第3章 よく有る海外添乗業務の一例

 

その後、林は忙しい毎日が続き、あっという間に、一年が過ぎた。

相変わらず出張の振替休日も取れず。添乗に明け暮れていた。

そんなある朝、支店に出社すると、支店長から呼び出しが有った。

前回説明したように、

1階は店舗で一般来客者に対応するカウンター業務と

その裏に国内手配担当者がいる

2階は支店長席と経理業務、海外手配業務、渡航手配業務の内勤者

3階は営業マンばかりで、3チームの島がある

普通朝礼は2階で行うが、何か特別な事があると、

朝礼前に呼び出しがあり

支店長の目の前のいつも空席のデスクに座らせて、

特別な内示がある。

ここに座った人間で、翌日から縁もゆかりもない地方の支店へ、

急遽転勤させられた人も多いと聞いている。

伝説の「トランジット・デスク」だ。

呼び出された林はそのデスクに座らされ、

何を言われるのか緊張していた。

思いつくいくつかのことは有るが・・

あえて支店長から注意させることでもない些細な事と思うが・・・

 

「FM東京」の団体名を宿の女将が間違えて「SM東京」として、

大きな歓迎看板を作り、おまけに気を利かせて、

宴会場の舞台に拘束器具や鞭や鎖を多数用意していたので、

局長が怒りまくっていた件か?

 

「遺族会」の沖縄添乗で、嵐の夜ホテルが停電したので、

足の弱いおばあちゃん方を、負ぶって部屋まで何度も往復したら、

そのうちの一人に気に入られ、自分の孫とお見合をするように迫られ、

断り続けている件か?

 

先日のバス十台の大型団体で、沼津の干物屋に立ち寄った際、

店の店主から沢山売れたんでと、干物の他にかなりのコミッションを

貰ったので、帰着して支店長に渡したら、上機嫌だったのに・・・

まさか急に転勤命令か?何処へ飛ばされるのか?と色々考えていたが

支店長から質問がきた

「君は海外添乗には何回いった?」

「東南アジアは香港、台湾、フィリピン、南はグァム、サイパン、

ハワイぐらいですが・・」

「ヨーロッパはどうだ?」

「まだ行った事はありません。初めてです。」

「英語は少しは話せるな?」

「英検2級程度ですが」

「よし、それならベテランだ。明日から欧州添乗だ」

「上野支店の仕事だが、急に欠員が出た。代わりに君が行け。」

「これから直ぐに上野支店の担当者と打合せして、明日出発だ。」

支店長の話はこれか、心配して損をした。

しかし、冷静に考えれば大変な仕事を押し付けられ

いっそ転勤を命じられた方が本人には良かったかの知れないのに

安心して林は朝礼も出ずに、支店長命令で上野支店へ向かった。

 

朝礼後にそれを知った民間Aチームの打合せで、

リーダーの片柳が説明した。

「昨日、上野支店から助勤要請があったそうだ」

「内は忙しいので、人は出せない。」と言ったら、支店長は

「他のチームも忙しくて人は出せないそうだ。」

「是非ともAチームから何とかしてくれ」

との頼みだったので、明日、林が出社するので本人が良ければ、

たまたまその日程なら振替休日予定なので大丈夫と言った。」

「おまけに、うちは国内がメインだから、ヨーロッパは得意ではない。」

「それに、英語を上手く話せる人間はいないと言ったのだが。」

佐藤は

「あいつは英語を話せるのか?少し見直したな。」

「今度は俺のも行ってもらおう。」

榎本は

「話せると言っても英検2級程度、この間歌舞伎町で外人に道を聞かれ、

説明しても通じなかったようで、結局、一緒に歩いて連れて行きましたよ。

あいつらしいけどね」

 

