18歳から81歳まで、日本が大好きなすべての人へ……もっと笑って、みんなで憲法改正!
朝日新聞はアベノマスクが不評なことにつけ入り「待ってました!」とばかりに、「マスク2枚とはバカにしている。マスクが届いても突き返す」という旨の読者の声(こんな投書を採用するセンスを疑いますね。あるいはやらせ?)まで動員して、マスク無用論を展開します。 ところが、朝日新聞は自社の通販サイトで、2枚3300円+送料という高額なマスクを販売していたのです。記者会見で、安倍首相にそのことを指摘されると、完全に逆ギレ。 朝日新聞は、立場がマズクなることを恐れ、アベノマスクは不良品が多い、アサヒマスクは高いだけの価値があるというキャンペーンを張っていきます。 まずは、3段近くの大きなスペースを割いて、アサヒマスクの品質の良さと、製造元の確かさをアピール。 次いで、4月21日には、「変色・異物混入・洗ったら縮んだ」、「配布マスク やまぬ批判」と5段も使って、アベノマスク批判。そして、「発注先を明らかにせよ」という野党の声を後押しします。 この裏には、「安倍首相は、マスクを地元山口のメーカーに依頼した」というフェイクニュースがネット上で流れていたことがあります。 そして、4月22日には、「政府配布マスク 受注3社が判明」という、わずか18行の記事が掲載されました。3社とは、興和、伊藤忠商事、マツオカコーポレーションで、山口県の企業は1社もなく、ちょっぴりの記事に、ちょっとがっかりした様子がうかがえます。しかし、公表されたおかげで、マツオカコーポレーションの株価が上昇するという副産物を生みました。ありがとう、アサヒコーポレーション。いや、これはシューズメーカーでした。 これで、ヒール・アベ対ヒーロー・アサヒの「マスクマッチ」は終わったかに見えました。 ところが、ネタに事欠く朝日紙面の「マスク依存症」はここから始まったのです。「安倍の逆襲」が、よほど悔しかったのでしょう(度量の狭さ、露呈)。 4月23日、ほぼ全面と言っていいほどのスペースを使い、<まさかのマスク2枚>という「まさか」の特集を組んだのでした。おいおい。<新型コロナ対策で、安倍政権が打ち出した布マスク2枚の全世帯配布。この目玉政策を巡り、国民の批判が絶えません。なぜ「アベノマスク」は不評を買うのでしょうか>というのがリード部分です。中身はインタビュー記事でした。 ここに登場したのは、小川仁志(哲学者・山口大学教授)、山口真由(信州大特任准教授)、山田ルイ53世(お笑い芸人)の3人ですが、小川の自己宣伝を含めた発言を除けば、タイトルに応じた内容にはなっていません。当然ですよ、3人は、よくそんな企画に付き合ったと思います、ご苦労さま。山口は、朝日の思惑など、意に介せず「私は、布マスク配布という政策自体はそれほど悪いとは思えません」と、記者がのけぞるような話をしています。 マスク大特集は大失敗だったでしょう。 これで、懲りたと思いきや、本日(24日)は、「便利屋本舗」の池上彰代表が登場! 池上コラムの見出しは、<首相“反撃”の2枚3300円 布マスク 実は町おこし> そして、書き出しは、<いわゆる「アベノマスク」への批判が連日ニュースになっています>だって、連日ニュースにしているのは朝日だけです。 そして、アサヒマスクは朝日新聞がつくっているのではなく(言わずもがなです)、製造地である泉大津市の町おこしプロジェクトだと説明しています。この取り組み自体はすばらしい! ぜひ積極的な取り組みを継続していただきたいと思います(できたら、庶民にも手の届く、2枚1000円くらいのものも)。しかし、このコラムは、ほとんどがネットの引用で、自らの意見は、安倍批判だけです。さすが、便利屋の本領発揮でした。 マスコミが今、追及すべきは、アベノマスクではなく、マスクがなぜ手に入らないのかという問題です。国民にとっては、喫緊の関心事です。 どこの誰が買い占めているのか。さらには、火事場泥棒のごとく現れ、ボロ儲けしているであろう何者かを暴き出す。これこそが、読者の求めているニュースです。そんなこともできないマスコミが信頼されないのは、当然でしょう。 私たちは、使い捨てマスクを何気なく使っていました。そのほとんどが中国製とも知らずに。そして、最近は、「使い捨てマスクが道端に捨てられていて、どう扱っていいのか、怖い」という声もよく聞かれます。 SDGs(Sustainable Development Goals=持続可能な開発目標)に向かって、世界が努力している中、使い捨てマスクは、その流れに間違いなく逆行しています。その意味では、アベノマスクもアサヒマスクも同じ布製ですから、お互い「やっぱり、日本は布製でいきましょうや」と握手(今はやれないので、肘タッチか)して、タッグマッチを組めばすむことです。かつて私たちが、大事に使っていた布マスクは、環境にやさしく、SDGsにもかなっています。 朝日は、子どもじみたアベノマスク批判をいい加減にして、これを機に、日本製布マスク、あるいは手作りの布マスク普及のキャンペーンをしたらどうでしょうか。 これぞ、クール・ジャパンです。 日本がマスク製造から手を引いたのは、採算が合わないという理由です。しかし、これからは、少々高くとも、品質管理のしっかりした日本製の布製マスクを定着させていく必要があると思います。 マスク着用は、清潔な日本文化の一つとして世界に広めることのできる習慣です。 そして、「おしゃれなマスク」づくりは、家庭にいる女性が、個人事業主になれるチャンスにもなります。ウチノマスクがたくさん市販されることを期待したいものです。 そのうち、マスクファッション、マスクの流行情報などが雑誌で特集される時代がくるかもしれません? 春は来ているのに、アベノマスクはまだ来ません。は~やく、こいこい布マスク! と、楽しみにしていたら、突然の悲報が飛び込んできました。興和と伊藤忠商事が、不良品続出のため、未配送のマスクを全品回収! すべて輸入品(やっぱりね)、この混乱の中、検品も余裕をもってできなかったのでしょう。 また、朝日はネタができて、大喜び、しちゃいけませんよ。 追記:大喜びしたのは、朝日の関連会社日刊スポーツでした(25日)。各種スポーツが中止に追い込まれている中、ネタ不足に恵の雨(飴かな)、最終面全面のノリノリ特集!「政策はやり直さないの?」 朝日から依頼された? わけはないね。でも「やり過ぎではないの?」。 私もやり過ぎかな?
世界中が戒厳令なみの非常事態宣言をしているのに、日本は、なぜ厳しい規制ができなかったのでしょうか。 まずは、(世界が非難したにもかかわらず)ダイヤモンド・プリンセス号の初動に「結果として」そこそこ成功したからです。宿泊施設も病床も確保できないのに、下船させていたら、その後、大変なことになっていたと思います。 次には「全員PCR検査をすべきだ」という無知なマスコミ報道(程度の低い医療関係コメンテーターの起用)や野党の声に対して、聞く耳を持たなかったからです。そして、多くの人が「うがい、手洗い」を実行し、外出、会合の自粛に「ある程度」応えたからです。注目するべきは、感染者数ではなく、死者数だということです。全員検査をしていたら、遠の昔に医療崩壊、死者数も激増していたでしょう。 さらに、科学音痴の立憲民主党・蓮舫の「休校に科学的根拠があるんですか」というバカ丸出し(今は本人も恥ずかしかったと思っているでしょう)の考えを無視して、多くの自治体が休校に踏み切ったからです。いち早く発車した北海道知事の英断は見事でした。 そこで、日本はこんなにうまくいっている、そろそろ自粛しなくてもいいのではないか、という空気が生まれてしまったのです。ここから、日本はおかしくなっていきました。 しかし、考えてもみてください。日本は島国という安心感から、世界で最も遅い出入国制限をした国です。感染者が少ないわけはありません。案の定、海外からの帰国者に続々、感染が確認されています。 さらに悪いことは、「若い人は、感染しても、無症状か軽症だから外出してもあまり問題ではない」、「マスクは予防効果がない」などと、無責任なことを「したり顔」で解説するインチキ野郎がテレビに登場してきたことです。まだ、実態がつかめていないウイルスに町の医者が正しいことを言えるわけはありません。 話は突然変わりますが、 作家の井上ひさし(私と違い、護憲論者でしたが)の、憲法に向き合うときの新鮮で謙虚な考え方には、いつも目を開かされました。たとえば、司馬遼太郎さんとの対談で、こんなことを述べています。<憲法は法のなかの法だから、大切なこと、法治国家の精神はこの憲法のなかにあるはずだというふうには、われわれは憲法を使っていない。いつもどこかに置いておいて、誰か気づいた人が時に憲法を持ち出すけれども、その持ち出し方が通りいっぺんで、しかも正義面をして妙な引用のしかたをする。だからわれわれはますます嫌いになってしまうんです。 憲法にしろ自治にしろ、みんなで決めたことを拠(よ)りどころにして目の前の問題を考えていくという修練を、日本人はあまりやってきていない。あまりに平和で、うまくいきすぎたからでしょうか。しかしこれからは、そのあたりの修業もあらためてやっておく必要があるという気がしています。>(「昭和」は何を誤ったか。1996年) 今回の「武漢ウイウス」(と、アメリカのペンス副大統領が呼びました。責任の所在をはっきりさせるためには、適格な名称だと思います)によるパンデミックに際して、私はこの対談を思い起こしました。日本のウイルス対応が「歯切れが悪い」原因の一つに「日本国憲法」の存在があることに気づいた人が少なかったからです。 この歯切れの悪さこそ日本に蔓延する「憲法病」ではないかと思います。私たちは、戦後ずっと平和な環境で暮らしてきたために、免疫力が弱っていて(比喩ですよ)、こうした危機に対応できないのです。テレビを見ても、新型のウイルスだから、ほとんど科学的根拠がないにもかかわらず、ひまな医師が適当なことを言って、お茶を濁しています。 そして、もう一つ思い出したことがあります。こちらは、なんとも愚かしい例です。 立憲民主党の“お笑いクイズ坊や”こと小西洋之は民主党時代、安倍首相に「憲法でいちばん大切な条文を一つだけ挙げてください」と、国会の場とは思えない質問をしていました。予算審議の中で、首相がこんな質問に答えるはずもありません。それに、憲法の条項に優劣をつけるのは、憲法差別主義です。にもかかわらず、小西は勝ち誇ったような卑しい表情を浮かべ、「憲法13条ですよ」だと、この人おかしくないですか。 例えば、第1条の「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」。 これが、いちばん大切な条項だと答える人もいるはずです。なぜなら、大日本帝国憲法と日本国憲法とで、決定的に変わったのが天皇の地位と国民主権だからです。 また、絶対に第9条だと言う人もいるでしょう。要するに、小西の質問は、無意味な質問で、総理が答えられないことを想定して発した「いやがらせ」なのです。こんな幼稚なことを考える国会議員がいることに日本の政治の後進性があるのだと思います。 さて、こんなことを平気でやる議員のいる野党ですから、武漢ウイルスが大問題になっているにもかかわらず、国会では、何事も起こっていないかのごとく、「桜満開!」でした。 国民があきれ果てていることに気づいた野党は、いきなりUターン。ウイルスに対する対応が遅い!とは、どの口でこんなことが言えるのでしょうか。たぶん異常にゆがんだ口だと思いますから、一度、口腔内科に相談してみてはいかがでしょうか。「手遅れです」と言われるかもしれませんが。 おそらく、政府がもっと早く、あるいは、もっと厳しく規制をしたら、野党は、個人の自由や権利を侵害するな、と、大反対をしたでしょう。 いつまで経っても成長しない駄々っ子の集団です。 ここまで読んでも、なぜ、井上ひさしの文章と、小西の13条とが、武漢ウイルスに結びつくのかわからなかったと思います。 