怒れる小さな茶色い犬-130605a

チボリオーディオのバッテリーを交換しました。
ラジオは常に聞いているわけではないけど、
料理とかちょっとした作業の時は使ったりしてます。
視覚に訴えないからその分作業に集中できるというか、
いずれも主張の少ない名傍役的に存在してくれるのは色々有り難いです。

チボリオーディオについてはもう10年近く前に
↑の(奥に見える)iPALを購入したのがきっかけですネ。
特に音質のクオリティーの高さに感動したのを覚えています。
とかく世の中がテレビ中心になって…&インターネットと、
そうするとどこかアナログなモノに惹かれたりもするのです。
先の理由に加えてラジオにはそうしたアナログの良さみたいなものや、
例えば「この曲いいな♪」とかいったのも
他のメディアよりラジオの方が多い気がします。
そういった偶発的な出会いや縁を求める…というのも
ラジオを選択する1つの理由でもあったりとか。

因みにラジオがきっかけで聞き始めたのは、
チャラ/安藤裕子/POLYSICS/モーモールルギャバン…
ん~、もっと居る様な気がするけど、、忘れてる…苦笑

Tivoli Audio -チボリオーディオ-
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忘れてもいいこと。

テーマ:
忘れてはいけないこと。
忘れなきゃいけないこと。
そして変わらずに繋ぐイノチ。

あれから2年の節目に何を想うのか?
ふと思い浮かんだのは河瀬直美監督の沙羅双樹(映画)でした。
近しい者の死と残された者達の想い。
どうあがこうと時間は変わらず流れていて、
あの日駆け出した路地を通りを…
何年もの歳月を経て同じ通りを路地を遡って…
まるで運命のようにそこに宿る新たな命。

とかって振返ってみたら実は去年も同じこと書いてたのね。
人はそう簡単には変われないらしい…。
ただ去年との大きな違いは我が家にも新しい家族が増えたこと。
そして季節は間もなく根拠のないポジティブを連れてくる。
そうゆうのに乗っかったって構わない。
季節が巡るのはそうゆう意味もあるんだと思うのです。




沙羅双樹 デラックス版 [DVD]
/河瀬直美,福永幸平,兵頭祐香

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幾らブルーハーツがそうやって歌ったとて、
刃物を振り回していいはずなんてない。
ましていい歳した大人なら尚更だ。
つかよ、、
逆にこの曲に触れた事がある人ならば、
決してそんなバカな真似はしないと思う。そんなもんだと思う。
そうゆう意味で彼らの功績は素晴らしい。
きっと多くの若者を色んな形で救ったはずで…。

あたしも若い頃は時折口論になったりしたこともあったけど、
あぁゆう事件を知ると…加えて幾分歳をとったせいか、
随分とやり過ごす事を覚えた気がする。
特にラッシュ時の電車程ハイリスクな場面はない。
だから席に座る事もはじめから期待しない。
仮に席が空いていたとて、
結果両隣になる相手の雰囲気で座らない選択もしばしば。
座ってイライラするより立って「健康的じゃね?」
とか考えてる方が精神衛生上よいはずである。

そもそも刃物を持って電車に乗るなんて止めてもらいたい。
今の技術でどれほど可能かよくわかんないけど、
自動改札に金属探知機能を設けて欲しい位だ。。




THE BLUE HEARTS/トライエム

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例の部活動における体罰問題からはじまり、
柔道女子日本代表の監督辞任と、
今、体罰は悪しきモノとなってしまった感がある。
このままでは泣き虫先生の7年戦争…
あの名場面↑もテレビではもう見れないかもしれない。
(拳の涙を見逃さない辰兄ィが素敵です…笑)

個人的に体罰…という表現は好きではないが、愛のムチ的、
ある程度感情に任せたとしても、”想い”のあるソレはあってもいいと思う。
伝え方は言葉だけでは必ずしもない。
時としてそういった伝え方があってしかるべきかと。
アムロの名台詞しかり。

メディアというか世論というか、あまりに極端に論じられてはいないか?
つまり例の部活動の一件は体罰を超えたものであり、
一部での何十発という報道も考えるともはや事件で、
加害者のとった行動はあまりに病的に思える。
だから体罰という事だけでソレと他と一緒にする事に
違和感を覚えずにいられない。いずれもソレの有無の問題ではないのだ。
なのに有れば悪で無ければ正。
…と簡単に括られるようなこの雰囲気がなんとも薄気味悪い。

