そのとき東京裁判法廷の中にだけ、言論の自由があった。東條口供書 | 忘れないようにメモメモ(日本の歴史、近代史)

そのとき東京裁判法廷の中にだけ、言論の自由があった。東條口供書

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
東條口供書は、昭和二十二年十二月二十六日から三日間にわたり、ブルウエット弁護人によつてその英語訳文がよみ上げられた。
そこで東条英機が強調してゐることは、
一、日本はあらかじめ米、英、蘭(オランダ)に対する戦争を計画し準備したものではない。
二、対米、英、蘭の戦争は、これらの国々の誘発に原因し、日本としては自存自衛のために止むを得ず開始されたものである。
三、日本政府は合法的開戦通告を、攻撃開始前に米国に交付するため周到な注意をもつて手順を整へ、その交付の手続きは外相(東郷茂徳)に一任したこと。
四、大東亜政策の基調は第一に東亜の開放、つぎに東亜の建設に協力することである。
五、いはゆる「軍閥」なるものは存在しない。陸軍省、海軍省、参謀本部、海軍軍令部の発言権が重きをなしたことは事実であるが、国家機関の外に軍閥なる有形無形の団体が勢力をもつたことはない。
六、統帥権の独立と連絡会議、御前会議の運用。なぜさういふ緒会議が必要になつたか。
七、東條の行つた軍政の特徴は統帥と規律にあつたこと。
大きくいつて、一から四までの事項にわたる戦争観と、五から七までの国内軍政における彼の意図と責任の二つであるが、とりわけ前者における彼の戦争観は、連合国側の主張する「共同謀議」による「侵略戦争」に、真正面から対立することはいふまでもない。口供書の文体も、この部分において
特に熱をもち、これをいはないでは死にたくとも死ねないといふ気迫の伝はるものである。
とりわけ、昭和十六年七月の、日米交渉のさなか、南部仏印進駐が行はれねばならなかつた不可避の理由について、五項目を挙げてゐる。
(1)重慶と米英蘭の提携を南方において分断する。
(2)米、英、蘭の南方地域における戦備の拡大、対日包囲網の結成、米国内の戦争緒準備、米首相の各種の機会における対日圧迫の行動。
(3)日本の生存上必要なる物資の入手妨害。
(4)米英側の仏印、タイに対する対日離反の策動。
(5)蘭印との通商会談の決裂、蘭印外相の挑戦的言動。
これらは、戦争中、ABCD包囲陣としてさかんに喧伝された大東亜戦争の開戦理由に当る要因である。敗戦後、とくに占領下にあつては、ABCD包囲陣などは、軍閥が国民を欺くための虚偽の宣伝といふことになつた。東京裁判が集結したあとも、ABCD包囲陣が嘘であるといふ史観が圧倒的であつた。
今日、東條口供書をあらためてよみなほすと、ABCD包囲陣の実体なるものが、とりわけ(1)と(2)において、丹念に事実を調べ、記録してゐることがわかる。いまそれを列記すると、(1)については、
A 昭和十五年、ハル国務長官は英国のビルマルート経由援蒋物資禁止に反対を表明。
B. 十五年十月、ルウズベルトは国防のため英国及び重慶を援助する演説をした。
C. 十五年十一月、米国は重慶に一億ドルの借款を供与する旨声明した。
D 十五年十二月、ルウズベルトは三国同盟の排撃、民主主義国家のために米国を兵器廠とする旨の炉辺談話。
E 十五年十二月、モオゲンソオ財務長官は重慶及びギリシャに武器貸与の用意ありと声明。
F 十六年二月、ノックス海軍長官は重慶政府は米国飛行機二百台購入の手続きを了へたと声明。
G 十六年五月、クラゲット准将一行は蒋軍援助のため重慶到着。
H 十六年五月、ノックス、中立法に反対声明。
I 十六年六月、スチムソン陸軍長官は同じ声明を発表。
(2)については、
A 米国は十五年七月から十六年五月までに三百三十億ドル以上の軍備の拡張をなした。
B 十五年八月、ノックスはアラスカ第十三海軍基地に新根拠地を建設した。
C 十五年九月、太平洋における米国属領の軍事施設工事費八百万ドルの内訳公表。
D 十五年九月、米海軍省は今年度の根本政策は両洋艦隊建設の航空強化の二点に在りと強調した。
E 十五年十月、ノックスはワシントンにおいて三国同盟の挑発に応ずる用意ありと声明。
F 十五年十月、上海在住の米国婦女子百四十名帰国、国務省は極東向け旅券発給停止。
G 十五十月、名古屋市米国領事館閉鎖。
H 十五年十一月、ラモント氏は対日圧迫強化の場合、財界はこれに協力し支持するであらうといふ。
I 十五年十一月、イギリスのイーデン外相は下院において対日非協力を演説した。
J 十五年十二月、米国は五十一箇所の新飛行場建設、及び改善費四千万ドルの支出を決定。
K 十六年五月、ルウズベルトは無制限非常事態を宣言。
なほ、(3)(4)(5)の経済封鎖についてはよく知られてゐることなので、摘記すれば、
A 昭和十四年七月、日米通商航海条約廃棄。
B 昭和十五年七月、ルウズベルトは屑鉄、石油を禁輸品目に追加。
C 十五年十月、屑鉄の輸出制限令。
D タイ、仏印の要人は昭和十五年以来、シンガポール在の英国勢力と連絡、米・ゴムの日本購入を妨碍。
E 昭和十五年末、英国はタイ国ライス会社に対して外米六十万トンの発注をなし、日本のタイ米取得を妨碍した。十六年頃、毎年約五十万トン(約九百万石)の米を仏印、タイより輸入する必要があり、同年五月、七十万トンの経済協定を結んだところ、六月、仏印は同月分契約量十万トンを五万トンに半減方申し出、七、八月分についても半減を申し出た。
F ゴムについては、仏印ゴム年産六万トン、そのうち日本は一万五千トンを米ドルで入手してゐた。十六年六月、米国は仏印ハノイ領事に仏印生産ゴムの最大量の買ひつけを命じた。
G 英国はその属領に十六年五月中旬、円ブロック向けゴムの全面禁止を行った。
東條口供書の他の被告とちがふ特徴は、自分の無罪の根拠を弁明することにほとんど無関心なまま、自分の歴史観にもとづく戦争観を相手に向かつて突きつけたことである。死はすでに勘定に入れてある。
彼は自分の弁明のかはりに日本の弁明に全力を注いだ。それが彼の意図のすべてであつた。
占領下日本の国民的動静は、占領軍が強制する侵略戦争、文明への挑戦、戦争犯罪といふ概念にたいして、能うかぎり自分を守り、無罪のアリバイを自分の過去にみいださうとしてゐた。それをみいだすことが困難であることがわかると、その犯罪性の痕跡をかつての指導者のみならず同胞の他人の中にみいだして、責任転嫁の対象として告発することに、遣り場のない絶望と憤懣の吐け口をみいだした。
東条英機とその家族が、責任転嫁の対象の象徴となつた。家族は一層ひさんであつた。東条英機本人は巣鴨プリズンに身柄を保護されてゐる。無知で野蛮なアメリカ兵の看守から野卑なスラングで罵倒され、小突かれようと、生命は保護されてゐた。しかし家族は、狭い日本のどこへ逃れようと、自分の姓を名のつては生きていけなかつた。姓を隠してゐても、それがわかると、容赦ない脅迫と虐待に曝された。極端な物資不足の時代でもあり、八百屋も魚屋も東条一族に物を売ることを拒んだ。学校の教師は、一族の子弟の担任になることを拒否した。
皮肉なことに、極東軍事裁判の市ヶ谷法廷といふ、六十五キロワットのまばゆいシャンデリアの輝く空間だけが、日本社会のどこでも禁じられてゐる歴史観と戦争観を、証言台の上から述べることが許されてゐた。もちろん、その発言の先には死刑が待つてゐた。