答えは、ウイルス対策に憲法が影響しているということ。そして、今こそ、井上ひさしが言っていたように、みんなで憲法修業に入りましょうということです。 まず、小西に代表されるような人にとって、いちばん大切だと思っている第13条は、「個人の尊重」です。 今回、武漢からチャーター機で帰国した日本人の中で、2人が検査を拒否しました。 憲法にある「個人の尊重」のほうが「検査の要請」より大切なのですから、許されるのです。 陽性と診断された男が「他人にうつしてやる」と、飲み屋をはしごしていた事件もありました。陽性の人は、自宅で2週間待機という要請も「個人の尊重」の前には無力なのです。 K1の開催中止も要請しかできませんでした。「中止させたいなら、金を保障しろ」と、金儲け第一主義がまかり通っている世の中です。 感染経路不明が多いのも、正直に話せない事情があるからで、無責任の最たるものです。 まあ、小西憲法説は、日本人は何をやろうが、個人の自由がいちばんだと言っているようなものです。しかし、13条には、「公共の福祉に反しない限り」という縛りがあることを忘れてはいけません。 こんな国会議員が出現するとは予測していなかっただろうと思いますが、日本国憲法が施行された1947年5月3日、憲法に関するやさしい解説書『新しい憲法 明るい生活』が2000万部発行され、全国の家庭に配布されています。 憲法第13条と密接につながっている第12条「自由・権利の保持と公共の福祉」には、<この憲法が国民に保証する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない、又、国民はこれを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ>とあり、これを説明するにあたり、「義務と責任が大切」と見出しをつけ、こう説明しています。<私たちは新憲法によって、ずいぶん多くの自由や権利を与えられたが、一生懸命努力して、これを大切に守っていく義務がある。自由といっても他人の迷惑も考えずに勝手気ままにふるまうことではない。権利だからといって無暗やたらにこれをふり廻(回)してはならない。私たちは自分の自由や権利を、いつでもできるだけ多くの人々のしあわせに役立つよう使うことが大切である。(第十二条) もしも各人がこの心がけを持たないで、民主主義をはき違え自分勝手なことばかりしていたなら世の中は今までよりも一そう住みにくいものになってしまうだろう。私たちは権利や自由が常に義務と責任を伴うことを忘れてはならない。>(『あたらしい憲法のはなし 他二篇』岩波現代文庫)「個人の尊重」の前に、個人にも義務と責任が伴うのだ、ということを国民に明確に伝えているのです。国民というより人間として当然のことを言っているのだと思います。しかし、宮澤俊義を始祖とする東大憲法学者は「憲法は権力を縛るものだ」という変形SM同好会ですから、権力は縛ることができても、義務や責任を縛る技は持っていません。<現代の社会的風潮の顕著な特徴は、市民の権利が強調される反面、市民の義務がほとんど欠落していることである。>今の日本そして日本人に向けられているように思いますが、これは福祉政策研究の第一人者、ウイリアム・A・ロブソンが『福祉国家と福祉社会』(東大出版会UP選書)で述べている至言です。 最後に、「憲法第9条病」にも触れておきましょう。 第9条2項にある「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」についての実にいいかげんな「戦力」の解釈は「必要最小限」の戦力は許されるというものです。 そこで、日本人のメンタリティは、「必要最小限」しかできない、「必要最小限」ならできるという呪縛にかかってしまったのです。 今回、政府も、おそるおそる「必要最小限」の対応をしているということです。 なぜ政府は、細かい指示ができないのか、という声もよく聞きます。 しかし、法律上は、自治体の首長にまかせることになっていますから、「必要最小限」の指示しか出せないのです。今回の特措法で、緊急事態宣言を発令しても、政府は、ガイドラインを示し、強い要請をすることしかできませんでした。空しい国ではありませんか。 人命より人権・自由を優先すべきだという偽善的「思い込み」から脱皮しないと、「賢者は最悪に備えよ」という危機管理の基本すら守れません。どうする、ニッポン! こんなときには、役立たずの「日本国憲法」より、聖徳太子の「十七条憲法」のほうが優れた力を発揮するだろうと思います。<第一条:お互いの心が和らいで協力することが貴いのであって、むやみに反抗することのないようにせよ。それが基本的態度でなければならぬ。ところが人にはそれぞれ党派心があり、大局を見通している者は少ない。だから主君や父に従わず、あるいは近隣の人びとと争いを起こすようになる。しかしながら、人びとが上も下も和らぎ睦まじく話し合いができるならば、事柄はおのずから道理にかない、何ごとも成しとげられないことはない。>(中村元現代語訳) まさに、「ワン・チーム」こそが難局を乗り越えるための基本だと説いているのです。
新型ウイルスで暗躍した悪者列伝(というほどでもないが)を紹介しましょう。 こんな危機にもかかわらず、厚生労働省の役人は、感染者の国籍を明らかにしていません。当初の感染源はほとんど中国人だったはずです。国家として、中国に責任があるということに明確にしておく必要があります。中国は、アメリカがウイルスを撒いたと、平気でプロパガンダする国ですからね。また、観光庁は武漢ウイルスの拡大を知りながら、日本は医療体制もしっかりしているから、「安心していらっしゃい」と言わんばかりのメッセージを送り続けていたのです。無責任極まりない人たちです。 さらに、今回の特別措置法に反対した議員がいたことには、あきれてものが言えません(書けますがね)。ネットで議員名はわかりますので、軽蔑あるいは憐みの心をもって、名前を覚えてください。この人たちは、国民の命を守ることより、自分たちのイデオロギーが大事だということですから、国政に関わってはいけない人間です。 とくに、れいわ新選組の参議院議員は、多くの人に助けられて、議員活動をしているというのに、「人の命を救わない」選択をしたことに憤りさえ覚えます。 安倍首相の決断が遅い、中国に遠慮し過ぎだ、指示が不明確だ、やることがケチだ、そんな批判を首相に浴びせるのは、すべて皮相な見方です。 安倍首相に限らず、日本の首相は、強い意見は言えても、一人で決められることなど、ほとんどありません。愚かな野党の声を聞き、さらに愚かな官僚の声を聞き、官僚に同調する与党議員の声も聞き、中国に頭をなでなでされている与野党議員の声も聞き、あまりに多くの意見を聞きすぎるため、自制が効きすぎてしまうのです。 安倍政権の判断は、「欧米や中国と違って、日本人は強制しなくても、節度を守ってくれるはずだ」という国民への信頼から出ているものだろうと思います。 諸外国は、日本の規制の緩さを批判的に見ているようですが、日本独自の信頼メソッドが成功したとき、日本は東北大震災以来、再び世界の絶賛を浴びるでしょう。 そのためには、ガマンあるのみです。国民をガマンさせるな、という特別措置法に反対の議員たちの言動は、武漢ウイルスをさらに広め、日本をパニックに陥れ、政権の責任を追及しようとすること以外、考えられません。要するに「国家は敵だ」という妄想から抜け出ることができない哀しい人生を送っている人たちなのです。 人命より、自由や人権のほうが、大切だという説得力のある理由があるなら、聞きたいものです。 こんな非常時には、大儲けができると、卑しい根性丸出しの人間が出てくるものです。 孫正義の検査キットを100万人分提供するという「受け狙い」は猛批判をくらい失敗。今度はマスク100万枚を提供して、絶賛。世界中でマスクが不足しているのに、中国がマスクの価格をベラボウに吊り上げているのに、そんな簡単に手に入るものでしょうか。働かないで金儲けする方法しか考えない彼の性格からして、裏があるに違いありません。手放しでほめるほどのことではないと思います。追記:裏どころか、完全に金儲けでした。さっそく、頭の弱い愛知県知事と大阪府知事が乗ってきました。混乱に付け込んで、またまた大儲け。 孫くらいの資産を持っているなら、今こそ最低100億円まるまる寄付ですよ。それで、少しでもそんけいされれば、ソンしないでしょう。 東北大震災のときの彼の行動を覚えていますか。原発事故が起きるやいなや、菅直人史上最低(鳩山由紀夫と同率最下位)首相を言いくるめ、二人だけで、太陽光発電の売電価格を基本40円に決め、いかにボロ儲けしたのか。今、参入すると13~14円ですよ。そのしわ寄せは消費者にきていたのです。効率の悪い太陽光発電に将来性がないことは確かです。習近平中国でさえ、太陽光パネルをダンピング輸出して、ひと儲けしたあとは、原子力に切り替えています。パニックに乗じた売電合戦は、孫の一人勝ち。 また、大震災の際には、100億円寄付すると宣言しましたね。ところが、『週刊現代』に寄付していないと暴かれ、あわてて弁明すると言う有様。たぶん、寄付はしていないでしょう。何か見返りがない限り、そんなことするわけがありません。実に信用ならない人物です。 医療関係では、腹の立つことばかりです。そもそも、こんな時期に、のんびりテレビ出演しているだけで、ヒマ人ということでしょ。 とくに上昌弘、久住英二、濱木珠恵というナビタスクリニック関係の「3馬鹿トリオ」は最悪。濱木などはコメントする資格さえないレベルなのに、なぜテレビ局が呼んだのか。しかも、実績もなにもないナビスタクリニック関係者を3人も登場させるなどとは、メディアの見識を疑います。当然、裏があるはずです。裏がなきゃ、こんなでたらめコメントを連発する人間が度々テレビに出るはずはないと思います。 上昌弘は盛んに全員検査を叫び、おかしいと思ったら、検査キットに絡んでいた。孫とも絡んでいた。久住英二は抗体検査をすれば、安心できる人が増えると言いながら、自ら抗体検査キットを中国から輸入する手はずを整えていた。 何たる、荒廃か! と、怒りを抑えきれないでいたら、慶応大学の大馬鹿研修医の実態が文春オンラインに出てきました。これこそ、本当の医療崩壊です。 今、現場で、一人でも多くの命を救おうと、人手不足に悩みながら、悪戦苦闘している医療関係者がいるというのに、いいかげんなコメントを垂れ流すナビタスといい、慶應といい、どんな神経が体内に通っているのでしょうか。 こういう人間は自宅待機ではなく、口先ナビタスともども現場に放り込んで、しっかり現実を見させることが必要だと思います。 「人の世に処するには局処の利害得失に掩(おお)はれて其所見を誤るもの甚だ多し(『文明論之概略』福沢諭吉著) 要するに、自分の周りの利害、損得ばかり目がいって、誤った見解を述べる人間がいかに多いかということです。これは、黒船来航により、人心が騒然として、いまだ落ち着かない明治初期に書かれたものです。人心騒乱の今こそ心すべき言葉です。、 そして、最後に、テレビで、知らないことを素直に「知りません、わかりません」と言わず、知ったかぶりのコメントを流し続けた医師たちには、医学の祖・ヒポクラテスの言葉を贈りましょう。<謙虚であることに努め、自分の限界を知り、何よりも害をなすなかれ> さらに追記:忘れていました。医師の資格もない、薬剤師の資格もない、まともな論文もない、三ない丸山遺跡のような岡田晴恵を使い続けたテレビの罪は大きい。でたらめ発言連発の中でも、異常だったのは「PCR検査を民間に出さないのは、国立感染研がデータを独占したいからだ」という発言です。私がテレビ関係者だったら、この時点で彼女を下ろしますね。 常にスタジオ生出演で、一人ファッションショーというか田舎芝居を演じて、うっとりしている姿は、哀れでもあります。いずれにせよ、テレビでコメントした医療関係者の発言は、雑誌メデイアで、時系列を追いながら徹底的に検証すべきです。今後のために!
