忘れないようにメモメモ(日本の歴史、近代史) -2ページ目

ノスタルジーの共有

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『消えゆく幸福の時間』

京都大学大学院教授 藤井聡


蝉は七日で死ぬ,しかし極々希に八日目まで生き残る事があるそうだ.そんな蝉は,その最後の一日にこの上ない幸福な時間を過ごすのだという──そんな話をモチーフにした映画が「八日目の蝉」だ.

ある若い女性が不倫をし,堕胎させられ,もう二度と子供が産めない体になった上で捨てられる.絶望した彼女はひょんな事から不倫相手の「生まれたての女の赤子」を誘拐する.指名手配された彼女は人目を憚りながら逃亡を繰り返す.そしてその子が4歳の頃,小豆島へと辿り着く.彼女たちはそこではじめて,田舎の地域共同体に受け入れられつつ束の間の「幸せな暮らし」を手に入れる.そして,その村の火祭りに参加する.年端もいかぬその子は,美しい棚田でのその火祭りのシーンを,幸福に包まれた至福の瞬間の風景として心に焼き付ける──しかしその直後,まるで八日目
の蝉がすぐに死ぬように彼女は捕まり,その子は実母に引き戻される.

──月日は流れ,その子もまた不倫をして子を宿すという「不幸」な大人になる.そんなある日彼女はあの火祭りの地を訪れる.そして心に焼き付けて以来,奥底に隠し続けたあの至福の瞬間をありありと思い出す.美しい棚田,温かい大人達,そして優しい母──そして彼女は誓う,「私はこの子を産んで一人で育てる.この子に綺麗な世界を一杯見せてやる──」.

筆者は彼女にこう決意させた「火祭り」のあの風景を思い出す度に,あふれ出る涙を止めることが出来なくなってしまう──言葉では絶対に表現し得ぬそこに描かれた「幸福の時間」は間違いなく今,日本各地で日々,蒸発して続けている.日本を守るとは,畢竟そんな風景や瞬間を一つでも多く守り育て上げることの他に何もない.多くのエリートと呼ばれる人々が失念したこの一点こそが,政治と呼ばれるものの根幹にあるものに他ならないのだ.
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藤井さんは本当に日本をおもっているというのが伝わる。
下の動画でも美しい強い思いを伝えている。



