「アジア人のアジア」の樹立のために | 忘れないようにメモメモ(日本の歴史、近代史)

「アジア人のアジア」の樹立のために

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昭和初年のわが青年を強く印象づけたものの一つは、我国が第一次世界戦争後の平和会議に所謂五大国の一員として列席し、戦勝国の立場で提出した「人種平等案」が、他の欧州諸国によつて臆面もなく否決せられた事実である。かうした不思議な議案が提出されねばならなかつた人道の状態及び理由と、それが否決された奇怪さは、尋常の文明の見地からは想像も出来ないことであるが二十世紀始めの世界平和会議で行はれた厳然たる事実である。憤りを思ふよりも、それに憤らねばならぬという人倫的な要求によつて、アジア一般は下等なものとの戦ひを決意せねばならなかつたのである。人道の英雄がつねに己の敵に値ひせぬものと戦ひ、しかも最終的に敗北する経過を、無数の史実によつて知り、偉大な敗北としてこれを認めたのは、第一次大戦後の昭和初年の日本の青春である。それが所謂「日本浪漫派」の標識の一つであつた。明治の近代化以来の日本自体のイロニー性を指摘し、その悲劇的終焉の美化と共に、近代の終焉を指向するものが昭和十年代のわが青春の神話であり混沌であつた。彼らはその悲劇と敗北を低い世界に於て認めることによつて、崇高な人間の理想的美的な態度を確立せんとしたのである。近代を終焉せしめんとする青春の動向であつた。その戦ひのために人間のもつ一切の能力と智恵と方法を用ひ、最も高貴な勇気と道義の純粋さをもつてしても、なほ敗北はあつた。歴史はその事実を過酷に、しかも美しいものとして教へるのである。それは偉大であり、究極にしてつひに美しいのである。


わが多くの同胞の青春を空しくし、しかも今日なほ下等な敵によつて、その勇気と高潔を蹂躙されてゐる大東亜戦争の最も清醇な理念は「アジア人のアジア」の樹立にあつた。近代史をひもとく者にして、誰がこの真理に抗し得ようか。大東亜戦争終焉後の結果は、アジア・アフリカの西欧植民地の一斉解放と独立、そして東欧諸国国家がソ連の隷属下にその独立を失ふといふ世界史の変調を起こしたのである。
アジアをアジア人の手に、と叫んで、往年のわが若者たちは、己の生命を桜花のいさぎよさになぞへたのである。わが昭和十年代の青春の描いた最も壮大なしかし崇高なそして無償の行為の悲劇であつた。しかしこの若者の心には、維新の血がその日蘇つてゐたのである。日本の独立自衛とアジアの解放こそ、明治の精神の願望である。アジアがアジア人のものでなかった長い歴史、これが大凡にいふ近代史の意味である。近代の終焉の合言葉は、政治から文明に亘る広範な視野で、わが十年代の若者の心をふるはせたのである。維新の攘夷論は、支那古代の帝国主義の考へたやうな、自己を中国と称し、四隣を夷狄としてこれを支配する中華思想の発現ではなかつたのである。初期の攘夷論は、鎖国を守り得ない反動としての排外でなく追ひつめられた自衛の発露だつた。攘夷の精神は、鎖国の道徳的立場に相通ずるものであつた。故にことばとしての攘夷は、そのうらにも侵略主義は毛頭もなかつた。つつましい自衛の立場の表現である。当時の人々は卑屈でなかつたのでこのやうな表現をしたが、今日のことばでいへば、侵略勢力を波打ち際で攘ち払ふといふ主張にすぎない。その故に尊皇と並称され、西洋の侵略に対して国の自主独立を守るたてまへを明確にしたのである。国を守る根拠と目的は、尊皇にあつた。建国の理想としての道徳の生活を守るとの意味を現はした。精密な理論を要せずして、感覚的に了解される民族的なものだつたのである。
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述史新論 保田與重郎