私は正常なひねくれものですから、横浜のカジノ反対70%超という調査結果を見て、つい一言、茶々を入れたくなりました。一言とはいえ、長~い一言です。 カジノ反対運動が盛り上がっていることをネットで知って、1967年、東京都知事に初当選した美濃部亮吉が、就任2年後、「競輪の利益で学校などを造ったら、子どもたちは喜ばない」というおかしな理由で、後楽園競輪を廃止したことを思い出します。 美濃部の政策によって、ギャンブラーは減るどころか、パチンコに流れて、パチンコ店が大繁盛。パチンコ依存症も増加! 東京都は貴重な財源を失い、やがて深刻な財政難に陥るという皮肉な結果を招いたのです(かなり単純化していますが)。<1909年、女性市民運動のおばさんたちが、ギャンブルを違法にするよう政治的な圧力をかけた。1910年、ネバダ州議会は、おばさんたちの怒りから市民を守るためギャンブル禁止法を通過させてしまった。 ギャンブラーたちの長い冬の時代、20年もの間、ネバダでは賭博が許されなかった。 男たちはどれほどトランプを恋しがったことだろう。そして、人々はラスベガスを去り、不況が訪れ、1930年になって、ようやく分別を取り戻したネバダ市民たちが、ギャンブルの合法化に投票したのである。>(「ゴッドファーザー」の原作者、マリオ・プーゾ) 横浜にギャンブルはいらないと言う美濃部的「偽善者」は、横浜に何軒パチンコ店があって、どれだけのギャンブル依存症を生み出しているのか、考えたことがあるのでしょうか。 日本はギャンブル依存症率の高い国だから、これ以上依存症を増やしてはいけないという主張があります。日本のギャンブル依存症患者の人口比は3.6%、患者数は320万人と推定されているそうです。これは、世界平均の3倍だとも言われているらしい? これ以上、賭博場を造ったら、ますます患者は増える、さあ大変というわけです。 しかし、ギャンブル依存症の多くはパチンコ中毒ですから、パチンコ店をつぶせば、依存症患者は劇的に減少するはずです(韓国、台湾はすでに全廃)。そして、問題はパチンコが庶民のギャンブルだということです。依存症になると、貧困生活を余儀なくされます。そして、われわれは「子どもを車に残してパチンコに熱中し、子どもを死亡させた」というニュースに何回接したでしょうか。ギャンブルはよろしくないというのであれば、まずはパチンコに焦点を当てるのが正義というものです。 今からパチンコを廃止するのは、なかなか難しいとは思いますが、よりギャンブル性の低い「娯楽」に転換していくことは可能でしょう。パチンコに触れずして、ギャンブル依存症患者の数や率に言及する論文は全く意味がありません。 一方、カジノは金持ちのギャンブルです。予定されている入場料6000円を払ってまで出かけて行く庶民はほとんどいないと思います。6000円もあれば、パチンコも競馬、競輪も十分楽しめるからです。 そして、最大のギャンブルは先物取引や株取引あるいはリスクの大きい金融商品であることも忘れてはいけません。これに反対する運動は聞いたことがありませんね。カジノも含めて、これらは金銭に余裕のある人たちの「ギャンブル」です。 ですから、反対運動をしている(たぶん)庶民は、金持ちがギャンブルで負けたら、「ザマアミロ」と大喜びすればいいだけです。われわれが、金持ちの心配をするのは、よけいなお世話というもの。 金持ちが吐き出したお金で横浜が少しでも潤えば万々歳。将来的に税収の増加が見込みにくい地方自治体で、IRというギャンブルに賭けるのは、実に英断だと思います。 庶民のギャンブルを野放しにして、金持ちをギャンブルから守ろうとする「金持ち保護主義」のカジノ反対論者は、もしかして庶民の敵かもしれませんよ(冗談ですよ)。 話はそれますが、ここでまた思い出しました。 確か、JRAが新横浜に馬券売り場を新設するときにもかなりの反対運動があったと思います。そのときも、おそらく今回のIRと同じような反対理由だったように記憶しています。しかし、すべては杞憂(きゆう=将来について、いろいろ心配すること)に終わったのではないでしょうか。環境が悪くなるという意見も強くありました。私は日産スタジアムに行く途中、ときどき馬券を買っていますが、周辺も含めて、意外に清潔で、いかがわしい人も見受けず、環境が悪いと感じたことは一度もありません。年寄りに憩いの場を与えているのではないかとさえ思いました。 また、本題に戻ります。 カジノ誘致のメリットを考えてみましょう。 まずは外国人観光客の増大です。 海外のお金持ちにとって、カジノのある港はとても魅力的です。 横浜は日本で最初に開港した港の一つですから、日本初あるいは〇〇発祥の地というモノ・コトが日本一多いことは、皆さんご存じでしょう。 その地に日本初のカジノができれば、まずは好奇心旺盛な人たちが、お手並み拝見とばかりにやってくるはずです。そこで、日本のIRの実力をみせつけることができます。 外国資本が入る可能性が高いと思いますが、さすがと思わせる日本的「おもてなし」のアイデアを横浜市民挙げて提案したらどうでしょうか。IRは決してカジノが中心ではありません。 横浜観光には、古い歴史と「みなとみらい」のような新しい歴史が同時に見られるという魅力があります。そこに未来型総合リゾートを加え、川崎から横浜、鎌倉、小田原、箱根まで、世界一心癒される観光エリアKANAGAWAを完成させれば、神奈川安泰、反対の理由も薄れるのではないでしょうか(甘いかな)。 誘致のメリットは、ほかに経済的な効果、雇用創出、新しい財源の確保などが上げられますが、捕らぬ狸の皮算用とならぬよう、慎重な試算が望まれます。 当然ですが、メリットよりデメリットを検証することのほうが、はるかに重要です。 心配されているのが、ギャンブル依存症の増加とそれによる自殺者の増加、犯罪の増加、消費がギャンブルに流れる、などです。 しかし、これを感情的でなく、ある程度の科学性をもって予測するのは不可能に近いと思います。たとえば、犯罪の増加はありうると思いますが、逆に違法カジノに手を出している裏ギャンブラーを表の世界に出すことになるので、反社勢力に打撃を与え、潜在していた犯罪は減ることになるかもしれません。 依存症の増加はほとんど期待できません(反対運動者にとってですよ)。あんなに規制の多いカジノに入れ込むギャンブラーはいません。したがって、犯罪が増えるという予測も外れる可能性が大です。消費がギャンブルに流れるという意見に至っては、ギャンブルをしたことのない人の思い込みにすぎません。 むしろ、法案を通すため、あまりに規制が多いのが気になるほどです。ギャンブラーはカジノで解放感を味わい、奔放に遊びたいはずですから、思惑通りの入場者を確保できるのか。十分な利益を生み出せるのか。そちらのほうを注視すべきだと思います。 そして、現在もっとも怖い依存症は、子どもたちの「ゲーム依存症」です。カジノ業者は、将来、そうした人たちをターゲットにしてくるはずですし、スマホでゲームにはまっている人にこそ警告が必要なのです。「ゲームを止めなさい運動」のほうが社会にとって、よっぽど有益ではないですか。このことに気づかない、あるいは気づこうとしない反対運動はイカサマ(ギャンブル用語)と断言していいでしょう。 なんだか、私がギャンブルを好み、カジノに期待しているような書き方になってしまいました。しかし、本意は、地方自治体の財源として、「IR」に手を出す価値が十分にあるだろうということです。カジノはしょせん金持ちの修羅場。われわれは、お金持ちが落としたお金の恩恵を「ありがたく」お受けすればいいのです。 ギャンブルは人生を破滅させるといいます。しかし、株で損するのも、新事業に失敗して負債を抱えるのも、カジノで負けるのと何ら変わるものではありません。人生そのものがギャンブルだという言い方もできるでしょう。 その意味では、IRを造ること自体がギャンブルなのです。IRに賭けるチャンスを見逃すより、思い切って勝負してみるほうが、スリリングで楽しくないですか。 ギャンブルは悪だと決めつける女性の気持ちは理解しますが、売春とギャンブルは世界で最も古い「欲望産業」で、世界から消えることはありません。しかも、両方とも闇営業になりがちですから、公的ギャンブルは必要悪と割り切ることも悪いことではないと思います。 反対運動を熱心にやっているおばさんたちは、将来、横浜が美濃部東京のようになった場合、責任をとれるのでしょうか。 成人にとって、すべての行動は自己責任です。甘えてはいけません。 最後に、ギャンブルを「悪」としか捉えられない人には、ローマのことわざをお贈りします。<すべての悪は、必ずしも害をもたらすわけではない>
ちょっと気になったことがあり、1年ぶりの更新です。 日本のことが大嫌いな大江健三郎は、実に無責任な言辞を垂れ流してきたと思います。 しかし、天皇譲位(譲位という言葉には天皇の意志が含まれ、憲法違反の疑いがあるというので、公式には退位とか)の日程が具体的になってきた今、その言辞を再度、自ら検証しなければならないと思います。ノーベル賞作家たるものが逃げてはいけません。 たとえば、こんな文章です。<(皇太子よ)若い日本人は、すべてのものがあなたを支持しているわけではない。そして天皇制という、いくぶんなりとも抽象化された問題についてみれば、多くの日本人がそれに反対の意見をもっているのである。> たとえば、こんな文章です。<問題はこうだ。やがて決定的な瞬間がくるはずである。皇太子が天皇に即位する日。皇太子は天皇になることを拒むか、即位するか、自分の人間的責任において選ばねばならない。かれはそのとき、日本人の運命そのものを選ぶのかもしらない。>(いずれも「戦後世代のメッセージ」新・戦後派) 決定的な瞬間は2ヵ月後に迫ってきましたよ。どうする、ノーベル賞作家。若気の至りだったのでしょうか。それとも、まだ同じ思いで生きているのでしょうか。 一方で、改憲の議論が停滞しています。安倍首相は九条に3項を加えて、自衛隊の存在を明記するという一つの考え方を示しました。 自衛隊を違憲だと言う憲法学者が多い中で、国を守ってくれる自衛隊をいつまでも「継子扱い」(ままこあつかい=のけ者として扱う。正当な立場を与えない)していいのかという問題提起です。 20代のころ、大江は防衛大学に入る学生を「自分たちの世代の恥だ」とまで言っています。 昭和33年6月25日の毎日新聞で、女優の有馬稲子と対談して、<ぼくは、防衛大学生をぼくらの世代の若い弱み、一つの恥辱だと思っている。そして、ぼくは防衛大学の志願者がすっかりなくなる方向へ働きかけたいと思っている>(夕刊コラム「憂楽帳」)と発言しています。 ノーベル賞作家の頭はこの程度だったのです。 さて、現在、自衛隊を支持する人の比率は、80%以上90%に近いはずですが、今の若い世代の人たちは、大江と自衛隊員のどちらを「恥辱」だと考えているでしょうか。
