第2章

 

2週間後、札幌駅から、前回の「五稜星を探せ」ツアーの続きが始まった。

メンバーは、前回と同じで、前回林から投げかけられた課題、

星型の大五角形の絵を手にしていた。

今回田中先生は、所用の為不在で、探検隊メンバーだけだった。

 

林が、まず切り出した。

「今回もお集まり頂き、誠に有難うございます。

今日は、前回行かなかった場所を探索し、五角形の謎を解きましょう。

前回の田中先生のお陰で、資料は沢山あります。」

 

伊達が、

「この大五角形には、何か意味があると考えます。

自然のなったとは思われない、何か意図的なものを感じます。」

 

小田が、

「そうですね、前回の「オタモイ事件」で、僕たちが捜索した様に、

今回も、地図や歴史資料を元に現場を回りますか?

もしかしたら、今度は「開拓使の財宝」が絡んでるかも?」

 

斉藤が、

「前回は、時間も限られ、曖昧な結果で、終わって仕舞いましたが、

今回は時間的余裕もあるし、地元の札幌ですから、条件は有利ですが、

随分昔の話ですので、これもかなりの難題になりそうですね。」

 

林が

「まずは、近い方の、「清華亭」から行ってみますか。」

と言って、駅の北口から、線路に沿って、東へ歩き出した。

 

場所は北大のクラーク会館の南側向かいだ。

そこには、小さな建造物があり、次のような説明があった。

 

(説明の内容)

 

清華亭は、札幌市の有形文化財に指定されている歴史的建造物。

明治13年、明治天皇の北海道行幸の際の休憩所として建築されたもので、

建築時と同じ場所に今も建っている和洋折衷の歴史ある建築物。

札幌初の公園「偕楽園」のなかに、貴賓接待所として建てられた建物です。

公開されているのは洋間と和室、照明、家具なども昔ながらの物です。』

と書いてある。

 

この説明を読んで一同は、

 

「思ったより、小さいですね。時計台と一緒で少しがっかり。」

 

「「偕楽園」の中に建てられたと書いてあるけど、「偕楽園」て何処?

今はもうないし、それともこの広場が「偕楽園」?

これだとしたら、家の隣の公園の方が大きいよ。」

 

「皆さん、お気持ちはわかりますが、あちらの説明も読んでみましょう。」

と林が言ったので、次に公園の説明を読んだ。

 

(説明の要約)

 

『「偕楽園」は札幌最初の公園で、明治4年、岩村判官の命で開設。

現・北大の一部を含む広大な敷地を有していた。
偕楽園は、日本三名園の一つ水戸の偕楽園と同名で、

開拓使も札幌最初の公園づくりにあたって、

日本の代表的公園、水戸偕楽園をモデルにした。


明治19年、中島に遊園地が開設されると、

偕楽園は民間に払い下げられ消えていった。

しかし、当初開拓使の計画には、

札幌の北に偕楽園、南に中島、西に円山、東に東こう園(現・天使病院付近)

を配置する、遠大な構想があった、という。

 

偕楽園内に明治天皇北海道行幸の際の休憩所として清華亭を建設したのは、

時計塔完成前年の明治13年のこと。

開拓使工業局の直営の建築で、時計台、豊平館と並ぶ札幌最古の洋風建物である。

庭園は米人の園芸指導者ルイス・ベーマーがつくり、

樹木や花、池の美しさに感嘆した黒田長官は正式に「水木清華亭」と命名した。


行幸直前の明治14年夏には、札幌農学校卒業を目前にした、

新渡戸稲造、内村鑑三、宮部金吾の後の三秀才が清華亭に集まって、

将来を語り合ったという逸話がある。写真も現存する。

清華亭はこのように北海道新時代の象徴であったかもしれない。


また清華亭の周囲には、内外の植物を栽培し風土に適すか否かの試験をする育種場、

サケ・マスのふ化場、仮博物場、工業試験場ともいうべき製物試験場などがある。

偕楽園は単なる公園としてだけではなく、

当時の札幌の文化、産業のセンターとして大きな意義があった。」

 

