[第1章]新宿支店 パート1 新入社員

 

新宿歌舞伎町の朝は気だるい。

眠らない街で、唯一静かな時間が、この明け方だ。

始発電車が動き始める頃、この街には飲食店のゴミと、

それを漁るカラスが目立つ、

人通りはほとんど無い。

たまに浮浪者と、酔い潰れて倒れている人間が居るくらいだが、

人々は別に気にも掛けない。

 

世の中は好景気で、夜の街には人間が溢れ、

特に週末の金曜日は「花金(ハナキン)」とかで、

タクシーも拾えず、帰宅できないで、

朝まで店で飲んでる連中も居る始末だ。

遠距離通勤で通う、自宅までのタクシー代と比べると、

この方が安いと嘯いている。

まだ少しマシな方法には、

サウナかカプセルホテルに泊まる手も有るが、

ここも満パイでやむなく深夜喫茶で寝ている人もいる。

後にバブルと呼ばれる時代の、真只中のサラリーマン生活は、

パワーも有ったが、それなりの苦労も伴うもんだった。

 

歌舞伎町に面した靖国通りには、多くのビルが並んでいる。

その一角に、この薄汚れた古くて小さい建物がある。

周囲を高いビルに囲まれて、

夜になれば華やかでネオン煌くこの街では、

その存在自体が目立たない。

 

小さいと言っても、この建物は地上四階、地下一階有るのだが、

面積が少ない為かどうしても小さく見える。

地下には洋食のレストラン、四階はサラ金の店舗が入っている。

その間に挟まれた一階から三階に、この旅行会社が入っている。

ここだけが夕方6時に閉店になるが、

夜中まで営業している薬屋や、

ディスカゥントストアーに囲まれて、

夜は中々見つけるのも難しい。

また、新宿駅と歌舞伎町の間に位置する為に、

夜の人通りは多い方だが、昼は少ない。

おまけにメインロードの裏道が横に有るので、

夜は少々暗がりになり、

そこからの従業員の入り口は毎朝汚れている。

酔っ払いの汚物や、ピンク系のチラシのゴミを片付けて

ビル入口のシャッターを開けるのが、

代々の新入社員の毎朝の日課となっている。

 

入社して半年になろうとしている林は、

配属当初、この仕事に閉口したが、それもその内に慣れ、

あれこれと難問を言いつける、先輩達からの命令にも、

自然と抵抗が無くなりつつある自分に、

疑問を持つ暇も無かった。

酒を飲む事が多い業界だが、

カラオケパブで唄えと言われても、

この男の十八番は軍歌の替え歌で、

以前転勤で去って行った或る先輩から

受け継いだ1曲のみであった。

その曲名も「旅の男の添乗業務、月月火水木金金」。

一度聞いた人間には、ああ又かと言わせる事が多いが、

社員旅行等では、この歌を皮切りにバカ馬鹿しいほど盛り上がる。

そんな時の定番となってしまった。

昨晩も先輩の命令で遅くまで、接待で付き合わされた後に、

自分たちの気晴らしだと称して、深夜まで飲まされていた

(当然割り勘なのだが)。

旅行会社は見た目は派手だが、実は給料は安いのに、

飲む機会が多く、貯金は残らないのが当たり前だ。

先輩たちの愚痴を聴きながら、

鬱憤晴らしにまた例の歌を歌わされたのだった。

 

この日も当然のように、既に終電は無くなっていた。

運良く空いていた、カプセルホテルに泊まった。

一緒に泊まった隣の先輩の鼾が煩く、

連日の疲れが貯まっているせいも有り、

なかなか寝付かれず、いろんな事が頭に浮かんだ。

 

そういえば入社当時、配属が新宿支店に決まった際に、

人事部の担当者から

「君の配属は新宿支店に決まった。いろいろと大変だけど頑張ってね、

君は体力も有りそうだし大丈夫。人間悩んで大きくなるんだ。」

と良くわからない理由を言われ、この支店に来てはや半年が過ぎた。

同期の仲間は他の大手支店に2~3人ずつ配属されたのに、新宿は自分1人。

その理由は後から判ったのだが、どうもここ数年の営業成績が悪いらしい。

また既存所員の個性が強く、各自勝手な行動も多く、残業も半端ではない。

思い出してみれば最近まともに家に帰ってない。

 