【藤井聡】『列島強靭化論』講演前半1/4



【藤井聡】『列島強靭化論』講演後半2/4



【藤井聡】『列島強靭化論』質疑応答前半3/4



【藤井聡】『列島強靭化論』質疑応答後半4/4


そのとき東京裁判法廷の中にだけ、言論の自由があった。東條口供書

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東條口供書は、昭和二十二年十二月二十六日から三日間にわたり、ブルウエット弁護人によつてその英語訳文がよみ上げられた。
そこで東条英機が強調してゐることは、
一、日本はあらかじめ米、英、蘭(オランダ)に対する戦争を計画し準備したものではない。
二、対米、英、蘭の戦争は、これらの国々の誘発に原因し、日本としては自存自衛のために止むを得ず開始されたものである。
三、日本政府は合法的開戦通告を、攻撃開始前に米国に交付するため周到な注意をもつて手順を整へ、その交付の手続きは外相(東郷茂徳)に一任したこと。
四、大東亜政策の基調は第一に東亜の開放、つぎに東亜の建設に協力することである。
五、いはゆる「軍閥」なるものは存在しない。陸軍省、海軍省、参謀本部、海軍軍令部の発言権が重きをなしたことは事実であるが、国家機関の外に軍閥なる有形無形の団体が勢力をもつたことはない。
六、統帥権の独立と連絡会議、御前会議の運用。なぜさういふ緒会議が必要になつたか。
七、東條の行つた軍政の特徴は統帥と規律にあつたこと。
大きくいつて、一から四までの事項にわたる戦争観と、五から七までの国内軍政における彼の意図と責任の二つであるが、とりわけ前者における彼の戦争観は、連合国側の主張する「共同謀議」による「侵略戦争」に、真正面から対立することはいふまでもない。口供書の文体も、この部分において
特に熱をもち、これをいはないでは死にたくとも死ねないといふ気迫の伝はるものである。
とりわけ、昭和十六年七月の、日米交渉のさなか、南部仏印進駐が行はれねばならなかつた不可避の理由について、五項目を挙げてゐる。
(1)重慶と米英蘭の提携を南方において分断する。
(2)米、英、蘭の南方地域における戦備の拡大、対日包囲網の結成、米国内の戦争緒準備、米首相の各種の機会における対日圧迫の行動。
(3)日本の生存上必要なる物資の入手妨害。
(4)米英側の仏印、タイに対する対日離反の策動。
(5)蘭印との通商会談の決裂、蘭印外相の挑戦的言動。
これらは、戦争中、ABCD包囲陣としてさかんに喧伝された大東亜戦争の開戦理由に当る要因である。敗戦後、とくに占領下にあつては、ABCD包囲陣などは、軍閥が国民を欺くための虚偽の宣伝といふことになつた。東京裁判が集結したあとも、ABCD包囲陣が嘘であるといふ史観が圧倒的であつた。
今日、東條口供書をあらためてよみなほすと、ABCD包囲陣の実体なるものが、とりわけ(1)と(2)において、丹念に事実を調べ、記録してゐることがわかる。いまそれを列記すると、(1)については、
A 昭和十五年、ハル国務長官は英国のビルマルート経由援蒋物資禁止に反対を表明。
B. 十五年十月、ルウズベルトは国防のため英国及び重慶を援助する演説をした。
C. 十五年十一月、米国は重慶に一億ドルの借款を供与する旨声明した。
D 十五年十二月、ルウズベルトは三国同盟の排撃、民主主義国家のために米国を兵器廠とする旨の炉辺談話。
E 十五年十二月、モオゲンソオ財務長官は重慶及びギリシャに武器貸与の用意ありと声明。
F 十六年二月、ノックス海軍長官は重慶政府は米国飛行機二百台購入の手続きを了へたと声明。
G 十六年五月、クラゲット准将一行は蒋軍援助のため重慶到着。
H 十六年五月、ノックス、中立法に反対声明。
I 十六年六月、スチムソン陸軍長官は同じ声明を発表。
(2)については、
A 米国は十五年七月から十六年五月までに三百三十億ドル以上の軍備の拡張をなした。
B 十五年八月、ノックスはアラスカ第十三海軍基地に新根拠地を建設した。
C 十五年九月、太平洋における米国属領の軍事施設工事費八百万ドルの内訳公表。
D 十五年九月、米海軍省は今年度の根本政策は両洋艦隊建設の航空強化の二点に在りと強調した。
E 十五年十月、ノックスはワシントンにおいて三国同盟の挑発に応ずる用意ありと声明。
F 十五年十月、上海在住の米国婦女子百四十名帰国、国務省は極東向け旅券発給停止。
G 十五十月、名古屋市米国領事館閉鎖。
H 十五年十一月、ラモント氏は対日圧迫強化の場合、財界はこれに協力し支持するであらうといふ。
I 十五年十一月、イギリスのイーデン外相は下院において対日非協力を演説した。
J 十五年十二月、米国は五十一箇所の新飛行場建設、及び改善費四千万ドルの支出を決定。
K 十六年五月、ルウズベルトは無制限非常事態を宣言。
なほ、(3)(4)(5)の経済封鎖についてはよく知られてゐることなので、摘記すれば、
A 昭和十四年七月、日米通商航海条約廃棄。
B 昭和十五年七月、ルウズベルトは屑鉄、石油を禁輸品目に追加。
C 十五年十月、屑鉄の輸出制限令。
D タイ、仏印の要人は昭和十五年以来、シンガポール在の英国勢力と連絡、米・ゴムの日本購入を妨碍。
E 昭和十五年末、英国はタイ国ライス会社に対して外米六十万トンの発注をなし、日本のタイ米取得を妨碍した。十六年頃、毎年約五十万トン(約九百万石)の米を仏印、タイより輸入する必要があり、同年五月、七十万トンの経済協定を結んだところ、六月、仏印は同月分契約量十万トンを五万トンに半減方申し出、七、八月分についても半減を申し出た。
F ゴムについては、仏印ゴム年産六万トン、そのうち日本は一万五千トンを米ドルで入手してゐた。十六年六月、米国は仏印ハノイ領事に仏印生産ゴムの最大量の買ひつけを命じた。
G 英国はその属領に十六年五月中旬、円ブロック向けゴムの全面禁止を行った。
東條口供書の他の被告とちがふ特徴は、自分の無罪の根拠を弁明することにほとんど無関心なまま、自分の歴史観にもとづく戦争観を相手に向かつて突きつけたことである。死はすでに勘定に入れてある。
彼は自分の弁明のかはりに日本の弁明に全力を注いだ。それが彼の意図のすべてであつた。
占領下日本の国民的動静は、占領軍が強制する侵略戦争、文明への挑戦、戦争犯罪といふ概念にたいして、能うかぎり自分を守り、無罪のアリバイを自分の過去にみいださうとしてゐた。それをみいだすことが困難であることがわかると、その犯罪性の痕跡をかつての指導者のみならず同胞の他人の中にみいだして、責任転嫁の対象として告発することに、遣り場のない絶望と憤懣の吐け口をみいだした。
東条英機とその家族が、責任転嫁の対象の象徴となつた。家族は一層ひさんであつた。東条英機本人は巣鴨プリズンに身柄を保護されてゐる。無知で野蛮なアメリカ兵の看守から野卑なスラングで罵倒され、小突かれようと、生命は保護されてゐた。しかし家族は、狭い日本のどこへ逃れようと、自分の姓を名のつては生きていけなかつた。姓を隠してゐても、それがわかると、容赦ない脅迫と虐待に曝された。極端な物資不足の時代でもあり、八百屋も魚屋も東条一族に物を売ることを拒んだ。学校の教師は、一族の子弟の担任になることを拒否した。
皮肉なことに、極東軍事裁判の市ヶ谷法廷といふ、六十五キロワットのまばゆいシャンデリアの輝く空間だけが、日本社会のどこでも禁じられてゐる歴史観と戦争観を、証言台の上から述べることが許されてゐた。もちろん、その発言の先には死刑が待つてゐた。



