第7章 中国

 

歌舞伎町の餃子屋で、今日も後輩と食事する林

世の中、バブル景気の後半真最中

「林さん、今日はいつもの横丁の焼鳥屋じゃなく、豪華中華料理を

ご馳走してくれると言ったじゃないですか?」

後輩の了木がビールを飲みながら不服そうに言った

「そうだよ、だからここへ連れて来たじゃないか!

ここの餃子は最高さ!

先週中国で本場の中華料理を食べてきたけど、

豪華な料理より、日本人には焼き餃子が一番」

と林が言った。

了木は後輩の中でも、要領が悪く、いつも林と一緒に

残業していることが多かった。

そんな姿を見ると、自分の新入社員時代が重なり、

何故か、面倒を見るようになった。

「先輩は、蘇州・揚州・無錫で散々美味しいものを

食べて来たから、そんなことを言うけど、

僕も老酒で北京ダックを食べたかったな。」

と後輩がぼやく

「あのな、今回の旅行先は中国南部だから北京ダックは無い、

中華料理は北京・広東・四川と地域によって分かれている。

今回は広東地域でも潮州料理の範疇だ。

江南の春は、柳条が舞、夢のような場所だった。

行った先々の朝市は最高で、茶店の朝食は、

高く重ねた蒸籠で蒸した数種の万頭や点心の数々、

日本の飲茶料理では味わえないものばかり、

もう一度行きたいな。

紹興酒の工場で買った加飯酒の甕が割れて、土産が台無し、

バスの車内が一日中酒臭く、全員が酔っ払い状態だったぜ。」

林の話は止まらず、

聞いていた了木は、春雨炒めを楊枝で突きながら、

焼き餃子が来るのを待って、ちびちびビールを飲んでいたが、

「先輩は、良いですよ、毎年春と秋に中国は行けて」

と言うと、林が返答した

「ようし、今度の秋は、は曲阜に行くので、

サブ添で連れて行ってやる。

曲阜は孔子の故郷、満願全席発祥の街、

3コースあるが、

客をもてなす高いコースは、二百以上のメニューだ。

昔から本来は一週間ぐらいかけて食べるものだが、

今回無理を言って一日で出してもらうことになっている。

一人では食いきれないので、分担してたべるか?」

 

そんな話をしていると、隣にいた見ず知らずの客が、

「私は前から、台湾で満願全席を食べるのが夢なんです。

でも仕事が忙しくて中々休めない、

定年退職するまでだめですかね?」

その問いに林は

「いや時間が無くても実現できます。

為せば成る!私にお申し付け頂ければ、

何なら日帰りでも可能ですよ。」

と言い切った。

「ええっ!日帰りで出来るんですか?」

と隣席の客が驚いた。

「台湾便は沢山出ていて、

早朝の出発便で最終で帰国が可能です・

但し昼食で百八品以上はきついですよ。

私はある団体の送りと迎えをして、

グアムの日帰りをしました。

あの時は、海さえ見ていないが、台湾は楽勝ですよ。

何だったら私が手配しましょうか?

私は旅行会社の人間でいろんなツアーを企画していますから、

会社はこの通りの向こう側、薬局の隣です。」

そう言うと、春雨を突いていた了木の頭を叩き、

自分と後輩の名刺を渡した。

相手はテレビ局の人間だった。

それから中国旅行の話が盛り上がり、

ビールから紹興酒へ変わり、

隣席の客はドンドン注文をしたが、

林たちは何時もの癖で、安上がりの飲み方しかせず。

追加の料理も取らずにお開きとなった。

結局勘定は隣席の客が支払ってくれた。

後になって、後輩の了木が

「最終的に僕たちの分も払って呉れるんだったら、

もっといっぱい頼めば良かったですね。」

その後、結局いつもの居酒屋へ行き

さっきの反動で、たらふく飲み食べしてしまった。

支払時には所持金が足りず、付けにしてもらい、

終電にも間に合わず、深夜喫茶で朝を迎えた。

 

その後、相変わらず営業と添乗の繰り返しで、

殺人的なスケジュールの夏の繁忙期も過ぎ、

やっと秋が近づいた。

そんな或る夜の残業中に、後輩の了木が、

林のデスクに寄ってきた。

営業マン同士はすれ違いが多く、

お互いに顔を合わすことが少ない。

「林さん、もうすぐ秋になりますよ。

中華料理、いつ行くのですか?」

「今日は忙しくて、一緒に行けない。

行くのなら他の奴と行ってくれ。」

と答えた林に、了木は

「この辺のじゃなく、本場、曲阜の中華料理の事ですよ。

今度、連れてって呉れると約束したじゃないですか?

