガ)と言うもんじゃ。

煩悩に左右される様では、まだ修行が足りんな。

インドで苦労した君なら、少しは判るかね?」

と言われたので、

「先生、私にはまだまだ、良く分かりません。

未熟者で、食べていくのがやっとです。

夕食の時間ですので、会場へ行きましょう。」

と答えると、

「そうじゃろうな。わしも同感だ。

しかし「食」は大事なので、直ぐに行こう。

今日は肉体労働をしたので、腹ペコじゃ。」

と二人で夕食会場へ向かった。

 

 

翌日は、いよいよアルゼンチン。

空路でブエノスアイレスまで直行、

途中乱気流に巻き込まれたが、

何とかツアーの最終目的地に、無事到着した。

今年の歯科医師介の世界大会は、この地で開催される。

その為に、はるばる地球の裏側の日本から、

ニューオリンズの全米大会に出席し、

その後の1週間を、バハマ、ペルーで過ごして、

やっとこの地に辿り着いた。

林は今回のツアーを振り返り、

長期の添乗と、いろいろな出来事を括り抜け、

何とか、ここまで来れたのは、奇跡だったと、

少しだけ思ったが、ゆっくりしている暇は無い。

 

アルゼンチンの首都ブエノスアイレスは、

ラプラタ川の河口付近に位置する。

この大河は、南米ではアマゾン川と並び有名で、

河口部は、向こう側が見えない程広い。

もしかしたら、中国の大河、揚子江や黄河より、

広いかも知れない。

そんな事を考えながら、

到着後、ホテルのチェックインまで時間が有るので、

そのまま、市内観光に向かった。

 

中心部の五月広場の周辺では、

「カサ・ロサーダ」「メトロポリタン大聖堂」等を見学、

独立記念日に由来した名称の「7月9日通り」は、

なんと16車線あり、その幅は140mと世界一

の広さを有する。

日本とのスケールの違いを思い知らされ、

一同、つくづく感心した。

 

地元の人は、日本人が日本茶を飲む様に、

一日に数回「マテ茶」を飲む。

何か日本人と共通したものを感じる。

歴史的に日本人移民も多く、

その勤勉さで、ここでも信用され、

地元の名士になっている人もいる様子だ。

 

これは余談だが、

市内観光の途中で、面白い話を聞いた。

アルゼンチンも、首都のブエノスアイレスへ、

仕事を求めて、上京して来る人が、多いらしい。

地方から、正式に移住して来る人より、

勝手に、他人の土地に家を建て、住み付く、

不法滞在が、横行しているらしい。

その話も驚いたが、その建てた家が、

ほとんど1階のみで、2階は外周の壁の一部のみ、

「まだまだ建築中で、これからだ・・・」と、アピールしている様だ。

これらの不法移民者は、農場が広すぎるのを逆手にとって、

地主が、気付かない内に、侵入するらしい。

まるで、大農園に迫り来るインベーダーの様だ。

所有者がそれを発見し、立ち退きを要求しても、

一向に出て行かないばかりか、親戚も呼び込み、

段々と人数が増えるばかり。

仕方なく、裁判で争えば、

逆に、所有者の人間の度量が問われ、

「貧しい人に、冷たくする、非人間」と言われ、

裁判では絶対に勝てないらしい。

それほど広大な土地だということ事だろう。

 

翌日の世界大会は、盛大な式典だった。

ニューオリンズで世話になった、

南部訛のアメリカ人歯科医とも再会し、

全員大いに話が盛り上がった。

今回は終日通訳を雇っていたので、

英検2級の林も安心して過ごせた。

また今回で、世界大会に連続10回の、

出席を果たした、チョビ髭院長は、

壇上で事務局から表彰され、

鼻高々で満足そうだった。

無事に全ての公式行事を済ませた。

 

その夜の夕食は、団長の提案で

大人の魅力、アルゼンチンタンゴの発祥地、

「カミニート通り」で食事をして、

「タンゴ」を観賞することになった。

カラフルな色彩の建物が並ぶ通りには、

レンガ造りでステーキハウス風の、

「アサード料理」を出す店がある。

「アサード」とは、アルゼンチンの伝統的な料理で、

主に牛肉の塊を豪快に焼き、

家族で楽しむ「バーベキュー」の様な物だが、

肉そのものの味を楽しむ為、濃いソースは使わず、

シンプルに、塩かオリーブオイル系のたれを使う。

その味は絶品で、皆無言で食べ始めた。

飲み物はワインとビールが合う。

暫くすると、店のオーナーが出てきて、

来店の歓迎挨拶と、追加料理の説明をした。

「この店では一日に何頭分もの肉を焼く為、

あらゆる部位の料理も、用意しています。

例えば、牛の喉の部分の扁桃腺ですが、

他の店では、決して味わえません。

これが柔らかい割に、コリコリしていて旨いと、

評判です。それから・・・・」

と上手に説明するので、

言われるままに全部注文してしまい、

テーブルに乗らない程だった。

その後、満腹状態で、タンゴの観劇に出かけたが、

最初の数組の踊りを見ている内に、

全員が眠りに落ちた。

ガイドによると、踊りの上手い組の登場は、

最後の方で、深夜12時頃になると言うので、

皆を起こして、ホテルに帰る事にした。

その夜は、全員熟睡状態だったに違いない。

 