【事前打ち合わせ】

そんな3人の会話も知らず、やっと上野支店に着いた林は

今回の欧州ツアーの担当、石川副支店長に会って説明を聞いていた。

「いや~林君、突然で悪いね、おまけに休みまで返上してもらって。」

「助かるよ、君は英語が堪能だというので、実に心強い。」

いや~それはと反論しようとしたが、相手は容易に隙を与えない。

「この募集ツアーは「たっぷりヨーロッパ」といって、

今年うちの支店の大好評企画だ。毎回の募集は評判が高く、

直ぐに埋まってしまうのだ。」

「10日間で5か国を巡る、ホテルは一流、食事も一流、

だから添乗員も一流でなくてはいけない。」

「今回の添乗員は本社海外事業部の「芝生(しぼう)」さんを

予定していたのだが、急遽身内に不幸が有り行けなくなった」

「きみも承知の通り、添乗員と芸人は親の死に目に会えない

覚悟で仕事をしている。」

「ツアーが出発してしまっていたら、しょうがないから、

我慢しろと諭すしかないが、運悪く出発前だったので、

今回は諦めて違う人間を探したが、

旅行シーズンでどの支店も人がいない。」

「そこで新宿の支店長には、貸があったので、頼んだら、

直ぐに引き受けてくれた。」

「この業界、信用第一、

「口先だけの人間は信用できない。万事その行動で判断せよ。」だ

「仕事の貸し借り」は死んでも守る。それがこの業界の掟だ。」

「仁義を欠いちゃ、生きてはいけない!ということだよ、ハハハ」

と分ったような、分からない事を言って説明がはじまった。

今回のツアーはイギリスとフランスの2か国をゆっくりと回る、

歴史や文化、通貨が違う、言葉も違う。

こういうツアーを無事にこなすのが、一流の添乗員だ。

確かに、予定していた添乗員の芝生は、センスのいい

オシャレな高級スーツを身に纏、ダンディな風貌だ。

唯一の難点は歩き方がなよなよとしていること。

社内では実は「オカマ」だと見なされていることだが、

英語の他フランス語も使える人材として、

社内でも特殊な地位を占めていた。

そんな人の代わりを自分が務まるのだろうか?

だんだん自信がなくなっていく林であった。

 

【出発当日】

そして、とうとう出発の日がきた。

成田空港で集合時に、見送りに来た上野支店の副支店長は、

「皆さん、今日は時間通りのご集合ありがとうございます。

突然ではありますが、今回皆様とご一緒する添乗員の林です。

予定しておりました芝生(しぼう)では、名前の嫌が悪いと

いうことで変更になりました。」

と簡単な説明で済ませた。

 

今回のツアー参加者は30人、一般募集とあって年代も客層もバラバラだ。

初めての海外両行で、このツアーに期待をしている参加者も多い。

林はまずは、皆に挨拶をして、荷物預けと搭乗手続きを無事に終えた。

新宿支店扱いの航空券は、チェックイン時に、いつもトラブルが起きる。

予約が全てOKになってない場合も、たまにある。その方が多いかも?

それをクリアーにするのが新宿添乗員の最大の仕事だ。

客がここにいるのだから何とかしろと、無理強いな要求をし、

カウンターで交渉、ダメなら、暴れて他社の搭乗券を横取りする。

常識では考えられない無謀な行為をする支店と評判で、

航空会社間では、要注意と恐れられているらしい。

コンピューターが発達した現在では考えられないことだが、

電話とFAXのみでやり取りした予約管理には様々な盲点もあった。

今回の上野支店の場合はきっちりと全てOKだ。

いつもと違い、あっけない程、スムーズに完了した。

さすがに上野支店と変な所に感心し、これなら今回のツアーは楽勝だ。

と荷物タグをつけながら、安心し、少し気を緩めて出発する林であった。

 

*余談だが旅行業界では、

予約が無いにも関わらず、客が現れることを「おばけがでた!」

予約が不完全でも、行かせてしまうのが「GO SHOW」

反対に予約が有るのに客が現れない事を「NO SHOW」という。

「NO SHOW」は締め切り時間まで待って、

予約をキャンセルすれば良いのだが、

「GO SHOW 」は大変だ。空席があれば何とかやりくりして

予約をいれるのだが、満席に場合はそうは行かない。

目の前の客を待たせながら、大変な作業が発生する。

また、機内に持ち込む手荷物以外に、大きなスーツケースなど預け荷物には、

行先を示すタグが付けられる。それに表示されているローマ字3文字は、

スリーレターコードと言い、これで世界中のすべての空港名を意味する。

しかも万国共通だ。

しかし、都市名のスリーレターコードもあるので勘違いしやすい。

例えば

東京の都市名は「TYO」、空港は、成田空港は「NRT」、羽田空港は「HND」

*ここでサービスに「3レターコード一覧表」をつける

 