日本人のバカさ加減に、中国はニッコニコ。このどさくさにまぎれて、中国はEEZ(排他的経済水域)に入り込んで、レアアースの埋蔵量調査をしていたとか。まったく油断も隙もありません。さて、物事はなんでも偏見をもつことなく、冷静に判断しなければなりません。的外れな議論が進んでいる加計学園問題の本質は何でしょうか。1)国家戦略特区を設けて、文科省の岩盤規制を突破した獣医学部の新設承認は、はたして非難されるべき政策だったのか。2)獣医学部新設にあたって、金銭の授受を含め、不正、汚職があったのか。この2点について、判断を下せばいいだけです。それを議論の外において、とにかく安倍首相の責任問題を追求しようとするマスコミは馬鹿丸出しですよ。安倍政権に国家戦略特区を利用して、岩盤規制を崩された農水省と文科省が抵抗するのは「ご自由」ですが、国家公務員として、あるいは地方公務員としては、国家叛逆罪にあたり、場合によっては死刑でしょう。あ、これは中国の場合でした。たとえば、「首相案件です」という言葉が一人歩きしています。しかし、この私的メモが問題になるなら、それらしい適当なメモをつくって朝日新聞にリークすれば、誰でも、首相を引きずり下ろすことが可能になります。いいんですかね。私がこの案件の担当者なら、「本当に首相が直接タッチしているのですか」と、念を押すでしょう。もっとも、国家戦略特区諮問委員会の議長は安倍首相ですから、委員会から検討に値するとされた案件は、首相案件とも言えるはずです。しかも、これは正規の手続きです。どこに問題があるのか、さっぱりわかりません。そして、またまたまた小沢一郎がしゃしゃり出てきて、枝野幸男と「倒閣運動」をするそうです。小沢一郎のお家芸は政局をつくることと田中角栄の遺伝子を受け継いだ金権政治です。建設業界にたかり、巣食ってどれほどの金を集め、利権をあさったのでしょうか。小沢が出張ってきたときは日本の危機です。習近平に金を積まれたのではないかと、勘繰りたくもなります。枝野幸男に至っては、「これはロッキード事件以来の大問題」だとさ。億単位の裏金が動いたロッキード事件と1銭も動いていない加計学園問題をどう比較するのか説明してほしいものです。こういう人間が野党第一党の代表とは、わが国の政治の正常化には果てしない道のりがあると思わざるをえません。ロッキード事件で田中角栄が追い落とされていく様子を間近で見てきた小沢一郎が、「ロッキードの名前を出せば、年寄りがそれは大問題だと反応するだろう」と枝野に入れ知恵をしたのかもしれませんが、浅はかな政治屋どもです。いずれにしても、食わせ物たちに、いっぱい食わされないよう事実をしっかり見極めていく必要があると思います。激動の世界を見れば、「安倍を倒せ」という無責任な遠吠えは「日本を倒せ」と言っているようなものです。ただ、子どもを棄てて愛欲に走った山尾志桜里のような「日本、死ね」という下品な言葉を平気で国会の場に持ち出す議員のいる立憲民主党ですから、日本が倒れてもなんとも思わないのかもしれません。なんともイヤな時代になったものです。
またまた泥仕合がはじまりましたね。この競技(虚偽)の出場選手はすべて怪しいというのが、特徴です。A:真っ赤な朝日うそつき新聞K:歴史に残る大詐欺師・籠池泰典B:陰で暗躍するブラックメンZ(財務官僚たち。ブラックマンの可能性も)このところ恥のかきっぱなし、部数激減の朝日は、なんとか、逆転ホームランを打って、汚名返上、失地回復を図りたい。そして、天敵・安倍首相を追い落としたい。やっと見つけた(というよりリーク=タレコミでしょう)攻撃材料は「文書書き替え」です。朝日は、やった~! と快哉(かいさい=ゆかいなこと。ばんざい)を叫んだと思います。でも、早とちりではありませんか。文書書き替えは、実に不可解、いや、ありえない悪事です。徹底的に追及すべきですが、安倍首相に結びつけるには、その根拠があまりに薄弱です。よく見れば、そもそも、書き替える必要などまったくない文書です。「書き替えた」事実は刑事責任を問われるほどの犯罪ですが、「書き換えさせられた」事実を、文書からは読み取ることは、もちろんできるはずがありません。ここから、朝日や野党のもくろむ安倍首相の退陣にまでもっていくには、宇宙に飛び出すくらいの飛躍があるでしょう。曲解力日本一の朝日新聞はもっと、読解力を身につけたほうが、よさそうですね。とくに「特例的」「特殊性」の部分をわざわざ強調するところに、ある種の意図すら感じます。この案件は、いろいろな意味で危険な「特例」であることは、関係者の誰でも知っているはずです。安倍総理の圧力による「特例」ではありません。この部分を消すことによって、財務省は関係ないよ、誰かに「特例」にされたんだよ、ということを、逆に印象づけてしまったのです。常識では考えられない!書き替えの理由は、いくつか思いつきます。 政府筋から、書き換えを要請あるいは強制された。 ブラックメン(またはブラックマン)が、佐川証言とつじつまを合わせるために無断で書き替えた。 佐川氏の指示によって、ブラックメンが書き替えた。 書き替えることによって、森友問題を再燃させ、政府に打撃を与えることができるとブラックメンが考えた。 一番おもしろい理由は、朝日にリークして、事を広め、実は「安倍首相周辺には何の問題もない」ということが明白になり、最終的には朝日を陥れるという陰謀。どんな理由にせよ、安倍政権に打撃を与えるには、わかりやすい事案ではなく「不可解」であることが、大事です。なぜなら、印象操作が狙いだからです。すぐに決着がつくような内容では、問題を引っぱりつづけることができません。それに相乗りする形で、不人気・野党有志は籠池被告を頼りにすべく、接見したとか。馬鹿じゃないの。この茶番劇の筋立ては、すべて籠池被告の大ボラから始まっているのです。それを知りながら、また話を聞くって、真実を捻じ曲げるために利用できるホラ話を仕入れる目的以外に考えられません。案の定、「籠池さんの証言が本当なら(本当のわけがないでしょ)、昭恵夫人の喚問は必要」と記者団に報告する始末。こうなると、もう政治家ではありません。扇動者(アジテーター)兼オオカミ少年にすぎません。議員を辞職すべきなのは、こういう人たちです。学生時代から、デモが大好きだったとは思います。デモ、今は国会議員ですよ。デッチ上げのストーリーをまた国会で持ち出すのでしょうか。恐ろしい世の中になってきたものです。子どもの頃、私は、NHKラジオで連続ドラマ「笛吹童子」をよく聞いていましたが、朝日・籠池・野党は「ホラ吹き同志」のドラマとして、とてもおもしろい。一方で、民主主義の根幹を覆す大問題だと叫んでいる議員もいます。ホラ話を国会で議論すること自体が、民主主義国家の議会ではありえないでしょう。多くの国民とくに若者たちにバカにされていることを、喜んでいるようにも見えるサディスティックな野党は、いいかげん茶番劇の幕を下ろすべきです。観客は、すでに席を立ち始めていますよ。でも、また明日、ブラックメンZの一員である佐川宣寿元理財局長を含め、いかさま師たちによる大道芸が繰り広げられるのです。さて、どんな手品が飛び出すのか。種明かしのできない手品には、もううんざり。この茶番劇にニコニコしながら拍手を送っているのは、自分だけのために憲法を改正して、長期独裁体制を敷いた習近平だということを忘れてはいけません。
マスコミは、あれだけ反安倍キャンペーンを繰り広げたのに、衆院選挙では惨敗でした。多数の国民がマスコミ報道を信じていない証拠が歴然と表れたのです。どうするの? 投票率が低い、自民の得票率は30%台しかない。だから、多くの国民に支持されたわけではない。そんな「遠吠え」がテレビから聞こえてきます。 毎度おなじみの「バカじゃないの」論理です。 投票率が低いのは、現状維持で「とりあえず」いいだろうと考える人が多いからです。 少なくとも、「安倍を倒せ!」と叫んでいた人の多くは投票した「はず」です。 そして、悪天候の中、半数以上の有権者が投票しています。 それでこの結果ですから、皮肉にも「安倍一強」の反対は「自民一党」だったという民意なのです。マスコミは、国を愛せない人間に日本を任せられないという国民の声を無視してはいけません。 衆院選挙期間中に行われていた中国共産党大会では、習近平がますます独裁色を強め、民主化運動を徹底的に弾圧したり、ネット規制をしたりする一方、台湾奪取に強い意欲を示しています。習のような権力に憑(と)りつかれた人間は何をするかわかりません。尖閣どころか沖縄もうかうかしてはいられませんよ。異常な権力志向の習近平が君臨する中国は北朝鮮よりはるかに脅威です。 独裁主義国家の「習一強」の恐ろしさに比べたら、民主主義国家の「安倍一強」など、実にかわいいもんです。そして、習近平、金正恩、文在寅、プーチンという、お行儀の悪い人間とやりあえるのは、安倍晋三しかいません。それにしても、日本の周辺は、怖い人だらけですね。愚か者対賢い人の選挙で、賢い人が勝ち、日本人は国家衰退をまぬがれたということを、素直に喜びましょう。選挙中、マスコミでは、まやかしの言葉「リベラル」が、垂れ流されていました。 リベラルは自由主義と訳されています。マスコミは立憲民主党をリベラル派と呼んでいるようですが、とんでもありません。 リベラルの反対語は全体主義だと思いますが、立憲民主党は、全体主義の総本山・共産党寄りですから、「全員、左向け左」の全体主義がお好きなグループでしょう。マスコミは立憲民主をなぜ左派ではなく、リベラル派と呼んだのでしょう。 たいした理由はないと思います。ただ、無知なだけです。しかし、立憲民主などと、厚かましくも名乗る枝野は相当な曲者(くせもの)ですね。これを「目くらまし」ネーミングと言います。 今、日本にリベラルといえる政党があるでしょうか。実際、ありませんね。 だから、希望の党は「国を愛するリベラル政党だ」と、最初に宣言すればよかったのです。つまり、「リベラル保守」です。保守とは、その国の歴史、文化、伝統を大事にするという意味だとすれば、多くの日本人に受け入れやすいはず。そこに、意味はわからずとも、なんとなく良さげな雰囲気のある「リベラル」を付加価値として乗せれれば、情緒的な日本人ですから、少なくとも立憲民主に負けることはなかったでしょう。 戦後、日本には、右対左の対決が激しかったため、リベラル政党が育つ土壌はなかったのです。自民党のなかに河野洋平のようなリベラルと言われる議員はいましたが、彼らはリベラルをはき違えて、国益に反することばかりやっていました。戦後にできた参議院には緑風会という政党色を持ち込まない会派がありました。このグループは「国を愛するリベラル」だったと思います。今のガラクタ箱のような参議院を見ると、雲泥の差です。 今回の選挙で、もう一つ話題になったのが、女性議員が少ないと言うことでした。 しかし、冷静に考えると、日本の女性は政治には向いていないと、つくづく思います。 日本女性は政治をやるには優しすぎます。こういう美点を抜きにして、欧米と比べる必要はまったくありません。 だから、二重国籍が判明しても議員辞職しない村田蓮舫(オーストラリアでは何人もの二重国籍議員が辞職させられていますね)。森友問題には、大いに関係しているにもかかわらず、知らんふりして、表に出てこなかった辻元清美。保育園なんだかんだといいながら、子どものいる身でフリンに走る山尾志桜里。日本人の美点をまったく持ち合わせていない人しか議員にしがみつかないのです。 自民党でも、首相候補と言われながら、なんとも打たれ弱く、勉強不足の稲田朋美。 山尾と同じく子持ちフリンの今井絵里子、負けじと中川郁子、「私偉い病」の豊田真由子。 そのほか議員どころか、まともな人間とはとても思えない上西小百合などなど、女性議員の比率は少ないのに、「問題起こす率」は男性議員を圧倒的に上回るでしょう。 そして、そのトリを務めたのが、小池百合子でした。 女性議員が少ないのではなく、まともな日本女性は基本的に政治に向いていないのです。 議員を目指したい女性はこうした先輩議員を反面教師にして、しっかり勉強してほしいと思います。
