多くの心理学者は「執着」が最も「苦しみ」の原因であると説かれている。正にその通りだと思う。又、その執着を捨てることで、「幸せ」を得るとも勧めている。勿論、これも正論だと思う。問題は、その執着を確実に認識することの難しさである。何故なら、人間はこの物質世界に生きてる限り、強かれ弱かれ、その物事に執着を持って生きざるを得ないのが事実だ。

結局、人間は「苦しみ」から完全に解放することは不可能と結論付けることになる。

 

そこで、私はその逆からこの課題を勉強してみた。先ず、「苦しみ」の本質を考えてみた。最大の慈愛である神が何故人類にこの重い「苦しみ」を背負わせたか。多くの心理学者は、その原因は人類の修行のためだと説いている。私は、例え最大の罪を犯しても、神は「罰」を与えないと信じている。私たち人類に一番短く、分かりやすく神の存在を表しているのは、太陽である。この太陽系で生きとし生けるもの全てに、平等に熱・エネルギーを与えていることである。これが神の慈愛の表しである。

 

一方、神は全ての物事の創業者であり、むしろ、神そのものと言っても過言ではない。私たちが自覚している「苦しみ」も例外ではない。では、何故、慈愛そのものの神が人類に「苦しみ」を与えるのだ。ある心理学者は、それも、神の慈愛の表しだと説かれている。只、その様に受け止めるのは、私の心の奥底までには届かない。神が「鞭」で慈愛を表すことは完全に納得できない。

 

先ず、一旦、この課題の横に置いて考えてみた。以前このブログでも書いたように、「神は必要なもの全て与えている」と。これは、受け取る側に立てば、全くその通りであると信じている。只、問題は神が与えられている物事の判断、理解の間違いで、結論が異なるに過ぎない。一方、この世に存在するもの「自分自身の体を含む」、一切自分のものはないことも事実だ。この事実を論理的に考えたら、「苦しみ」だと判断付けている物事は判断ミスに過ぎないのである。「苦しみ」を逆に見たら、本当は神の慈愛であることが理解できる。要するに、「苦しみ」一つ一つを理解するのは結構だが、その内に判断力が薄ぐっれて、諦めてしまう、又、道に迷い、中途半端な反省になりがたい。それより、如何なる「苦しみ」も存在しないことと心から決定し、寧ろ、全て神の慈愛だと受け止めるのが一番正解だと思う。