東条英機はその六万五千語に及ぶ口供書の最後を次のやうに結んだ。

終わりに臨み──恐らくこれが当法廷の規則の上において許さるる最後の機会であらうが──私はここに重ねて申し上げる。日本帝国の国策ないしは当年合法にその地位に在った官吏の採った方針は、侵略でもなく、搾取でもなかつた。一歩は一歩より進み、又適法に選ばれた各内閣はそれぞれ相承けて、憲法及び法律に定められた手続きに従ひ、事を処理して行つたが、遂に我が国は彼の冷厳なる現実に逢着したのである。当年国家の運命を商量較計するの責任を負荷した我々としては、国家自衛のために起つといふことがただ一つ残された途であつた。我々は国家の運命を賭した。しかして敗れた。しかして眼前に見るが如き事態を惹起したのである。戦争が国際法より見て正しき戦争であつたか否かの問題と、敗戦の責任如何との問題とは、明白に分別の出来る二つの異なつた問題である。第一の問題は外国との問題でありかつ法律的性質の問題である。私は最後までこの戦争は自衛戦であり、現時承認せられたる国際法には違反せぬ戦争なりと主張する。私は未だかつてわが国が本戦争をなしたことを以て国際犯罪なりとして勝者より訴追せられ、又敗戦国の適法なる官吏たりし者が個人的の国際法上の犯人となり、又条約の違反者なりとして糾弾せられるとは考へた事とてはない。
第二の問題、即ち敗戦の責任については当時の総理大臣たりし私の責任である。この意味における責任は私はこれを受諾するのみならず、衷心より進んでこれを負荷せんことを希望するものである。