民進党の断末魔は、安倍やんちゃ解散より衝撃的でしたね。 いったい何を考えているのでしょうか。 「大義なき解散」どころか、「仁義なき解党」です。 冷凍庫から出した「まな板のコイ」をいきなり熱湯に入れた“解凍”ですから、中身はぐちゃぐちゃで、口に入れたら、さぞかしマズいでしょうね。 小池「希望の党」代表は、しがらみのない政治といいながら、しがらみ、ごがらみ、ろくがらみの利権・金権・岩手県の小沢一郎まで引き込んでしまいました。 もっとも、小沢は共産党との共闘に前原が後ろ向きであることを見越して、小池に取り入ったのだと思います。小沢をダマしたつもりで、ダマされた共産党びっくり! 小沢を「ぴしゃり」と門前払いすれば、小池も立派だったと言えますが、政治の世界では、実におかしなことが起こるものです。 そして、混乱に乗じて、必ずしゃしゃり出てくるのが小沢一郎です。 政治を変えるというなら、こういう厚顔な古狸を排除しなければなりません。 小池もまだ、しがらみの中にいるということでしょうか。 小池百合子にはけっこう期待していたんですよ。しかし、小沢が出てきたところで、すでに終わっています。小池はこれまで小沢に対して「政策でなく、常に政局しか考えない人」と批判していました。それが、まさに政局の大場面で、(おそらく)小沢のアドバイスを受け入れたのですから、小池は政策より政局を大事にしたにすぎません。これも「しがらみ」です。 話は変わりますが、昨日、出かける前に、テレビをつけたら、上西小百合に密着取材という特集をやっていて、本当にあきれはてました。これほどのバカ議員は世界広しといえども、そういるものではありません。なにしろ、バカさ(若狭ではない)ついでに、議員でありながらヌード写真集まで出すくらいですから、蓮舫以下でしょ(蓮舫激怒?)。そんな議員をこんな時期に登場させるなんて、愚かさにもほどがあります。 立候補せず(当たり前だ)、グルメレポーターを目指すとかで、その宣伝のための特集のようでした。どこまでテレビは堕落していくのでしょうか。 そして、日本の選挙を語らせるのに、韓国の金慶珠をゲストに呼んでいました。異常な政治後進国の韓国人に日本の政治を語らせる意味はどこにあるのでしょうか。 私は、すぐにテレビを消したので、番組名はわかりませんが、確か、国分太一が出ていました。 地に落ちたテレビ。もっとも地上波というくらいですから、もともと地に落ちた存在なのでしょうかね。猛省、猛省してください。 先日、私はこの選挙は、愚かな老人と賢い若者の対決でもあり、愚かなマスコミと賢いネットユーザーの戦いでもあると書きました。読売新聞の9月29日の調査には、このことが如実に表れていました。たとえば、比例の投票先について、50代では自民党と希望の党は25%で並んでいますが、18~29歳では自民が50%を超え、希望の党は10%台にとどまっています。老人は脳硬化症を患(わずら)っていて、マスコミ情報を鵜呑み、丸呑みにして、まったく判断能力を失っています。怖ろしいことです。一方、朝日新聞の調査には「解散は、森友、加計疑惑隠しだという野党の批判をどう思うか」という質問があって、設問の愚かさに口あんぐり、頭アングリー。当然ながら、「妥当だ」という回答が62%を占め、「妥当でない」は24%でした。 自分たちがつくったシナリオで火をつけ、さらにそれを正当化しようとする、三流週刊誌(比喩です)でもやらない手法です。 朝日もそろそろ解散したほうがいいかもしれません。そうすれば、日本は間違いなく健全な国になっていくでしょう。
安倍首相は「いたずら坊主」というか、予想以上に「やんちゃなボンボン」ですな。圧倒的な議席数を誇り、このままいけば、次期総裁も確実というのに、解散ですよ。 民進党は、さっそく「加計問題の説明から逃げるのか」と、トンチンカラリの批判(実は泣き言)を述べています。 今朝、サンテー・モーニングを見ていたら「この解散は大義がない」という結論を導き出す方向で編集されていました。発想の貧困さにあきれました。自分たちが解散に「追い込んだ」と、なぜ自慢しないのでしょうか。あれだけ、根拠なき安部批判を繰り広げ、安部政権打倒をもくろんでいたのですから、解散は自分たちの思い通り「してやったり」の結果のはずです。安倍首相はいわれなき誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)に、それなら選挙で決着をつけようと思ったのかもしれません。前回の議席を確保することは難しいということもわかっているでしょう。それでも、「信を問う」のは、事実を報じようとしないマスコミへの挑戦状でしょう。政治を金儲けと自己主張の場としか考えない小沢一郎と、時代を3周遅れで歩いているような共産党が薄汚れた手を組み、なんとか「民主革命」という偽名の独裁政治を実現しようと画策していた矢先の「安倍首相の暴挙(野党にとってですよ)」です。どうするの、理念なき「民共」。選挙のためだけ、そして最後は共産党のためになるだけの共闘に国民は乗ってはいけません。17世紀フランスの詩人ラ・フォンテーヌは「人間は真実に対しては冷ややかだが、嘘に対しては熱中する」という警句を発しています。しかし、「熱中した嘘」を「真実」に置き換えようとすると、ほとんどの場合、攻撃の的になり、場合によっては、まったく無視されるものです。安倍政権下の日本は、とくにその傾向が強くなったと思います。これを私は「シンゾー破りのワナ」と呼んでいます。 マスコミも野党も安倍晋三を引きずり下ろすため、ありとあらゆる嘘を並べ、シンゾー破りに狂奔(きょうほん=狂ったように動き回る)してきました。 森友しかり、加計しかり。マスコミはどうして、こんな見え透いた嘘に乗るのでしょうか。いくら、「安倍憎し」と言っても、レベルがあまりに低すぎです。 かつてない速度で変化しつづける世界情勢の中で、この変化と速度に対応できる日本のリーダーは安倍首相以外、誰一人としていません。 日本が最も苦手とする外交で、安倍政権ほど積極的かつ効果的に動いた政権が、かつてあったでしょうか。 安部首相でなければ、暴走する習近平中国や妄言するトランプ米国、そして自己陶酔的英雄のいる北朝鮮とまともに対峙(たいじ)することはできません。 何度か書いていますが、安倍政権の最大の特徴は、「スピードの政治」です。 この速さについていけない「鈍足議員」と「鈍感野党」と「左脳マスコミ」が、ひたすら無責任な安部批判を繰り返し、ブレーキをかけようとしていたのです。ほんとうにアホ~です。 思い起こせば、習近平は就任以来、安倍首相をしのぐ勢いでスタートダッシュしていました。 悪いことに、そのとき日本は民主党政権でした。 小沢一郎がゴマをすり、民主党議員はわざわざ握手を「してもらいに」中国に行き、ニコニコして帰ってきました。菅直人にいたっては、中国人観光客のビザ発給を大幅に緩和し、ひょっとして犯罪組織の入国に加担しているかもしれません。 習近平は、「こんな日本が相手なら、アジアはオレのものだ」とニンマリしていたでしょう。習は強力な軍事力を背景に、札束をちらつかせながら、経済の弱いアジア、アフリカ、中南米を少しずつ侵略しつづけていきました。 そこに、思いもかけず、安倍首相が、「ちょいと待て!」と、猛烈な勢いで追いかけてきたのです。習は困った、困った。こんな凄い日本の政治家がいたのか! 安部首相は習がツバをつけて歩いたアジア、アフリカを丁寧に歴訪し、信頼を勝ち得ています。なにしろ、習のアフリカ政策といったら、完全に植民地化です。 インフラ整備といっても、工事はすべて中国企業が中国人を使って行い、いつの間にか街や村には中国人がやってきて商売を始める。気がつくと、中国人の国になっていたというお得意の手です。 アジア、アフリカの多くの国は安倍首相に大きな期待を寄せています。もちろん、アメリカ、イギリスはじめ、民主主義国家はすべて安倍首相の力量を評価しています。 ロシアもそうでしょう。 中国、北朝鮮、韓国を除けば(いずれも歴史を捏造するのが大得意な国)、この広い地球の中で、安倍首相を認めようとしない人間が住んでいる国は、日本だけです。そんな日本人の国際感覚がいかにずれているか。まるで、鎖国の江戸時代のようです。 野党はこれまで、マスコミを巻き込み、森友、加計をはじめとして、ありとあらゆるフェイクニュースをでっち上げ、足を引っ張ってきました。自民党の老害議員もそれに便乗する有様。見苦しいにもほどがあります。 そこで生まれたのが、ネトウヨに対するテレサヨという言葉です。 年寄りはネットなど見ませんから、ぼんやりテレビを見ながら、「爺さん、なんだか安倍首相は悪い人みたいじゃないか」、「そうだね、婆さん、戦争をしたがってるらしいよ」などと、間の抜けた会話を楽しんでいるでしょう。 でも、若者はバカじゃ、ありませんよ。 安部首相の政策をしっかり理解して、支持しています。 これを、若者の右傾化などと評す、ウケ狙いの左傾評論家もいますが、実際は左に傾き過ぎた船を正常な位置に戻そうとしているだけです。 『アホノミクス』などというバカげたタイトルの本を書いた浜千鳥のような名前の経済学者は、視野が狭く、おそらく世界では大学生以下の評価しかない学者でしょう。今や経済問題は好むと好まざるにかかわらず、グローバルな発想をしない限り、解決しません。また、経済には心理的な要素も大いに働きます。そんな複雑な経済を、粗雑な頭の経済学者が読み解けるはずはありません。アベノミクスは成果が上がっていないなどと、たわごとを述べているだけ。株価は民主党時代の7000円台から、20000円台に。失業率、有効求人倍率、ともに大幅改善。民主党政権時代には、就職できない人が山のように(たぶん高尾山くらい)いたのに、今や、売り手市場ですよ。 民主党がメチャメチャに壊した瀕死の日本をここまで立て直したら、「文句ある奴は表に出ろ!」と言いたくなるのが普通でしょ。保育所が足りないと言います。しかし、1、2歳のころは、母親がいつもそばいて、愛情をそそいであげることがとくに大事だと思います。朝、保育所に預けて、夜、「受け取り」にくるという生活では、子どもの情緒は不安定になるはずです。切れる子ども、情緒不安定な子どもは、案外、早くから保育所に預けられた子に多いのではないでしょうか。私は医者でも児童心理学者でもありませんから、あくまで想像ですが、当たっていると思います。子どもの幸せを考えた場合、母親が1年や2年の「辛抱」「苦労」をするのは、当然だと思いますが、間違っていますかね。先週、安部政権を倒せ!と、叫ぶ婆さん連中が、駅前にいましたよ。安倍政権を倒したら、間違いなく、日本も倒れます。どーして、そんな無責任なアジテーションをするのでしょうか。おそらく自分がなにを叫んでいるのか、ボケていて分からないのでしょう。ご家族の方は、本人のためにも、日本の将来のためにも、介護施設に入れてあげたほうがいいと思います。この選挙は、10%の消費増税を含めて、日本の将来を占う重大な選挙です。愚かな老人と賢い若者の対決でもあります。愚かなマスコミと賢いネットユーザーの戦いでもあります。愚民政治という言葉もありますから、愚かなほうが勝つ可能性だってあります。そのときは、南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ)、日本の終焉(しゅうえん=終わり)です。