でも確かに暴力は随分と縁遠くなった気はするなぁ。
今時親父に殴られた経験を持つ方が少ないだろうし、
もしかしたら幼少の頃に取っ組み合いのケンカをした
経験を持たない人も少なくはないんだろうな。
だからといって違う形の陰湿な暴力は存在するわけで…
とかく世知辛い世の中だ。



p.s.
やはり繊細なのは苦しい。
加えて人より抜きん出た能力を持った人は尚更だ。
逆に鈍感で能力のある人間程楽なものはないかもしれない。
しかしそのとばっちりを受ける側はたまったもんじゃない。
鈍感故に相手を察することができず、
自身に出来た事を、自身が出来る事を平然と相手に求める。
結果が伴わなかったときの所作を知らない。
こうゆうのはビジネスの現場でもよく見かける。
無論2通りのタイプが存在しなければ何もかも成り立たないのだけど…
なかなかジレンマなのです。
怒れる小さな茶色い犬-130210a

写真に並べたマグもそうだし、
ダイニングテーブルの椅子も含めて
テーブルウェアや家具を揃えるという意識があまりない。
…というより育った環境の反動なんだろうなぁ。
あたしらが育ったのは一億総中流と呼ばれた時代で、
幸せのスタンダードみたいなのがあった気がしますね。
お揃いのダイニングチェアに茶碗や湯飲み。
コーヒーカップとソーサーのセット…等。
学校では人類皆平等と教えられ、個性や差異を受け入れる…
そういった教えはあまり印象に残ってないですね。

でも実際は何もかも同じでない。
それどころか100人集まれば100通りの何かが存在するわけで。
違う椅子で同じテーブルを囲むと言う事もある種の教えかなぁ…とか。



家族が皆夫々異なる湯飲みでお茶を飲む。
だからといって家族の温もりは十二分にそこにはあって、、
石井克人監督「茶の味」もそんな温もりを感じさせる良い作品です。


茶の味 グッドテイスト・エディション [DVD]


いじめのない学校作り。
みたいなスローガンほどインチキくさいものはない。
くだらない大人がいじめはよくないよ。
なんてのもしかりでいけすかない。
他者との関係や差異を把握する過程で程度の差こそあれ
いじめ的なものが発生するのは自然なことだと思う。
まして成長著しい子供なら尚更。
無論自殺まで追い込むようないじめはよくないのだけど、
ただ当人が自殺をほんの少しでも思いとどまることが
できるような環境づくりはあった方がよいと思う。

いつか誰かが言っていたのだけど、
子供の成長には”ナナメ”の関係が必要不可欠である事。
縦(親)や横(同級生)だけのコミュニティでは
特に追い込まれた時に限界があるということ。
子の気持ちとして親には余計な想いはさせたくないし、
だからとて同級生に救いを求めるのは論外だ。
そうゆうとき近所に居るいとこや叔父叔母。
いつものお店のお兄さんやお姉さん。
幼い頃遊んでくれたお兄さんやお姉さん。
といった存在が風穴になってくれる可能性は少なくはない。
加えて絶対的な強者や弱者が街から居なくなったのも
多少は関係しているかもしれない。具体的な表現は避けるが、、
いや、言い換えればそういった人がわかり難くなったのかなぁ…
結局昔に比べて今は弱肉強食な時代なんだな。。

いずれもいじめはなくすものではなく、
”ある”といった前提で対応する方がよっぽど効果的だと思うのです。




29/奥田民生

個人競技と団体競技

テーマ:
ロンドンオリンピックも終わった。
基本的にオリンピックは個人競技の祭典だと思う。
しかし今回は団体競技もなかなか楽しませてもらった。
どんな人も…
特に男子であれば成長の過程でスポーツとの付き合いを選択する場面がある。
両親や兄弟の影響もあるだろうし、流行、環境、好み…
また自身の運動能力や性格にも左右されるはずで。

能力や努力がそのまま結果にシビアに反映される個人競技。
それとは逆の団体競技。
夫々に自身を成長させる要素はある。
ただ世の中の仕組みがどんどん個へ移っていく中において、
団体競技でより培われる協調性なんかはこのご時勢捨て難い成長要素だとも思う。
加えて自己犠牲といった感覚も団体競技特有かもしれない。
ただ野球にある犠牲バントや犠牲フライはそれとはちと違うかな。
記録に残らないのが本来の自己犠牲だと思うのです。

