論文内容自体については、これまでに数回書いたので今回は触れませんが、田母神氏問題の遠因としてどうしても書きたいのが、戦後日本の安易な軍隊&戦争否定観です。
戦争に負けた日本の軍隊は一端解体されましたが、その後自衛隊として復活しました。しかしそもそも憲法で否定されている軍隊そのものである、自衛隊の存在自体が矛盾した存在であり、さらに現在の憲法に描かれる戦争の否定や軍隊の不保持というものが、残念ながら、人間の現実の世界の実相とそぐわっておらず、それが自衛隊員のみなさんの中にも大きな精神的矛盾を生んでいるのではないでしょうか。
世の中には戦争が起こっても戦わず殺されてしまった方が良いなどと嘯く人間も居ますが、それは二重に欺瞞です。第一に自分が例えそうであっても、誰か一人でも拒否する人間がいれば最大公約数的にそちらを優先するべきであり、第二に平時にそのような事を言っていても、実際には危機的状況に陥ると大抵の人間は生存本能から生きたいと望むからです。また戦争せずに他民族に征服された方が幸せになるという妄想も間違いです。全世界の歴史を見てもやはり自分らの文化や文明を簡単には捨てきれない人間が居る限り、そちらに合わせるべきなのです。
民主主義者が大好きな多数決という考えで言うならば、世界の大半の国が国際紛争を戦争で解決することを当然と考えており、当然軍隊の保持も国家にとって最低限の条件とされています。しかしどうした訳か、そういった世の中の大勢は無視して、狂信的に軍隊の否定をしている人たちが居るようです。何か論理的でない発想の原点には、違う意図があるのかもしれませんね。(特に反戦平和を掲げ自衛隊廃止を叫ぶ人々が、韓国の徴兵制には触れないのが謎ですね。国際紛争が話し合いで解決できるなら、真っ先にお隣の半島で実践できるはずです・・・)
話を戻すと、人間の世の中の実相として軍隊が認められている以上、当然ながら軍隊を保持する国家では、軍隊とは尊敬され一種のステイタスとして扱われています。戦争が身近な国ほど大事にされるのは当然ですが、昔のサヨクが大好きだったスイスなんか国民皆兵で子供まで射撃の訓練をするようじゃないですか。しかしサヨクはその事実を隠して、軍隊の不保持のまま永世中立をすれば良いとか叫ぶ始末。
しかしなぜに軍隊が尊敬されるかと言えば、それは軍隊と言うものが結局人間社会の合理性と機能性を極限まで追求した組織であり、それは一種の人間の可能性の一端だからではないでしょうか?もともとバラバラな存在である個と言うものが、如何に効率よく集団として機能し目的を達成するか、それは単純に軍隊という存在を超えて、人間の行動半径の最大部分として常に目標とされる存在では無いでしょうか?スポーツから会社の経営まで、軍隊から学べる部分は多いでしょう。さらに科学技術の大半は戦争時に大幅に発展した物が多いのも事実です。
そして当然ながらもう一つの理由は、他民族による征服の被害が大きいからこそ、また戦争自体による傷跡も大きくなるからこその、それを未然に防ぐ存在である軍隊に対する感謝の念の発露としての尊敬があるはずです。何しろ、軍隊というものがその性質上人間の体力の限界を常に要求される以上、そのテンションを維持するには精神的なコンディションの維持も必ず必要であり、逆に言うと最低の状態で常に最高のコンディションを保てる訳が無いのです。それはオリンピックの選手などが、目標を狙う気持ちが保てなくなって引退する・・というような場面から、受験勉強やフィットネスに対するモチベーションの大切さなどからも簡単にわかると思います。
つまり人間は、『機械じゃ無い』のです。よくよく考えてみて自衛隊という物が、いかに非人道的な行為を隊員に強いているかということです。
軍隊は存在してはいけないから、軍隊そのものであっても自衛隊と名乗り、街中を行進どころか通行することすら拒絶され、大災害が起こっても助けは不要と拒否される始末。しかし逆に軍隊としての高い練度と激務は強要され、当然ながら、実際に大災害が起こると処理に借り出される。しかしその際はなるべく軍隊を匂わせるような物は出さないように気を遣わされ、マスコミからは賞賛どころかそれでもバッシングされる始末。一体人間としてこのような状況下でまともな仕事が出来るのかどうか疑問だ。
このような状況下で自衛隊内部は極端な二つの思想に分裂したのでは無いかと思う。一つは極力『軍隊ぽく無い軍隊を目指す』という手法だろう。つまり自衛隊は海外に派遣されても戦いませんよ、橋を架けたり水道工事したりしますよ、国内では災害時にこれだけ活躍していますよ、護衛艦は災害時には入浴できますよーと言った、本来業務を隠して民生的部分を強調し、現憲法の理念になんとか強引にすり合わせようという物である。当然ながらその際に重要になるのは、旧日本軍は悪の象徴として、絶対に自分達とは連続性が無い、ましてや戦後史観は絶対であるというものだろう。自衛隊というものが生きていくうえで健気なまでの努力である。これは国民の税金を預かる自衛隊というものが、その国民から離れて存在できない以上、自衛隊のサバイバルとしてこれを単純に卑屈だ戦後自虐史観だとバカにする気になれない。何故ならば、その自衛隊に常に国民は守られているからだ。それを足蹴にバカにするのは頭の悪いマスコミと同じレベルになってしまう。
