自宅の駐車場の前に路駐をされて、
車の出し入れが出来ずに困ったことがありました。
どかして欲しいと言いたくても、
いつもその人がいる訳ではなく、
頼んでも、その棟梁がムッとした様な怒った様な態度を取るので、
怖くて言えず、我慢していました。
なるべく車を使わない様にしていて、
今日は路駐していなかったらいいなといった風に考えていました。
自分に悪い所がなければ、不都合なことは起きないはずだから、
私が悪いんだと何度も反省して内観して、いい子でいようとしました。
この様なことが起きる原因は自分にあるんだと。
けれども路駐されてしまう。
鏡だから、迷惑を掛けるあの人は私なのか?
怒っているのは私なのか?と考えても、
思い当たるところはない。
結果的に、子どもの病院や猫の病院などの緊急時にも、
車を出すのが大変な事が重なり、ぶち切れてしまいました。
「いい加減にして下さい!」と怒鳴ったのです。
その時、近所の人も出てきて、にゃんさんどうした?みたいに言われたり、
他の作業をしている人が、棟梁を窘めたりしました。
すると棟梁はうるせー!と逆切れしたのです。
私はその時、一切理不尽なことは言っていないし、
正当な要求をしているのに、
相手は私をコントロールしようと、
恐怖心を煽って抑えつけようとしているんだ、
という風に感じました。
あぁ、こんな人に気を使っても仕方ない。
まともな会話なんて出来ない。
ビクビクせずにしっかり自己主張すべきなのだ、
自分を守らなくてはと、はっきり分かりました。
人の顔色を窺って、右往左往する姿を見せるものだったのです。
初めてぶち切れるという経験をして、
いい人でいなくてはいけないという拘りを手放せました。
霊的に優れた人というのは、
いつもニコニコして優しく穏やかでいなくてはいけないと、
思い込んでいたのです。
自分がそうあれば、周囲の人も優しい人しかいなくなる、
悪い人がいるのは私に悪いところがあるからだと。
勿論、ぶち切れて怒ったのはよくなかったなと思いますが、
我慢せず、どうしたいかを伝えるのは必要でした。
相手に気を使わなくても良かったのです。
理不尽なことに対して、やめて欲しいとか、
それは嫌だということ自体が悪い訳ではないし、
そういう人に振り回されてネガティブな感情にならなくていいのです。
よく、わたしのところへ来て、
否定・悪の力が自分に向けられており、
それが自分に害をなすのを信じるという人がいる。
そんな人は、
自分自身の創造想念の力にそれを与えているのである。
わたしは、そんなことを言う人には、
”否”というのである。
あなたがそんなものは決して自分の上に力を加えないと、
完全に思っており、そしてあなたの意識を調和と平和の状に保っている限り、
あなたを害するものは何もないのである。
おそらく誰かがあなたに悪意を送るかも知れない。
そうしたらどうしたらよいか。
それを送らせなさい。
だが、あなたはそれを受入れてはいけない。
あなたの電話が鳴るが、あなたがそれに出なければということはない。
あなたが電話器を取りあげて耳にあてなければ、あなたを害する様なことは何も聞くことが出来ないのである。
非常に沢山の人人が悪の力に力をかしているのである。
大聖者たる偉大なるしるしの一つは、物的攻撃や心的攻撃にもかかわらず、この世界を平穏に通っていることだということをあなたは知らねばならない。「ヨガの真義」(M・ドーリル博士著)より
他人をコントロールすることは出来ないし、
相手がどういう選択をするのかも自由です。
それについては、上記で”個別の世界領域”
という表現がありました。