忘れないようにメモメモ(日本の歴史、近代史) -4ページ目

鎖国も攘夷も、独立を守るという平和のための原理である

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ゴロウニンが捕虜となつたのは、そのさき文化三年、千島樺太のわが国人が襲撃されたため、海防を戒しめた結果の勝利だつた。ロシヤは、翌文化九年八月、わが北辺領海を航行中の高田屋嘉兵衛を捕へ、十年五月、嘉兵衛とゴロウニンの釈放とをひきかえようと交渉して来た。かくて彼は幽囚二年後に釈放せられてゐる。その間の監禁生活をしるしたのが「日本幽囚記」で、トルストイが感動して子供たちのよみものにかき直してゐる。ゴロウニンはその幽囚中、上は奉行から下は見知らぬ路傍の庶民まで、多くの日本人からうけた深い同情と細やかな心づかひをくりかへしのべ、要するに日本人全般の行為は「一に人類愛の精神に基いたものだ」と結論してゐる。我々のそのころの祖先は、武士も庶民も、人道主義とか人類愛といふ考へ方を知つてゐたわけでない。それらを日本の知識階級が全般的に知つたのは、明治も末になつてからである。だからゴロウニンが「人類愛の精神」と云つたものは、西欧風の人道主義(ヒューマニズム)とは全然別個の、わが国人の生活から自然にあふれ出た道徳の感情であつた。日常の心づかひである。これを理論的に体系づけるならむしろヒューマニズムといふものに対決する考えへ方に基き、厳粛に高貴を信奉する精神を骨髄とする思想から生れる人間関係のあらはれである。ゴロウニンはこの点に気づいてゐたのである。彼は日本人の行為の基定にある倫理観が、西洋のそれと異質であるところを指摘してゐる。それらの指摘から、ゴロウニンの人物の立派さや人間的純粋さ、品性の高潔さを知ると共に、固有の原理が異邦人を感動させ、その偏見を是正するのに、決して強制や脅迫や支配を必要としない。われわれの信じ、生きてきた道徳に関しては、異邦人ないし無縁の衆生はないといふ確信に有力な一例を考へうるのである。
ゴロウニンは始め国後島へついた時薪水が欠乏してゐたが、村民は避難してゐる、やむなく無人の村から燃料や食糧を運び代りに銀貨や品物をおいてきたことがあつた。日本の役人は彼に問うた「このやうな場合、他人のものを無断で盗つてもよいといふ法律が西洋にあるのか」ゴロウニンは答へた「さういふことを成文化した法律はない。しかし餓死に瀕した人間が、主のゐない家で食物を取り、それ以上の高い代価を残してきたとすれば、如何なる西洋の法律もこれを罰しないであろう」ゴロウニンがかう云ふと日本の役人は形をただしていつた。「我国ではさうではない。日本の法律では、たとへ餓死しても持主に無断では一粒の米と雖も手に触れてはならない」。ゴロウニンはこの言葉に深い感銘をうけて、これは日本人の正義感と法律の性質を示す重要なものだと述べている。人間の生命の守るために盗みも許されるとした西洋の倫理観と、道義を守るためには死をも辞さないとした東洋人の考へ方とが、はしなくも対決したわけである。
ゴロウニンはまた鎖国政策を批判し、西洋諸国が相互交際によつて大きい利益を得てゐることを説いた。日本の役人は終始傾聴してゐたがそのあとで、欧州では五年と平和のつづかぬのは何故かときいた。ゴロウニンは戦争の原因について語つた、すると日本の役人はかういつた。「かりに日本と支那が西洋諸国と国交を開いて、その制度を模倣するやうになつたら、戦争は今より増すでせう、だとすると日本が鎖国してゐるのは、各国民の不幸を少くする意味で、かへつてよいのではないか」。当時の西洋一般は日本も支那も、他のアジア・アフリカ各地のやうに単純に植民地化しうると考へてゐたのである。しかし函館にゐた幕府の下級役人は、日本が開国すれば西洋文明を移入し、西洋なみの国となつて、今は西洋の間だけの兵乱を必ず増大するだらうと考へたのである。植民地となる代りに独立国となる時、それは必然の運命だつたからだ。軍艦も大砲ももたない当時の日本人はしかし自負の志を忘れてゐなかつたのである。またゴロウニンが西洋文明の優越とその恩恵を説いた時、日本の役人は、西洋と日本を大きい町と小さい村とに比較して「大きい町は金持で贅沢品も多いが、住民の間に争が絶えない、小さい村では必要品だけしかないが仲よく暮してゐる、あなたはそのどちらを選びますか」と反問した。ゴロウニンはかうした日本人の言葉に対し、「この真理をくつがへすことは私には難しいだらうと考へたものだ」と述懐してゐる。これらの問答の中には、当時の日本人の西洋文明へのおのづからな批判が出てゐる。また「近代」といふものへの態度がすでにはつきりと判断されているのである。幕末の国論の統一の条件と維新後の国論分裂の条件はすでにこんなところにあつた。
鎖国政策を持続し、かうした「西洋」や「近代」と交渉せず、戦争の惨禍から無関係を持してゆきたいといふもつともな願望は大きい一つの流れだつた。しかしこの願望の保証を近代はしてくれない。近代とはさういうものである。最初は海防論によつて鎖国を維持しようとする消極的な考へ方だつた。しかし北辺のロシヤ人の侵寇一つにたいしても、海防には強力な兵備が必要である。今日の常識からいへば、最もつつましい自衛である。この攘夷論が政治的に輿論形成されるのは、ゴロウニン幽囚の頃からなほ五十年も後である。