先日、たまたまうるさい先輩達が出張で不在の時、

久しぶりに定時で家に帰ると父親に

「とうとう辞める気になったか?そんなヤクザな商売を続けるより

堅い仕事をやった方が良い。早く転職しろ。」

と諭された。

父親は公務員で酒を飲まない。

仕事が終わると真っ直ぐ帰宅する人間である。

又始まったかと思い、返事をせずに、

夕食を食べようとテーブルに着くと、

自分の茶碗と箸が無い。

客用の茶碗と割り箸が並んでいる。母親は、

「お前はたまにしか帰ってこないので、

お前のは何処かに行っちまったよ。

やっと社会人になったと思ったのに、

給料もボーナスも全て飲んじまって、

働いているのか、遊んでいるのかわかりゃしない。」

皮肉まじりのその言葉には、すこし寂しさが含まれていた。

 

転職か?

このままではどんな人生になるのか?

色々な事が頭に浮かんだが、

日ごろの疲労からか、

久しぶりにぐっすり眠り込んでしまった。

 

或る朝、昨晩も歌舞伎町の渦に埋もれて、深夜喫茶で夜明けを待ち、

毎日の日課だが、他の社員より一足早く会社に来て、

いつもの様に、鍵あけをして、朝の清掃業務をやり始めた。

この支店の伝統と呼ばれ、慣習と言われる「鍵あけ」は、

新入社員が一番早く出社しなければならないことにある。

さらに重要な事は、鍵は2本しか存在しない事にある。

1本は支店長、もう1本は新入社員が管理するという決まりだ。

その意味は当然帰る時も、最後に帰らなければならない事になる。

同期が居れば交代でやる事も可能だが、

一人では必然的に毎日ということになる。

昨晩も唄った十八番を口ずさみながら箒を持って掃除をしていると、

ふいにポンと頭を叩かれた。

振り返ると、昨晩の元凶である先輩の佐藤主任が立っていた。

片手にスポーツ新聞を丸め、もう片方の手には紙袋を抱えていた。

眠そうな顔で、酒臭い息を吐きながら、

近くのファーストフード店で買ってきた熱いコーヒーを、

紙袋から出しながら言った。

「ほら、お前のも買ってきてやったぞ。」

「今日で3日目、またカカアに文句をいわれるな。お前に頼まれて、

人生相談に乗ってやった事になってるからな。電話が来た時は宜しくな。」

そうだ、また3日も家に帰ってない。

相変わらずこんな生活が続いている。

こんな社会人生活をしていて良いのだろうか?

ほんの少しの反省もつかの間、

「打合せをするから、とっとと3階へ来い」

朝一番からの先輩の命令だ。

慌てて掃除用具を片付けて階段を翔上る。

雑然とした事務所の3階は、団体営業のセールスマン達の専用フロアーだ。

十人位のデスクが並んだ一番奥には、申し訳程度の応接セットがある。

以前ここで打合せをしたお客さんに、

「この破れたソファー早やく捨てなよ!」

と言われて支店長には報告したが、依然とそのままになっている。

そのソファーに座って、打合せが始まった。

「よう林、昨晩言い忘れたが、来週俺の代わりに添乗に行ってくれ」

「え!佐藤さんの代わりに僕が一人でですか?」

「バーカ大丈夫だ。誰でも行ける簡単な仕事だ。

お前も入社して半年も経ってるんだから、

いい加減に一人で行ける様にならなきゃいけねえ。」

「お客さんには全部話してあるから。心配いらねえ。」

「そうですか?ところで行き先は?」

「秋の黒部アルペンルートだ。」

「この時期のあそこは紅葉で綺麗だぞ。」

「いいっすね!ところで、どこのお客様ですか?」

「『クラブ・パラダイス』の社員旅行だ。」

「ええっあの歌舞伎町でも3本指に入る有名なクラブですか?」

「そうだ。お前も行った事が有るべ。」

福島なまりの先輩の説明に多少の不安を抱きつつも、

初めての一人で行く添乗業務の高揚感と、

美人揃いのお客に期待を膨らませる林であった。

「佐藤先輩!承知いたしました。頑張ります!