東条英機はその六万五千語に及ぶ口供書の最後を次のやうに結んだ。

終わりに臨み──恐らくこれが当法廷の規則の上において許さるる最後の機会であらうが──私はここに重ねて申し上げる。日本帝国の国策ないしは当年合法にその地位に在った官吏の採った方針は、侵略でもなく、搾取でもなかつた。一歩は一歩より進み、又適法に選ばれた各内閣はそれぞれ相承けて、憲法及び法律に定められた手続きに従ひ、事を処理して行つたが、遂に我が国は彼の冷厳なる現実に逢着したのである。当年国家の運命を商量較計するの責任を負荷した我々としては、国家自衛のために起つといふことがただ一つ残された途であつた。我々は国家の運命を賭した。しかして敗れた。しかして眼前に見るが如き事態を惹起したのである。戦争が国際法より見て正しき戦争であつたか否かの問題と、敗戦の責任如何との問題とは、明白に分別の出来る二つの異なつた問題である。第一の問題は外国との問題でありかつ法律的性質の問題である。私は最後までこの戦争は自衛戦であり、現時承認せられたる国際法には違反せぬ戦争なりと主張する。私は未だかつてわが国が本戦争をなしたことを以て国際犯罪なりとして勝者より訴追せられ、又敗戦国の適法なる官吏たりし者が個人的の国際法上の犯人となり、又条約の違反者なりとして糾弾せられるとは考へた事とてはない。
第二の問題、即ち敗戦の責任については当時の総理大臣たりし私の責任である。この意味における責任は私はこれを受諾するのみならず、衷心より進んでこれを負荷せんことを希望するものである。

