後半 「札幌ラーメン物語」散策

 

「さて、後半は、ラーメン通を自称する、私、林が、またまたご案内します。

先程の「狸小路物語散策」の途中でも、いくつかの店を紹介しましたが、

それぞれのお店には、その店の歴史と、その主人の歴史が在ります。

そして、主人の人生物語を知ると、その味が、一層深まります。

 

私はラーメンが好きで、日常の仕事のルーティンの中では当然ながら、

出張先では、昼食・夕食で、必ずご当地の評判店や穴場の店などを巡り、

日本中のラーメン店を、食べ歩いてきました。

社会人になってからは、毎日の様に、また1日に2回食べる事もありますので、

通算、千杯以上は食べている計算になります。

 

私が生まれた昭和の時代は、日本が高度成長期の真っただ中で、

庶民の暮らしは、貧しいが、将来を夢見て、国民全体が、頑張って働いていました。

そんな庶民の、空腹を満たしてくれた、身近な食べ物が、ラーメンでした。

私の幼い頃の好物も、ラーメンでした。

今の様に、「回転すし」や「ファミレス」も無い時代でしたので、

家族で行く食事先の選択肢は、あまりありませんでしたが、

父の給料日に、家族で食べる「ラーメン」の味は、至福なものでした。

独特の模様がついた赤い丼、スープを全部飲み干した後の満足感、

いまでも、その味が、記憶に蘇ります。

そんな体験をしてきた性か、私にとって「ラーメン」は特別な存在です。

社会人になり、自分給料で好きなだけ食べる事が、可能になったので、

一層拍車がかかり、このような体形になってしまいました。

 

ここで一同が笑うと、前半静かだった、中根夫人が、

「やっと、ラーメンの話が始まりましたね。

社長の好みは、味噌ですか?醤油ですか?」

と質問した。

 

それに応えて林が、

「私は、基本的に醤油派ですが、札幌の人は味噌派ですよね。

そして函館の人は塩派となってますが、好みは個人次第です。

旭川の人は醤油派ですが、煮干しだしが効いたラード多め、

対照的に、釧路はあっさり醤油味です。」

 

さらに、中根夫人は、

「そうですね。道内だけでも、地域によって、定番の味は様々ですね。

全国では、九州は白濁した豚骨スープ、尾道は背油が効いたスープ、

沖縄ソバのスープなど、例を上げたらきりがない。

それに加えて、最近はつけ麺とか、汁なし油ソバとか、

ドンドン種類が増えていますね。」

 

林は、これにも応えて、

「そうなんです。ラーメンは進化し続ける食べ物なんです。

「ラーメン」とは不思議な食べ物で、嫌いな人は、ほとんどいないでしょう。

日本人は、麺類が好きで、昔から「蕎麦やうどん」を食べていましたが、

「ラーメン」を食べ始めた歴史は、実はまだ浅いのです。

ラーメンの起源については、いろいろ言われており、

東京浅草の「来々軒」、横浜中華街の「南京亭」など、諸説あります。

札幌の場合は北大正門前にあった「竹屋食堂」だと言われております。

残念ながら、現在は残っていませんが、記録によると、

大正9年、ロシアから樺太経由で、札幌へ逃れて来た中国人の「王文彩」が、

当時北大の中国人留学生の紹介で、「竹屋食堂」で働くことになり、

文彩の作る、丼ぶりの中に、透明なスープと縮れた麺を入れた料理を、

店のメニューに採用したことが、始まりとされてます。

塩味でラードの効いた汁、歯触りの良い麺、、志那竹、コショウの香りが、

今までの日本の麺類とは違い、これを店で出すことにしました。

その料理の名前を、日本語の出来ない王に、書かせてみると、

「粒麺」と書いたらしく、その読み方を、「ラーメン」と呼んだらしい。

大正12年、竹屋食堂の始まりで、これが「札幌ラーメン」の始まりです。

その後、次第に市内に中華料理店が広まり、ラーメンが普及し始めたのです。」

と札幌のラーメンの歴史を説明し始めると、

 