東條口供書に対する輿論の反響は、おしなべて否定的である。ニュウヨオク・タイムスの社説(十二月二十七日)が
「真珠湾攻撃に関する東條の考へ方がアメリカの極端な孤立主義者達が議会で証明したところとまつたくおなじである」と書いてゐるのが、その後五十年たつた今日、もう一つのアメリカ輿論がやがて脚光を浴びることを期せずして示唆していることをのぞけば、ハル通告を「最後の通告といふなら、それはわれわれの懐中から時計を取り上げようとする強盗に対し『ノー』といふのが最後通告といふことにならう」といふ、感情的な反撥に尽きる。
十二月二十七の朝日新聞」社説は、冒頭の一説の中で「……証人台に立つた多くの被告が、消極的な個人弁護に終始した傾きがあるに対し、彼は積極的に、何故日本が戦争をえらばねばならなかつたかを説明し、合わせてその立場を正当化しようと試みてゐる点に特異性を見出すことが出来る。」と書いてゐる。ここだけが、事実を正視した唯一の文章である。

しかしその余はGHQの太平洋史観をなぞつた認識を述べてゐるにすぎない。「国民に対し惨害を与へたにすぎなかつたこの憎むべき戦争が、ただ軍部の独裁的な強行方針によつて断行され、国民はただそのいふがままに追随してゆかざるを得なかつたあのおそるべき事実をどう釈明するか。軍閥は存在しなかつたなどという形式的な自己弁護は一顧だに値しない。東條口供書はすぎさつた悪夢のやうな旧日本の政治の非合理の醜悪さを自ら暴露するものである。」
統帥部と内閣の二重構造は、明治憲法の規定(「第十一条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」)に由来し、統帥部(陸軍参謀本部、海軍軍令部)が運用を謝らなければ問題はないが、昭和になつて独走しようとした。東條が開戦前に陸海軍合同軍事参議官会議を開いたり、昭和十九年敗色濃くなつて参謀総長を兼任したりしたのは、統帥部と内閣を一元化するためであつた。それは東條独裁といふ避難を浴びた。が、ともかくさういふ事情は口供書に詳しく述べられてゐるのだから、それを直視し分析した上で批判するなら、する必要がある。
「東條は『国家自衛のため起つといふことがただ一つ残された道であつた、われわれは国家の運命をかけ敗れた』と弁じてゐるが、それは『日本の自衛』のとめでなく『軍閥の自衛』のためであつた」(「毎日新聞」「余録」十二月三十日)といふ批評も、GHQの太平洋史観にもとづくイデオロキギイ批評を一歩も出ない。
記者たちは自分の言葉で語つてゐない。自分の言葉で語れば、占領下のプレス・コオド違反になるおそれのために、それができなかつたのであらうか。それにしても占領下言論統制の網の目をかいくぐつて、いますこし陰翳と暗示に富む言葉がつむぎだせなかつたであらうか。
しかし、記憶すべきことは、右のやうな言論が解けたあとも、残り、さらに内在化して戦後日本の言語世界のわくになつたことである。





尋問ををはつた東條は外国人記者にたいして語つた。
「この際、特に申し上げることはありませんが、私の心境は淡々たるもので、ただ靖国神社の祭霊と戦争により戦災をかうむられた方々の心になつて述べたつもりです。言葉は完全に意を尽くしてをりませんが、事柄だけは正しく述べたつもりです。もし私に希望をいふことが許されるならば、二つの希望が残つてゐる。この裁判の事件は昭和三年来の事柄に限つて審理してゐるが、三百年以前少なくとも阿片戦争までさかのぼって調査されたら事件の原因結果がよく判ると思ふ。またおよそ戦争にしろ外交にしろ、すべて相手のあることであり、相手の人々相手の政府と共に審理の対象となつたならば、事件の本質は一層明確になるでせう。」
せめて阿片戦争までさかのぼつてといふ問題意識はきはめて正当なものであり、歴史観として近代日本の運命と、他赤文明」(シヴィライゼエション)といふ考え方によつて膨張発展を遂げ、アジア侵略をおこなつた欧米列強とを、見据ゑてゐる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
桶谷秀昭 昭和精神史 戦後編P182