皇国の春によみがへらなむ | 忘れないようにメモメモ(日本の歴史、近代史)

皇国の春によみがへらなむ

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日本の敗北を、近代戦における無惨な敗北にとどまらず、日本の神々の敗北といふ、もつとも深刻な打撃において感受したのは、折口信夫である。

神ここに敗れたまひぬ─。
すさのをも おほくにぬしも
青垣の内つ御庭の
宮出でて さすらひたまふ─。

くそ 嘔吐(タグリ) ゆまり流れて
蛆 蝿の、集(タカ)り群起(ムラダ)つ
直土(ヒタツチ)に─人は臥(コ)い伏(フ)し
青人草(アヲヒトグサ) すべて色なし─。
村も 野も 山も 一色(ヒトイロ)─
ひたすらに青みわたれどただ虚し。青の一色
海 空もおなじ 青いろ─。

(「神 やぶれたまふ」)

沖縄戦が玉砕敗北した戦争末期、沖縄本島守備隊第三十二軍の司令官牛島中将の辞世の歌、「秋待たで枯れゆく島の青草は、皇国の春によみがへらなむ」を、ラヂオ放送で聴いたとき、折口信夫は、かつて昭和のはじめ、古代研究のために訪れた沖縄の一風景、「白波砕くる残波岬」を夜明けの海上から眺めたのを思ひだした。
その風景の記憶が、悲報を聴いて極度に悲しむ心をゆさぶり、「秋待たで枯れゆく島の青草」といふ歌句に接して、一瞬、一つの幻想に変容した。
「……岬の残巌に叩くともなく、また離れてでもなく、ひと群の青草が、目にちらついた。その青草の緑が、目に沁むやうに思はれる。声をあげて叫びたいやうな私の心に、これほど応はしい物の色はなかつた。」
敗戦後も、この青草の幻想は折口信夫に憑いて離れなかつた。しかし、青草は、敗戦の日の日本の春によみがへつたであらうか。
折口信夫が、青草の幻想のみづみづしさを抱いたのは、辞世の下句、「皇国の春によみがへらなむ」の微妙な感情を正しくつたへてゐる語法の感銘に由来した。

歌は「皇国の春によみがへらなむ」である。「……よみがへりなむ」とはない。さうとすれば「来るべき御代の盛りには、いまこの島に朽ちゆくわが身の志も、継承せられ栄えゆくであらう」といふ意味ではない。「よみがへらなむ」とある以上は「よみがへつてくれ」「よみがへつてくれるやうに……」といふ義である。わが身の志を継承して行くもののあることを祈つてゐることになるのである。

この「なむ」といふ動詞の未然形を受ける語法は、文法学者の説明によれば、終助詞といつて、祈り、それも相手にむかつてあからさまにいふ祈りではなく、ひそかに、ひとりごとのやうにいふ祈りである。心細いだけに、その切実な感情はひときは深いものがある。
折口信夫が打たれたのは、「さうした歌詞の文法に馴れて居られる筈のない将軍が、どうしてかういふ緻密な表現を獲たか」といふ感動であつた。連戦連敗、もはや戦局の見通しのないときに、言霊は生きてゐる、といふ感動だつたであらう。日本の神々が信じられたのである。
しかし、戦争がをはり、異国軍隊の占領下に置かれた日本の日常生活に、一人の武辺が差し迫つた境遇で、深い微妙な感情をおのづからのやうに表現するといつた仕草は、地を払つてしまつた。
「国滅びて 民は皆 剽盗となり すりとなり、売笑と変じた。」(「最上君の幻影」 )といふやうな詩句、あるいは「陰口ばかりきいて、ちつとも協力しないで、日本の葬列を ながし目に見送つた中年男/いまだに 悔いることを知らぬ─かつたいばら 老骨」(同上)といつた激語を、この頃の詩の中にいくらでも見出すことはできる。
とはいつても、激語は感情の激しい動揺から生まれ、別の瞬間に、生きようとする心の平衡を本能的に求めてか、昭和二十二年五月五日の「朝日新聞」に発表された「新憲法実施」のごとき愚作もある。