当時鎖国を願つた考へ方の根底にあるのは農の平和生活であり、その平和心である。この平和といふ言葉の概念は今日世界中で口にされる戦争反対の平和といふ考へ方とは完全に異質のものであつた。かうして鎖国政策持続のために海防論が起り、西洋侵略勢力の実態に対して海防論の限界を了知した時、初期の攘夷論が形づくられるのである。しかもこの攘夷論は、侵略勢力に対し自国の独立を守るといふ謙虚な目的のものであつたから、国の自主独立の根源の確立を考へ、国と民族の理想の顕揚恢弘といふ第一義の方向に向かつたのである。かうして尊皇論が、一躍して救国原理として政治的性格を濃化したのは自然の勢であつた。
日本の開国をすすめたゴロウニンと、これ以上各国の不幸を多くしたくないために鎖国をつづけたいといふ、高貴な道義心に立脚した日本人の見識とが協調することは、ゴロウニンの善意に於ては可能だつた。しかし近代といふ機構に於ては、人類の叡智は浄化されてゐなかつたのである。ゴロウニンの日本の将来についての予感は、この点で的中した。「もしこの人口も多く、聡明犀利で、模倣力あり、忍耐強く、仕事好きで、何でも出来る能力のある国民の上に、わか、ピヨートル大帝のやうな王者が君臨したなら、蓄積された余力と富源をもつて、その王者は多年を要せず日本を全東洋に君臨する国家とするであらう。その場合アジアの東岸の西洋の植民地やアメリカの西岸はどうなりだらうか。もた日本が西洋の文明を移入し、西洋の政策に追随しだしたら、支那人も必ずそれと同じことをせざるを得なくなるにちがひない。そんな暁にはこの二大強国は、ヨーロッパ問題を一変させることができる。しかしそれとは別に、たとへピヨートルほどの天才が出なくとも、日本人はくりかへされる外国人の襲撃に対し国民を防衛するため、その方法を考へるだらう。さうして洋式の兵器をつくり軍艦を建造し、その他人類の絶滅に役立つヨーロッパ式の文明的方法のすべてを採用するだらう。自分は日本人と支那人が、西洋の制度を採用し、西洋人にとつて危険な国民となる可能性を信じる」。ゴロウニンのこの予言は正確に的中したのである。これは欧州が日本の存在に一顧もしなかつた時の予言である。しかしゴロウニンがかうした予見をもちつつ日本の開国をすすめ、幕府の役人は開国の後を予想してゴロウニンの予見と同じ見解から、鎖国をつづける、その代りに西洋式の繁栄を羨望したり欲望したりしないといふ決意を示している。
当時の日本の鎖国政策は、箱館奉行下役あたりに於てさへすでに鎖国といふ名の平和論といふ論理の上で理解されていたのである。それは戦争を必然とする繁栄の生活をなしつつ、戦争を防止しようといふ平和論でなく、絶対的な平和生活の上で平和を守らうといふ決意に満ちた道義の立場だつたのである。正しい生活から生れる道義感を、厳粛な究理・処世の根本原則として教育された精神の批判は、明確に対象を摘発し得たのである。ゴロウニンは、己の考へに背理しつつ開国を説いた後で、この幕府の役人のことばに対して「この真理をくつがへすすべを私は知らなかつた。としるしてゐる。しかし西洋の侵略の執拗なくりかへしは、鎖国論の限界をとくに越えてゐたのである。
攘夷論は国家主義者の侵略思想でなくして、鎖国存続を願つた平和の精神につながる自衛の情勢的帰結だつたのである。「近代史」の「西洋」とその文明の批判を根底としたものが、鎖国海防攘夷論を一貫してゐたのである。この点に関する私的理解は今日のわが国で極めて欠乏してゐる。
近代といふ時代は、西洋が東洋を植民地として支配した時代である。東洋がこの西洋の法制度と諸文明はみなこの強力な兵器の製作と使用に関係するものである。東洋がこの西洋の文明と制度を移入するといふことは、さういふ戦争の仲間入りをすることであつた。これはゴロウニンと対決して、鎖国を唱へ西洋文明の移入に反対したほぼ百五十年以前の地方役人の考へ方であり、ゴロウニンが如何ともなし得ない真理と嘆いたところである。由来東洋の農文化の論理は、西洋の侵略の実状を知らず、従つてそれに対し寛大であつた。彼等が侵略の執着地点なら日本に来たつた時、日本人のみがその西洋と近代の本態を見破つて対処したのである。当時の日本人は世界史と世界情勢を正しく見たのである。さうして攘夷論といふ名目で国を自衛するためには、まづ国の根本の理想の恢弘の必要を考へた。尊皇論が中心となるのである。天心のいふ如く、国学がつひに維新に方法論を與へたのである。
強大な外敵に対する必要上、根本的に国家にたてなほして外敵を防ぐといふ維新の考へ方が、つひに時の情勢となつた。幕末の政治は近来の国情と較べて堕落も頽廃もしてゐなかつたのである。しかし当時の人々は国の危機に対し、はるかに厳粛な体制と、峻烈な民族精神の掲揚を要求した。それなくして国の自衛のあり得ないことを悟つた。
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保田與重郎文庫「述史新論」150ページ