詳しい打合せをお願いします。」

「おーし判った。

今日は朝から忙しいので、夕方やろう。

それまで団体手配台帳を確認しておけ。

予約事項は団体手配に聞いておけ。」

そう言い残すと、咥え煙草で鞄を抱えてさっさと外勤に出てしまった。

仕方なく、中断していた清掃作業の戻り、

いつもより気合を入れて、1階から3階までの掃除を終えた。

今日は、山盛りの吸殻も、夜食のごみも、気にならず。

毎朝の朝礼に備えた。

 

朝礼が始まる。

支店全員が2階に集まり、壁際に並ぶ。

いつもの様に支店長から

「皆さんおはよう。今日は天気も良いし、爽やかな秋晴れだ。」

「身の心も、爽やかと言いたいところだが・・・私は朝から気分が優れない。」

「昨日の本社会議で、社長からきついお達しがあった。」

「なぜだか判るか?佐藤君」

支店長の質問に応える声が無い。(もう朝から外出しているので、当然だが)

代わりに林が

「佐藤主任は、すでにセールスへ出られました。」と応えると

「またか、あいつは私が文句を言おうとすると、いつも居ない。」

「どうせ、いつもの喫茶店でモーニングでも食っているに違いない。」

全員に聞こえるような、大きな声で独り言をいうと、仕方なく後を続けた。

「皆さんもご承知の通り、我が支店の営業成績が、

今年も予算に届きそうも無い。

これは大問題で、支店の存亡に関わる。

そう言っても他人事の様に、関係ない顔をしている人達がいるが・・・

わかり易く表現すれば、君達のボーナスが昨年より下がり、

もしかしたら、来年は転勤、

何処か遠くの支店へ、飛ばされるという意味だ。

とにかく、今年は予算達成しなければいけない。

どんな方法を使ってもだ。

各人その事を肝に命じて、業務に励んでください。」

毎日同じ内容を聞かされが、朝礼が終わり、

各人それぞれの席に戻り、朝の業務が始まる。

林も数本の電話をし、本日のスケジュールを確認すると、

佐藤から言われた通り、団体の手配状況を確認する為、1階へ降りた。

 