翌日は夕食まで、終日自由行動。

半分は、イグアスの滝への日帰りツアーに参加、

こちらは、団長がリーダーで、林が同行する。

また、既にイグアスを見たことがある残り半分は、

ラプラタ川河口の向かい側の国、「モンテビデオ」へ、

第2次大戦の末期、ドイツの潜水艦が寄港し、

ナチスの黄金を隠したとも噂される場所を、

見物行く日帰りツアーだ。

こちらには、当然、大阪の先生も参加した。

 

二班に分かれて出発、空路で到着した、

「イグアス」班は、担当ガイドから、

「イグアス」はブラジルとアルゼンチンの、

国境付近あり、その規模は、

北米の「ナイヤガラ」の数倍で、

或る米国の大統領夫人が、「イグアス」を見た時、

思わず「ナイヤガラ」がかわいそう。」

と言葉を漏らしたほどだ。

観光ルートは、下流のブラジル側から行くルートと、

上流のアルゼンチン側から行くルートの二つがある。

今回はアルゼンチン側から行く事になっている。

前回ブラジル大会でも、ブラジル側から、

ここ「イグアスの滝」を見ている団長は、

「物事には表と裏がある。

どちらが表か裏かは、判らないが、

両方から観ないと、その本質は判らない。」

と、また不可解な言葉を発しながら、

バスは、密林に囲まれた、細い川沿いの道を進む。

すると、いくつかの川がどんどん合流して来て、

段々幅広い大きな川になって行く。

やがて両側を大きな川に挟まれ、

海の上を進む錯覚に陥りそうだ。

やがて続く道の行き止まりに出る。

バスを降りて、その先へ進むと大地が無くなる。

正に「地の果て、「イグアス」だ。

感動しながら、手すりが有る場所から、

下を眺めると、

両側の大きな川の水が、全て流れ落ちて、

その濁流が、茶色の大きなカーテンの様だ。

その巻き込まれそうな、自然のパワーを感じながら、

暫く、言葉もなく、茫然と見とれていた。

参加者全員、アルゼンチン側からの景色を堪能した。

一方、真下のブラジル側では、

この壮大な濁流のカーテンを見上げ、観光客が、

その裏側を、徒歩で散策している様子が見える。

林の横で、チョビ髭院長は、

「物事は、表から見るのと、裏から見るのと、両方あるが、

上から見るのと、下から見るのも、有る様じゃ。

千差万別、方法はいろいろある、と言う事だな。」

と、一人呟いていた。

 

いよいよ、明日は帰国となる、観光最終日。

最後の日の観光は、「ガウチョ・ツアー」にした。

「ガウチョ」とは、牛や馬を追いかける人、

米国では「カウボーイ」と呼んでいるが、

アルゼンチンでは、「ガウチョ」と呼ぶ。

広大な牧場で、馬に乗り、牛などを柵に追い込む、

単純な作業に見えて、中々難しい。

このツアーでは、それを体験してもらう。

最初にガイドが、乗馬の模範をみせ、コツを伝授したが、

やってみると、中々上手く行かない。

 

大阪の先生は、足の長さが問題で、鞍に上手く届かず苦戦。

鹿児島の先生は、体重が重く、大きなお腹のせいで苦戦。

直ぐに乗れたのは、乗馬経験のある、岩手の先生だった。

初めの内は、順調だったが、馬を上手く止められず、

どこか遠くへ行ってしまった。

仕方が無いので、関係者数人で捜索に出かけた。

何度か乗馬経験(観光牧場程度だが)がある林も、

責任上、馬に乗り参加した。

何処を探したら良いのか判らず、

馬に任せて進んで行くと、

遠くに、馬と岩手の先生が見えた。

近づいて事情を聴くと、

「この馬は、私の言う事を聞かない。

止まれと言って、手綱を引いても止まらず。

とうとうここまで来てしまった。

ここは何処かも判らず、帰る方向も判らず困っていた。

探しに来てくれてありがとう。」と感謝された。

ただ馬に任せて、ブラブラしていただけだが、

馬のお蔭で、偶然発見することが出来た。

皆の処へ戻り、拍手されたので、林は

「「人間、万事塞翁が馬」ですよ。

何もしないで馬に任せていたら

たまたまこうなりました。」と答えた。

 

すると心配して待っていたチョビ髭院長が、

「林君、ご苦労じゃった。

「名馬は常にあれども、伯楽は常にあらず。」

良い馬はいくらでもいるけれど、

その能力を、見極められる人は少ない。

そういうことじゃ。」と言った。

 

良く分からないが、団長にしては珍しく、

添乗員としての林を、褒めてくれたらしい。

回りくどい表現なので、あくまで推測の域だが、

意地っ張りで、プライドが高く、

人を褒めたことが無い「チョビ髭院長」が、

密かに漏らした一言だった。

 

その後は平穏に時が過ぎ、

昼食には、定番の「アサード」を食べながら、

今回の旅を振り返り、楽しく歓談した。

夕方、ホテルに戻り、各人自由に、

ツアー最後の夜を過ごした。

 

翌日、

長かった今回のツアーも、無事に終了し、

ほぼまる一日かけて、地球の裏側の日本へと、

飛行機を乗り継ぎ帰国した。

帰国後、岩手の先生は、地元新聞で

「ニューオリンズの名誉市民」になった事を

大きな記事で紹介されたと連絡があった。

 

一方、アルゼンチンで活躍した(?)ことで、

以後、林のニックネームは「ガウチョ」となった。