続・宇宙の法則番外編 釈迦の教え | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。


一つ目の記事はこちらです


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11362687691.html
被害報告H24.09.24


昨日の記事そしておとといの記事も読んでください。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11362349983.html
進化した諸星メガネ
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11361245976.html
アプローチの違い 仏教と覚醒
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11361455669.html
アプローチの違い 仏教と覚醒 後書き


どうして顔に拘るのかは不明ですが
ゲル状の異物で胃腸を満たしての
顔への介入が続いているようです。


大腸は空気で膨らんだ状態にされて
その上で腹筋周辺に力を入れれないように電磁波の照射。


その上での排泄妨害です。


再び下剤を飲んでしまいました。


排泄しようとすれば気に入らないと
自動車も走り出します。


水分蒸発も同時にあります。


手ごわい人間達が来ている気配も既に感じています。


眉間には肉がつけられ顔をしかめると
眉間にはっきりと皺が浮かび上がります。


ホウレイ線に眉間の皺に
額の皺です。


額には電磁波の照射跡として
はっきりと二箇所小さな穴が開いている状態です。


顔には不思議と余分に肉をつけるので
私が少しでも健康体であることを印象付けるための
関与であろうと言うことも想像がつきます。


私を健康体に見せることで
被害者であることを隠蔽したいと言う意識も
あるかもしれません。


以前からこの介入は続いていますし
胃腸を詰めるような介入を繰り返している理由のひとつは
それだと思います。


一方では脳や身体へと栄養を送ってくれている方も
いるようです。


よい効果と悪い効果が重なって。。

戸惑っています。

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地震で気になるのはマリアナ諸島付近での
地震が増えていること。


http://www.iris.edu/seismon/


HAARPレーダーはまだ見れませんし
AEもまるで反応なしで却って怪しいので
今後は何を参考にすればよいのでしょうか。


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今日はまた仏教に関して取り上げてみます。


仏教というよりもイエスキリストの先輩でもある
ブラザーズの指導者でもある”お釈迦様”の教えに関してです。


諸行無常、諸法無我という言葉が
仏教では釈迦の悟りの一つとして捉えられているので


私達はそれを生命の科学、宇宙の法則と関連させて
まずは理解して見たいと思います。


最初は少し難しい話からですが辛抱して頂ければと思います。


大切なのは後半です。


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まず諸行無常であるが、諸行無常の諸行とは、
森羅万象、物質的現象、精神的現象をとわず一切の現象を指す。


このような一切もろもろの有為現象は、常に生滅変化を続けて、
瞬時といえどもとどまることなく、
常住不変のものはないという原理が諸行無常である。

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宇宙空間の万物は元々は四次元空間の創造主の残像想念を、
物質としての元素で三次元空間で具現化させたものであり、


宇宙空間に存在する万物は同じ形状に留まる事はなく
常に創造と崩壊を繰り返している。


私達が生きている100年程度の時間ではなくて
もっと長い時間で測れば


この三次元において同じ形のまま留まっている物は存在しなければ
不滅の存在もない。


そのため全ての存在は
存在と言うよりは現象に過ぎないと言うのが
私達の理解でもありますが、


宇宙の法則の原理と
諸行無常が同じことを語っていると言う事が
ここでは容易に認識できるのではないでしょうか。


一方、先日から気になっているのが”無我”なる言葉の意味と
それが指し示すものが何であるのかと言うことです。


”自我”とか”無我”と言われたものが
何を指し示しているかを理解しなければ
私達は釈迦の教えの意味が理解できないかもしれません。


当初、”諸法無我”という意味は


”万物や自然界の理において
それ自体が独立して存在しているものはない”


と言う意味であると理解していたのですが


”自我”という物の捉え方が
必ずしも私達の想定しているものと同じであるとは限らないことも
仏教徒同士の論争を見ていて気がつきました。

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諸法無我とは第一の諸行無常より当然導きだされる印であり、
全てのものには固定した実体我というものがないという原理である。