旅行会社の業務は、色々と担当が分かれている。

当時何処の支店でも共通して、1階はカウンターで、

一般客相手に航空券や鉄道の指定席券の予約販売等を行なっており、

一日中来客の対応で多忙であった。

現在のようなインターネット予約システムはまだ存在せず、

特に連休やお盆・年末年始の帰省切符の受付時期は戦争状態であった。

林が入社直後、配属が決まったこの支店に、

始めて挨拶に来た時もそんな状態だった。

雑居ビルが乱立する歌舞伎町で、やっと見つけた支店の建物

何処から入って良いのか判らず、

取りあえず1階のカウンターある入口から入ってみると、

「いらっしゃいませ。どんなご予約ですか?」

「すいません、僕はお客さんでは無く・・・

ここに配属が決まった新入社員の林ですけど?」

「な~んだお客さんじゃなんだ。

あんた見かけがふけているから、お客さんかと思ったじゃない。

挨拶なら裏の階段で2階に行って。もたもたしてないで、

邪魔しないでちょうだい。」

「但し、挨拶のお菓子はわたしのところへ置いていって。

あんたまさか、手ぶらじゃないわよね・・・。」

と睨みつけられ、

そのまさかだった林は、おずおずと後ずさりして、

脱兎のごとく店を飛び出し、外へ逃げた。

1階カウンターの主であるお局様の中村嬢から、

きつい洗礼を浴びたのが昨日のようだ。

その1階の裏側の出入り口扉を開けると直ぐに

「国内手配」担当者の春田主任の席がある。

主任とは一般の会社で係長クラスの役職に当たる。

同じ主任でも営業の佐藤は明るい性格で対人交渉能力が高いが、

同期の春田は生真面目で内向きな性格から、営業には回されず、

手配担当をさせられている。

春田の机の上は、いつも手配関係書類が山積み状態だ。

重なった書類の上には、「鉄電」と呼ばれる黒光りした電話機がある。

その受話器を首と肩で挟んだ状態で、なにやら大声で会話の最中だ。

「もしもーし!良く聞こえないんです。

もっと大きな声で話してください。」

「申請した「お座敷列車の臨団」の予約は、まだリクエスト状態?・・

お願いしますよ、何とかOK出してください。

じゃないと又うちの上司にどやされちゃいます。

助けると思って、一言だけで良いですからOKと言ってくださいよ。」

当時JRはまだ国鉄であり、電電公社(今のNTT)の電話とは違う

専用電話回線のシステムが有った。

それが鉄道電話であり、国鉄関係の各部署との通話に利用され、

通称「鉄電」と呼ばれていた。

しかし音質が悪く、内容が聞き取れず、大声で話すのが普通であった。

電話に頭を下げながら、汗だくの春田を見て、

なかなか声を掛けられずにいた林は、受話器を置いた春田におずおずと

「春田さん、佐藤さんの団体で『クラブ・パラダイス』の台帳を見せてください。」

「なんだ林か。そう言えば、そんな団体も在ったな。」

「その2段目のボックスだ。勝手に持って行ってくれ。」

「ご覧の通り、俺は今忙しいんだ!」

ボックスの中から、目的の台帳を探し出し、3階へ戻る。

「えーとコースは、交通機関の乗り換えが多く、添乗員泣かせだったな。

予約は全てOKなのかな?」

手配記録台帳を確認すると、ほとんどがリクエスト中だった。

「またしても、恐怖のリクエスト中、しかも赤い字で大きく書いてあるのは、

かなり難しいということか?」

先週、ある会社の社員旅行で伊豆に行ったとき、

宴会場がリクエストとなっていて

現地に到着時までには何とかするから心配しないで行ってこい!

と言われて行ったが、結局最後まで取れておらず、

お客さんから攻められ、大変なことになった恐怖を思い出した。

「来週出発なのに、こんな状態で大丈夫なのだろうか?」

 

ここで3階の営業マンを紹介しておこう

新宿支店の営業マンは一応15人いる。

部屋の片隅には各人の行動予定明示した黒板がある。

全員の名前が書いてあるが、

長期添乗で船に乗って半年ぐらい不在の人もいるので、

営業マン全員が一堂に集まることは無い。

当然林が入社以来、未だに顔を見ていない先輩もいる。

営業体制は営業先に合わせ、官庁・民間A・Bの三班に分けている。

入社配属後、一通りの研修を経て、林の配属先は民間チームに決まった。

 

民間Aチームのリーダー片柳は、2メートル位の身長で、

サングラスをかけ、エルメスのバラ柄の白いネクタイ、

白いエナメルの革靴を履いている。

はじめて3階に入り、この人を見た時、

4階のサラ金と間違えたと思い、

慌てて部屋を飛び出した記憶がある。

今は慣れたが、独特のオーラを放ち、

ドスの効いた低音で用事を命じられると、

とても逆らう事はできない。

 

2番目はサブリーダーの佐藤だ、福島出身。

スキー選手で国体にも出場した経歴から、

各大学の運動部の合宿や遠征のツアーを得意としている。

セールス先で「君は大学で何を専攻していたのか?」と聞かれ、

「自分は一貫として、スキー部です。」と胸を張って答えていた。

 

3番目は榎本だ、

支店の大口取扱い先である「○○農協」の役員の次男として

コネ入社だと噂されているが、

パンチパーマの風貌で、抜群の人懐こさとこまめな営業力で、

お客さんからの評判は高い。

そしてそこの下に配属された4番目が林だ。

平凡な公務員のせがれが、独特の個性を有する集団の中、

これからどんな営業マンになるのかは未知数だ。

話は戻るが、林は一人で悩んでいてもしょうがないので、

すぐ上の先輩(榎本)に状況を説明し、相談したところ

「お前、それはやばいいんじゃない、やめた方が良いよ。」

「確か去年もトラブった団体で、大変なことになったはずだぞ。」

「早いとこ、その日は大事な用事があったことを思い出したとか言って、

断った方がいいんじゃない。嘘は言わない。」

「しかお客も客だな。懲りずにまた佐藤さんへ頼むんだから。

どうしてかね。」

とそっけない返事だった。

これはまずい状況だ、何とか回避しなければと決心し、

佐藤主任の帰りを待った。

 

