「娘さんは、自分なりの考えを持っている。話を聞く限りでは、娘さんなりの学校に行かない理由がちゃんとある。もしかしたら、お母さんは、世間体というものに、こだわりすぎなんじゃないでしょうか。私には、娘さんがこんなところに連れて来られる理由が見つからない。
娘さんがおかしいんじゃなくて、おかしいのはお母さん、あなたなんじゃないですか?」
忘れもしない。
私が16歳で高校を不登校になった時に、母に連れて行かれた茨城県の児童精神科。
丁寧に、優しく頷きながら、私の話をただ、聴いてくれた女医。
30分から、1時間くらい時間をかけて、ゆっくりと、一通り私の話を聞いた先生が、母に伝えた言葉です。
私が精神医療、精神保健福祉の数々の問題点に気が付きながら、何故福祉の中にいて、精神医療を変えて行きたいと願い、活動をしているのか。
それは、数は少ないけれど、当事者の味方になって、こういったことをちゃんと言ってくれる精神科医が存在していることを、身を持って体験した過去があるからです。もう、30年位経つんですね。
こういう先生はまだ、今の世にも居るのでしょうか?
どこかにそんな先生がいてくれる筈と、それは一人ではなく、探せばきっと何人でも見つかると。
…そう信じたいのです。
しかし残念ながら今の私が福祉の仕事をしながらよく聞く、精神科医の言葉や、治療方針は、
漫然とした無思考なパターン化をしていたり、あまりにも人情味に欠けていたり、呆れを通り越して耳を塞ぎたくなるものが多いように思います。
そして、昨今の空前の発達障害診断ブーム。
当事者の子と会う度に、
どうしても、昔の私と母が、先生に言われた言葉が、頭を掠めるんです。
この子のお母さんは、一度でも、「その可能性」を考えたことがあるのだろうか、と。
自分の価値観から逸脱するものを拒絶する、
自分と違う人を異常だと言い切る、
なんでも病気と呼びたがる、
笑い飛ばせばいいようなことまでいちいち特別視したがる、
病的な世間体へのこだわり、
グレーをグレーのまま捨て置けない、
自分の意見を言っただけなのに反抗するなと激昂する、
貧困、夫との関係性、嫁姑問題、職場のストレスなど、何らかの理由でいつも母親がギリギリの精神状態でいつもピリピリしている、
などなど。
判断を鈍らせるような状態や状況、その他の問題点は、本当に一切、ないのだろうか? と。
いや、自分の母親がね、たまたまそうだっただけなんで。
たまたまだと思うんですけどね?
だってぶっちゃけ、子を発達障害に仕立てあげるからには。
あまり言いたくないんですけど、遺伝子学的に子は親に似るのだから、親だって高確率で自閉症スペクトラムやADHDの傾向あるんじゃないですか?
あまり言いたくないんですけど、ご両親、アスペルガーandカサンドラのコンビかも知れないじゃないですか。
親御さんの精神状態に、ゆったり子育てする余裕が一切ない場合もあるんじゃないですか?
それか、親側に規則やルールへの「異常なこだわり」、物事の完成度への「異常なまでの執着」があれば。
病的な厳密さや、高い完成度を子に求めますよね。
偏っている価値観の親側から見ると「定型発達」の子が「ADHD」に見えてしまったりするんじゃないでしょうか。
発達障害なんて、見る人の視点、発達傾向によっていくらでも変化する、あてになりそうで、それほどあてにならない「血液型占い」「星占い」程度のものだよなあと思うのです。
※個人的にはABOやRhの判定だけでなく、血液の成分をもっと精密に調べたり、生まれた時間、場所まで正確に割り出したホロスコープを用いたりするならば、一定の信憑性はあると思っていますが。
もちろん、ありとあらゆる精神疾患、パーソナリティ障害なんかも、そうです。
みんな、大概どれかには当てはまるもんです。
せいぜい「干支占い」や「動物占い」みたいなもんだと思ってます。
些細な個人差を異常視する、その視野狭窄がヤバくないですか?
専門家ですら、冷静な目を持ってるとは限らない…ということを、公私で今まで出会った複数の精神科医の方たちを見て、嫌というほど思い知りました。
だから、身近な人を病気認定するには、自分が冷静な状態か、一度考えてみるべきだと思います。
もちろん、親御さんや当事者家族の人は、ほとんどの人は、当然そんなことは何度も考えたことがあって、
その上で相当に迷って悩んで、精神科を勧めたり、連れて行ったりしているのであろうことは重々承知の上で、です。
でもね。
私の母は、冒頭の言葉を医師から伝えられた日の帰り道、車の中で、
「あの先生、…ちょっとおかしいね」
と、娘の私に言いました。医師に、あなたの価値観がおかしいと指摘されたのにもかかわらず、自分の正しさを、相変わらず信じていました。
そしてとうとう、自分をおかしいと言った先生のことを、おかしいということに、したのです。
先生がおかしいから、先生が私の味方をしたのだと、母は本気で思っていたようでした。
自分は絶対に間違っていない。
自分は絶対におかしくない。
おかしいのは、自分以外の、自分と意見の違う人間の方だ。
例えどんなに理知的で弁の立つ人であっても、自己の無謬(むびゅう)性を頑なに信じる人が私は非常に苦手です。昔の母を思い出すからです。
(今の母はだいぶ丸くなったので大丈夫ですが)
『おかしいのは、どっちだか…』
と私は思いましたが、母には言いませんでした。
話が面倒くさくなるから。
今でも、基本的に波風を立てたくない性格は変わりません。
しかし、私は立場が変わりました。
今は、福祉の人間です。
「この子はおかしい!」「この人はおかしい!」とヒステリックに叫んでいるその人の方が、実はおかしい。(こともある)
その可能性は絶対に見逃してはいけないと思っています。
だから、誰かから病気のレッテルを貼られた人を見かけたら、真っ先に味方しようと思っています。
そのレッテルを貼った誰かが、医師やカウンセラーであっても。
そうでないのなら、尚更。
その上で、どうしても、どうやっても、その人に何らかの矯正すべき歪みがある時に、治療することを目的として、一旦その人が病気だということにしてあげた方が、本人の為になるだろうと判断出来る場合でも、
私は医師ではないので、出来れば病名のレッテル以外の、具体的で詳細なことがらを、本人に伝えたいと思っています。
悔しいことに、
福祉の人間には、医師の診断を覆す資格がありません。
(個人的に、私はあなたは病気ではないと思うよ、などと伝えることは出来たとしても。)
だからどうしても。
「どうか無闇に精神科には行かないで」と、言わずにはいられないのです。
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