忘れないようにメモメモ(日本の歴史、近代史) -5ページ目

生活の向上や贅沢のために働くことを当然とし正しいとする考え方は最も排斥すべき思想である



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政治権力の現象を一切幻影と観じ、現世にある神ながらの生活生理の中に、天道は循還するの神意を諦観し、生命の自然の永遠を信ずる生き方を、生活の貧困の面だけで見る者は、憐れむべき不幸な人である。豊かさや幸福は、経済繁栄によるものでないといふ真理の発見は、人間と人道の歴史の大きい支柱であつた。ローマの繁栄社会で、貧は富より尊いと教へたのはキリストである。この富を卑しとする教へは、尊いといふよりも、厳粛にして畏い。繁栄の人心を寒からしめる。驚くべきことを、人はたまたま悟り、唱へるものである。さうした一言は、何千年をへて、つひに死滅しない。時とかかはりなく、くりかへし人をふるひたたせ、心の慰安となり、魂の創造の機縁となる。かういふ社会通念では、彼は富人でゐるゆえに徳ある人だといふことが、一定理とされる。かういふ社会通念は、現在の我国義務教育の指導要項としては、社会科の根拠とされる。しかし何千年を守り伝へた東方のことばでは、彼は富んでゐるが心賎しくないといふのが、人物評価の規範となる。これは旧来修身の眼目だつた。孔子もキリストも、また芭蕉も、かういふ考えが生まれるやうな世界観の中で生き、これの恢弘を、道と信じて生きた。彼らの精神の世界に於ては、源氏に平氏がうち勝ち、又源氏が平家を滅し、次々に殺戮によつて権力を争奪するといつた時の経過は、歴史といふものでなかつた。それはただ百年も一瞬の如き、幻の世界にすぎなかつた。
老荘の思想の奥義にあつた政治的無関心や、権力否定の深奥な哲学が、我国の自然観(カムナガラ)に無かつたことは、我国人に於ける哲学思弁能力や瞑想的態度の欠如を現はしたものではない。わが国の朝廷の風儀は、万古一貫の国風の自然である。朝廷の風儀は風雅(ミヤビ)として現はれ、その頂上は言霊の風雅である。しかも言霊の詩文学にもあらはれ、地下の民謡にも、同じく現はれる。万葉集の撰者が、上は天子の御製から、下は乞食人の歌まで、一列に集に選んだのは、この理をあらはさぬのである。朝廷の風儀の現世に於ける悠久なる持続といふ事実が、老荘の論理と、古神道の理を分つのである。わが歴史は天皇の歴史であるが、天皇は現身に於て、つねに一である。代を変へても、個性は第二義のことにて、至高存在は永久といふ観念で、つねに一つであつて、代をかへるといふことと別個に永久に一なのである。普通の例では、二百年三百年とつづく国家は国名をかへることがない。よしんば小さい村であつても、その村名をかへることは、歴史の断絶の極め手である。純理的には如何なる権力もそれをなし得ないところである。江戸の旧町名を、区役所事務や郵便事務の便宜のために、住民を無視して恣意に改変し、住民がこれに対して反対するのは、一種の感傷的ノスタルヂーからであるがその根源には、歴史の断絶に堪へ難いとする思ひが無意識化にあるやうにかんじられる。
生まれ育つた土地に愛着をもつことは、理由のない感情であつて、それが正しいとか正しくないといふ議論とはかかはりがない。たまたま生まれた土地を憎悪するものがあり、その場合には個人的理由のある場合もあり、又観念的に一つのイデオロギーの空転から発するものもある。生まれた土地としての故郷や祖国を、懐かしいと思ふ者に対し、それが無意味であるとか、間違つてゐると説くことは、強権の発動としては何かの目的をもつて、それをなすのであらうが、弁証や議論としての場合は無意味である。父母を憎む子の無いわけではないが、父母をなつかしむのは大体人間の自然情である。父母が子を愛し、終生わが子を忘れないといふことも自然の情である、子が父母を終生忘れず、心になつかしさを持続してゐるといふことも自然である。この自然は人道の根基である。父母が長年月に亘り子供を養育することは、人間のみが知つてゐることで、人間たるの道徳の根源のものである。幼児の養育を公共の機関に託し、親は労働に従うことを、人道上よろこばしく楽しいことであると説いた者らは、彼らは本当にさう考えて云つてゐるのであろうか。私には想像できない。幼児を他人に託して、両親が自分らの生活の向上やむしろ贅沢のために働くことを、当然とし正しいとする考え方は、最も排斥すべき思想である。幼児を公共の託児所にあづけて、両親を国家の目的とする労働にふりむけ、子供は国家のものであるといつてゐるのは、あくまで排撃すべき恐るべき思想である。人道の根底は、親が子を愛するといふ点にあつて、道徳の根底もここにある。親が子を愛するといふ感情は、かつて教はらずして知るところで、それを以て人道の根底とされたのである。養育や教育については、その方法を学び習ふことが必要である。それは文明の向上といふ見地で必要とし、しかも文明向上の因は、この作業によるのである。子供を両親から流隔し、子供は親のものでなく、国のものであるといふ思想を、変形的な福祉国家の思想の中で認めようとする傾向は、最も恐るべき思想である。この種の第二次世界大戦後に発生した、新しい全体主義思想に、私は甚だ恐れを感ずるが、かういふことが事実の上で実現するといふことは思つてゐるのでない。人道は素僕で、人心は自然である。人間が数千年をかけて、つちかひ育ててきた感情に、私は信をおくのである。人間の知恵に信をおくことは、いまや不安にて、ただ人間の感情に望みを託し、私は多少心を安らかにするのである。
我国の地勢は、北にソ連、西に中共、太平洋につながる東にはアメリカ合衆国といふ、現在世界の三大軍国によつて完全に包囲されてゐる。この三大軍国の包囲の中にゐて、その三大軍国勢力の均衡による安全を考へようといふ者もゐる。我国が、この三大軍国に勝るものは、国土の風光の美しさと、人民の知能の優秀さといふ二つしかない。これらは生まれる以上にすでに賦輿されたものである。我国が世界の信義を失つてゐるといはれるなら、それはこの祖先によつて與へられたものに対する感謝の念に欠けるからであろう。この感謝の欠如は、反省がないからである。
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保田與重郎 「浪漫」昭和四十八年一月号 浪漫発行