日中は様々な雑用に追われ、あっという間に夕方になっていた。

ところがいくら待っても肝心の佐藤主任は帰らない。

ふと黒板を見ると、佐藤の欄には、

いつの間にか「NR」の文字が書いてある。

誰かが、出先からの電話を受け、代わりに書いたのだろうが、

「NR」とは、「ノーリターン」の略で、今日は戻らない、

直帰する事を意味する。

今日はダメか、明日にするかと諦めた翌日、

今度は林が朝の掃除中に電話があったと思われるが、

黒板は「廻り」の文字が書いてあり、

「廻り」は直接営業先へ行く事を示す。

しかし林の机の上に佐藤からの伝言があった。

「今日の夕方来週の添乗の件で、

お客さんの処へ挨拶に行くから準備しとけ!」

携帯電話の無い時代なので、連絡の取りようが無かった。

朝礼の後、支店長も文句有り気に、

チームリーダーの片柳の処へやって来て

「佐藤君は昨日はNR、今日も廻り。

チャンと仕事をしているんだろうね?」

との質問に

「大丈夫ですよ、大きな仕事が取れそうだと、

連絡がありましたよ。」

と答えていた。

片柳からそういわれると、支店長もそれ以上追及が出来ず、

「まあ、予算さえ行ってくれれば、いいけどね。頼みますよ」

と戻って行った。

片柳は、それから林に

「今度のパラダイスの添乗は林君が行くそうだね。

佐藤君から聞いてるよ。大変そうだけど頑張ってね。」

「チームの予算も厳しいので、お土産をいっぱい買ってもらい、

コミッションもいっぱい貰って来てよ

君は内のチームのホープだから期待してるよ。」

ゲッゲー!そういう筋書きになってのか?と林は観念した。

 

夕方、張本人の佐藤が、元気に意気揚揚と胸を張って戻ってきた。

林には目もくれず、まずは、片柳に報告

「とうとう決まりましたよ。千人の招待旅行!」

「ホテルも一度に入りきれないので、2班に分けてですね。」

「芸能人も呼んで、宴会は派手にやりますか?」

報告した後、自分の席に戻ると、

煙草を加えながら、鼻歌交じりに事務処理をしている。

視線を感じて、林の方を見て、

「これを書いたら、直ぐ行くぞ、用意しておけよ。」と命じ、

「きょうもNRだな。」と独り言を漏らした。

 

新宿支店の人間は、靖国通りを挟んで

支店の反対側の歌舞伎町を「川向う」と呼ぶ、

この川を渡ると中々帰宅できない。

顔見知りや顧客が多く、誘われると断れない。

今日もネオン溢れる歌舞伎町を、奧へと進む2人の男たちの

行き先は「クラブパラダイス」。

歌舞伎町でも3本指に入る、高級クラブだ。

座っただけでも3万円。ボトルを入れたら10万円が相場だ。

林が初めて連れてこられた時は、

そんな事も分らず、コーラなら安いと思い、

先輩たちが帰るまで付き合い、コーラ1杯をちびちび飲んでいた。

立て替えてくれた先輩が、翌日の精算で

「ハーイ、一人3万円ね。どうせ現金は持ってなさそうなので、

給料日払いで良いけど、先月分が残っている奴は十一だぞ。」

まるで4階の人間と同じような事を云う。

林は恐る恐る

「自分はコーラ1杯なのでいくらでしょうか?」

と聞くと

「馬鹿だね~、何を飲んでも変わらないの。お前も3万円だ。」

と言われ愕然とした。

ただでさえ、とっくに給料分は他の店での飲み代で消えているだけでは無く

「付け」と称して借金がかさんでいた。

 