説明を読み終えて一同は、

 

「なるほど、元はかなり広大だったんだ。

なのにまた払下げで、転々として、かわいそうに、

最終的にこんなに小さくなってしまったのか。」

 

「当初の東西南北に大きな公園を造る計画で、

西の円山公園と南の中島公園は現在でも残っているが、

北はこんなに小さく、東は無くなったのは、なぜだろう?」

 

「「開拓使工業局」の直営の建築と言えば、田中先生が研究している、

あの「村橋久成」さんが関係しているのでは?

産業センターとして利用したのは、いかにも村橋さんらしいですね。

確かに、入口の屋根の下に、星のマークがあります。

これで、4カ所目ですね。」

 

「札幌農学校の三秀才が、集まって将来を語り合ったとは、

その話の内容を知りたいですね。

お雇い外国人と、何か密約があったとか・・・」

 

こんな意見が出て、暫し話が盛り上がった。

 

「それでは、次の目的地、先ほど話に出た、南の公園である、

中島公園の「豊平館」へ行ってみましょう。」

と林が言って、一同、地下鉄で中島公園まで、移動した。

 

地下鉄の駅から出てすぐが、公園の入り口だ。

「ススキノ駅」から、1駅しか離れていないのに、全くの別世界だ。

緑に囲まれた公園は、都会のオワシスそのものだ。

横には、札幌を代表する「パークホテル」がある。

 

公園の中に入って、林が

「久しぶりに来たな、この公園、結構広いんですよ。

真ん中の池を右から回ると、児童会館、人形劇場があり、

その先に日本庭園、八窓庵が在り、「豊平館」はその先です。」

 

しばらく行くと、公園全体の説明があった。

 

『中島公園は明治16年「中島遊園地」という名前で設立、公園ではなく、

北海道物産展や市民の集会所など幅広い用途で使われていましたが、

明治43年、本格的な公園整備がされ「中島公園」へと呼び名が変わりました。』

 

「なるほど、ここは「遊園地」だったのか。」

 

そして、「豊平館」の説明は

『明治時代にヨーロッパ文化の影響を受けた「豊平館」は、中島公園では異色の存在だと言えます。この洋館は、明治14年に完成。現在は一般向けにも公開されていますが、もともとは明治から昭和にかけて皇族向けのホテルとして利用されていました。

明治天皇の行幸後は、一般向けの宿泊施設として、利用されるようになりました。その後、昭和23年には、豊平館は宿泊施設ではなく、市民の公民館として利用されるようになり、昭和33年に大通から中島公園に移築してからは、市営の結婚式場としての役割を果たしています。』

「豊平館」の説明を読み終えた一同は、正面玄関前に並んで、

腕組みをして、頭を傾げた。

 

「たしかに、正面玄関の屋根の下に、赤い星のマークがある。

ここが、5つ目の五稜星の場所だ。

しかし、昔は大通りに在ったと説明にある。

しかも、「時計台」のすぐそばだったのに、どうしてこの場所に・・」

と、同じことを考えた。

 

すると伊達が、

「ここで、「五稜星」を付けた歴史的建物を、全て確認しました。

しかし、先日の田中先生の話にもあった通り、市内には他にも存在する。

例えば「北大」や「札幌駅」の建物には、星のマークが付いているが、

それらの建物は、立て替えられ、昔の建築物ではない。

昔からの建物を、線で結ぶと、少し歪だが、星の形になる。」

と言って、先日林が皆に配布した、資料の図形を指さした。

そして続けて、

「しかし、ここで問題が2つある。

1つ目は、この「豊平館」の場所だ。昔は大通りで「時計台」の近くにあった。

2つ目は、「ビール醸造所」とその後にできた「ビール園」、「北大」と「清華亭」の

様にダブっている事だ、新しい2つを入れると、7か所になってしまう。

当然古い方を優先すべきだが、7つを結ぶと、歪な7角形となる。

この2つを、どう解釈すべきだろう?」

と疑問を皆に投げかけた。

 