「アジア人のアジア」の樹立のために

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昭和初年のわが青年を強く印象づけたものの一つは、我国が第一次世界戦争後の平和会議に所謂五大国の一員として列席し、戦勝国の立場で提出した「人種平等案」が、他の欧州諸国によつて臆面もなく否決せられた事実である。かうした不思議な議案が提出されねばならなかつた人道の状態及び理由と、それが否決された奇怪さは、尋常の文明の見地からは想像も出来ないことであるが二十世紀始めの世界平和会議で行はれた厳然たる事実である。憤りを思ふよりも、それに憤らねばならぬという人倫的な要求によつて、アジア一般は下等なものとの戦ひを決意せねばならなかつたのである。人道の英雄がつねに己の敵に値ひせぬものと戦ひ、しかも最終的に敗北する経過を、無数の史実によつて知り、偉大な敗北としてこれを認めたのは、第一次大戦後の昭和初年の日本の青春である。それが所謂「日本浪漫派」の標識の一つであつた。明治の近代化以来の日本自体のイロニー性を指摘し、その悲劇的終焉の美化と共に、近代の終焉を指向するものが昭和十年代のわが青春の神話であり混沌であつた。彼らはその悲劇と敗北を低い世界に於て認めることによつて、崇高な人間の理想的美的な態度を確立せんとしたのである。近代を終焉せしめんとする青春の動向であつた。その戦ひのために人間のもつ一切の能力と智恵と方法を用ひ、最も高貴な勇気と道義の純粋さをもつてしても、なほ敗北はあつた。歴史はその事実を過酷に、しかも美しいものとして教へるのである。それは偉大であり、究極にしてつひに美しいのである。