東條口供書に対する輿論の反響は、おしなべて否定的である。ニュウヨオク・タイムスの社説(十二月二十七日)が
「真珠湾攻撃に関する東條の考へ方がアメリカの極端な孤立主義者達が議会で証明したところとまつたくおなじである」と書いてゐるのが、その後五十年たつた今日、もう一つのアメリカ輿論がやがて脚光を浴びることを期せずして示唆していることをのぞけば、ハル通告を「最後の通告といふなら、それはわれわれの懐中から時計を取り上げようとする強盗に対し『ノー』といふのが最後通告といふことにならう」といふ、感情的な反撥に尽きる。
十二月二十七の朝日新聞」社説は、冒頭の一説の中で「……証人台に立つた多くの被告が、消極的な個人弁護に終始した傾きがあるに対し、彼は積極的に、何故日本が戦争をえらばねばならなかつたかを説明し、合わせてその立場を正当化しようと試みてゐる点に特異性を見出すことが出来る。」と書いてゐる。ここだけが、事実を正視した唯一の文章である。

しかしその余はGHQの太平洋史観をなぞつた認識を述べてゐるにすぎない。「国民に対し惨害を与へたにすぎなかつたこの憎むべき戦争が、ただ軍部の独裁的な強行方針によつて断行され、国民はただそのいふがままに追随してゆかざるを得なかつたあのおそるべき事実をどう釈明するか。軍閥は存在しなかつたなどという形式的な自己弁護は一顧だに値しない。東條口供書はすぎさつた悪夢のやうな旧日本の政治の非合理の醜悪さを自ら暴露するものである。」
統帥部と内閣の二重構造は、明治憲法の規定(「第十一条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」)に由来し、統帥部(陸軍参謀本部、海軍軍令部)が運用を謝らなければ問題はないが、昭和になつて独走しようとした。東條が開戦前に陸海軍合同軍事参議官会議を開いたり、昭和十九年敗色濃くなつて参謀総長を兼任したりしたのは、統帥部と内閣を一元化するためであつた。それは東條独裁といふ避難を浴びた。が、ともかくさういふ事情は口供書に詳しく述べられてゐるのだから、それを直視し分析した上で批判するなら、する必要がある。
「東條は『国家自衛のため起つといふことがただ一つ残された道であつた、われわれは国家の運命をかけ敗れた』と弁じてゐるが、それは『日本の自衛』のとめでなく『軍閥の自衛』のためであつた」(「毎日新聞」「余録」十二月三十日)といふ批評も、GHQの太平洋史観にもとづくイデオロキギイ批評を一歩も出ない。
記者たちは自分の言葉で語つてゐない。自分の言葉で語れば、占領下のプレス・コオド違反になるおそれのために、それができなかつたのであらうか。それにしても占領下言論統制の網の目をかいくぐつて、いますこし陰翳と暗示に富む言葉がつむぎだせなかつたであらうか。
しかし、記憶すべきことは、右のやうな言論が解けたあとも、残り、さらに内在化して戦後日本の言語世界のわくになつたことである。





尋問ををはつた東條は外国人記者にたいして語つた。
「この際、特に申し上げることはありませんが、私の心境は淡々たるもので、ただ靖国神社の祭霊と戦争により戦災をかうむられた方々の心になつて述べたつもりです。言葉は完全に意を尽くしてをりませんが、事柄だけは正しく述べたつもりです。もし私に希望をいふことが許されるならば、二つの希望が残つてゐる。この裁判の事件は昭和三年来の事柄に限つて審理してゐるが、三百年以前少なくとも阿片戦争までさかのぼって調査されたら事件の原因結果がよく判ると思ふ。またおよそ戦争にしろ外交にしろ、すべて相手のあることであり、相手の人々相手の政府と共に審理の対象となつたならば、事件の本質は一層明確になるでせう。」
せめて阿片戦争までさかのぼつてといふ問題意識はきはめて正当なものであり、歴史観として近代日本の運命と、他赤文明」(シヴィライゼエション)といふ考え方によつて膨張発展を遂げ、アジア侵略をおこなつた欧米列強とを、見据ゑてゐる。
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桶谷秀昭 昭和精神史 戦後編P182