楽しみに半年も待ったのですから、お願いしますよ!」

と言われて、林は少しだけ思い出した。

「そんな約束したかもしれないなぁ~。

団体ビザの手続き、まだ間に合うかな?

第一、  支店長がOKするかな~?」

と呟くと、それに対して了木は、

「安心してください。全て大丈夫です。

全部確認してきました。

支店長は林の中国なら勉強になる。

しっかり研修してこいとのことです。」

と自慢げに言った。覚悟した林は、

「お前は自分の好きな事だけは手回しが良いね。

ちゃんと、今度のサブ添やってくれよ。

ところで、最近佐藤先輩がお前のことを

「アホ」と呼んでるが、どうしてなの?」

と問うと、

「先日、お客さんからのファックスで

僕宛の物が有ったのですが、

その字がところどころ離れていて、

どう見てもカタカナの「アホ」に見えるんです。

それから、私をそう呼んでからかうんです。」

パソコンもメールもない時代では、

ファックスが主力だった。

 

ところで、当時の中国旅行は、欧米と違い

手配が複雑だった。

中国へ行きたいときは、

北京の『国際旅行社』の総社へ申請して、

回る希望先を手配してもらうルールだった。

地域によって管轄が違うので、周遊する場合は、

いくつかの担当の分社へ手配が任される。

治安事情も考慮して、立ち入り禁止の場所も有る。

だから時間が掛かり、現地の詳細は、

到着するまで確定しないのが常識だった。

おまけに、「竹のカーテン」と呼ばれる、行政体系は、

訪中する旅行者を監視していて、

各団体には、全行程を随行する担当者がおり、

現地の住民との面会も

近くで盗聴しているとの噂だった。

出発前の添乗打合せで、林は了木に、

「今回の団体は戦友会の人達で、高齢者が多い。

戦時中、あの有名な『泰山』付近に駐留していた。

戦後、初めて訪中するので、不安が大きい。

駐屯中は大きな戦いは無く、個人的には、

何の罪も犯していないが、多少の争いで、

戦死した仲間もいるし、戦死した相手もいる。

中国の政治体制は、よく知っていると思うが、

『日中平和友好条約』がなされたとは言え、

共産党独裁体制だから、過去のちょっとした事でも、

言いがかりをつけて逮捕されるかもと、皆不安を抱いている。

まして、昨年他の旅行会社が実施した戦友会ツアーでは、

戦友が戦死した場所で、線香を焚き、日本酒を注いでいたら、

住民に石を投げられ、数人の怪我人が出た事例もある。

今回も添乗員として十分注意が必要だ。」

林の真面目な説明に、了木は

「僕は初めての中国ですが、いろいろ面倒ですね?

もし団員の人が拘束されたら、どうすれば良いのですか?」

それに応えて林は

「心配するな、十分に対策をしている。

今回の訪中の目的は、当時迷惑をかけた地域の子供達へ

「キーボード」を配って回る友好の旅だ、

その為に「キーボード」20台を持参する。

その管理と団員百名の安全を守るのが君の任務だ。

途中戦友が戦死した場所の近くを通ることが有っても、

心の中で手を合わせ、冥福を祈るだけにする約束だ。」

さすがに中国旅行のプロ、戦友会のプロと、

林の言葉に珍しく感心して、了木も納得した。

 