無事に空路で欧州へ向かう。

当時の最短空路は北回りアンカレッジ経由だった。

その以前の南回り空路に比べて、寄港地も減り、格段に短時間になり、

客の体力的負担も減った。

機内では2回の食事と、映画を観ながらの睡眠、と快適な旅が始まった。

それに時差は、欧州とは8時間(夏時間は除く)なので、わりと樂だ。

反対方向の米国旅行は、日付変更線を超えていくので、時差も大きく

現地についてからの、時差ボケで体の負担も大きい。

 

【ロンドン】

到着前には出入国カードと税関の申告書の書き方と

署名の記入方法を機内で手伝い、

やっと初めの訪問国イギリスでに到着、入国審査を受け、

預け荷物がターンテーブルから出てくるのを待つ。

ここで全員の荷物が出てこないと面倒なことになる。

出てこない場合は、利用した航空会社に「ロストバゲージ」の

申請手続きをしなければならない。

これは時間がかかり、スケジュールの詰まった日本の団体旅行には

致命的である。

まさかと思ったが、いやな予感が的中した。

一人の分を除いて。預け荷物は既に出てきた。

各人自分のスーツケースの前で手持ち無沙汰そうに待っている。

ポツンと一人でターンテーブルの前で立っている

一人参加の中年のおじさん松岡が

「添乗員さん、僕の荷物がまだ出てこないんだけど‥」と聞いてきた。

「やはりこの人か」と林は心の中で呟いた。

長年添乗員をやっていると、経験上ある種の予感が働く。

募集旅行の参加者には何か事件を起こしそうな人がたまにいる。

「ここまで待って出てこないのでは、これはロストですね。」

「預け荷物の半券を貸して下さい。手続きをしてきますので、

ちょっと待っていてください。」

他の参加者にも事情を説明し、航空会社の係員の処に手続申請に行く。

添乗員が2人いれば1人に、または現地係員が居れば

任せて次に移れるのだが、仕方がない、

さっさと済ませて移動しなければ、本日のスケジュールが遅れる。

 

預け荷物の半券を見せて、この荷物がまだ出てこないと係員に伝えると、

「後で見つかったら、泊っているホテルへ届けるので、ホテル名を教えろ」

と言うので、一応スケジュール表を渡し、見つかったら、

泊まっているホテルへ届ける様に手続きをした。

しかし、今までの経験から、その日に届いた試しは無い。

航空会社の係員は

「我々は、ベストを尽くして、必ず見つける。安心しろ。」

と言うので、一応了承して、皆のもとに戻った。

 

*余談だが

預け荷物が出てこない場合、間違って違う便に乗せた可能性が高い。

なので今日中に届く可能性は少ない、結構時間が掛かるのだ。

また見つかったとしても、既に次の都市へ移動している場合もある。

最終的には出発地の成田に戻し、自宅まで返送してもらうのが確実だ。

 

すると旅行中自分の荷物が無く、手ぶらで過ごすことになる。

その為、滞在中の1泊分の最低限の必需品、購入するお涙程度の

補償金が支払われるが、とても十分とは言えない。

 

「荷物は見つかり次第、ホテルに届くそうです。

詳しい説明は後でしましょう。」と松岡に伝え、

何とか一連の手続きえお終え、入国ゲートを抜けると、

契約先の現地の手配会社から派遣された観光ガイドが、

団体名のプラカードを掲げて、待機しているはずであった。

しかし、観光がガイドではなく、

帽子をかぶった運転手風の人物が待っていた。

団体名を確認し、とにかく待ちくたびれた参加者たちを

荷物とともにバスへ連れていった。

その途中、その運転手らしき男は、確かに今回のツアーの運転手で、

「このツアーにはガイドは元々付いていない。」

「そのように手配されている」と、たどたどしい英語で説明した。

おまけにどうも地元のイギリス人ではなく、

やっと帰化した「インド人」であることも判明した。

林も必死で、英検2級の英語で、質問を繰り返し、

おおよその見当は着いた。

元々予定していた添乗員は、本社海外営業部の芝生さんで、

彼は英語もフランス語も堪能で、ヨーロッパ添乗が専門で、

全ての観光地は自分の庭の様に熟知していて、

ガイドは必要なかったのだ。

だから今回のツアーには、日本語が出来るガイドはいない事が分かった。

「どおりで、うちの支店長も、上野の副支店長も

僕の英語力についての質問が多かったが、

そういう事か、またしても騙された。」

人を信じてはいけない!と気づくも時すでに遅し。

こうなったら、開き直って、このインド人運転手をこき使ってでも、

何とか無事に、ロンドン観光案内をして見せるしかない。

そうしないと参加者の手前、かっこが付かないと覚悟を決めた。

 