そしてもう一方が今回の田母神問題で顕在化したような、むしろ戦前戦中の歴史観を強調する事で、軍隊という存在の当然さを取り返そうという考えかただろう。論文で強調される、どうして自分の国が悪いと教えられて、守ろうという気になるのか?という問いかけは先に述べたように、人間として当然の素直な気持ちの表れであって、この部分を軍国主義だとか戦前回帰だとか叫ぶのはまさに人間理解の浅さとしか言えない。結局人間は完全な裏方、日陰者としてだけ生きていく事はでき難いのだ。「給料払っているんだから我慢しろ!」とでも言える人間がいるだろうか?(今回の田母神氏は多少自己陶酔的な部分も感じないでは無いが・・・。)
たかじんのそこまで言って委員会でたぶんに後者に属すると思われる元自衛隊関係者が、前者的な人々を非常に悪し様に罵っておられた。自分としては前者のような穏健派という物を、組織自体のサバイバルという観点からは当然の行動であり、悪く言う気になれない。現在の自衛隊が旧軍との関係、伝統をことさら廃しようとするのも政府がアメリカ追従の方針を続ける以上、仕方が無い。業務に忠実であればこそそうなる。時代劇の悪代官の家来が武士の忠義として、悪代官の命令に従わないといけないのと同じ理屈だろう。そこにも一つの美意識なり自負なりは存在するだろう。(中には本気でアメリカの下請けする事が日本の為だと信じ込んでおられる人もいるだろうが。)
しかし現状の状態がいびつなままなのは誰の目にも明らかになり、むしろ今回の田母神氏の問題が自衛隊と日本が持つ構造的な問題をさらに大々的に露呈させたんじゃないかと思う。
今回の事件は、文民統制だとか任命権責任だとかそんな小さな問題に矮小化させて済ませる問題だとはとても思えない。戦後60年経って、ようやく戦後体制そのものを国家国民こぞって考える機会、好機でありこの期に及んで、まだ幹部が命令したから論文が出されたの退職金がどうのと言っている民主党は攻撃ポイントが非常にずれているとしか感じない。
結局のところ、嘘の世界観に塗り固めた上での理想主義などなんの価値も無く、逆に現実が汚いからとやけになったようなハードボイルドを気取るのも間違いで、現実の問題点を認識した上で、理想とそのギャップを計算し、どうすればマシ、より理想的な妥協点にたどり着けるかを考えるべきなのでは無いか。戦争というものが人間の世界と切り離せない実相であると認識してから初めてそれに反対する事もできるスタートに立てるのじゃないでしょうか。
具体的問題で言えば、安全保障とりわけ拉致事件という現実が一向に解決できない事実をもって、平和憲法の理念は間違いであった、適切な防衛力と紛争解決に戦争も辞さないという気概が無いと、なんの罪もない中学生がさらわれても取り返す事すら出来ない、いやそれ以前に不審船を即座に撃沈できる法律があれば、さらわれる事すら無かったんだと気付いたんじゃないだろうか。
もはや拉致事件を具体的にどう解決するかという個別の案件とは別に、日本国の今後の問題として、憲法が実相と合わない、それを支える戦争の否定、軍隊の否定の思想が完全に崩壊したと考えるべきで、そのことをマスコミはもっと公に討論するべきじゃないだろうか?中身の違いでは無くて、枠組み自体がもう崩壊しているのだ。むしろマスコミの憲法内容自体に対する論議の無さは異様だ。
かといってアメリカのように脳みそに筋肉が生えているような軍国主義には日本はもうならないだろう。日本は世界でも有数の大人しい民族であり、無意味に他国に攻め入るような事はする事が無いだろうし、むしろ平和憲法を持った過去の記憶が安易な戦争の抑止になるだろう。太平洋戦争と平和憲法、この二つの両極端の時代を経験した日本だからこその、ちょうどよい頃合というものの境地を知っているはずだ・・と信じる。
しかし今回の参考人招致はどうか?民主も自民もおまけにTV局までが生中継を避けるようにし、現体制を保持してそれにすがりつくことだけに汲々としている。こんな腑抜けた状態でよくも他人にだけは激務を強要して文民統制だとか言っていられるものである。結局現在の政治家の全てがアメリカとの同盟下の自主性の無い日本に安寧としていたいだけなのだろう。
日本は一刻も早く改憲し、自衛隊を日本軍と改称して軍隊保持を明確にし、軍人が制服のまま自然に街中に溶け込める、駐車場に装甲車が普通に泊まっている、軍事パレードにお年寄りから子供までもが笑顔でこぞって見に来るような、そんな平和国家に日本がなることを願ってならない。