出発当日成田空港では、

早朝にも関わらず、既に全員が集合していた。

先日、海軍の団体の時は、大きな旭日旗が数本翻り、

異様な雰囲気だったが、今回は静かな集合だ。

但し、参加者の表情は固く、緊張感でいっぱいだった。

今回の利用航空会社は日本航空だったので、

搭乗手続きも順調に終わり、

「ポナペ」の時みたいに、

積み込み荷物の問題も発生しなかった。

フライトも順調で、定刻で北京空港に到着した。

当時の北京空港の照明は暗く、蛍光灯より裸電球が多かった。

入国手続きの場所には、銃を持った兵士たちが並んでいた。

その為、今回の戦友会の団員は、極度に緊張していた。

入国審査は申請した団体ビザの名前の順で呼ばれて、

所持したパスポートと顔を確認するのだが、

足がもつれて、転びそうになった人もいた。

何とか無事に入国審査と税関を抜けて、

ゲートから外に出たら、国際旅行社の全線随行員が、

団体名の書いたプラカードを持って待っていた。

黒革のジャンバーにサングラス、その風体は

かなりの威圧感を放っていた。

大柄の体形は、ひときわ目立った。

その人間が社旗を持った林に近づき

「今回随行する旅行社の『楊』です。

最後まで、ずっとご一緒しますので、

宜しくお願いします。

まずは北京駅までバスで移動して、

夜行列車で移動します。」

と流暢な日本語で挨拶と説明をした。

 

空港から駅までの間、バッテリー節約の為か、

街灯が無い薄暗い中でも、バスはほぼ無灯火で走る。

林は心配になり、運転手を見ると、

必死に目を凝らして、前を見て運転している。

よく見ると、道の両側に並ぶ太い木の

根元から2メートル位まで、白いペンキが塗られている。

これを目安に運転しているのだ。

それにしても、車窓から見える夕刻時の町は暗い。

電気の普及が進んで無いのか、節電なのか、

それに加えて、ガスでは無く、石炭を燃やすせいか、

スモッグで町が覆われている状態だ。

 

やっと北京駅に着いた。

駅前の広場は、人民服を着た人の海だった。

沢山の荷物を持った人々が、長い列を成していた。

切符を求めて長時間並んでいるのだろうか、

疲れて座り込んでいる人々が大半だ。

その中を、随行員の『楊』は露払いの様にして、

団員を先導して、突き抜けて進んで行く。

駅の貴賓室らしい待合室で少し待たされたが、

早々に列車へ誘導された。

中国の列車は『軟座』と『硬座』の二種類に分かれている。

『軟座』は一等席で、文字通り座席シートが柔らかい。

座ると、専属の係員がお茶の入った蓋つきの湯飲みと、

派手な花柄の魔法瓶を各個室に配って回る。

主に外国人専用の指定席車両のようだ。

『硬座』はいわゆる二等席で、座席シートは硬い。

一般国民向けだが、『軟座』車両とは分離されている。

そしてこの車両内は自由席なのか?

座っている人より、立っている人の方が多い。

上部の荷棚も溢れ、そこに積めない人は、

通路で荷物の上に腰かけている

すし詰めの満杯状態だった。

 

随行員の『楊』の指示で、団員はそれぞれの個室に入り、

やがて列車は出発し、走り始めた。

出されたお茶を飲みながら一息ついていた。

団長と添乗員の部屋では、林と了木が、

「いや~凄い混雑でしたね。

この列車も満席状態だし、

僕たちはこうしてゆったり座っていられるけど、

駅で待っていた人達は乗れたのですかね?」

「それは無理だったろう。

この列車も十両以上ありそうだが、

どの車両も超満員だ。」

「北京駅からは、いろんな方面に向かう列車が

沢山出ているので、どれかに乗れていれば良いですね。」

と呑気な会話をしていると、団長が

「我々も終戦当時は、ああじゃった。

特に我が部隊は、終戦当時やっと祖国へ戻れると思い、

北京まで来たら、祖国とは逆のシベリアへ連れて行かれ

抑留され、強制労働をさせられた。

冬のシベリアは想像を超えた寒さで、

十分な衣服も食事も与えられず、

森林伐採や石炭堀の過酷な労働作業中に、

多くの戦友が、倒れて死んでいった。

生きて帰れたのは半数じゃった。」

と語った内容は重い話だった。

団長の話を真剣に聞いていた二人だったが、

思い雰囲気に耐え切れず、話題を変えようと了木が、

「ところで、この車両は寝台列車ですよね?

ベットはこれですかね?」

と言って、壁に設置された器具を外すと

突然バタンと下りてきたベッドに頭をぶつけ

大声を出した。

丁度その時、随行員の『楊』が現れ、

「皆さん、落ち着きましたか?

記念品のキーボードは荷物車両に積み込みました。

あと一時間もすれば夕食です。

食堂車までは私が案内しまので、又来ます。」

と言って去っていった。

ベットを元に戻し、再びお茶を飲んでいた了木が、

「このお茶飲みにくくないですか?