そうして、いよいよ英国ロンドンの市内観光が始まった。

覚悟を決めた林は、インド人の運転手に破格のチップを渡し、

通常では考えられないスピードで、出遅れもカバーして

大英博物館、ロンドン塔、バッキンガム宮殿、タワーブリッジ他

予定した観光地を早回りで巡り無事市内観光を終えた。

もちろん観光ガイドがいないので、

ガイドブックを見ながら林が説明をし、

記念写真を撮る時は、インド人運転手が愛想よく

小まめにシャッターを押してくれる程度が限度だったが、

参加者はそれなりに満足しているようであった。

夕食が終わると市内のホテルにようやくチェックイン、

明日の出発は早いので参加者に朝食場所の確認と、荷物出し、

出発時間の確認を行い、ゆっくり休む様に確認。

荷物運びのポーターのチップも奮発しただけでなく、

自分が一緒に各部屋に運び込んだので、

思いのほか早く参加者は各人の部屋に入り休むことができた。

ほっとしてロビーの椅子に腰かけ、一服していると。

荷物が届かない松岡氏に声をかけられた。

 

「添乗員さん、僕の荷物はまだ届かないのですか?」

「着替えもないので、今晩はどうしたらいいのでしょう?」

そうだ、この人がいた。あまりの忙しさに、

この人のことを忘れていた。

「松岡さん、遅くなってすいません。

大丈夫ですよ、安心してください。」

「まだ荷物は届いてないようですが、

部屋にはパジャマの他ガウンも用意してもらいましたし、

洗面道具等は揃ってますので、

とりあえずゆっくりお休みください。」

「着替えはもう1日様子を見て、

それでも届かなかったら、パリのブティクで、

流行の物でも買われたら如何でしょうか?

免税店でも割引してくれますよ。」

と、慰めるように、優しい言葉をかけるしかない林であった。

「休めと言われても、一人参加で一人部屋だから、

やることもない。」

「それに、僕は初めての海外旅行で、

興奮して、このままでは眠れそうもない

部屋で出国時に免税店で安く買った酒でも飲むとするか。」

と言って部屋へ向かった。

「何かあったら、私の部屋番号へ電話してください。」と伝えて、

それがどんな電話になるかも知らないで、林も自分の部屋に入った。

今日は疲れた。本当に疲れた!こんな事になるなら、

この添乗は絶対に断るべきだった。

本当は今頃、久しぶりの振休で、伊豆の温泉にでも浸かって、

美味しい料理でも食べていたことだろうに、

なんで異国のロンドンで、こんな目にあってなきゃならないのだろう。

今度こそ組合に、転勤希望を出してやる。と独り言を言って、

免税店で買ったウイスキーを煽って、ベッドに潜り込んだ林であった。

 