菅「献金問題」と民主党政権の深い闇

1/3【特番】菅「献金問題」と民主党政権の深い闇[桜H23/8/13]



2/3【特番】菅「献金問題」と民主党政権の深い闇[桜H23/8/13]



3/3【特番】菅「献金問題」と民主党政権の深い闇[桜H23/8/13]

尋常な国民の心の底には、国の思ひが流れてゐる

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そもそも自主独立の本意とは何かといふ点につき、我々の国の伝統では、土地を拓いて米を植え自らの食糧をつくり、木を伐って黒木の家をたてる、この事実とそれをなしうる力を以ってその基本とした。この単純にして明確な考へ方は、事実に於て決して難事と云へない。実にわが自主独立の古の状態はここにあり、兵を蓄へて外敵を防ぐを旨とする考へとは、本質を異にするものである。その由るところの生活を異にするからである。わが新憲法の根底の考え方はその如何なる生活体制をとるか明瞭でない。人の独立と国の独立とには一貫したものがあらねばならぬのである。
由来わが国憲の基本は道徳にして、所謂近代の政治を基とせぬ。しかも今日の学芸、言論、芸能、報道等の一般傾向が、極めて偏向的である原因は、余りにも政治的にすぎるからである。しかもその政治的といふ傾向は、人文と教養と品格の低下を原因とする。明治時代に於ては根本的教養の確立したものが人格としてあつた。当時の教養は人格形成と一体だつた。今日は、人間に逃避し、努力を伴う教養は低下し、人格形成の考へ方は一掃せられている。人格上の責任といふ考へ方を喪失し、自己の責を逃れ、一切の責任を外に帰する。わが教職員組合員らは、小学生の盗癖の処置に於て、それを政府と政治の問題に帰するといふ如き論法をとるのである。かうした形で問題を政治的にし、政治や政府を問題とする何に理由もない日常問題に於てさへ、必ずそれに問題をもちゆかねば安心しないといふ現象がある。これは一般的な後進国性の現れであるが、適確に云へば、人格と教養の低下である。又人間として人格の欠如であり、自立精神の喪失である。
かうして政治的になつた諸現象解釈の面で、しかも主観的にも客観的にも安定した国家観念がないといふことは、混乱と危機の因とならざるを得ない。近代に於ける国家憲章は、国の理想とその形態をいふよりも、独立自衛を先とし、その見地で形態を定める。わが国の憲法に於ては、近代の国家観念も希薄であるが、国の形態の規定も曖昧を極めてゐる。それが混乱と危機の因をなすことは当然であろう。しかし平常な国民は、さういふ思想的欠点を指摘して混乱を助長しようとは考へない。彼らはかうした形に表現された一般雰囲気と、別個に無関係に、生業を恢弘し、再建を遂行したのである。
この国民的な事実を今日のことばによつて保守主義と呼ぶには、もはや若干の注釈が必要となる。今日の欧米の政治的通念では、保守主義を道徳と価値の見地で考へず、国際共産主義の侵略に対抗する政治的態度に限定せんとする傾向がある。しかしわが国の保守政党は、なほいづれかに明確な態度を示してはゐないのである。
我々は憲法改正問題の以前に、国家の理想の確立を先とせねばならないと信ずる。尋常な国民の心の底には、国の思ひが流れてゐる。これが国民といふ名分であり資格である。それは一朝一夕にうちたてられた理論や、與へられた主義でない。久しい間の習俗として行事として芸能として習慣として、また日常生活の躾として、全生活の末端にまで及んだ血管と神経である。日本と云ひ、日本人と云ひ、愛国の心というものは、単に知的なものでなく、情緒となり感覚となり日常生活となつたものである。尋常の人々の心では、最終的に土着の思ひといふものは消滅し得ず否定し得ない。さういふ情緒と感情は歴史と伝統と習俗にはぐくまれる。その根元に建国の精神に思ひをいたすことは、正当当然の考へ方である。
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保田與重郎文庫 述史新論