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政治権力の現象を一切幻影と観じ、現世にある神ながらの生活生理の中に、天道は循還するの神意を諦観し、生命の自然の永遠を信ずる生き方を、生活の貧困の面だけで見る者は、憐れむべき不幸な人である。豊かさや幸福は、経済繁栄によるものでないといふ真理の発見は、人間と人道の歴史の大きい支柱であつた。ローマの繁栄社会で、貧は富より尊いと教へたのはキリストである。この富を卑しとする教へは、尊いといふよりも、厳粛にして畏い。繁栄の人心を寒からしめる。驚くべきことを、人はたまたま悟り、唱へるものである。さうした一言は、何千年をへて、つひに死滅しない。時とかかはりなく、くりかへし人をふるひたたせ、心の慰安となり、魂の創造の機縁となる。かういふ社会通念では、彼は富人でゐるゆえに徳ある人だといふことが、一定理とされる。かういふ社会通念は、現在の我国義務教育の指導要項としては、社会科の根拠とされる。しかし何千年を守り伝へた東方のことばでは、彼は富んでゐるが心賎しくないといふのが、人物評価の規範となる。これは旧来修身の眼目だつた。孔子もキリストも、また芭蕉も、かういふ考えが生まれるやうな世界観の中で生き、これの恢弘を、道と信じて生きた。彼らの精神の世界に於ては、源氏に平氏がうち勝ち、又源氏が平家を滅し、次々に殺戮によつて権力を争奪するといつた時の経過は、歴史といふものでなかつた。それはただ百年も一瞬の如き、幻の世界にすぎなかつた。
老荘の思想の奥義にあつた政治的無関心や、権力否定の深奥な哲学が、我国の自然観(カムナガラ)に無かつたことは、我国人に於ける哲学思弁能力や瞑想的態度の欠如を現はしたものではない。わが国の朝廷の風儀は、万古一貫の国風の自然である。朝廷の風儀は風雅(ミヤビ)として現はれ、その頂上は言霊の風雅である。しかも言霊の詩文学にもあらはれ、地下の民謡にも、同じく現はれる。万葉集の撰者が、上は天子の御製から、下は乞食人の歌まで、一列に集に選んだのは、この理をあらはさぬのである。朝廷の風儀の現世に於ける悠久なる持続といふ事実が、老荘の論理と、古神道の理を分つのである。わが歴史は天皇の歴史であるが、天皇は現身に於て、つねに一である。代を変へても、個性は第二義のことにて、至高存在は永久といふ観念で、つねに一つであつて、代をかへるといふことと別個に永久に一なのである。普通の例では、二百年三百年とつづく国家は国名をかへることがない。よしんば小さい村であつても、その村名をかへることは、歴史の断絶の極め手である。純理的には如何なる権力もそれをなし得ないところである。江戸の旧町名を、区役所事務や郵便事務の便宜のために、住民を無視して恣意に改変し、住民がこれに対して反対するのは、一種の感傷的ノスタルヂーからであるがその根源には、歴史の断絶に堪へ難いとする思ひが無意識化にあるやうにかんじられる。
生まれ育つた土地に愛着をもつことは、理由のない感情であつて、それが正しいとか正しくないといふ議論とはかかはりがない。たまたま生まれた土地を憎悪するものがあり、その場合には個人的理由のある場合もあり、又観念的に一つのイデオロギーの空転から発するものもある。生まれた土地としての故郷や祖国を、懐かしいと思ふ者に対し、それが無意味であるとか、間違つてゐると説くことは、強権の発動としては何かの目的をもつて、それをなすのであらうが、弁証や議論としての場合は無意味である。父母を憎む子の無いわけではないが、父母をなつかしむのは大体人間の自然情である。父母が子を愛し、終生わが子を忘れないといふことも自然の情である、子が父母を終生忘れず、心になつかしさを持続してゐるといふことも自然である。この自然は人道の根基である。父母が長年月に亘り子供を養育することは、人間のみが知つてゐることで、人間たるの道徳の根源のものである。幼児の養育を公共の機関に託し、親は労働に従うことを、人道上よろこばしく楽しいことであると説いた者らは、彼らは本当にさう考えて云つてゐるのであろうか。私には想像できない。幼児を他人に託して、両親が自分らの生活の向上やむしろ贅沢のために働くことを、当然とし正しいとする考え方は、最も排斥すべき思想である。幼児を公共の託児所にあづけて、両親を国家の目的とする労働にふりむけ、子供は国家のものであるといつてゐるのは、あくまで排撃すべき恐るべき思想である。人道の根底は、親が子を愛するといふ点にあつて、道徳の根底もここにある。親が子を愛するといふ感情は、かつて教はらずして知るところで、それを以て人道の根底とされたのである。養育や教育については、その方法を学び習ふことが必要である。それは文明の向上といふ見地で必要とし、しかも文明向上の因は、この作業によるのである。子供を両親から流隔し、子供は親のものでなく、国のものであるといふ思想を、変形的な福祉国家の思想の中で認めようとする傾向は、最も恐るべき思想である。この種の第二次世界大戦後に発生した、新しい全体主義思想に、私は甚だ恐れを感ずるが、かういふことが事実の上で実現するといふことは思つてゐるのでない。人道は素僕で、人心は自然である。人間が数千年をかけて、つちかひ育ててきた感情に、私は信をおくのである。人間の知恵に信をおくことは、いまや不安にて、ただ人間の感情に望みを託し、私は多少心を安らかにするのである。
我国の地勢は、北にソ連、西に中共、太平洋につながる東にはアメリカ合衆国といふ、現在世界の三大軍国によつて完全に包囲されてゐる。この三大軍国の包囲の中にゐて、その三大軍国勢力の均衡による安全を考へようといふ者もゐる。我国が、この三大軍国に勝るものは、国土の風光の美しさと、人民の知能の優秀さといふ二つしかない。これらは生まれる以上にすでに賦輿されたものである。我国が世界の信義を失つてゐるといはれるなら、それはこの祖先によつて與へられたものに対する感謝の念に欠けるからであろう。この感謝の欠如は、反省がないからである。
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保田與重郎 「浪漫」昭和四十八年一月号 浪漫発行