われらの生けることば以って綴り、
われらの命を捺印(オシテ)し、
いちじるき 清き紀元を受ける晝日(ヒカ)く─。
うちとよむ 時代の心
句句に充ち 章段にほとばしる─
我が憲法 生きざらめやも。

折口信夫の文学的感性、教養と国学の学問的蓄積のどこを押せば、かういふ人をして唖然たらしむる文句が出てくるのか、不思議である。「神やぶれたまふ」といふ喪失感の激しさが裏返つての結果であらうか。
それはともかく、「神やぶれたまふ」の実感は、すこし時が経って、神道への反省をあらためて促す契機になつた。あらためて、といふのは、神道の欠陥は、それまでの彼の学問的研究において自覚されてゐたからである。

昭和二十年の夏のことでした。
まさか、終戦のみじめな事実が、日々刻々近寄つてゐようとは考へもつきませんでした。
その或日、ふつと或啓示が胸に浮んで来るやうな気持ちがして、愕然と致しました。それはこんな話を聞いたのです。あめりかの青年達がひよつとすると、あのえるされむを回復するために出来るだけの努力を費した、十字軍における彼らの祖先の情熱をもつて、この戦争に努力してゐるのではなからうか、と。もしさうだつたら、われわれは、この戦争に勝ち目があるだらうかといふ、静かな反省が起つても来ました。(「神道の新しい方向」)

戦局が日増しに険悪になるにつれ、「天佑神助」といふことを国の指導者がいひ、国民大衆もいつたが、それは、実は神々への宗教的情熱とは別の、現世利益を求める功利心にほかならなかつた。神々はすでに死んでゐた。いつの頃からか、さかのぼつて考へれば、明治文明開化以前、徳川儒教以前、ずつとさかのぼつて、中世の吉田神道のあらはれる頃、キリスト教西欧との比較でいへば、「ぎりしあ・ろうまにおける『神々の死』といつた年代が、千年以上続いてゐたと思はねばならぬのです。」
現代における国学といふ自覚において神道を考へてゐた折口信夫にとつて、敗戦占領下は、占領軍の神道指令の抑圧下にある最悪の時代であつた。彼が奉職する国学院よ神道科はその名称を宗教科と改めなければ存在を許されなかつた。
しかし、折口は敗戦の根源を日本の神々への宗教的情熱の衰退にみてゐたから、占領軍の抑圧は、これをわざはひを転じて福となす機会と思ひなほした。近代意識によつて見失はれた純粋な神道、古代の神々の信仰の生活的具体をあきらかにする学問研究を、敗戦以前の国家権力の干渉から自由にやれる機会が来たと考へた。
昭和二十一、二年の国学院における「神道概論」の講義は、さういふ考へのもとにおこなはれた。昭和二十一年の正月の天皇の人間宣言には、何の衝撃も受けなかつたであらう。現人神といふ、あいまいな概念をはつきりさせるのに都合のいい時期と思はれたにちがいない。天皇即神であるかないかといふぎろんは、何らかの宗教感情にもとづくものではなく、神道の道徳的歪曲にもとづく観念論である。日本人の霊魂の信仰のもつとも古く純粋な姿をあきらかにすることが、議論の本質であると考へた。
昭和二十二年五月十四日の講義で述べている。
「日本の神道は中心を宮廷の信仰におくのが、日本の宗教史の常識である。それをうごかしてはものが考へられない。そこにたつて立論してくれば、きゅうてい信仰の足場を捨ててもいい。宮廷が信仰の中心でなくなつてもいい。正しいと思はれる。」
この最後にいふ「正しいと思はれる」といふのは、日本民族の魂の救済に「正しい」といふ意味である。宮廷が信仰の中心でなくなつてもいいといふのは、結果のことをいふのであつて、事を論ずる原因ではない。結果は観念からは出てこない。学問的な証拠によつて出てくるので、そのことを飛ばした議論は宮廷に迷惑をかけるだけである。
この頃、中野重治は小説『五勺の酒」を書いて、主人公の口を籍りて「天皇の天皇制からの開放」といふことをいつてゐる。言葉づかひは左翼用語であるが、作者が共産党員だからかういふことをいつたのではない。戦前から折口の国学や柳田民俗学に並なみならぬ関心を抱いてゐた中野重治だから、かういふことがいへたのである。
この頃、また、折口は『一つの連環話』(昭和二十一年一月「時事新報」)を発表した。アメリカ南北戦争と戊辰戦争の終戦処理における、勝者の敗者にたいするエピソオドを重ね合はせ、そのエピソオドにかかはつた福沢諭吉と西郷隆盛の寛大なさはやかな心を回想したエツセイである。
そのエピソオドとは榎本武揚の助命のために、奔走した福澤と、黒田清隆の長州派とりわけ気むづかしい木戸孝允を説得した尽力と、それを賞賛した西郷の書簡──この人の文章にはつねに独特のユウモアとすがすがしい感覚がある──とのことである。福澤がやや品位に欠けるところはあつても、達意自在の文章家であつたことは、いふまでもない。
榎本武揚の助命運動において、福澤はかつて咸臨丸て渡米したときに手に入れた、南軍の大統領か将軍かはつきりしないが身を隠すために女装した写真を黒田に贈って、人間といふものは一度命を奪へば、あとでいくら後悔しても取り返しがつかない、また勝者の北軍が南軍の巨魁を殺さなかったのは、文明国の美風であると懇々とといた。
もともと黒田は戊辰戦争のとき、西郷に従つて、庄内藩が降伏したとき、庄内藩の家老にたいして、西郷があたかも自分が敗者であるかのやうに丁重に応対した情景を目撃して、感動した人間である。
以上のエピソオドを、折口は石川幹明著『福澤諭吉伝』を種本にして書いてゐる。だが、注目すべきは、このエッセイの結語の一節で、折口のいひたいことがすべてこめられてゐる。