眠り初めたのもつかの間、深夜に林のベッドサイドの電話が鳴った。

「添乗員さん助けて!殺される!」と告げ、電話が切れた。

たしかこの声は、松岡さんだ、

あの電話では、何があったのか分からず、至急を要する事だと思い

10階の松岡さんの部屋を目指して向かった。

エレベーターを降りると、そこは水浸し、

フロアー全体の絨毯もびしょびしょ状態

突き当りの目的の部屋からお湯が流れ出た跡あった。

部屋のドアーは壊され、体格の良い制服姿の男と、

松岡氏が揉みになっている。

傍に駆け寄り、二人の話を聞くと、まず松岡氏は

「酒を飲んで酔っ払って、いつの間にか寝込んでしまった。

すると急にこの男が部屋に入ってきて、大声で騒ぎ、

胴巻きからパスポートを取ろうとするので

揉み合いになり、隙を狙ってあんたに電話した。」と説明した。

制服姿の男は

「自分はこのホテルのナイトマネージャーだ。

この部屋に真下の部屋から、水漏れがあるので調べてくれ、

とのクレームが有った。だから確かめに来てみると、

この部屋の中から、お湯が漏れて流れ出ている。

これは大変だと思い、この部屋を何度ノックしても返事がない。

中の宿泊者が気を失って倒れている恐れがあるので、

急を要する事態と判断し、入り口のドアをけ破り、

この部屋に入ると、この人が倒れていた。

大丈夫かと抱き起し、生死を判断する為、頬をたたくと、急に暴れだした。

言葉が通じないので、身分を確かめようと、パスポート見せろというと、

どこかに電話をしていた。それがあなただったのは今判明した。」

と長い説明が有った。

早口の英語で語られたが、林なりに、神経を集中させ、大体は理解した。

それを松岡氏に伝えると、やっと事態を理解したが、大いに動揺していた。

原因は松岡氏の不注意で、風呂に入ろうとして、お湯の蛇口を開けたまま、

酔っぱらって寝込んでしまったことだったので、やっとそれを自覚して、

これからどう対処したら良いのか見当もつかず、濡れたパジャマ姿で、

ガタガタ震えていた。

通常の海外旅行の説明会では、旅行傷害保険に加入する案内を必ずする。

その例として、お湯を出しっ放しにすると、海外では溢れた水を

排水する仕組みがないので、お湯はバスタブ内のみでご使用ください。

そのまま出しっ放しにすると、とんでもない賠償金額になりますよ。

その場合でも、この旅行傷害保険に入っていれば安心、すべて補償されます。

と、冗談のような例として使われるケースだが・・・

まさか、目の前でこのケースの事件が発生するとは、思いもよらなかった。

翌朝、ホテルのナイトマネージャーからの請求金額は、

百万円を超える請求となった。

夜中の事件でほとんど寝ていない林は、

ホテルの請求金額をみて驚いたが、納得もした。

寝不足でぼんやりとした頭を振り絞り、

同様に寝不足でホテルの事務所の椅子にすわっている松岡に質問した。

「松岡さん、旅行傷害保険入ってますよね?」と聞くと

「そんなもんには入って無いよ。」と答えたので、びっくりして再度問い詰める

「あのトラベラーズチェックと一緒に申し込んだ、小さい手帳のような物ですよ。」

「あれが無いと大変なことになりますよ。現金で払えないでしょう。」

「もう一度、聞きます。保険の証書は何処にありますか?」

すると、やっと思い出したように、パスポートの入った胴巻きから取り出した。

「ああ、これですよ。有ってよかった。」思わず、手を取り合う2人であった。

早々に、保険会社のロンドン支店に電話を入れ、

事態を説明して、後処理を任せた。

気が付くと、もう出発時間が迫っている。

 

外に出ると、早朝の為、まだ薄暗いのだが、

すでに昨日のインド人運転手が、ホテル前にバスを止め、

今日も元気に待機していた。

「グッドモーニング、ミスター林」と、

朝もやの立ち込める中、明るい挨拶をくれた。

グッドモーニングではなく、実は最悪の朝、

バッドモーニングなのだが、妙に嬉しく感じられた。

その時、薄日が差して来た、

さあ、今日も忙しい1日が始まる。

気合を入れなおして、出発の準備に取り掛かった。

2日日は、トラファルガー広場、ウエストミンスター寺院、セントポール大聖堂、他

を周り、無事にロンドン観光は終了した。

夜には、地下鉄を利用して、希望者のみでパブ巡りをすることになった。

ロンドンのパブは、町中何処にでもあり、それぞれ個性的で魅力的だ。

つまみも豊富で、価格も手ごろ、エールビールが実に美味い。

中でも、ベイカーストリートにある「シャーロックホームズ」は、

日本人にもなじみ深い、あの名探偵の名前がついたパブだ。

1階は普通だが、2階にホームズの博物館がある。

小説の中に出てくる、ホームズが使用したと思わせる、

数々の品が、一同に展示されている。

昨晩の事件も忘れて、松岡氏もご満悦で、ビールのお代わりをしていた。

 

【パリ】

 

旅路は続き、2か国目のフランスに入った。

今度のガイドは、日本人留学生で芸術家崩れ、少し上から目線の説明が、

鼻につくが、そんな贅沢は言ってはいられない。

日本語ガイドがいるだけで満足するしかない。

パリ観光では、ノートルダム寺院、エッフェル塔、凱旋門、

シャンゼリゼ通り、ルーブル美術館など、有名どころを回った。

要注意人物の松岡氏も、観光途中、注意したにも関わらず、

カメラのフィルムを騙されて高く売りつけられた以外は、

新しい洋服も購入し、満足げだった。

 