さて何の話かというとビジネス。
まぁそんな堅苦しく言わなくても職場における組織というか、、
その組織を束ねる幹部社員に至っては個人競技出身者が多いという事実。
これはあくまであたしの職場近辺のことだけど、
確かに協調性ばかりでは上に立てないのもわかるかな。
ただあまりよくない個人競技出身の幹部の例として、
部下の能力や性格に配慮を示さず自身の尺度で物事を進めること。
勿論それについて行ける部下も居るしその逆もしかし。
このバランスが後者に傾くと組織としてはなかなか厳しい。
だからといって配慮だけでは推進力に懸念が生じたり。
いずれも多くの人が何らかの組織、プロジェクトに属している以上、
協調性や誰かの自己犠牲なしでは成り立たないのも事実。

きっとどっちも相応に必要なんだけどね。
なんとなくそんなことを考えた2012年のオリンピック。
そういえば小学生の頃、チャコールペン、定規、縫い針、まち針…
幼いながらも与えられた大人びた道具達にときめいたものです。
今思えばあれほど1つ1つの主張が強い道具箱も珍しい?(笑)
確か学校が指定した裁縫箱があって皆同じプラスチックの箱を持っていた。

カタカタカタカタ~♪

それ以来全く思い出す事もなかったのにふと蘇った。
あたしの箱は母から持たされたクッキーの空き缶だったこと。
箱が違えば中身も違う。皆とは違うチャコールペン、定規、縫い針、まち針…
でも不思議と皆と違うことも嫌ではなかったな…
逆に当時から天の邪鬼というか、他と違う事による優越感というのかなぁ?
そうゆうの、感じてた様な気もする。
それとも頗るポジティブだっただけだろうか…(笑)

でも何故あの時クッキーの空き缶だったのだろう?
あたしも皆と同じ箱になるタイミングはなかったのだろうか?
上の兄弟も居ないからリコーダーの色だって皆と同じモノだったのに…
いやいや、まさか当時から天の邪鬼なあたしが言い出した事??
今度機会があったら母に聞いてみようかなぁ…。。

p.s.
川上弘美さんの短編集「ざらざら」の一編「えいっ」を
読んでちょっと思い出したりしたんですよね。。


前記事の続き)

Facebookの台頭で様々な縁が生まれてるけど、
例えばユーミンの歌うDESTINY♪のように
出会うタイミングも場所も服装も選べないような…
そんな心揺さぶるドラマチックな展開からは
どんどん遠ざかってる気がするのがちょっと寂しい。

それは本来人知の及ばないところで生まれるものだった。
だからこそ神秘的であったり運命的であったり敷居の高いもので…
結果、出会うも出会わないも…
会うときに限ってサンダルを履いてるのも(笑)
そうゆう運命だったんだな…と受け入れることもできた。
でもそれを、言い換えれば”縁”のようなものを
自身がSNSを通じてある程度操作できちゃうと、
逆に逃げ道や拠り所をなくしちゃうんじゃないかなぁ…
運命や縁を理由に言い訳できないというかね。
言い換えればその分自己責任が重くのしかかる時代なんだな。

幾ら時代が進んでも心の片隅で時々芽生えるようなセンチメンタルは
そのままそっとしておくことも時の流れに任せる事も…
ある種の美学だと思うのです。


悲しいほどお天気/松任谷由実


実名登録。
あたしみたいな名前の珍しいひとはちょこっと躊躇してしまう。
だからってどうこうなるものではないのだろうけど、
例えばサバンナに群れている草食動物の安心感はないかなぁ…。
赤信号、皆で渡れば怖くない。みたいなのも感じられない。
なんか無防備な剥き出し感…というかね、、(苦笑)
ただ探す方にとっては見つけ易いから
そうゆう意味ではハイリスクハイリターン…。

プロフィール画像。
顔写真なんてバカ正直に晒す必要はないじゃん?
ワンちゃん、ねこさん、ぬいぐるみでもokよん♪
とかも思うけどそれって”顔本”の本質じゃないよね?
とか面倒くさいこと考えてみたり。
まぁ実際やるときは結局あたしも関係ない画像にしちゃうかも?だけど、、
つかそもそもそんなん誰も気にしてねーし…とね(苦笑)

結局のところなんとなく薄ら気持ち悪いんだな。
無意識のうちに流れちゃう個人情報?みたいのがどうもね、、
でもでもこのご時勢それ気にしだしたら何も出来やしないし、
流れたところでその量が膨大だったら結局埋もれるわけで…
その分リスクも少なくなって…そうゆう時代か。。

とかいいつつあたしも手を出すのはもはや時間の問題(笑)
先日はその恩恵にあずかって20年振りの再会を果たしたし、
職業柄もう無視できない状況にある。
いずれもFacebookをやることでこのブログの位置付けを
再確認するためにも避けては通れない感じなんだなぁ。。

(続く)