 諸法とは全てのものであり、
第一の「諸行」は因縁所生の有為法たる現象を指しているが、
「諸法」は有為法のみならず、真如法性という無為法をも含めている。


 「無我」の「我」とは何を意味しているのか。
釈尊以前のインド哲学者たちは、我々の中に、


不生不滅の固定的実体があるように考え、
それをア-トマン(我)と名づけた。


ア-トマンとは「常一主宰」のという意味で、
単独でなりたち、常住で変化しない存在で、自身全体を支配しているものである。


 しかし諸行無常を顕かに観た釈尊は、
この我の思想を根底からくつがえし諸法無我を主張した。

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仏教知識の無い私にとって
何よりも言葉の難しさが理解を妨げます。


私達は言葉から教えを理解する時には
その言葉の意味する物がどのようなものであるかを
認識する事が大切です。


ここでは諸行無我についての説明になっていますが、
有意法とか真如法などと言う言葉が出てきます。


”諸法無我”以前に”我”と言われるものの意味
”自我””無我”の意味を理解することが前提のようです。

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後には、形而上的な思惟によって「法」を有為法と無為法とに分けて考えられる。
「有為法」は無常変転する存在として、それを色法、心法、不相応法などと説き、
「無為法」として常住不変の法を説く


真如(しんにょ)は、「あるがままであること」という意味があり、真理のことを指す

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諸行無常から諸法無我が導き出されると触れられていることからも、
万物が移り変わればそれに伴い諸法則も真理も


そして万物の存在も固定して存在することはできないと言う前提があって


固定して存在するものが無いと言うことは、
そこには固定を前提とする自我と言うものは存在しないと
言っているのだと解釈すれば良いのでしょうか。


ここで問題となってくるのが”自我”なる存在です。


人間を想定すれば自我と言うのは
”物思う自分と言う存在”
を示すことになるのだと思います。


もしくはその自分が持っている意識です。


万物が不滅ではあり得ず、
常に変化している存在と言う前提ですから


万物の意識もそれらと共に存在している
人間の意識も変化せずには存在できない。。。


つまり固定的に存在する自我など無いと考えれば
自我は存在しないとなる。


そう解釈するのでしょうか。


しかしこのような理解もあるようです。

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スッタニパータ』などの最初期の韻文経典では、無我はさかんに説かれる。
それらによれば、「無我」は我執の否定を意味し、


そのように、あらゆるものが我ではない(諸法無我)と観察し、
これを智慧によって理解すると、


清浄(しょうじょう)で平安な涅槃の理想に到達できるとする。

初期の散文経典では、我(自我)を


「私のもの」
「私」
「私の自我」


の3種に分かち、いっさいの具体的なもの、
具体的なことのひとつひとつについて、
「これは私のものではない」「これは私ではない」「これは私の自我ではない」
と3つの立場から観察する。

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無我とは我が存在しないことを意味するのではなくて
我執を否定することだという理解です。


これを見ると、仏教はどうやら無我という言葉の原点になった
”自我”なる存在を無いものとして否定しているのではなくて、


自我に執着することを否定的に捉えたものが”無我”であり
元々は自我の存在を前提として、
”無我の境地”などという話が派生していることが判ります。


では自我と言うものは一体何を象徴したものでしょうか。。


コギト・エルゴ・スム 我思う故に我あり


全ての現象を、幻や実在しないものとして捉えようとしても
思考する自分の意識を否定することはできない。


有名なデカルトの言葉です。


私達が何かを認識する時にそこには思考する自分が存在していて
三次元の現象の全てを存在しない幻のように認識しても


思考する自分の意識に関しては
それを存在しないものと認識することはできない。


当たり前の様で
実は究極の解答がここにあるのだと思います。


つまり自我なるものは存在している。


そして問題はその自我と言うものを具体的に
どのように認識し定義するかです。

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お釈迦様はイエスキリスト同様に
太陽系の兄弟たちのマスターだったそうです。