皇国の春によみがへらなむ

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日本の敗北を、近代戦における無惨な敗北にとどまらず、日本の神々の敗北といふ、もつとも深刻な打撃において感受したのは、折口信夫である。

神ここに敗れたまひぬ─。
すさのをも おほくにぬしも
青垣の内つ御庭の
宮出でて さすらひたまふ─。

くそ 嘔吐(タグリ) ゆまり流れて
蛆 蝿の、集(タカ)り群起(ムラダ)つ
直土(ヒタツチ)に─人は臥(コ)い伏(フ)し
青人草(アヲヒトグサ) すべて色なし─。
村も 野も 山も 一色(ヒトイロ)─
ひたすらに青みわたれどただ虚し。青の一色
海 空もおなじ 青いろ─。

(「神 やぶれたまふ」)

沖縄戦が玉砕敗北した戦争末期、沖縄本島守備隊第三十二軍の司令官牛島中将の辞世の歌、「秋待たで枯れゆく島の青草は、皇国の春によみがへらなむ」を、ラヂオ放送で聴いたとき、折口信夫は、かつて昭和のはじめ、古代研究のために訪れた沖縄の一風景、「白波砕くる残波岬」を夜明けの海上から眺めたのを思ひだした。
その風景の記憶が、悲報を聴いて極度に悲しむ心をゆさぶり、「秋待たで枯れゆく島の青草」といふ歌句に接して、一瞬、一つの幻想に変容した。
「……岬の残巌に叩くともなく、また離れてでもなく、ひと群の青草が、目にちらついた。その青草の緑が、目に沁むやうに思はれる。声をあげて叫びたいやうな私の心に、これほど応はしい物の色はなかつた。」
敗戦後も、この青草の幻想は折口信夫に憑いて離れなかつた。しかし、青草は、敗戦の日の日本の春によみがへつたであらうか。
折口信夫が、青草の幻想のみづみづしさを抱いたのは、辞世の下句、「皇国の春によみがへらなむ」の微妙な感情を正しくつたへてゐる語法の感銘に由来した。

歌は「皇国の春によみがへらなむ」である。「……よみがへりなむ」とはない。さうとすれば「来るべき御代の盛りには、いまこの島に朽ちゆくわが身の志も、継承せられ栄えゆくであらう」といふ意味ではない。「よみがへらなむ」とある以上は「よみがへつてくれ」「よみがへつてくれるやうに……」といふ義である。わが身の志を継承して行くもののあることを祈つてゐることになるのである。

この「なむ」といふ動詞の未然形を受ける語法は、文法学者の説明によれば、終助詞といつて、祈り、それも相手にむかつてあからさまにいふ祈りではなく、ひそかに、ひとりごとのやうにいふ祈りである。心細いだけに、その切実な感情はひときは深いものがある。
折口信夫が打たれたのは、「さうした歌詞の文法に馴れて居られる筈のない将軍が、どうしてかういふ緻密な表現を獲たか」といふ感動であつた。連戦連敗、もはや戦局の見通しのないときに、言霊は生きてゐる、といふ感動だつたであらう。日本の神々が信じられたのである。
しかし、戦争がをはり、異国軍隊の占領下に置かれた日本の日常生活に、一人の武辺が差し迫つた境遇で、深い微妙な感情をおのづからのやうに表現するといつた仕草は、地を払つてしまつた。
「国滅びて 民は皆 剽盗となり すりとなり、売笑と変じた。」(「最上君の幻影」 )といふやうな詩句、あるいは「陰口ばかりきいて、ちつとも協力しないで、日本の葬列を ながし目に見送つた中年男/いまだに 悔いることを知らぬ─かつたいばら 老骨」(同上)といつた激語を、この頃の詩の中にいくらでも見出すことはできる。
とはいつても、激語は感情の激しい動揺から生まれ、別の瞬間に、生きようとする心の平衡を本能的に求めてか、昭和二十二年五月五日の「朝日新聞」に発表された「新憲法実施」のごとき愚作もある。