お茶葉が湯飲みに直に入っているので、

葉が邪魔で口の中が葉っぱだらけですよ。

ティーパックとか無いのですかね?」

と言ったので、先輩の林は、

「あんまり贅沢言うのじゃない。

湯飲みの中で、お茶の葉が自由に泳いでいる

方が柔らかい味が出て、美味しいと思うんだな。

それに、『硬座車両』の人達に比べたら天国だ。」

と諭した。その様子を団長は笑ってみていた。

 

いよいよ夕食の時間が来た。

『楊』を先頭に、食堂車へ向かう。

食堂車はかなり後に有ったので、

途中満席の『硬座車両』の中を、

一般の乗客を掻き分けながら、

通り抜けなければならない。

やっと席に着き、食べ始めた。

その時了木が、箸を止め、小声で林に

「林さん、どうも食べづらい雰囲気ですね?

あれを見てください。後のドアの向こうから、

ずっと恨めしそうにこっちを見ているんですよ。」

それを聞いて林が振り向くと、

沢山の目がこちらを凝視していた。

「我々が食事をするので、ここを追い出されたのか?

隣の号車も満席なので、

あそこに居るしかないみたいだな。

いずれにしても落ち着かないけど、

さっさと食べて、席へ帰ろう。」

と林は了木に伝えた。

食事も早々に済ませ、席に戻った。

既に了木が寝る上段のベッドが降ろされ、

直ぐに寝られる状態に整っていた。

疲れていたので、寝ることにした。

林は、横になり夜汽車に揺られながらも

先程食堂車で見た人々の目が思い出され、

中々寝付けない林だった。

一方,上段のベッドからは、大きな鼾が聞こえた。

 

翌朝、差し込む朝日で目が覚めた。

列車は『済南』(山東省の中心地)の駅に到着した。

山東省旅游局の担当者の出迎え受け、

省都である済南の政府関係者、教育関係者の処へ

一行はバスに分乗して、表敬訪問に向かった。

持参した贈答品のキーボードを寄付する為、

小学校へ寄った時は、子供達の大歓迎を受けた。

校門から玄関までの間に、長い列を作り、

子供たちが、手造りの花と日中の小旗を両手に持ち、

『友好歓迎』と唱えながら、迎えてくれた。

その列の間を、手を振り、ゆっくりと進む間、

団員全員が、思わず涙する場面もあった。

添乗員の了木でさえ、貰い泣きしていた。

校内を見学し、黒板に『日本のお爺さん歓迎』

と書かれた音楽室で演奏を聴き、

キーボードを贈呈した。

一通りの行事を終えた一行は、大満足で

次の目的地の『泰安』へ向かった。

 

途中、秋の農作地帯を通過するとき、

道路上に刈り取り後の穀物らしき物が、

並べられているが、バスはその上を避けずに、

平然と通過する。後続のトラックも同様だ。

どうやらこの地の農民は、通過する車両を、

脱穀作業の一助として利用している様だ。

そんな風景を眺めながら、

のんびりとした農村地帯を進んでいると、

どうしてもトイレへ行きたくなった了木は、

一つの農家前でバスを停め、中に駆け込んだ。

土壁で出来た建物の裏側で、それらしき小屋を

発見したが、扉もなく、穴が開いているだけだ。

我慢の限界状態の為、そこで用を足した。

ホッとして良く見ると、壁に一本の荒縄が、

ぶら下がっていたが、その用途は判らない。

「これは何のために使うのだろう?」

と考えていると

慌てて了木の後を追ってきた随行員の『楊』は、

その行為と後ろ姿を見守っていた。

一般民衆と外国人の間のトラブルを防ぐのが

重要な使命なので、当然の行為だ。

「了木さん、勝手な行動は控えて下さい。」

と注意された了木は

「すいません、緊急事態だったもので。」

と謝って、バスに戻った。

そして先程の疑問を団長に聞くと、

「それは用を足した後に使う荒縄じゃ。

使った後は干しておけば、何度でも使える。

紙より効率的で経済的じゃ。」

との説明に感心した。

当時都市以外のトイレは、まだこんな状態だった。

以前から何度も訪中している林に聞くと、

「北京の天安門広場の大きな公衆トイレは、

スケールが違う、建物内に入ると、

その壮大な空間には、縦横に何列にも並んで、

皆が用を足している。新聞を読みながらの人、

隣の人と会話をしながらの人、

便器は無く、隣との境も無い。

個人のプライバシーは関係なく、

開放的で、これが『大陸の文化』だと説明を受けた。

「林さん、全部丸見えは勘弁して下さいよ。

女性の方も同じなら、日本女性には無理ですよ。」

了木の質問に林は

「バスで移動する前に、事情をよく説明して、

ホテルで済ませておくように、お願いしておくのだ。

君は私の説明を聞いてなかったのか?」

「あの時は、林さんの命令で

キーボードをバスに積み込んでいたので・・・」

と曖昧な返事をしていた。

 