民進党代表に前原誠司が選出されて、少しはましな野党になるだろうと、わずかながら期待した矢先のスキャンダル。そんなことはどうでもよいと思いつつ、またまた、つまらないことを書くはめになりました。テレビで、山尾志桜里を「民主党のジャンヌ・ダルク」と紹介していたからです。彼女はそんな大それたことをしていません。マスコミも本人も、不正ガソリン疑惑で、ガソリーヌと揶揄(やゆ)されていたのを忘れたのでしょうか。他の議員を批判するくせに、反省の色が少しも見えませんでしたね。ゴーマン議員に、ちょっとばかり「お灸(きゅう)をすえる」(死語かな)つもりで書いてみましょう。彼女は、おそらく自民党を離党した豊田真由子と同じ類のヒステリー系でしょう。エリートコースをひたすら走りつづけた経歴も似通っています。自分はエライ! 頭がいい!そう考えることだけが「生きている証(あかし)」なのです。だから、自分の意に沿わないことは許されないと、徹底して他人を糾弾することになるのです。ひとことで言えば、「一直線」人間。周りが見えない人にすぎません。こういう視野の狭すぎる人は、政治家など、やってはいけませんよ。そもそも、「保育園落ちた、日本死ね」という下品なブログの書き込み(自作自演説も出た)を国会で勝ち誇ったように紹介しただけで、有名になった議員です。私が保育園の園長だったら、こんな下劣な言葉を吐く親なら、定員割れしていても、入園をお断りしますね。保育園の品格が落ちるからです。普通の人間なら、誰でも「下品」な言葉だと感じたでしょう。見識ある議員なら、こんな言葉を使わずに、保育園問題について質問することができるはずです。しかし、マッカーサーと同じ「演技性人格障害」である人にとっては、そんな「まともな」ことはしたくないのでしょう(最近では、人格障害とは言わず、演技性パーソナリティーと呼んでいるようですが)。しかし、マスコミは、なぜか(いや当然のごとく)山尾を持ち上げてしまいました。またマッカーサーと同じ「自分はエライ主義者」の山尾は、ここで完全に勘違いしてしまったのです。やっぱり自分はエライ! まさに、エライこっちゃ、です。エライ自分はフリンも許されると思ったのでしょうか。そうではありません。「一直線」人間の本性がむき出しになっただけです。愛は盲目。周りも見えず、ホテルに一直線。攻めるも守るも一直線なら、まだ救いがあります(ないか)。でも、彼女は攻めるだけの一直線なのです。たぶん、国会だけのことではないと思いますよ。「先生と呼ばれるほどバカじゃない」というフレーズがありますが、最近の若手議員を見ていると、先生と呼ばれることに快感を覚え、勘違いしてしまう人が多いように感じます。 みんな、しっかり自分を見つめなさいよ。 山尾はカッとなると、何をしでかすか分からないタイプですから、「自分死ね」とばかりに、ガソリンかぶって自殺という可能性も(ないです。負けず嫌いの女ですから)。万が一でも、それだけはやめてくださいね。チベット僧への冒涜(ぼうとく)になります。 結論、山尾志桜里を民進党もマスコミも買いかぶりすぎ。(前にも書きましたけど)人格をもっと見分ける術を持ちましょう。彼女のような学歴もいい、顔も(昔はよかった)となると、彼女が持っている「背景」に、ついだまされるハロー効果が生じてしまいますから、十分お気をつけくださいませ。 ところで、トランプに大統領補佐官を解任されたマイケル・フリンは今どうしているのでしょうか。
またもや、唐突ですが、世の中には、80:20の法則というものがあります。正式にはパレートの法則といいます。たとえば、企業では、利益(あるいは売り上げ)の80%は社員の20%が上げている。国政では、議員の80%は議員報酬の20%の仕事しかしていない。という具合に使います。歯科学会には、80歳で20本の歯を残そうという8020運動があります。ウオーキングの世界での8020とは、80歳で20キロ歩ける脚力を維持し、棺桶には歩いて入ろうという「心がまえ」を表します。そして、国会にも80:20の慣習があります。予算委員会での質問時間を、野党に80%、与党に20%割り振ろうというものです。 なのに、今回、自民党は50:50にしたいと言って譲ろうとしません。 なぜでしょう。答えはかんたん。もともと、この問題は「前川・野党連合」の引き分け作戦ですから、野党は印象操作をするしか勝ち目がないのです。例によって、卑屈な顔をした「出たがり」が、グダグダと8割の時間をムダづかいするだけでしょう。しかし、80:20は、本来「引き分け」ではありません。引き分けとは、どう考えたって、50:50でしょう。 50:50なら、印象操作作戦の失敗は目に見えているので、民進党が応ぜず、圧勝のみえる自民党が譲ろうとしないのは、当然なのです。 物事の本質を考えようとしないテレビのコメンテーターなどは「ていねいに説明すると、首相がいっているのだから、80:20にすべき」と述べていました。野党のバカバカしい質問に答えても、森友と同じで、けっして「ていねいな説明」にはなりません。 むろん、野党はそれを承知のうえで、80を要求しているのです。そして、野党は最後に「疑惑は残ったままだ」と言えばいいだけ。こんな茶番をまたやるのかね。 すでに、元愛媛県知事の「獣医学部誘致は12年来の願いだ」といった証言や、京産大副学長の「わが校が故意に選択肢から外されたという認識はない」との記者会見からも、加計問題は首相関与うんぬん以前の問題であることが明らかになっているのです。 それに、獣医学部を誘致する運動は、旧民主党の国会議員が熱心に進めていたものです。 それを、むりやり、首相の罪にでっち上げようとするのですから、おそろしいファシズムです(野党が大好きなファシズムという言葉は、こういうときにこそ使うべきですよ)。 安倍政権の特徴は「スピード感」のある政治です。 文科省が獣医学会とつるみ、頑として譲らなかった規制を、あっというまに緩和した安倍首相の見事な早業(はやわざ)は、とくに文部事務次官にとっては、屈辱以外のなにものでもありません。ですから、その反撃も度を超したものになるのです。しかし、まったくの空砲に終わる可能性があるでしょう。 こうした、いやらしい体質は、昨日の村田蓮舫の記者会見で如実に表れました。 私は、安倍首相を追い落とすには、「自分の議員辞職しかない」と、決断して、記者会見を開くのだと、好意的に考えていました。そうすれば、民進党の支持率は10%以上にあがったでしょう。 ところが、信じられないことに、戸籍の一部を持ち出して、日本国籍になったことを説明しつつ、「台湾国籍は抜けていると思っていた」と、明らかにうその弁明をしたのです。『CREA』誌で堂々と「台湾国籍です」と述べていながら、「ハーフであることを強調したかった」とは、聞いてあきれる、空いた口がふさがらない、というやつです。 ハーフがそんなにお好きなら、80:20ではなく、50:50の条件をお飲みなさい。 こんな態度で、安倍首相を「攻める・責める」のは、おこがましいにもホドがあります。 民進党断末魔。それにしても、こんな野党第一党を生んだ日本に誰がしたのでしょうか。
自民党の「たるみ」具合はひどいものでした。都議選で、さっそく「しっぺ返し」を食らってしまいましたね。そして、内閣支持率が30%台とは!絶句です。大臣を大幅に入れ替えて、シロウト大臣ではなく、専門家をしっかり配置する必要があると思います。いまこそ、たとえば、民進党を離党した長島昭久を防衛大臣に任命するくらいの懐の深さ、度量の広さを見せるべきでしょう。唐突(とうとつ)ですが、嫉妬(しっと)には2種類あると思います。赤い嫉妬と紫の嫉妬です。英語で説明すれば、おそらく、赤い嫉妬がジェラシー(Jealousy)で、紫の嫉妬はエンビー(Envy)ということになるだろうと思います。他人に嫉妬しても、「よーし、あんな奴に負けるものか」と、赤い炎を燃やしながら自分も努力するのが「赤嫉妬」。一方で、嫉妬したあげく、「よーし、あんな奴は足を引っ張ってやれ」と、紫の怨念を燃やすのが「紫嫉妬」です。「良い嫉妬」と「悪い嫉妬」と言い替えてもいいでしょう。横並び性向の強い日本人は、突出する人に対して、もともと嫉妬深い人種かもしれません。それでも、かつては「赤い嫉妬」が多かったように思います。ですから、ジェラシーという言葉はふつうに使っても、エンビーとは言わなかったはずです(これはけっこうコジツケです)。戦後の日本人は「あいつに負けるものか」と、競争意識を持ちながら切磋琢磨(せっさたくま=お互いに励まし合い、努力すること。一人の場合は一生懸命、学問、スポーツなどに励むこと)して、瓦礫(がれき)の中から立ち上げってきたのです。ところが、嫉妬深い日本人の一部が、今や「紫の嫉妬」を異常なほど燃え上がらせています。その最たるものが「安倍降ろし」と「小池叩き」です。都議選が終わったので、まず、「小池叩き」から行きましょう。これを自民党がやって、大失敗しましたね。本当はスキャンダルネタを見つけ、小池叩きをやろうと思っていた共産党でさえ、小池の強さに怖れをなし「協力できるところはしていく」と言っていたのに、自民党は小池を敵視しました。本来、身内だった人間の進める都政を否定したのは、年寄りたちが、小池人気に「紫の嫉妬」をしたからです。おかげで、多くの自民党都議会議員が「冷や飯」を食うことになりました。若年寄りならぬバカ年寄りは「冷や麦」でも食らって、頭を冷やしなさい。ことわざも「年寄りの冷や麦」と、言っています。小池百合子は内田茂を「都民の敵」にして、都知事選に大勝したのです。それをすっかり忘れたかのように自民党は千代田区の選挙応援に内田を出してきました。テレビでその姿を見た瞬間、私は自民党大敗を予測しました(これは、あとづけではありません。私のカンは相当鋭い)。これが、大失敗の元凶です。「自民党は何も反省していない」と誰でも思いますよ。小池人気を認めつつ「赤い嫉妬」を燃やせばよかったのに(この場合、誹謗中傷の言動はありえない)、「紫の嫉妬」をムダに燃やしてしまったのです。下村博文以下、自民党都連の状況判断の甘さと公明党の「機を見るに敏」というか、賢さが対照的だった都議選でした。ま、自民党にとっては、今回の結果は、将来的に見れば、よかったのではないかと思います。これで、無能なくせに議員歴だけが古い、周辺で吼えている老犬たちを排除して、本当に「仕事師」だけの内閣改造を一刻も早く始めるべきでしょう。そして、老害といえば、「安倍降ろし」です。自民党のバカ年寄りたちが、安倍若造のやることがことごとくうまくいき、アジアでも欧米でも中東でも大きな評価を得ているのに嫉妬して、盛んに、中国、韓国を大事にしろという発言をしています。そのほとんどの老人が、両国から「おいしい思い」をさせてもらい、「頭をナデナデ」されていると思います。また、憲法改正を急ぐなという忠告も目立ちます。