われらの生けることば以って綴り、
われらの命を捺印(オシテ)し、
いちじるき 清き紀元を受ける晝日(ヒカ)く─。
うちとよむ 時代の心
句句に充ち 章段にほとばしる─
我が憲法 生きざらめやも。

折口信夫の文学的感性、教養と国学の学問的蓄積のどこを押せば、かういふ人をして唖然たらしむる文句が出てくるのか、不思議である。「神やぶれたまふ」といふ喪失感の激しさが裏返つての結果であらうか。
それはともかく、「神やぶれたまふ」の実感は、すこし時が経って、神道への反省をあらためて促す契機になつた。あらためて、といふのは、神道の欠陥は、それまでの彼の学問的研究において自覚されてゐたからである。

昭和二十年の夏のことでした。
まさか、終戦のみじめな事実が、日々刻々近寄つてゐようとは考へもつきませんでした。
その或日、ふつと或啓示が胸に浮んで来るやうな気持ちがして、愕然と致しました。それはこんな話を聞いたのです。あめりかの青年達がひよつとすると、あのえるされむを回復するために出来るだけの努力を費した、十字軍における彼らの祖先の情熱をもつて、この戦争に努力してゐるのではなからうか、と。もしさうだつたら、われわれは、この戦争に勝ち目があるだらうかといふ、静かな反省が起つても来ました。(「神道の新しい方向」)

戦局が日増しに険悪になるにつれ、「天佑神助」といふことを国の指導者がいひ、国民大衆もいつたが、それは、実は神々への宗教的情熱とは別の、現世利益を求める功利心にほかならなかつた。神々はすでに死んでゐた。いつの頃からか、さかのぼつて考へれば、明治文明開化以前、徳川儒教以前、ずつとさかのぼつて、中世の吉田神道のあらはれる頃、キリスト教西欧との比較でいへば、「ぎりしあ・ろうまにおける『神々の死』といつた年代が、千年以上続いてゐたと思はねばならぬのです。」
現代における国学といふ自覚において神道を考へてゐた折口信夫にとつて、敗戦占領下は、占領軍の神道指令の抑圧下にある最悪の時代であつた。彼が奉職する国学院よ神道科はその名称を宗教科と改めなければ存在を許されなかつた。
しかし、折口は敗戦の根源を日本の神々への宗教的情熱の衰退にみてゐたから、占領軍の抑圧は、これをわざはひを転じて福となす機会と思ひなほした。近代意識によつて見失はれた純粋な神道、古代の神々の信仰の生活的具体をあきらかにする学問研究を、敗戦以前の国家権力の干渉から自由にやれる機会が来たと考へた。
昭和二十一、二年の国学院における「神道概論」の講義は、さういふ考へのもとにおこなはれた。昭和二十一年の正月の天皇の人間宣言には、何の衝撃も受けなかつたであらう。現人神といふ、あいまいな概念をはつきりさせるのに都合のいい時期と思はれたにちがいない。天皇即神であるかないかといふぎろんは、何らかの宗教感情にもとづくものではなく、神道の道徳的歪曲にもとづく観念論である。日本人の霊魂の信仰のもつとも古く純粋な姿をあきらかにすることが、議論の本質であると考へた。
昭和二十二年五月十四日の講義で述べている。
「日本の神道は中心を宮廷の信仰におくのが、日本の宗教史の常識である。それをうごかしてはものが考へられない。そこにたつて立論してくれば、きゅうてい信仰の足場を捨ててもいい。宮廷が信仰の中心でなくなつてもいい。正しいと思はれる。」
この最後にいふ「正しいと思はれる」といふのは、日本民族の魂の救済に「正しい」といふ意味である。宮廷が信仰の中心でなくなつてもいいといふのは、結果のことをいふのであつて、事を論ずる原因ではない。結果は観念からは出てこない。学問的な証拠によつて出てくるので、そのことを飛ばした議論は宮廷に迷惑をかけるだけである。
この頃、中野重治は小説『五勺の酒」を書いて、主人公の口を籍りて「天皇の天皇制からの開放」といふことをいつてゐる。言葉づかひは左翼用語であるが、作者が共産党員だからかういふことをいつたのではない。戦前から折口の国学や柳田民俗学に並なみならぬ関心を抱いてゐた中野重治だから、かういふことがいへたのである。
この頃、また、折口は『一つの連環話』(昭和二十一年一月「時事新報」)を発表した。アメリカ南北戦争と戊辰戦争の終戦処理における、勝者の敗者にたいするエピソオドを重ね合はせ、そのエピソオドにかかはつた福沢諭吉と西郷隆盛の寛大なさはやかな心を回想したエツセイである。
そのエピソオドとは榎本武揚の助命のために、奔走した福澤と、黒田清隆の長州派とりわけ気むづかしい木戸孝允を説得した尽力と、それを賞賛した西郷の書簡──この人の文章にはつねに独特のユウモアとすがすがしい感覚がある──とのことである。福澤がやや品位に欠けるところはあつても、達意自在の文章家であつたことは、いふまでもない。
榎本武揚の助命運動において、福澤はかつて咸臨丸て渡米したときに手に入れた、南軍の大統領か将軍かはつきりしないが身を隠すために女装した写真を黒田に贈って、人間といふものは一度命を奪へば、あとでいくら後悔しても取り返しがつかない、また勝者の北軍が南軍の巨魁を殺さなかったのは、文明国の美風であると懇々とといた。
もともと黒田は戊辰戦争のとき、西郷に従つて、庄内藩が降伏したとき、庄内藩の家老にたいして、西郷があたかも自分が敗者であるかのやうに丁重に応対した情景を目撃して、感動した人間である。
以上のエピソオドを、折口は石川幹明著『福澤諭吉伝』を種本にして書いてゐる。だが、注目すべきは、このエッセイの結語の一節で、折口のいひたいことがすべてこめられてゐる。

