尋常な国民の心の底には、国の思ひが流れてゐる | 忘れないようにメモメモ(日本の歴史、近代史)

尋常な国民の心の底には、国の思ひが流れてゐる

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そもそも自主独立の本意とは何かといふ点につき、我々の国の伝統では、土地を拓いて米を植え自らの食糧をつくり、木を伐って黒木の家をたてる、この事実とそれをなしうる力を以ってその基本とした。この単純にして明確な考へ方は、事実に於て決して難事と云へない。実にわが自主独立の古の状態はここにあり、兵を蓄へて外敵を防ぐを旨とする考へとは、本質を異にするものである。その由るところの生活を異にするからである。わが新憲法の根底の考え方はその如何なる生活体制をとるか明瞭でない。人の独立と国の独立とには一貫したものがあらねばならぬのである。
由来わが国憲の基本は道徳にして、所謂近代の政治を基とせぬ。しかも今日の学芸、言論、芸能、報道等の一般傾向が、極めて偏向的である原因は、余りにも政治的にすぎるからである。しかもその政治的といふ傾向は、人文と教養と品格の低下を原因とする。明治時代に於ては根本的教養の確立したものが人格としてあつた。当時の教養は人格形成と一体だつた。今日は、人間に逃避し、努力を伴う教養は低下し、人格形成の考へ方は一掃せられている。人格上の責任といふ考へ方を喪失し、自己の責を逃れ、一切の責任を外に帰する。わが教職員組合員らは、小学生の盗癖の処置に於て、それを政府と政治の問題に帰するといふ如き論法をとるのである。かうした形で問題を政治的にし、政治や政府を問題とする何に理由もない日常問題に於てさへ、必ずそれに問題をもちゆかねば安心しないといふ現象がある。これは一般的な後進国性の現れであるが、適確に云へば、人格と教養の低下である。又人間として人格の欠如であり、自立精神の喪失である。
かうして政治的になつた諸現象解釈の面で、しかも主観的にも客観的にも安定した国家観念がないといふことは、混乱と危機の因とならざるを得ない。近代に於ける国家憲章は、国の理想とその形態をいふよりも、独立自衛を先とし、その見地で形態を定める。わが国の憲法に於ては、近代の国家観念も希薄であるが、国の形態の規定も曖昧を極めてゐる。それが混乱と危機の因をなすことは当然であろう。しかし平常な国民は、さういふ思想的欠点を指摘して混乱を助長しようとは考へない。彼らはかうした形に表現された一般雰囲気と、別個に無関係に、生業を恢弘し、再建を遂行したのである。
この国民的な事実を今日のことばによつて保守主義と呼ぶには、もはや若干の注釈が必要となる。今日の欧米の政治的通念では、保守主義を道徳と価値の見地で考へず、国際共産主義の侵略に対抗する政治的態度に限定せんとする傾向がある。しかしわが国の保守政党は、なほいづれかに明確な態度を示してはゐないのである。
我々は憲法改正問題の以前に、国家の理想の確立を先とせねばならないと信ずる。尋常な国民の心の底には、国の思ひが流れてゐる。これが国民といふ名分であり資格である。それは一朝一夕にうちたてられた理論や、與へられた主義でない。久しい間の習俗として行事として芸能として習慣として、また日常生活の躾として、全生活の末端にまで及んだ血管と神経である。日本と云ひ、日本人と云ひ、愛国の心というものは、単に知的なものでなく、情緒となり感覚となり日常生活となつたものである。尋常の人々の心では、最終的に土着の思ひといふものは消滅し得ず否定し得ない。さういふ情緒と感情は歴史と伝統と習俗にはぐくまれる。その根元に建国の精神に思ひをいたすことは、正当当然の考へ方である。
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保田與重郎文庫 述史新論