これは中韓をおもんぱかっているだけではなく、自分たちが何十年もかけてできなかった憲法改正(自民党の党是であり、悲願でもある)が、なんだかできそうになってきたことに、メラメラの大嫉妬を燃やしているのです(誰も認めたがらないでしょうが)。情けないかぎりです。さてさて、またまた茶番劇を見せられることになりました。やれやれ。賢い方は、よく分かっていると思いますが、今回も、前川元事務次官による「引き分け」大作戦です。籠池氏と同じ手法ですが、籠池氏が、ある意味で、家族だけが味方の戦いだったのに比べて、今回は文科省の反安倍勢力が味方になりえますから、かなりのうそをついても、それを真実に近い、という人が出てくるはずです。しかし、考えてもみてください。教育を司る官庁のトップでありながら、いかがわしい店にひんぱんに通ったあげく、ぬけぬけと「貧困調査だ」と開き直っている人の証言が信用できますか。籠池氏の人格もひどいが、前川氏の性癖も異常だと思います。人格は関係ないと思う人もいるでしょう。しかし、真実を語るかどうかは、やはり人格にかかってくると思います。天下り問題で、解任された「逆恨み」も尋常(じんじょう=正常、まとも)ではありません。エリート官僚は「自分こそ世の中を動かしている」と考えるほど自意識過剰ですから、自分の「縄張り」(岩盤規制)を崩された安倍ごときに辞めさせられてたまるか、という激しい怨念と紫の嫉妬が渦を巻いていたでしょう。エリートが不本意にその地位を外された(ほんとは自業自得ですが}ときの復讐心はわれわれの想像を超えると思います。でもね、それに、マスコミまでが乗るとは!前川氏の受け答えが、しっかりしているという声を聞きましたが、しっかりしているのは当然です。元文部科学省の事務次官ですよ。高い席から何千回もあいさつをし、教訓もたれて(どの顔して、と言いたくなりますが)いたからです。「しっかり」というより、「ぬけぬけと」という表現がふさわしいと思います(籠池手法)。それにしても、みっともないのは、民進党、共産党です。かつて、森毅(数学者・評論家)は、悪い奴を見つけて出して糾弾し、権威をおとしめるというやり方を「元凶還元主義」と言って、厳しく批判していました。民進党や共産党は、なりふりかまわず、安倍首相を悪者に仕立て上げ、引きずり下ろそうと、必死です。ただ、「紫の嫉妬」はやはり、醜いものです。 こういうのは、自民党の支持率がいくら下がっても、自分たちへの支持が広がらないダメ野党の「うさばらし」(この言葉も森毅が使っています)に過ぎないということです。「うさばらし」で政治が動くとしたら、とんでもないことです。 本来、前川氏がやっていたいくつもの「不祥事」と安倍政権がやった数々の「成果」を比較すれば、こんな問題に時間を浪費するのは愚の骨頂です。マスコミも野党も森友茶番から、何も学んでいません。これを一般的には「飲み込みが悪い」と言います。 これほど飲み込みの悪い人間たちは、一生いい仕事ができず、誤嚥性肺炎(ごえんせいはいえん=食道に入るべき飲食物が気管支に入り、肺炎に)を起こし、死の恐怖を味わうことになるでしょう。 森友事件を参考書にして、最も学んでいたのは前川氏かもしれません。 世界がこれほど激変しているのですから、私たちは茶番劇を笑い飛ばし、視野を目いっぱい広くしていかなければならないと思います。
予想どおり、籠池氏の「引き分け大作戦」は成功と言っていいでしょう。駅の売店には夕刊紙の「昭恵夫人クロ」と書かれた的外れな陳ビラが下がっていました。テレ朝を見れば、木村草太という世間知らずの憲法学者が、与党は「籠池氏の人格を攻撃するしか手がない」と“おっしゃられて”いましたが、あんな学校をつくる籠池氏の人格はおかしいと、最初に騒いでいたのは野党の人間だったはずです。マスコミとは何と愚かなものだろうと、つくづく思います。真相解明の前に「安倍政権を陥れよう」という目的が先にあるから、しょうがないといえば、しょうがないのですが、まともな勉強をしているとは、とても思えず、恥ずかしく、情けない! こういう恥ずかしさは、私のようなジジイに言われるまでもなく、自分たちが気づくべきことなのです「何らかの異常な行動、予期せぬ出来事、常識では考えられない場面などに遭遇したとき、私たちはどうやって理解に努めるだろう? 伝統的な手法をとるなら、その行動の当事者個人の気質を解明することになる。」(スタンフォード大学心理学名誉教授フィリップ・ジンバルドー『ルシファー・エフェクト』)(ただし、ジンバルドーは伝統的手法を推奨しているわけではありません。当人の置かれてきた状況、環境の影響を軽視してはいけないと述べています)。私は、何年か前、このブログで、ダグラス・マッカーサーは典型的な演技性人格障害だと書いています。籠池氏も同じ演技性人格障害っぽいでしょう。加えて、自己愛性人格障害っぽくもあると思います。マッカーサーは故人でしたから、断定しましたが、生存している籠池氏は対しては「人格障害っぽい」と穏やかに表現しておきますね。彼はいま、日本の主役になって、大いに自己愛を満足させていると思います。「あんな長時間、よく平気で質問に答えられるな」と感心していた友人もいましたが、籠池氏にとっては、一世一代(=人生で一度しかない)の晴れ舞台でしたから、疲れるどころか、心の中は高揚しっぱなし。うれしくてたまらない至福の一日だったと言っていいでしょう。 そして、これは大事なことですが、事実でないことを自分の願いどおりに思い込む妄想性人格障害っぽいのも、人格上の大きな特徴です。これらの「障害っぽさ」が三位一体となって、いま、ウソの大爆発を起こしているのです。マスコミは、評論家や政治家にご登場願う前に、精神科医に(一般論として)人格の解説をしてもらうと、他誌、他紙、他局と観点の違う、シャープな切り口ができると思います。ただし、名誉棄損、人権侵害で訴えられる可能性もありますから、かなり高度な作り方が必要になってきます。当然、そんなめんどうなこと、やりませんね。天皇崇拝の籠池氏は「天皇陛下に来園していただけたらいいな」という想いが、やがて「天皇陛下ご来園」という妄想に代わり、安倍首相ファンゆえに「安倍首相の冠がついた小学校ができればいいな」という願望が、いつのまにか「安倍晋三記念小学校」として実現したように錯覚し、それを現実と思い込んでしまったのだと思います。(追加:友人から、心理学者が「籠池さんは、反社会性人格障害の疑いもある」と言っていたという話を聞きました。調べてみると、これは「社会の常識的なこと、ルールが守れず、自分の利益のために、他人をだまし、利用するのを何とも思わない人」のようです。かなり合致?)稀代(きだい=世にもまれな、ありえない)のウソつきの上に、これだけ人格に疑問があるのですから、木村草太の「人格攻撃はよくない」といった趣旨の指摘は、もしかして、単なる詐欺事件かもしれないこの問題の大事な論点をズラしているだけにすぎないでしょう。相手はなにしろ「籠池さんだぞう!」。木村草太が出てきたので、ついでに彼についても少し触れておきましょう。 木村草太は、その著書の中で、こう述べています。<言うまでもなく、憲法九条は、日本の侵略戦争の歴史への強い反省から生まれたものです>(『憲法という希望』講談社現代新書)左寄りのジャーナリストが嘘をつくのは、今や常識になっています。しかし、学者がそうではいけません。なぜなら、他人に教えるという責任ある立場にいるからです。ところが、憲法学に限っては、戦後ずっと、平気で嘘をつく学者が恥じることなく「幹線道路」を歩きつづけてきました。 すでに二度も!紹介しましたが、戦後、東大法学部の憲法学は宮沢俊義を元祖として、芦部信喜、さらに長谷部恭男などがつづき、木村草太は今のところ、その流れの末端、宮沢のひ孫弟子と言っていいでしょう。中央大学名誉教授の長尾一紘によれば、宮沢は、論文で「法の解釈は政治的実践である」と述べていたそうです。つまり、憲法といえども、自分の政治的立場から、主観的に、思いのままに解釈していいということです。法の分野で、こんな態度が許されるのでしょうか。フツーの感覚ではちょっと信じられません。しかし、長谷部や木村の言動を見ていると、そう思わざるをえないのが、悲しい日本の現実です。長尾一紘は、もともと護憲学者でしたが、しっかり「お勉強」した結果、改憲派に「寝返って」います。そのため、護憲派からは「裏切り者」呼ばわりされているようです。しかし、まじめに日本国憲法を研究すれば、「こりゃ、変な憲法だぞ」と思うのが当然です。その意味で、「長尾は成長した」と讃えられるべきでしょう。まったく成長の兆しが見られない護憲学者こそ、日本国に対する「裏切り者」で、中国、北朝鮮、韓国にとっては「ういやつ」(愛すべき者)なのです。 先に上げた、木村草太の「言うまでもなく」とは、「これは誰でも知っている常識だからね」ということですが、それにつづく文章は、常識どころか、実は嘘なのです。(このブログを見ている人には)言うまでもなく、憲法九条は、「欧米に対して、二度と刃向かうことのないよう日本を無力化する」というアメリカの占領政策と「マッカーサー・ノート」と呼ばれる占領軍最高司令官ダグラス・マッカーサーの「指令」(私は怨念だと思っていますが)から生まれたものです。こんなわかりきったことを、なぜ、いまさら隠そうとするのでしょうか。「侵略戦争の歴史」などという考え方も、憲法制定当時、日本にあったわけはありません。20世紀まで、世界の歴史が侵略戦争の歴史だったのです。もっとも、21世紀に入ってから、またもロシアや中国は再び侵略の歴史を繰り返そうとしていますね。 木村の『憲法という希望』には、木村らしい子どもっぽい「希望」が述べられています。<憲法を学んだ先に希望がある。私はそう確信している。>(同書) 木村は希望があると確信しているので、憲法九条がアメリカの強い圧力から生まれてきたという事実を前提にしてしまうと、憲法に夢も希望もなくなるのです。 そこで、このくらいの嘘なら許されると思ったのですよ、たぶん。 こうした悪い癖は、宮沢派憲法学者に共通した欠陥です。 東大法学部出身といえば、多くの人が恐れ入ってしまいますから、彼らの言うことが正しいと、つい錯覚してしまいます。でも、よく考えてみましょう。東大法学部卒という履歴を持ちながら、学者のなかでも地位が低いといわれる憲法学者になりたがる人はそういません。優秀な人たちは官僚を目指すでしょう。あるいは、大手企業に入って、経営者になるという選択をするかもしれません。 憲法学者の道を選んだ木村に「恐れ入る」ことはなにもないのです。宮沢憲法学を学んできたため、マスコミ好みの解釈ができる便利な学者だということです。 なんだか、このブログも、支離滅裂になってきました。後半部分はよけいなことかもしれません。 しかし、二つの話には共通点もあるでしょう。 みなさん、特に若い人は「人を見る目をしっかり養いましょう」ということですかね。
