『源氏物語』第3帖【空蝉】~第3章~
【軒端荻との逢瀬】
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憎しとはなけれど、御心とまるべきゆゑもなき心地して、なほかのうれたき人の心をいみじく思す。「いづくにはひ紛れて、かたくなしと思ひゐたらむ。かく執念き人はありがたきものを」と思すしも、あやにくに、紛れがたう思ひ出でられたまふ。この人の、なま心なく、若やかなるけはひもあはれなれば、さすがに情け情けしく契りおかせたまふ。
「人知りたることよりも、かやうなるは、あはれも添ふこととなむ、昔人も言ひける。あひ思ひたまへよ。つつむことなきにしもあらねば、身ながら心にもえまかすまじくなむありける。また、さるべき人びとも許されじかしと、かねて胸いたくなむ。忘れで待ちたまへよ」など、なほなほしく語らひたまふ。
「人の思ひはべらむことの恥づかしきになむ、え聞こえさすまじき」とうらもなく言ふ。
「なべて、人に知らせばこそあらめ、この小さき上人に伝へて聞こえむ。気色なくもてなしたまへ」
など言ひおきて、かの脱ぎすべしたると見ゆる薄衣を取りて出でたまひぬ。
小君近う臥したるを起こしたまへば、うしろめたう思ひつつ寝ければ、ふとおどろきぬ。戸をやをら押し開くるに、老いたる御達の声にて、
「あれは誰そ」
とおどろおどろしく問ふ。わづらはしくて、
「まろぞ」と答ふ。
「夜中に、こは、なぞ外歩かせたまふ」
とさかしがりて、外ざまへ来。いと憎くて、
「あらず。ここもとへ出づるぞ」
とて、君を押し出でたてまつるに、暁近き月、隈なくさし出でて、ふと人の影見えければ、
「またおはするは、誰そ」と問ふ。
「民部のおもとなめり。けしうはあらぬおもとの丈だちかな」
と言ふ。丈高き人の常に笑はるるを言ふなりけり。老人、これを連ねて歩きけると思ひて、
「今、ただ今立ちならびたまひなむ」
と言ふ言ふ、我もこの戸より出でて来。わびしければ、えはた押し返さで、渡殿の口にかい添ひて隠れ立ちたまへれば、このおもとさし寄りて、
「おもとは、今宵は、上にやさぶらひたまひつる。一昨日より腹を病みて、いとわりなければ、下にはべりつるを、人少ななりとて召ししかば、昨夜参う上りしかど、なほえ堪ふまじくなむ」
と、憂ふ。答へも聞かで、
「あな、腹々。今聞こえむ」とて過ぎぬるに、からうして出でたまふ。なほかかる歩きは軽々しくあやしかりけりと、いよいよ思し懲りぬべし。
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【空蝉69-1】憎しとはなけれど
【空蝉69-2】
【空蝉69-3】
【空蝉70-1】いづくにはひ紛れて
【空蝉70-2】
【空蝉70-3】
【空蝉71-1】この人の、なま心なく
【空蝉71-2】
【空蝉71-3】
【空蝉72-1】人知りたることよりも
【空蝉72-2】
【空蝉72-3】
【空蝉73-1】つつむこと
【空蝉73-2】
【空蝉73-3】
【空蝉74-1】忘れで待ち給へよ
【空蝉74-2】
【空蝉74-3】
【空蝉75-1】なべて、人に
【空蝉75-2】
【空蝉75-3】
【空蝉76-1】かの脱ぎすべしたる
【空蝉76-2】
【空蝉76-3】
【空蝉77-1】戸をやをら
【空蝉77-2】
【空蝉77-3】
【空蝉78-1】夜中に、こは
【空蝉78-2】
【空蝉78-3】
【空蝉79-1】暁近き月
【空蝉79-2】
【空蝉79-3】
【空蝉80-1】民部のおもと
【空蝉80-2】
【空蝉80-3】
【空蝉81-1】老人、これを
【空蝉81-2】
【空蝉81-3】
【空蝉82-1】わびしければ
【空蝉82-2】
【空蝉82-3】
【空蝉83-1】一昨日より腹を
【空蝉83-2】
【空蝉83-3】
【空蝉84-1】答へも聞かで
【空蝉84-2】
【空蝉84-3】
【空蝉85-1】なほかかる歩きは