つまりは創造主の法を理解している存在で、
イエスキリストが自らの教えを福音する前に密教などを学んだことも
それとは無関係ではないはずです。


地球社会で教えを与えた先人の知恵をイエスは受け継いで
その後、自分なりの手法で創造主の法を語ることになった。


その手本となったお釈迦様が、創造主の法を前提に
自我や無我をかたったのであれば


自我なるものが、”心”もしくは”魂”と言う
私達が意識として感じているものに触れた内容であろう事も
想像がつきます。


そしてその”我”に執着することを否定したのですから
それが私達が”心”と呼んでいるものであろう事も
想像がつきます。


私達が自分を他人と区別して、そこに自分を感じるために
使用しているのは間違いなく心だからです。


魂が共通意識であり創造主の分身であることは
繰り返し触れていますので取り上げません。


そしてお釈迦様は当時の人間に対しては
三次元と四次元を語ることなく、


魂と言う創造主の分身に関しては
具体的な説明はしなかったのだと思います。


イエスの時代でさえそれは理解されませんでした。


まして更に昔の時代に釈迦がそれを説いたところで
理解できる人間はいなかったのだと想像がつきますし


お釈迦様の教えの目的は、
心の暴走をいかに抑えるかを私達に教え
そのための道徳を実践させることだったのだと思います。


つまりは心の煩悩を抑えた先に存在するのが
無我の境地だという話になってくるのではないでしょうか。


お釈迦様の”悟り”に拘った後の人間達が、
お釈迦様の語った具体的な人のあり方については
それを当たり前の生き方だと捉えたのか重視することなく、


悟りなるものを意識しては
誰もが釈迦の到達した域へと自分たちが進むことを目的としたのが、
仏教といわれる宗教の始まりだったのではないでしょうか。


つまりお釈迦様がこの地球の中で自ら宇宙的覚醒を果たすことで
一般の人間に創造主の法への導きをはじめた時に


その一連の全ての様子が周囲の人々に認識されていたために、
お釈迦様のその宇宙的啓示をも含めた全ての過程こそが
地球に生きている人間にとっても必要であると認識され、


お釈迦様の到達した領域こそが
私達地球社会の人間に求められているものであると
理解されてしまったのではないかということ。


しかし、お釈迦様の域に達することのできる人間は
勿論この社会には存在せず、


そのためにも、お釈迦様の悟りの領域に到達するための
あらゆる手法が模索されて後の仏教として発展して行った。


それが現代にまで伝わっているのではないでしょうか。


しかし元々のお釈迦様が身近な人間に語った内容は
実際はもっと簡単なものであったことは
私の宇宙の法則の一番最初の記事で取り上げました。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11009631713.html
宇宙の法則


お釈迦様は人としてあるべき姿を実践した先に
”ブッタ”を想定していたのではないでしょうか。


再び引用して創造主の法と比較して見ます。


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―生きとし生ける者は幸せをもとめている。
もしも暴力によって生きものを害するならば、


その人は自分の幸せをもとめていても、
死後には幸せが得られない―(真理のことば)

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これなどは組織的犯罪行為などで
他人を攻撃している人間たちに聞かせてやりたい言葉です。


人間や動物に危害を加えることは良くないことだと
人としての当たり前の理を語っています。


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森に住み、心静まり、清浄な行者たちは、
日に一食を取るだけであるが


過ぎ去ったことを思い出して悲しむこともないし、
未来のことにあくせくすることもなく、
ただ現在のことだけで暮らしている 

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宇宙の法則の、
現在こそが重要であり真理だという話につながる意識です。


過去を思い出しては悔やむのではなくて
将来を不安がるのではなくて今を精一杯生きる。


これは明日を思い悩むなというイエスの言葉にも通じますし
創造主の意志そのものなのだと思います。


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今日われらは美しい太陽を見、美しく晴れた朝に逢い、
気もちよく起き上がった


煩悩の汚れのなくなった覚った人に
われらは見えたからである
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ここで釈迦は”覚った”状態として
煩悩の汚れが無いことと触れています。


”覚醒”は煩悩、すなわち心のエゴから開放されることで
齎されるという前提での言葉と認識できます。


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われらは一物をも所有していない。大いに楽しく生きて行こう。
光り輝く神々のように、喜びを食む者となろう


かれらは快楽を求めないからである~かれこそ実に最上の人である―

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お釈迦様に関する言い伝えの中に
天からの声とお釈迦様が会話する場面があります。


その声の主をお釈迦様が神々と触れていたのだと想像できますし、
その時天から語りかけたのは
勿論、霊的な存在ではなくて天使達のはずです。


つまりここで光輝く存在とされていたのは
スペースブラザーズの事かもしれません。


最上の人と言っているので
それが創造主である可能性も否定はできません。


彼らはものを所有しませんし
心の欲する快楽を求めず生きています。


生の中で、私達が感じているものとは違った

本当の意味での喜びを感じ続けながら生きている存在でした。


アダムスキーの著書の中でブラザーズを語った一節です。
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万物が奉仕し合っていることにたいして感謝をすること。