あめりか南北戦争にそそがれた血、併し其も皆清教徒の涙で清められた。其清教徒の涙の価値を、痛切に感じたものは、──感じ以て、生活の底の底まで鳴り響いたものは、世界広しといへども、真に敵を愛することを知つてゐる、かつてのもののふの後であつた人々に如くものはなかつたであらう。西郷氏に見よ。福澤氏に見よ。我々は世界と日本とにこめられて弘通する人類の夜明けを、此時既に見てゐたのである。
我々は更に、大いに美しい信仰に、人道の涙を浄めて行くであらう。
清教徒よ。我等を栄光の道に導くことを忘るる勿れ。我が先人は、之を南北戦争に見て、その輝かしさを今に忘れることが出来ぬのである。

もういふまでもないことだが、折口信夫は、占領軍の日増しにその範囲を拡げてゆく戦犯指定と、やがて開かれる極東軍事裁判における勝者の側の正義人道に訴へてゐるのである。
極東軍事裁判の論理が、文明の美名による勝者の敗者に対する報復であり、その由来をさかのぼる時、原型がアメリカの南北戦争における北軍側の南軍に対する苛酷な制裁にあつたことを、折口が気がついてゐたかどうかわからない。
しかし、ともかく、折口が西郷や福澤の抱いてゐた正義人道の普遍感覚を回想し、さういふ先達をもつ日本人への同胞感情によつて、占領軍に対するメッセエジを発したことは立派である。それは敗戦の悲しみに発する文学者の心である。
敗戦によつて民主革命の好機到来と考へ、同胞の戦犯リストをいちはやくつくつて、占領体制に迎合した左翼進歩主義文学者とその同調者の心事を支配していたのは、何であつたのだらうか。
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桶谷秀昭
昭和精神史 戦後編 P133