そんなことを思い出しているうちに、

コマ劇場で右に曲がり、区役所通りと交差する処に大きなビルが在り、

エレベーターで3階に上がり「クラブパラダイス」についた

開店前の店の入り口で、要件を告げ担当者を待つと、

いきなり山田支配人に呼び留められた。

「今度の年末の恵子ママの航空券と、俺の特急指定席の件、宜しくな。」

「もう店はお休みにしてるし、暫く振りに会える親も楽しみにしてるからな。」

「もしとれなかったら、どうなるか判っているな。」

脅迫ともとれる言葉に佐藤は

「任せてくださいよ。全力を尽くし、あの手、この手で準備しております。」

「しかし、盆暮れは予約が込み入っていて、

万が一ダメなこともありますから‥」

と言い訳をすると、支配人は

「言い訳はきかねえ。あんたは、この業界のプロだろ。

取れないものを取るのがプロというものだ。よくわかっているな。」

なんだか、分かったような、分からないような言葉を吐いて、

奥へいってしまった。

心配そうに林が佐藤に

「大丈夫でしょうか?予約が取れないと大変なことになりそうですよ。」

と聞くと、佐藤は

「取れる取れないは時の運、春田に頑張ってもらうしかないよ。」

と、平然としている。

やっと幹事役の担当者(瑠奈さん)が来て打合せが始まった。佐藤が

「今度の旅行の添乗員の林です。ちょっと更けてるけど、

うちの新人なんで宜しくお願いしますよ。」と林を紹介したところ、

いきなり瑠奈さんは

「佐藤さんの嘘つき、佐藤さんが来るって言ったじゃない!」

慌てて、佐藤が

「お客さん、私も行きたいのは山々ですが、上司の命令で

この日は別の添乗に行けと急に命じられ、困っているんです。」

「幸いこの新人は添乗で受けが良く、お客さんからも

沢山の感謝状を貰うほどで、

私も目をかけている奴ですから、宜しくお願いしますよ。

どう使っても構いませんから。」

といい加減な言い訳をして頼み込んだ。

まだかなりの抵抗があったが渋々打合せに入り

「もう紅葉は始まっているかしら、それだけが楽しみだわ。」

と皮肉っぽく付け加え

「予約は全部取れているから、心配ないといったわよね。」

林が慌てて現状を伝え説明しようとすると、

それを押し消すように佐藤が

「お任せください。私を信じて頂ければ、全て上手くいきますよ。」

「信じる者は救われる。と言うじゃないですか。」

「まあ楽しみにして、当日の集合時間だけは全員遅れないように

おねがいしますよ。」と言って終了。

結局詳しい打合せらしきものもせず。店を後にした。

店を出てから、

「林、良かったな、今日は金を取られずに帰れたからな。」

「いいお客さんだろ、心配せずにしっかり添乗してくれ。」

佐藤が言ったが、林は

「佐藤さん、勘弁してくださいよ、予約は殆どリクエストのままで、

出発までにOKになるんでしょうか?おねがいしますよ。」

「お前は案外細かいことにうるせえな。心配するな、」と言った佐藤は、

電話ボックスに入り、何処かへ連絡を入れていた。

 

「さあこれから西口の横丁だ!ついて来い。」

来た時の道を逆に戻り、歌舞伎町を突っ切り、だが支店には戻らず、

西武新宿線の駅を超え、大ガードをくぐって、西口へ出た。

目の前にあるのは、通称「しょんべん横丁」だ、

戦後の闇市が原型と言われるが、小さな飲み屋が密集している、

ネオンではなく赤ちょうちんが並ぶ一帯だ。

やっとすれ違いが出来るくらいの狭い中小路が二~三本有る。

真ん中の小路を進み、中ほどにある店の暖簾を潜って中に入る。

つるつる頭の元気な店主が

「へいいらっしゃい!」

「なんだ勇ちゃんじゃねえか。」

「うちは付けは利かないよ。今日は現金払いじゃなきゃ飲ませないよ。」

といきなり言われたが、佐藤は

「おやっさん、今日は大丈夫。こいつがいるから。」

「まずはビール!」

林はいきなり振られ、冗談かと思ったが、

もしかしたら新宿支店の人間は判らない。

「私もお金ありません!」と言おうとすると

直ぐに出てきた瓶ビールをつかみ、コップに注ぎ、

「乾杯~!今日は飲むぞ!」

「美味いねぇ~」

「人間はこの一杯の為に働いているんだね~」

確かにそうだが、ここの支払いは誰がするのか?一抹の不安が残る。

ここの店は横丁でも有名で、「朝起ち屋」の名前通り、

翌朝ナニが立ってなければ、お題は返すと明言しており、

ホルモンを主体に、精力の付くメニューが並ぶ。

酒類も赤マムシを始め度数の高いものが、すらりと並んでいる。

その効果は定かではないが、繁盛している。

席は他の店同様カウンターのみだ。

壁には、来店者の記念写真が貼られ、

当然酔っぱらった佐藤の顔もあった。

 