探検隊の小田が、

「ラーメンと名付けたのは、竹屋のおかみさんで、

中国語で「出来たよ」と言う時「ラー」、

麺が出来たので、「ラー、麺」とおかみさんが勘違いして、

「ラーメン」と呼び始めたとも、聞いたことがありますよ。」

と言ったので、

 

それに林が笑って応えて、

「確かに、その説もありますね。それと「拉つた麺」を使うので、

「拉」という文字を使い、「拉麺」(ラーメン)と呼ぶという説もあります。

 

林は続けて

「また先程の続きですが、

昭和の初め、札幌は「喫茶店」が多く、個性的な店が乱立していた。

その内の1つ、大正12年開業の珈琲喫茶「松島パーラー」(北5西13)で、

昭和4年に、大阪からやって来た「王万世」が、喫茶店のメニューに、

中華料理を入れ、出したラーメンが評判になり、

以後、他の喫茶店でも真似て、ラーメンを出すようになった。

喫茶店メニューに、ラーメンが有るのが当たり前という、

札幌特有の文化となった。」

 

ここで伊達が

「喫茶店でメニューにラーメンが有ったのは、札幌だけかも知れない。

子供の頃は、内も家族で、喫茶店ラーメンを食べた記憶があります。」

 

頷いて、林は続ける

「「王」はその後独立して、昭和5年に「万福堂」(狸小路6)を開業し、

ラーメンを出す、中華料理店として評判を得た。

また麺を打つことが得意な「王」は、自分の店で使う分の他、

市内の喫茶店や食堂にも麺を卸していた。

特に駅前にあった繁盛店「ときわ食堂」では、乗降客や国鉄職員の出前で、

1日2百食以上の注文があり、その麺を「王」から仕入ていた。

このように当時は、ラーメンの麺は、中国料理人の自家製に頼っていたが、

麺の専門業者も現れ、どこの喫茶店でも仕入れる事が可能になり、

ラーメンはドンドン普及して行った。

そんな中、昭和5年、大八車に屋台を積んで、チャルメラを吹きながら、

街中や住宅街を練りまわった「屋台ラーメン」が出現した。

その影響で、札幌は何処でも手軽にラーメンが食べれる街となった。」

と説明した。

 

ここで斉藤が

「そうか、当時の麺は、全て手打ちだったのか、大変な時代でしたね。

段々需要が高まる中、その後、何時機械化されたのですか?」

 

それに応えて林が、

「そうなんですが、そうなる前に、時代は戦争へ突入して、

食料難となってしまいました。そして話は長くなりますが、

 

戦後、昭和21年の暮れ、南2東1の創生川沿いの「兼正旅館」前に

1軒の「屋台ラーメン」が、出現した。

食べ物を探し求めていた人々は、この屋台に飛びついた。

この店は天津から引き揚げて来た「松田勘七」が自家製麺で、

日本人好みの醤油味で提供したところ、

開店と同時に売切れるほどの人気店となった。

 

昭和22年、「西山仙治」が狸小路2丁目の「金市館」前に、

「だるま軒」と表示した屋台のラーメン店を開いた。

続いて、昭和24年夏、2条市場で、屋台ではなく、正式な店を開業した。

西山は戦前から東京で、中華料理の修行をし、製麺技術には自信があったので、

付近のラーメン屋台にも麺を卸して、発展して行った。

西山の製麺技術を評価した、前出の「松田勘七」は、自分で麺を作ることを止め、

西山から仕入、美味いラーメンを売ることに専念した。

 

昭和23年、南3条から5条までの西2丁目通りの両側、約2百メートルに渡り、

屋台を出す許可が下り、札幌劇場前には、しっかりした屋台が並んでいた。

その内の1軒が「大宮守人」の屋台で、「つぶ貝」や「うどん」を出していた。

翌年、その横に屋台を出したのが、前出の「松田勘七」で、

その繁盛ぶりに驚かせれた大宮は、松田の勧めもあって、

松田の屋台で、ラーメン作りの修行をした。

 