それを受けて、斎藤が、

「黒田は、「五稜星」ではなく、「七稜星」を支持していたので、

マークは五角形のままだが、場所は七角形で良いのでは?」

 

続けて小田が、

「場所の問題は、時代と共に変化したので、初めの5カ所に限定し、

それより、その場所に、何か意味が有るのか?を検討しましょう。

まして、星の形「正五角形」は、平安時代の陰陽師、安倍晴明のマークや、

ユダヤの五芒星に似てるので、この星、自体に意味があるのでは?」

といったので、

 

言い出しっぺの林が、

「それを言われると痛いですね。以前から歴史関係の本に、

この話題が出て来るので、今回の課題にしましたが、

明確な根拠が無いのです。皆さんは、どう思いますか?」

 

誰も言い出さないので林が続けて、

「参考に、今の建物とは違っても、初代の建物の出来た順番に並べると、

明治6年 開拓使本庁舎(赤レンガは明治21年)

明治9年 北大、ビール醸造所

明治13年 清華亭

明治14年 時計台、豊平館

明治15年 明治天皇行幸

となります。

つまり、明治天皇の行幸に合わせて作られた物が多いのです。

そして、なんとこの年は、開拓使が廃止された年です。」

林の説明に、一同は目が覚めて、

 

伊達が

「そんな行幸直前の明治14年夏に、札幌農学校卒業を目前にした、

新渡戸、内村、宮部の三秀才が「清華亭」に集まって、

将来を語り合った内容とは?キリスト教に改宗し、協会を作る夢、

単なるその夢だけでは、無い様な気がしますね。

事実、その後三人とも、時期こそ違うが、米国へ留学している。」

 

斉藤が

「札幌農学校をはじめ、北海道の産業に貢献したお雇い外国人の筆頭、

ケプロンは、南北戦争で勝利した北軍の、グラント将軍(大統領)のブレイン、

開拓使の黒田長官の直々の頼みで、他人に任せるのではなく、自ら来道し、

ベーマー、クラーク、アンチセルなど、優秀な教授陣を連れて来た。

それには、幕末の英国、仏国とは違い、政治的ではない、

もっと違う次元の、物を感じます。

自国と似た環境の北海道に、開拓当時の「フロンティア精神」を吹き込み、

ともに歩んで行こうとする、フレンドシップのような関係を築くことが、

目的だったのかも知れない。」

 

小田が

「そうかも知れませんね、幕末から明治の初めにかけて、

欧州へ留学し、維新を実行し、新しい政府を作った元勲達は、

留学先で、日本を早く西洋化して、中国の様に植民地化されずに、

列強に追いつくことだけを目標にしていた。

その為に、キリスト教組織や、「フリーメイソン」にも、関係していたと、

聞いたことがあります。留学経験の無い黒田にとって、米国は新鮮で、

目標だったに違いないと思います。」

三人三様の意見が出てきたが、「

星印の本当の意味、星印のついた建物の位置については、

誰も答えを持っていなかった。

 

林が

「北海道開拓は、米国西部開拓と似ているし、

共通点が有るのも、十分に分かりました。

しかし、今回の探検のテーマの「五稜星を探せ」では、

「五稜星」が付いた5つの建物の確認は出来ましたが、

その配置の意図はまだ不明です。

単なる偶然なのか?意味が有るのか?

それとも、もう二つを含めて、七角形で考えるべきなのか?

疑問は増えるばかりです。」

と本日のまとめらしき事を言うと

 

小田が

「もう今日はこのへんで止めて、ビールでも飲みに行きましょう。

いくら真剣に考えても、結論は出ませんよ。

続きは飲みながらやりましょう?」

と提案したので、

全員納得して、ビールを飲みに行った。

 

またしても、「腰抜け探検隊」らしき結果で、

次回もこの続きが、繰り返されることだろう。