あめりか南北戦争にそそがれた血、併し其も皆清教徒の涙で清められた。其清教徒の涙の価値を、痛切に感じたものは、──感じ以て、生活の底の底まで鳴り響いたものは、世界広しといへども、真に敵を愛することを知つてゐる、かつてのもののふの後であつた人々に如くものはなかつたであらう。西郷氏に見よ。福澤氏に見よ。我々は世界と日本とにこめられて弘通する人類の夜明けを、此時既に見てゐたのである。
我々は更に、大いに美しい信仰に、人道の涙を浄めて行くであらう。
清教徒よ。我等を栄光の道に導くことを忘るる勿れ。我が先人は、之を南北戦争に見て、その輝かしさを今に忘れることが出来ぬのである。

もういふまでもないことだが、折口信夫は、占領軍の日増しにその範囲を拡げてゆく戦犯指定と、やがて開かれる極東軍事裁判における勝者の側の正義人道に訴へてゐるのである。
極東軍事裁判の論理が、文明の美名による勝者の敗者に対する報復であり、その由来をさかのぼる時、原型がアメリカの南北戦争における北軍側の南軍に対する苛酷な制裁にあつたことを、折口が気がついてゐたかどうかわからない。
しかし、ともかく、折口が西郷や福澤の抱いてゐた正義人道の普遍感覚を回想し、さういふ先達をもつ日本人への同胞感情によつて、占領軍に対するメッセエジを発したことは立派である。それは敗戦の悲しみに発する文学者の心である。
敗戦によつて民主革命の好機到来と考へ、同胞の戦犯リストをいちはやくつくつて、占領体制に迎合した左翼進歩主義文学者とその同調者の心事を支配していたのは、何であつたのだらうか。
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桶谷秀昭
昭和精神史 戦後編 P133