わが多くの同胞の青春を空しくし、しかも今日なほ下等な敵によつて、その勇気と高潔を蹂躙されてゐる大東亜戦争の最も清醇な理念は「アジア人のアジア」の樹立にあつた。近代史をひもとく者にして、誰がこの真理に抗し得ようか。大東亜戦争終焉後の結果は、アジア・アフリカの西欧植民地の一斉解放と独立、そして東欧諸国国家がソ連の隷属下にその独立を失ふといふ世界史の変調を起こしたのである。
アジアをアジア人の手に、と叫んで、往年のわが若者たちは、己の生命を桜花のいさぎよさになぞへたのである。わが昭和十年代の青春の描いた最も壮大なしかし崇高なそして無償の行為の悲劇であつた。しかしこの若者の心には、維新の血がその日蘇つてゐたのである。日本の独立自衛とアジアの解放こそ、明治の精神の願望である。アジアがアジア人のものでなかった長い歴史、これが大凡にいふ近代史の意味である。近代の終焉の合言葉は、政治から文明に亘る広範な視野で、わが十年代の若者の心をふるはせたのである。維新の攘夷論は、支那古代の帝国主義の考へたやうな、自己を中国と称し、四隣を夷狄としてこれを支配する中華思想の発現ではなかつたのである。初期の攘夷論は、鎖国を守り得ない反動としての排外でなく追ひつめられた自衛の発露だつた。攘夷の精神は、鎖国の道徳的立場に相通ずるものであつた。故にことばとしての攘夷は、そのうらにも侵略主義は毛頭もなかつた。つつましい自衛の立場の表現である。当時の人々は卑屈でなかつたのでこのやうな表現をしたが、今日のことばでいへば、侵略勢力を波打ち際で攘ち払ふといふ主張にすぎない。その故に尊皇と並称され、西洋の侵略に対して国の自主独立を守るたてまへを明確にしたのである。国を守る根拠と目的は、尊皇にあつた。建国の理想としての道徳の生活を守るとの意味を現はした。精密な理論を要せずして、感覚的に了解される民族的なものだつたのである。
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述史新論 保田與重郎

過ぎ去った今

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子どもたちは、どこの米かわからないような米ではなく、土地の米から、土地の野菜から、近くの海の魚から彼らの身体をもらった。土地の声である地方語から心をもらった。なだらかな山と静かな入り海と湖と、それにはさまれたこきざみの田や畑から気質をもらった。
中海と宍道湖のみがきのかかった床の間に秀麗な大山の大福(大きな掛軸)かかった座敷。こんな座敷で、出雲の子どもたちは育った。それから複雑な地形はいろいろな植物を育てた。大量にとれるものはなかったが、そうかといって、どんな暮らしにもゆき渡らないものはなかった。だから、石見や伯耆の人たちが日本海からのきびしいしつけを受けていたのに比べると、たぶんに甘やかされていた。
また、中海と宍道湖とは出雲人にとっては鏡でもあった。この二つの合わせ鏡をして松江の町は今に自分の姿をうっとりと見とれている。
子どもたちの町だってそうであった。十神山に立てかけられた入り込んだ港の水鏡を前にして、この千軒の町安来は身をやつしていた。
どこの子どもたちもそうであるように、ここの子どもたちも、ものごころがつくとみな群れて遊んだ。そして、同じ焦点に向かってシャッターを切った。明治三十年前後の町の子どもたちはどういうものを見ていたか、また、どういうものに見られていたか。そのうちのひとりが、六十年もたって見たこれらのものは、その影像の一部である。
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規範 国語読本 河井寛次郎