一本目のビールが無くなりかけた頃、

あわてて一人の人間が飛び込んで来た。

支店の国内手配担当の春田だ。

佐藤が電話をした先はこの男だった。

「なんだ勇次!同期なのに最近飲みに誘わないのは許せない

俺は飲み会を断った事が無い。」と言いながら

佐藤の横に座り、勝手に注文し、飲み始めた。

「支店長には上手く言っておいたし、片柳さんは全てお見通しだ。

安心して飲もう」

気の置けない同期同士は徐々に盛り上がり

一方同席している林は、支払いと予約手配の件が気になり、

楽しく飲む心境ではなかった。

しかし店の主人から進められ60度を超える

「スーパー赤マムシ」の焼酎を飲まされ、

気が大きくなってしまった。

店主も交えて冗談と馬鹿話で盛り上がり、

しこたま飲み食いし、閉店時間が近づくと、

「春田よ~、今日の勘定は頼むぞ。ここは付けが利かないと念を押されちまった。」

「馬鹿言ってんじゃない。今日は佐藤が誘ったんだろ。おれは金なんか持ってないぞ。」

「俺は先日定期券を払い戻し、クラブのママに支払っちまったので、全然持ってない。」

「添乗出張が多いので、持ってても無駄だからな。」

「春田は定期券あるだろ?」

「俺もすでに払い戻して、飲んじゃったよ。金がないので昼飯抜きで過ごしてる」

二人の恐ろしい会話がきこえてきて、林は一気に酔いが冷めた。

気が付くと二人の視線が自分に向けられている。

「林はまだ有るな?」

「ええ、自分はまだ持ってますが・・・。」しかし、諦めたらしく

「まあ新入社員をいじめてもしょうがない。ここはあの手で行くか。」

と佐藤は、うっすらと笑いを浮かべて、

店主に聞こえるように語りだした。

「昨日、田舎のお袋から電話があってさ、

裏山ででっかいニシキヘビが出たそうだ。」

「それが、鶏を食べたとか・・」

「そのあと、家の屋根裏に入り、ネズミを狙って

蜷局を巻いて居座っているそうだ。

暗闇に光る眼が不気味だと言っていた」

それを聞いた店主は

「あ~あ~気味が悪い、縁起でもない、蛇の話なんか。

今日はもう店仕舞いだ。とっとと皆帰ってくれ!」

と言って暖簾をしまい、片づけ始めた。

他の客は勘定を払って帰ってしまったが、

最後までも居座った3人だけである。

タイミングを計って佐藤が、

「大将、おれも男だ、約束は守る。現金払いをするが、

その為には、これからこの高級腕時計を質の型に入れて

金に換えてくるから、ちょっと待ってくれ。」と佐藤が言うと

「勇ちゃん、いい加減にしてよ。今日は大丈夫だと言ったろ。

あんたが質屋から帰ってくるのを待ってたら、

終電がなくらっちゃうよ。

しょうがないね、今日は付けとくから明日払ってくれ。

とっととけぇってくれ!」とやけくそ気味な言葉を吐いた。

それを聞いて佐藤と春田はにんまりとして、うなずき合った。

 

店主に追い出されるように店を出ると、佐藤が春田に言った。

「なあ~上手く行ったろ。あの親父は蛇が大嫌いなんだ。

蛇の話をするといつもこうなる。」

「春田、今日の分は俺のおごりだから、

「パラダイス」の予約はなんとかしろよ!」

「世の中何とかなるもんよ。小さい事で心配するな。」

林にはそう言って、

「じゃあ、もう一軒行くぞ」、春田と歌舞伎町方向へ戻って行った。

気が付いたら終電の時刻は過ぎていた。