松岡氏以外に気掛かりなのは、参加者のOL2人組だ。

丸の内の同じ会社に勤めているらしいが、

ヨーロッパ旅行は初めてのみたいだ。

多少の英語も出来るらしく、イギリスでの林の英語力に

疑問を持っている様子だ。

パリでは日本人ガイドに積極的に質問を投げかけていた。

ガイドも若い女性にパリを自慢できることが嬉しそうだった。

 

昼食の時もワインを飲みながら、話題が盛り上がり、

料理の「エスカルゴ」が出てきたときは、

「かわいいカタツムリさんを食べてしまうなんてかわいそう。」

と言いながら、美味しそうに、お代わりまでして、食べていた。

それを遠くの席で見ていた孤独の松岡氏は、

「何がかわいそうだ。僕は絶対カタツムリなど食べない。」

「添乗員さん、あの二人の務めている会社は、

うちの会社と同じビルみたいだ。」

「僕はモーレツ社員時代から、会社に貢献して、

その功績が認められ、その報奨として、

今回の旅費も会社持ちで、旅行に来ている。」

「しかし、ああいう若いOLとは話が合わない。

君はよく話しができるな。」

とワインをお代わりしながら、林に言った。

「松岡さん余り飲みすぎないでくださいよ。先日の事があるので。」

まずは一言注意を与えてから、

「仕事ですからね。」と答えた。

食後に、その2人から夜のオプショナルツアーの件で質問があった。

パリの夜と言えば、

食事付きで「リド」や「ムーランルージュ」の観劇がある。

今回どうなっているのか、日本人ガイドに確認すると、

「今晩は両方共満席で、セカンドも一杯です。」

「お宅の会社から、うちのパリ支店へ申込が有った際、

全て満席だと伝えてあるはずです。」

そんなことも確認していないのかと言いたげに、

また上から目線で冷たく言い放った。

 

*通常のパリの観劇オプションは

食事付きで観劇をするファーストステージのオプショナルツアーと

食事なし(1ドリンク付き)でセカンドステージを見るツアーの2種類がある。

当然食事付きの方が高額となるが、帰り時間が早いので、人気がある。

セカンドは金額は手軽だが、終わる時間が遅いので、やや人気が劣る。

 

OL2人組からは、旅行を申し込む際に、オプションも申込をしており、

「2会場のどちらかは取れるでしょう、だめならセカンドショーも有るので、

大丈夫ですよ。最終的にはどちらになるか、現地で聞いてください。」と、

上野支店の担当者からの回答を貰っていると言い張る。

「その為に今回ドレスも持参して楽しみにしているので、何とかしてください。」

とさらに詰め寄られた。

添乗員の林は、日本語ガイドに、再度、どうにかならないのか?

と頼み込んでみたが、

「私は、芸術家で昼間にバイト契約でガイドをしているだけですから、

皆さんをホテルまでご案内したら、仕事は終了です。」

「パリでは個人時間を大切にするので、仕事とプライベートは

はっきり分けております。」

とまたしても、冷たい返事だった。

 