これは日々新たにはじめられることで、
彼らは創造主に奉仕するために日々がもたらす多くの機会を
喜びと熱心さをもって迎えるのである。


彼らは自分自身や自己の想念とか印象などを調べているので、
地球人が陥りやすい偏見でそれらを歪めるよりも、
純粋なままにそれらを認めてそれに従って行動することを知っている。
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これがブラザーズの持っている意識の一環です。

そんな彼らを釈迦が取り上げた一節だと想像していました。

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すべて悪しきことをなさず、善いことを行い、
自己の心を浄めること、これが仏の教えである。
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仏=ブッタだとすれば
仏の教えというのは、そのまま私達がブッタとなるために
実践すべき教えと言うことになります。


善悪の概念で私達のあるべき姿を説明してくれていますが、
結局は釈迦は良心を持って正しい行いをすることを奨励し、
心の改善を求めている事がここからも理解できます。


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わかち与える人には功徳が増大する


そなたのために仕事をしてくれる人々がいるのではない
誠実をつくして名声を得、何ものかを与えて交友を結ぶ

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他人は自分のための存在ではないと認識すればよいのでしょうか。


ここでの”分かち合うもの”と言うのは
おそらくは物質的なものに限定せず、


思想や知恵や慈しみのようなもの
全般を示しているのだと思います。


名声と言うと私達の社会では地位や名誉のような
捉え方をしてしまいますが


おそらくはここでは”信頼”のような意味で
使用されているのではないでしょうか。


他人を利用するのではなくて
他人に対して奉仕をすることで他人との間に
信頼関係や交友関係を結ぶ事。


そんな話へと繋がって来るのだと思います。

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ことばと心を正しくするようにこころがけ、身に悪事をなさないで、
もしも飲食豊かな富んだ家に住んでいるならば、


信あり、柔和で、よく分かち与え、温かい心でいるならば、
これらの四つの事柄に安住している人は、来世を恐れる要がない

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この辺が釈迦が述べ伝えた道徳の実践の中での
最たるものでは無いでしょうか。


内容は説明するまでも無いと思います。


ただ、ここで”富んだ家”と語っているのは
文字通りの家ではないと思います。


その後に”四つの事柄に【安住している】”という表現もありますし


富んだ家に住んでいると言うのは
間違っても裕福な家に住んでいると言う意味ではなくて


例えば
「豊かな心を持った肉体のフォームに魂を置いているならば。」


のような内容を家に例えて表現したものだと思います。


ここで釈迦は”来世を恐れる必要はない”と語っています。


釈迦は輪廻転生を前提に
このような話をしていたのだと言うことになると思います。
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苛酷なることなく、貪欲なることなく、
動揺して煩悩に悩まされることなく、
万物に対して平等である

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ここでの心のあり方も
そのまま創造主の法に繋がるものです。


心の動きに何かと誘導されることや、
心の動きに従うことでの極端な状況を良しとせず、

その上で万物に対しての平等を語っています。


先述の”分かち合う”、”交友を結ぶ”という言葉とともに
”調和”や”平和”にもつながる意識です。


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自分を楽しませ、喜ばせ、父母~妻子~友人~楽しませ、喜ばせ~

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これは”楽しませ喜ばせ”を”愛せ”に変えると
イエスの言っていた万物への愛に繋がるものです。


楽しませる喜ばせると言う意識は、
いうまでも無く”奉仕の心”だと理解できます。


つまりこの一節は奉仕の意識の重要性を語っていると
認識することもできます。

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愚劣な人が富みを得ると、自ら用いることなく、他人にも与えない。


健き人・智慧のある人は、富を得たならば、
自ら用い、またなすべきことをなす―
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イエスが富を独占するのではなくて
持っているもが持たないものに分け与えろといった意識と
繋がるものです。