昭和25年4月、大宮は成田山新栄寺の北側にラーメン店を開業した。

食材に「もやし」を導入、火力を木炭から石炭へと、改善した。

店が流行り出してきたので、翌年、向かい側の南7条西4稲荷神社横に

移転、ここで「味噌ラーメン」に開発を始めた「味の三平」の始まりだ。

 

一方、昭和26年「札劇前」が路上整備に迫られた「松田勘七」は、

「東宝公楽」(南5西3)横の建物で、岡田銀八が「来々軒」が開業して

人気が有った事に目をつけ、そこで「龍鳳」を開業した。

その後、続々とラーメン屋が集まり、「公楽ラーメン名店街」となった。

ここはオリンピックの道路拡張工事で取り壊される、昭和44年まで、

7軒のラーメン屋が並び、深夜は元より、朝まで営業し、有名になった。

 

製麺部門では、前出の「だるま軒」の「西山」が、親類の「孝之」を札幌に呼び、

機械化した製麺工場を始め、市内だけではなく、室蘭・恵庭・千歳・長沼等の、

近隣の市町村まで卸していき、「西山製麵」となった。

また自身の「だるま軒」も昭和24年に2条市場へ移転した。

とこうなるまで、時間がかかりました。」

 

今度は、社員の中根が、

「戦後の復活で、やっと本格的な製麺工場が出来、

それが今でも有名な「西山製麺」だったことが分かりました。

それに、やっと知ってる名前の店名が出て来て、現在の札幌ラーメンの

老舗の歴史と人間関係が、理解で出来ました。」

と言ったので、

 

林が続けて、

「これからが、いよいよ味噌ラーメンの歴史です。

先程も、少し説明しましたが、

昭和30年の秋頃、前出の「味の三平」の大宮の店で、

味噌汁に飢えた「札チョン族」や」二日酔い」の常連客からの要望で、

大宮は「豚汁」を提供したところ大好評

その中の一人から、「この中に麺を入れてくれ」と言われ、

入れると美味しそうに食べ、

翌日も、「昨日と同じ「豚汁ラーメン」を・・・」と注文された。

大宮は「これだ!」と思い、

ラーメンに適した「味噌」を探し、客前で容易に溶ける味噌の硬さや、

味噌味に合う様、「叉焼」の替わりに「挽肉」を使う等、慎重に研究した。

昭和38年の暮れ、発想から7年、ついに「味噌ラーメン」を完成させ、発売した。

 

また、大宮の同窓で、旭川でラーメン店をやった経験のある「大熊勝信」が、

昭和37年5月、大宮の支援もあって、大通り6丁目に「熊さん」を開店、

ここでも、翌年からメニューに「味噌ラーメン」をのせた。

その後この店が、全国のデパートで、実演販売を展開し、

「札幌味噌ラーメン」は、発売3年で瞬く間に、全国区となった。

 

そんなブームに便乗して、青池保が、東京・両国で、

昭和42年、札幌ラーメン「どさん子」を開店、

予想外の人気から、フランチャイズ形式の企業化「北国商事」をして、

昭和45年には、300店と増やしていった。

しかし、青池は本場の味を知らないまま作り上げた事は、

余り知られていません。」

と、一気に説明した。

そして、「札幌ラーメン歴史資料」を配布した。

 

すると小田が、

「三平の大宮さんの7年に渡る研究にも驚きですが、

あの全国的味噌ラーメンのチェーン店の「どさん子」の創業者が、

本場の札幌へ来ないで、あの味を開発したとは、びっくりですね。」

 

現在では札幌市内に、現在3000軒あると言われる「ラーメン店」、

中でも、すすきの「ラーメン横丁」「新ラーメン横丁」は有名だ。