【空蝉85-2】
【空蝉85-3】
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小君、御車の後にて、二条院におはしましぬ。ありさまのたまひて、「幼かりけり」とあはめたまひて、かの人の心を爪弾きをしつつ恨みたまふ。いとほしうて、ものもえ聞こえず。
「いと深う憎みたまふべかめれば、身も憂く思ひ果てぬ。などか、よそにても、なつかしき答へばかりはしたまふまじき。伊予介に劣りける身こそ」
など、心づきなしと思ひてのたまふ。ありつる小袿を、さすがに、御衣の下に引き入れて、大殿籠もれり。小君を御前に臥せて、よろづに恨み、かつは、語らひたまふ。
「あこは、らうたけれど、つらきゆかりにこそ、え思ひ果つまじけれ」
とまめやかにのたまふを、いとわびしと思ひたり。
しばしうち休みたまへど、寝られたまはず。御硯急ぎ召して、さしはへたる御文にはあらで、畳紙に手習のやうに書きすさびたまふ。
「空蝉の身をかへてける木のもとに
なほ人がらのなつかしきかな」
と書きたまへるを、懐に引き入れて持たり。かの人もいかに思ふらむと、いとほしけれど、かたがた思ほしかへして、御ことつけもなし。かの薄衣は、小袿のいとなつかしき人香に染めるを、身近くならして見ゐたまへり。
小君、かしこに行きたれば、姉君待ちつけて、いみじくのたまふ。
「あさましかりしに、とかう紛らはしても、人の思ひけむことさりどころなきに、いとなむわりなき。いとかう心幼きを、かつはいかに思ほすらむ」
とて、恥づかしめたまふ。左右に苦しう思へど、かの御手習取り出でたり。さすがに、取りて見たまふ。かのもぬけを、いかに、伊勢をの海人のしほなれてや、など思ふもただならず、いとよろづに乱れて。
西の君も、もの恥づかしき心地してわたりたまひにけり。また知る人もなきことなれば、人知れずうちながめてゐたり。小君の渡り歩くにつけても、胸のみ塞がれど、御消息もなし。あさましと思ひ得る方もなくて、されたる心に、ものあはれなるべし。
つれなき人も、さこそしづむれ、いとあさはかにもあらぬ御気色を、ありしながらのわが身ならばと、取り返すものならねど、忍びがたければ、この御畳紙の片つ方に、
「空蝉の羽に置く露の木隠れて
忍び忍びに濡るる袖かな」。
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【空蝉86-1】小君、御車の後にて
【空蝉86-2】
【空蝉86-3】
【空蝉87-1】いとほしうて
【空蝉87-2】
【空蝉87-3】
【空蝉88-1】伊予介に
【空蝉88-2】
【空蝉88-3】
【空蝉89-1】小君を御前に
【空蝉89-2】
【空蝉89-3】
【空蝉90-1】あこは、らうたけれど
【空蝉90-2】
【空蝉90-3】
【空蝉91-1】しばしうち休みたまへど
【空蝉91-2】
【空蝉91-3】
【空蝉92-1】空蝉の身を
【空蝉92-2】
【空蝉92-3】
【空蝉93-1】かの人もいかに
【空蝉93-2】
【空蝉93-3】
【空蝉94-1】かの薄衣は
【空蝉94-2】
【空蝉94-3】
【空蝉95-1】小君、かしこに
【空蝉95-2】
【空蝉95-3】
【空蝉96-1】あさましかりしに
【空蝉96-2】
【空蝉96-3】
【空蝉97-1】左右に苦しう
【空蝉97-2】
【空蝉97-3】
【空蝉98-1】かのもぬけを
【空蝉98-2】
【空蝉98-3】
【空蝉99-1】西の君も、
【空蝉99-2】
【空蝉99-3】
【空蝉100-1】小君の渡り歩く
【空蝉100-2】
【空蝉100-3】
【空蝉101-1】つれなき人も
【空蝉101-2】
【空蝉101-3】
【空蝉102-1】忍びがたければ
【空蝉102-2】
【空蝉102-3】
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