ロンドンに続き、またしてもパリでも難問が出現した。

こうなってはパリの支店関係、ランド会社も役に立たない。

そんな時ある人物の顔が浮かんだ。

半年前に、新宿支店に営業に来た人物で、名前は山田と言う。

「パリで免税店の支配人をやっているので、

パリに来たら是非うちの店に来てください。

その他、パリの事なら何でも任せてください。」

と言ったので、

たまたま事務所にいた佐藤主任が、飛んで火にいる夏の虫と、

夕食に誘って、歌舞伎町へ連れ出し、いつもの様に、

飲み屋をはしごして回り、朝まで付き合わされた男だ。

支払いも全て押し付けられ、ホウホウの体で逃げて行った記憶がある。

その時、当然林も朝まで一緒だったので、気の毒な事をさせたと同情した。

この業界は「貸し借り」を大事にする。仁義を欠くことは、御法度だ。

今回パリへ来たので、半年前の「借り」を返すつもりで、

早々観光途中に、ショッピングで立ち寄りをし、

松岡氏を始め、参加者達に衣服や土産の購入を勧めたので

かなりの売上になったはずで、

これで「借り」を返すことが出来、ホットしたところだったが、

ここはまた山田の力を「借りる」ことに勝手に決めた。

そこで電話は入れて今回の件を説明し、相談をした。

「林さん、うちも長くパリで商売しているけど、

最近「リドやムーラン」は、人気が有って中々席が取れないんですよ。」

「あのJTBさんでも苦労しているみたいですよ。」

「他の劇場じゃだめですか?うちの大型バスで送迎しますよ。」

との答えだった。

「山田さん、他の劇場とは、どんなところですか?」と林が問うと、

「日本では、有名じゃないけど、「シャンソン」のライブとかはどうでしょう?」

「結構、地元では人気が有りますよ。」

「今夜出演の歌手は、私もファンで、劇場の支配人に席が取れるか、

聞いてみますよ?」

「しかし、単にそこへ行って帰るだけじゃ面白くないし、

時間も持て余すので、行きに「バトー・ムーシュ」をやって

から行けば、丁度時間的にもぴったりだ。」

と提案され、良く判らないが、山田を信用し、

早速手配をお願いした。

市内観光が終わりホテルにチェックインする際に、

参加者に夜のオプションを紹介した。

特にあのOL2人組に向けて、

「実は、今晩皆様だけに、特別のオプショナルツアーを紹介します。

他社では実施していない「バトー・ムーシュとシャンソンの夕べ」です。

このツアーに参加できた人は少なく、帰国後に自慢話できる経験です。

それはそうだ、嘘ではない。今回初めて実施するツアーなのだから・・・

説明後、2人組のOLばかりではなく全員が参加することになった。

 

夜になり、いよいよオプションの出発となった。

まず体験するのは、「バトー・ムーシュ」、これは、

セーヌ川を下る観光船のことである。

要するに、今夜のツアーは、

セーヌ川の川下りをしてシャンソンを観ることだ。

あのOL2人組も、ドレス姿で参加し、

夕暮れのセーヌ川を背景に記念写真を撮り、

川風に吹かれて、気持ち良さそうだった。

次のシャンソンのライブでは、

日本で聞くシャンソンとは大分違っていたが

日本から来たドレス姿の若い女性が現れることなど

滅多にない事だったので、満場の拍手で迎えられ、

会場も盛り上がり、フランス語で意味は判らなかったが、

二人とも大いに満足した様だった。

帰路のバスは、

パリ土産の買い忘れの無いようにとの理由で

また山田の免税店に立ち寄り、再度のショッピングとなったが、

今回世話になった「借り」があったので、林も黙認した。

とにかく、今回の問題も解決したのだ。

まあ良しとしよう。

ここで余談だが

 

*海外の市内観光の途中に立ち寄る免税店(土産屋)には掟がある。

会社指定で必ず立ち寄りしなければならない契約店は外せない。

特に最初に行く店は「ファースト」と呼び、2番目の店は「セカンド」と呼ぶ

それ以外で「有名部ブランド店」行きたければ、フリータイム中に、

地下鉄などを利用して、個人的に行くしかない。

 

*パリの地下鉄

 

ロンドンに比べると、路線は明解だ。

しかし、乗車する時、少しコツが必要だ。

電車がホームに到着しても、全ての乗降扉が開くことはない。

降車したい人は、内側から乗降扉横のボタンを押して開けて出る。

乗車したい人は、外側から乗降扉横のボタンを押して開けて乗る。

つまりいくら待っても、そこの扉から人が下りて来なければ、

自分でボタンを押さない限り、扉は開かず、永久に乗れないのだ。

後日の懇親会で、OL2人組は、この地下鉄で困った話で、盛り上がった。

 

*パリのホテルのトイレ

今回のツアーは近代的な建物の世界的チェーン店を使うのではなく、

歴史ある、有名ホテルを利用しているので、残念ながら設備は最新ではない。

よって、お風呂の湯舟が有るのは珍しく、シャワーのみが普通だ。

トイレは当然水洗だが、便器が2つ並んでいる。

一つは通常の物だが、もう一つは「ビデ」である。

使い方は、女性なら理解できるが、初めて見る男性には判らない人も多い。

後日の写真交換会で分かったことだが、「松岡氏」は、これで目を洗っていたらしい。

 

旅は3か国目のスペインへ入った。

通貨も「ポンド」から「フラン」、そして今度は「ペセタ」へ

 

・・・・・続く