バスは『泰安』へと近づく、

車窓から、『泰山』が見え始めた。

歴代の皇帝が神の山として訪れ、崇めた山だ。

『泰山』は、中国の歴史に必ず出てくるほど有名だ。

またことわざでも、『泰山鳴動して鼠一匹』など 、

例をあげたら限がない。

車内を見ると、ほとんどの人がそちらに向かい、

背を伸ばして、手を合わせていた。

団長がそれを見て、林たちへ説明した。

「この辺も戦場の一部で、数名の友が亡くなった。」

林と了木は、この人達には、普通の人達とは別の、

忘れられない、特別な思い出が有るのが分かった。

いよいよ『泰安』の町に着いた。

街の様子を見て、俄かに団員全員が活気づいた。

口々に、それぞれの思い出を語っている。

訪中の間は、昔の中国語を使わない団の約束だが、

思わず口に出る団員もいた。

ここでの小学校訪問でも、子供たちの大歓迎を受け、

団員の皆は、入国以来、久々に笑顔を取り戻し、

くつろいだ雰囲気になった。

 

その夜の夕食会は盛大だった。

中国では訪中した賓客に対して、

初日は受け入れ側が夕食を招待する。

翌日は逆に、歓迎を受けた客が、

そのお礼として招待するのが、昔からの習わしだ。

主催者側の挨拶と、答礼の挨拶に続き、『乾杯』が始まる。

各人手にグラスを持ち、全員が起立する。

乾杯の酒は『茅台酒』が定番だ。

アルコール度数が、五十度以上も有る強い酒だ。

小さなグラスだが、文字通り、完全に飲み干し、

底を見せ合うのが慣例だ。それを何度もする。

鶴を模った、きれいな前菜は既に並んでいるが、

乾杯が済むまで手を出せず、

空腹状態の体には、アルコールが直ぐに回る。

早くも真っ赤な顔になった了木は、

「林さん、豪華な料理が出てくるのに、お預けですか?

『茅台酒』ばかり飲まされて、もう倒れそうですよ。

お代わりを注がれる前に、勘弁してもらい

ビールに変えてもらったのですが、これが温くて、

飲んだ気がしない。」とぼやいていた。

当時は冷蔵庫の普及が進んでおらず、

常温で飲むのが普通だった。

やっと乾杯が終わり、次々と料理が出てきた。

日本では見たこともない、珍しい物も多く、

延々と出されるメニューを

全て食べるのは無理だった。

デザートが出る前に、全員満腹になっていた。

先程まで文句を言っていた了木も、

満足げに腹を擦って上を向いていた。

 

翌朝は早く出発して、泰山に登る。

麓から山頂へ続く階段は、8千段ともいわれ、

信仰の厚い人は、夜半から登りはじめ、

夜明けに山頂で、ご来光を仰ぐらしい、

観光客向けには、中腹までバスで上がり、

そこからロープウェイで、山頂近くまで行く方法がある。

今回は高齢者が多いので、このコースを選んだ。

山頂近くと言っても、そこから数百段は、

自力で登らなければならない。

ロープウェイを下り、頂上を目指して石段を上る。

下から上がって来る人々の間に、

大きな荷物を両側に下げた天秤を、

担いで上がって来る人足もいた。

それを見て了木は。

「この人達は凄いですね。

こんな重そうな荷物を担いで、

数千段も下から上がって来るなんて、

信じられない体力だ。

四国の金毘羅さんの篭屋より凄い。」

としきりに感心していた。

一緒に上っている団長は、

「あの人達は毎日、ああしてるんじゃ。

山頂近くの売店へ、土産や飲み物を運ぶ、

雨の日も、風の日も、大変な仕事だ。

この山は中国五山の内でも最高の権威の山、

毎日沢山の人が、国中から参拝に来る。

老人も子供も、杖を突いて、懸命に登る。

その人達の為に、大した賃金も貰えないだろうに、

それが彼らの仕事じゃ。中国の人達は、忍耐強い。」

そんな説明を聞いていると、随行員の『楊』が現れ、

「皆さん、もうひと踏ん張りです。

あと三百段位です。

先に行って飲み物を用意しておきます。」

と言って、あっという間に過ぎ去った。

 