所有の概念にイエスは否定的でしたし
先の引用からも釈迦も同様の意識であった事が理解できるはずです。


富を得たならばそれを自分のためだけに利用するのではなくて
知恵ある人間、創造主の意志に従う人間は
それを奉仕のために利用しなさい。


そのように勧めていたのだと想像できます。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達して
一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ―

 
母が己が独り子を命を賭けても護るように、
そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、
無量の慈しみのこころを起こすべし~


この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ―
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ここで”崇高な境地”と呼んでいる状態こそが
仏教徒が”無我の境地”と呼んでいるものだとすれば


それは究極の理想としての、これら道徳の実践の元に
存在していると言うことにもなります。


そしてその時私達の有している意識は”慈しみ”の心。


それは創造主の意識そのものに通じます。


イエスはそれを”隣人への愛”として表現していました。


自分を愛するように隣人を愛せと言う言葉の真意は
万物に対しての慈愛の意識を持つ事

つまりは創造主の意志の実践だと私は説明しました。


釈迦はここでそれと同じ事を語っているのではないでしょうか。


ここで釈迦が”崇高な境地”と呼んでいる状態は
”万物に対しての慈しみを持った状態”であるということは
内容からも認識できます。


やはりそれは創造主の意志に他なりません。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者・ブッダに、
罪過は存在しない。


かれに過失(道から外れること)は存在しない―
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


ここで釈迦は究極の理想を実現した存在として
修行完成者という意味で”ブッタ”と語っています。


これに相当する人間は勿論この世には存在していませんし
ブラザーズの社会にも存在してはいません。


存在しているとすればそれは創造主ですが
ここではそれを指しているとも思えません。


釈迦が自ら目指している究極の状態として
一切の過失(過ち)を犯すことの無い存在としての理想としてブッタを語ったか、


もしくは過失=”道から外れること”とありますので、
道徳レベルでの完成者として”ブッタ”という目的を設定し
人はそうあるべきだと皆に説いたかの何れかだと想像できます。


後者であれば勿論、お釈迦様は”ブッタ”に間違いありません。


そしてイエスキリストも”ブッタ”です。


仏や仏の教えの原点がここから見えてくるはずです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 
信仰心あり、学び修めた賢明な人は、食物を用意して、
食乞う人々を飲食物をもって満足せしめよ~


貧窮なる人々、旅行く人々、宿無き人々、
乞う人々に施しとして与えよ―

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

旅人をもてなせと
イエスキリストも言っていました。


ここでの例えからも判るのは、


例え相手が社会的権威の無い人間であっても、
その時だけ一時的に関わる人間であっても、


身近な人間や権力者と言われる人間に接するときと同様の
奉仕の心を持って接しろと言うのが
お釈迦様の意識だと言うことです。


持っていない物には分かち、請うものには与え、
人々に対しての施しをすることが


学び修めた”ブッタ”としての
賢明な人間のあるべき姿だと言っているのではないでしょうか。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  

この世でもの惜しみし、吝嗇(ケチ)で、乞う者を罵り退ぞけ、
他人が与えようとするのを妨げる人々、


かれらは、地獄、畜生の胎内、閻魔の世界に生まれる―
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

一方では悪しき心のあり方、悪しき人間の例として、


他人への施しや奉仕を拒絶し、

その上に他人が人に与えることをも妨げる人間を例にして


そんな人間達は地獄、畜生の体内、閻魔の世界といった
忌まわしいとされている場所に生まれ変わると脅かしています。


天国と地獄はブラザーズにとっては、
人々に創造主の法への深い理解を求めるための手段でした。


人々が恐れている概念をこのように取り上げることで
勧善を勧めたものであると理解すれば良いのではないでしょうか。


そして”畜生の胎内”に生まれると言った例えが、
そのまま人間が動物や他の生物に生まれ変わるという
誤解をも生み出したのだと想像する事もできます。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

