近代世界に参入せざるを得なくなった以上国民は偶然の独立に安住することは許されない
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国体が失われるということは、国民が独立を失い、他国の支配を受けるということである。要するに、独立を保ち続けた日本の国体は「金甌無欠」の国体の象徴として、連綿と続く皇統の神聖性がある。裏を返せば、皇統の連続性が途絶したとしたら、それは国民が独立心を完全に失ったということの徴候である。それは、福沢が啓蒙思想家として生涯を賭けた企てが、失敗に終わったということを意味する。
大事なのは国家の独立であり、それを支える国民の独立の意識である。そして、国民の独立心に支えられた国体は「金甌無欠」であり、その結果として、皇統は連続性を保つ。これまで、我が国の皇統は連綿と続き、国家は独立を維持し、外国の支配を受けたことがない。しかし、それは国民の独立心があったからではなく、たまたま、外国から支配されなかっただけに過ぎない。近代世界に参入せざるを得なくなった以上、国民は偶然の独立に安住することは許されない。「我日本に外人のいまだ来らずして国の独立したるは、真にその勢力を有して独立したるにあらず。ただ外人に触れざるが故に、偶然に独立の体を為したるのみ」(福沢諭吉 文明論之概略6-300)。今や、日本人が目指すべきは、「わが国民をして外国の交際に当たらしめ、千磨百錬、遂にその勢力を落とさずして、あたかもこの大風雨に耐ゆべき家屋の如くならしめんとする」(同前-300)ことである。
以上が福沢の国対観であり、文明観である。これは、前章において見てきた会沢正志斎の国体観とは、基本的には違いがない。福沢は子安が賛美するような「国体論の文明論的な脱構築」などは、まったくやっていない。子安の解釈は、福沢諭吉と会沢正志斎の双方に対する根本的な誤解に基づくものに過ぎないのである。
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中野剛志 日本思想史新論P198
国体が失われるということは、国民が独立を失い、他国の支配を受けるということである。要するに、独立を保ち続けた日本の国体は「金甌無欠」の国体の象徴として、連綿と続く皇統の神聖性がある。裏を返せば、皇統の連続性が途絶したとしたら、それは国民が独立心を完全に失ったということの徴候である。それは、福沢が啓蒙思想家として生涯を賭けた企てが、失敗に終わったということを意味する。
大事なのは国家の独立であり、それを支える国民の独立の意識である。そして、国民の独立心に支えられた国体は「金甌無欠」であり、その結果として、皇統は連続性を保つ。これまで、我が国の皇統は連綿と続き、国家は独立を維持し、外国の支配を受けたことがない。しかし、それは国民の独立心があったからではなく、たまたま、外国から支配されなかっただけに過ぎない。近代世界に参入せざるを得なくなった以上、国民は偶然の独立に安住することは許されない。「我日本に外人のいまだ来らずして国の独立したるは、真にその勢力を有して独立したるにあらず。ただ外人に触れざるが故に、偶然に独立の体を為したるのみ」(福沢諭吉 文明論之概略6-300)。今や、日本人が目指すべきは、「わが国民をして外国の交際に当たらしめ、千磨百錬、遂にその勢力を落とさずして、あたかもこの大風雨に耐ゆべき家屋の如くならしめんとする」(同前-300)ことである。
以上が福沢の国対観であり、文明観である。これは、前章において見てきた会沢正志斎の国体観とは、基本的には違いがない。福沢は子安が賛美するような「国体論の文明論的な脱構築」などは、まったくやっていない。子安の解釈は、福沢諭吉と会沢正志斎の双方に対する根本的な誤解に基づくものに過ぎないのである。
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中野剛志 日本思想史新論P198