やっと山頂に着いた一行は、

そこからの眺めに圧倒された。

暫くその眺望を楽しみ、

始皇帝の碑や、廟の前で、

団員は互いに記念写真を取り合い、

達成感を分かち合った。

 

翌日はいよいよ曲阜へ向かった。

何と言っても孔子の生地、

孔子ゆかりの建物や碑が沢山あり、

世界中から観光客が来る。

特に観光名所の三孔「孔廟・孔林・孔府」は、

その規模と歴史の深さに驚かされ、

いくら時間が有っても見足りない。

今回の団体も、ガイドの説明を受けながら、

写真を撮ったり、楽しそうにしていた。

そんな中で、見学も上の空の人間がいた。

「林さん、早く夜にならないですかね?

今晩の夕食が楽しみで待ちきれないです。」

と食べる事しか考えていない。

 

終日の観光が終わり、やっとホテルに着いた。

今晩のホテルは、新築だが、

高く聳え立つ造りでは無く、

少し起伏のある土地に沿った、

二階建ての曲線的で、且つ平面的な造りで、

落ち着いた色の屋根瓦と白壁を使用した、

趣があるホテルだ。

上空から見ると、大地に龍が横たわり

休んでいる様に見える。

また中庭も広く、手入れされた植栽は、

宿泊客に十分な安らぎを与えてくれる。

 

孔子家が大事な客をもてなす時の食事

中華料理の中でも有名な曲阜の豪華料理

「孔子料理」(孔府菜・孔府膳)は、滅多に食せない。

今回特別に、このホテルの夕食で出してくれる

ことになっている。

 

いよいよ夕食の時間が来た。

随行員の『楊』が、団員の各部屋を回り、

会場へと案内する。

しかし宴会場では無く、中庭の離れだった。

そこで、まずはお茶のもてなしが有った。

お茶は最高級のウーロン茶で、

その味は日本の緑茶に近い物だった。

皆、その味を堪能して寛いでいると、

突然花火が上がった。

それは、歓迎の証、来賓を迎える合図だった。

少々待たされた後、メイン会場へ誘導され、

全員が着席すると、何時もの様に、

挨拶と乾杯が始まった。

円卓の上には、既に数十品の前菜が並んでいる。

乾杯もそぞろに、いち早く、

既に料理に箸を伸ばしている了木は、林に

「林さん、これですよ、

前から夢見ていた料理は、

見た目も、味も最高です。

もう死んでも良いですよ。」

と言いながら、卓上の料理を次々と

むさぼっていた。

次から、次へと出てくる料理は

延々と続き、留まる気配はない。

最初は猛スピードで食べ始めた了木も、

流石にそのペースは落ち、やがて箸が止まった。

「林さん、まだ出てくんですか?

もう駄目です。これ以上入りません。」

それに対して林は

「まだ中盤だぞ、一回一回の取る量を少なめにして、

なるべく、多くの種類を味わう様にするのだ。

いつもの餃子屋で春雨を食べる時みたいに

何だったら楊枝でつまんでも良いぞ。」

と冷やかした。

暫く放心状態だった了木が、一度会場を出て戻って来た。

するとまた徐々に食べ始めた。

その様子をみて林が、

「了木、お前大丈夫なのか?」と聞くと、了木は、

「大丈夫ですよ、先程トイレで、

一回吐いて来ましたから。」と平然と答えた。

そして最終料理が出て、デザートの時、

「林さん、来年はいつ頃来るのですか?」

と聞いてきた。驚いた林は、

「お前には負けるよ。

まるで古代ローマ人のような奴だな。」

と答えて、笑った。

 

この話の後日談として、

最初に宿泊したホテルで、失くした財布が、

翌日には届いた事が有った。

『日中友好』のスローガンの元に、

来訪する日本人観光客を大切にしていた。

 

当時の中国は、発展途中で、

人民の暮らしは貧しかったが、

素朴で暖かく、のんびりとしていた。

悠久の大地でゆったりと暮らす人々、

記念写真に写っている

笑顔の人民服姿の人達をみると、

懐かしい思い出がよみがえる。