悪い行いをした人々は地獄におもむき、
善いことをした人々は善いところ(=天)に生まれるであろう。


しかし他の人々はこの世で道を修して、
汚れを去り、安らぎに入るであろう―

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
直に解釈すると悪人は地獄へ行き、善人は天国に行き、


その他の人間は汚れを取り除いた状態で
それらとは別の状況に置かれるのだと説明しています。


私達の理解を前提に解釈すれば


悪しきと言うのは創造主の意志からかけ離れている状態ですし
良いと言うのは創造主の意志にあっている状態です。


つまり行いの悪い人間達はいずれ地獄へと落ちていく。。。


私達風に解釈すれば何れ魂の消滅を迎える。


良いことをした人間は天に見える別の惑星に
記憶を持って生まれかわる。


そして残りの人間達はその生での心の汚れを
肉体の消滅と共にいったんリセットされて、
記憶もろとも消し去った状態になるわけで


その状態で新しい生をやり直すことになる事を
私達は認識しています(カルマは残りますが)。


【安らぎに入るであろう―】とありますが
私達が天国と呼んでいるところにいくのは善い行いをした人間、


恐らくはブッタを目指し道徳的に賢明に生きた人間なのですから


【安らぎに入るであろう―】と言われた場所は
天国ではありません。


転生の法則を天国と地獄
そして悪人と善人と言う分類で説明すると
このような説明になったと言うことで


生を終えた後に魂の消滅を迎えることなく、
且つ記憶を持っての転生を迎える事の無い人間は


それらとは別の道に進むのだと言う例えであると
認識すればよいと思います。


釈迦が語っているのは
転生の法則そのものであっただろうと
私達は想像できる筈です。


その指し示した進むべき道と、
そのためにあるべき私達の意識や必要とする生き方に関して


お釈迦様の教えとイエスキリストの教えは
何の違いも無いのだと思います。


後にブッタと言われる状態になることが
道徳の実践以上に重視され、


ブッタが道徳の実践の延長に存在していると言う
その実態を忘れ去られ、


修行や瞑想や座禅で自らの肉体に厳しい修行を課す事でこそ
ブッタと言われる状態や悟りや覚醒が齎されるのだと
意識される事となったために、


キリスト教徒が”救い”と”天国”を求めたのと対照的に

仏教徒は”悟り”や”覚醒”を求める事となったのだと想像しています。


しかし両者は同じ事を語っていたのです。


宗教の悲劇は、他の宗教との小さな価値観の違いを強調しては
それについて討論し争ってばかりいる事だと思います。


唯一神の意志を、誰もが自分の心の価値観に照らして
心地良くなる様に解釈してもいると思います。


しかし多くの場合、
真理は宗教の共通項こそに存在していているのだと思います。


ただ、その教えを与えた聖人の背景には、
特有の時代や文明や文化や生活慣習がありますし


そのそれぞれの置かれた環境の中で
異なる人間達に効果的に理解させるために
慣習や生活様式にも気を配り、


それをも盛り込んで日常生活の指針と併せて提示される事になるので
その結果与えるべき知識や説明も異なる手法がとられることになります。


聖人の教えに関する枝葉部分に関しては、
聖人が生まれ育ち、教えを語ることになった場所での
それぞれ異なった習慣や慣習が、


人間の作り上げた戒律として聖人の死後に成長するに至った。


しかしその教えの大元は、人としてあるべき姿を指し示し
意識の改善を求めたものであると捉えれば
全ての宗教は同じ場所へと集約されるはずです。


私達は思想や宗教の相違点に目を向けるのではなくて
共通点こそを追求すべきだと言うことです。


多くの場合そこにこそ真理が存在しているからです。


そしてそれこそが創造主の法であり
宇宙の法則だと言うことです。


このように私は解釈しましたが説得力はありますでしょうか。


多くの方の理解が得られれば幸いです。



【貴方に無限なる力の祝福がありますように】




http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11009631713.html
宇宙の法則
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11014121674.html
宇宙の法則VOL2
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宇宙の法則VOL3
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宇宙の法則VOL4
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宇宙の法則VOL5
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宇宙の法則VOL6
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宇宙の法則VOL7
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宇宙の法則 VOL8
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宇宙の法則 番外編 私達の進化
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11023680441.html
宇宙の法則 VOL9
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宇宙の法則 VOL10
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11027180903.html
宇宙の法則 VOL11
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11083897948.html
宇宙の法則 番外編 その2
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11029560737.html
宇宙の法則 VOL12
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11269525578.html
続・宇宙の法則
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11106785529.html
イエスの転生
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11108616691.html
宇宙の法則 番外編 イエスの言葉 前編
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11108619928.html
宇宙の法則 番外編 イエスの言葉 後編