私は余命も少ないですから、一日一日がたいへん大事なのです。その中で、籠池氏の証人喚問は「大事な一日」をつぶすだけの価値があると思って、テレビにかじりついていました。「それが、親分、大笑い」(説明省略。落語にある「泥棒見習い」の言葉)国会でもテレビのワイドショーも「茶番劇」を演じていただけで、もともとダメ野党のミエミエなイメージ操作は見苦しいばかりでした。テレビは「次々に爆弾発言」、「驚きの発言が次々に」といったテロップを流していました。しかし、私が見ている限り、驚きの発言も、爆弾発言もなかったと思います。こんな認識では、ネットのフェイクニュースとそう変わらないのではないでしょうか。この「事件」の本質を議員がわかっていなかったとしたら、バカとしか言いようがありません。まあ、本質はどうでもよく、野党には安倍首相を陥れることに目的があったのでしょう。最大の問題は、贈収賄があったかどうかです。これまで出ていた話や今日の証人喚問で、籠池氏が「口ききは、なかった」と言っているのですから、贈収賄事件は成立しようがありません。「神風が吹いた」、「忖度(そんたく=人の気持ちをおもんぱかること:この場合の「人」は安倍首相あるいは自民党の議員と言いたいのでしょう)があったのではないか」、こんな個人的感想だけが、8億を巡る証言なのです。籠池側が、実にうまく考えたと思うのは、密室の「引き分け作戦」です。100万円の寄付は、昭恵夫人と二人きりのときのやりとりだとすれば、真偽は実証しようがありません。結果は「?対?」の引き分けになります。国民は強者に厳しいですから、引き分けなら、実質的には弱者の勝ちです。本当に巧妙な策と言えるでしょう。お見事!野党がここに食らいついているのも当然です。なぜなら、真偽不明なら「安倍側がウソをついている」と言えるからです。肝心の部分は、「刑事訴追の可能性がありますので、答えられない」と言う籠池氏の作戦勝ちとも言えるでしょう。籠池氏が、「天皇陛下ご来園」という畏れ多いウソをホームページに載せたことは、天皇至上主義者だけに、死んでお詫びするほどの暴挙だと思います。それを平気でできる神経、そのほか数々の虚言から判断しても、どちらがウソをついているのか明明白白でしょう。虚言癖はそうかんたんに治るものではありませんし、無意識にウソが出てしまうものです。しかも、安倍首相は「もし、私がこの件に関与しているなら、議員を辞職する」と断言しているのです。常識で考えて、首相がこんな大胆な発言を国会でするでしょうか。村田レンホーは二重国籍を知っていながら、「辞める」の「やの字」も言っていません。安倍首相の覚悟というか、絶対の自信が「辞める」という言葉にこめられていると考えるのが自然だろうと思います。繰り返しますが、これは本来、贈収賄を巡る事件ですから、お願いするはずの籠池氏は、昭恵夫人に金銭を渡すのがスジというものです。逆のケースを国政の場で「大騒ぎ」するのはあまりに幼稚。たとえ寄付をしたとしても、籠池氏に口のうまさにだまされただけで、法的にも道義的にもなんら問題はないのです。 逆に言えば、これだけ籠池氏が寄付をもらったと言っているのに対して、あえてウソをつく必要もありません。籠池氏は、これから借金返済で大変でしょうが、私もムダにした一日を返してほしいと思っています。 と、ここまで書いて、ふとテレビをつけたら、民進党の福山哲郎が得意げにしゃべっている姿が映っていました。 彼は、「(安倍夫人つきの秘書が)希望にそえないというFAXを出しているのに、どこに問題があるのか」といった趣旨の質問に、「(他人に)お願いされて動くのは普通じゃない」と”普通じゃない”答えをしていて、唖然! 議員がお願いされたことで、動かなかったら、支持者にとって存在する意味はないでしょう。しかも、動いたのは議員ではなく、女性秘書だったのです。 私は、この議員はまったく頭がおかしいとしか思えませんでした。こんな人間を野放しにしていて、民進党は本当に大丈夫なの? とても心配です。
民進党は、またまたまた愚かな選択をしましたね。いつになったら、まともな党に成長するのでしょうか。<こんな話も思い出します。芸能人から大臣にまでなった蓮舫さんが、1992年4月、TBS『3時にあいましょう』の司会に決まったとき、こう抱負を語っていました。「いまのワイドショーは誰と誰がくっついたとか、誰が死んだとかばかりで、イメージがよくありませんね。ワイドショーは私が変えていきたいと思います」 このとき、主人(注:梨元勝)は、水着姿のキャンペンガールから司会に抜擢された彼女に対して、批判というより、心配そうにこう言っていました。「世間知らずのままキャスターになって、はりきっているのはいいけれど、現実の壁を越えられるかな」 その言葉どおり、蓮舫さんは、6月には早くも「誰と誰がくっついた」渦中の人になっていました。蓮舫さんは、スタイリストで資産家の御曹司との交際を女性週刊誌に書かれ、記者会見を開かざるをえなかったのです。主人は、彼女の考え方を通すなら、記者会見などする必要はないと言っていました。 主人は、この建て前と本音、理想と現実のハザマで生きてきたと思います>(梨元玲子著『愛という名のスクープ』) 蓮舫の勝気な性格と世間知らずがよく表れているエピソードです。とても党の代表が務まる器とは思えません。民進党は自ら「最大不幸社会」を選んでしまいましたね。 いくらなんでも、二重国籍を知らなかったとは、議員どころか大臣を務めたことのある人間の弁明として、話になりません。「私は誰? ここはどこ?」と言っている迷い人同然です、これは。それに、1997年には、女性誌『CREA』で「私は台湾国籍」と話しているそうじゃありませんか。 大臣にもかかわらず、国会をファッション誌の撮影に利用していました。東北大震災のときにも、パフォーマンスのため、例の立てエリでコンビニに「視察」に行って、顰蹙(ひんしゅく)を買っていました。彼女の「お行儀」の悪さは目に余りますね。 私は長い人生で、いろいろな人間あるいは人間関係を見てきましたが、もっとも劣等なのは「他人に厳しく、自分に甘い」人間だと感じています。残念ながら、彼女はその類です。本来、政治家は「自分に厳しく、他人に優しい」人でなければなりません。それでも、民進党は彼女を代表に選んでしまったのです。確かに何も考えず、イメージだけの党らしい選択です。しかし、民進党は「頭の洗濯」をしないと生き残れないだろうと思います。 ただし、日本のことを真剣に考えている優秀な議員は民進党にたくさんいます(といっても、総議員数が少ない)。 その「まともな勢力」によって、この不幸から、どう抜け出すのか。期待はそこにしかありませんね。 がんばってくださいよ、まともな議員。
日本人は情緒的なフレーズが大好きです。だから、中身のまったくない鳥越俊太郎に1票入れてしまう有権者が130万人も現れてしまったのです。「内なる声に導かれて」出馬表明した鳥越のスローガンは、「住んでよし、働いてよし、環境よし」でしたね。まったく、情緒的なフレーズばかりです。 三つの「よし」は中身がないものの、害もないので、よしとしましょう。 ところが、最後にヤケをおこしたのか「女性によし」を追加! まったく情けない爺さんです。 こんな鳥越に票を投じた130万人の東京都民は、心から悔いて、猛省しなければなりません。さて、本題は情緒的という話でした。ここからは、以前に書いたものと、ほとんどダブリます。改訂版ということで、お許しください。「地球にやさしい」、「人間の命は地球より重い」──これって、自分たちこそが守られているはずの地球に対して、あまりにも傲慢(ごうまん)だと思いませんか。人間にやさしい環境の地球があるから私たちは生きているのですし、地球の命のほうが人間よりはるかに重いのは自明でしょう。46億歳の地球とわずか500万歳の人間ですよ。知恵の量も、地球のほうが断然勝っているでしょう。ひとたび地球が怒り、暴れたら、人間などひとたまりもありません。その兆候はすでに世界各地で表われているのではないでしょうか。異常気象、自然災害などと呼ばれていますが、地球にとっては心外なこと。原因はすべて「人間ども」にあると、怒っているのです。日本のエネルギー問題を考えるとき、領土を中国やロシア、「イスラム国」に侵略されるのではなく、地球温暖化による海面上昇によって国土を奪われていく国がいくつもあることを忘れてはいけません。さらに、樹林、森林、草原の喪失など、人間の犯した罪に対して、地球の怒りはさらに爆発していくでしょう。たとえば、単純に「原発ゼロ」などと叫ぶ前に、まず、世界規模でエネルギー問題を考えるべきなのです。もしかすると、「反原発」運動は将来、日本に致命的な結果をもたらすかもしれません。安定供給でき、しかも安価で環境への影響が少ないエネルギー源が確保できるまでは、原発を止めるという愚をおかしてはなりません。ところで、日本には、平和憲法という情緒的なニックネームの憲法があります。情緒的な名称ゆえに、日本人は「平和憲法」が大好きです。大好きだから、いつまでも抱きしめて離したくないのだと思います。子どもにとっての、ぬいぐるみのような存在でしょうか。中国にいかれている人をパンダ・ハガー(パンダを抱く人)といいますが(逆の人はドラゴン・スレイヤー=龍をやっつける人)、それにならって、頭の中が幼稚園の憲法死守派を「憲法だっこちゃん」と呼んでみてはどうでしょうか。かわいいでしょ? そして、平和憲法を抱きたがるのは、日本が言霊(ことだま)信仰の国だからかもしれません。言霊信仰とは、ご存じのように言葉には霊魂が宿っていると信じることです。戦争のさなかでさえ「退却」では縁起が悪いから「転進」と言い、同じように、戦争に負けたにもかかわらず「敗戦」を「終戦」と言い替えるたぐいのマイナスイメージを持つ言葉を「忌み言葉」だとして使わないことだとも言えます。「する」はお金を「する」に通じるから、スルメを「アタリメ」、すり鉢を「あたりばち」などという例がよく上げられます。日本国憲法は戦争の放棄、軍隊を持たないことが最大の特徴だとするなら、平和憲法ではなく、戦争放棄憲法と呼んだほうが、より適切だと思います。しかし、戦争という言葉が入っているだけで、戦争が起こるのではないかと恐れるのが言霊の国です。ですから、安保法制を「戦争法制」などと言っていると、本当に戦争が起こってしまうかもしれません。自民党のいう「平和安全法制」にしておけばよかったのです。あーあ、「民共党?」は失敗しちゃいましたね。民共といえば、参院選前に、日本の医療制度を調査するため来日したジョンズ・ホプキンス大学教授(アメリカ人)が、新聞に「民共」と書いてあるのを見て(日本語に堪能です)、「民共って言葉、初めて見たけど、なに?」と質問してきました。「民進党と共産党が参院選で協力することを決めたので、マスコミがつくった造語だ」と説明すると、一言「クレージー!」。 こういう共闘は民主主義国家では、ありえないということでしょう。ホントに困った人たちです。この民共の元凶・岡田負けやは、こともあろうか都知事選の投票日前に、「民進党の代表選には出ない」と表明しました。無責任にもほどがあります。これで、岡田を支持していた蓮舫が代表にでもなったら、さらに最悪の民進党になると思います。親日派が多い台湾人なのに、水着でキャンペンガールをしていたこの先生は、日本が大嫌いなのです。その典型的例が例の「世界一になる理由があるんでしょうか。二位じゃダメなんでしょうか」発言。科学者からは猛反発を食らい、立花隆からは「野蛮人」と言われましたね。代表をめざす前に、金美齢大先生の爪の垢でも煎じて飲みなさい。もっとも、金美齢は垢すら蓮舫には上げないでしょう。共産党などが情緒的に訴えてきた「平和憲法を守っていれば、平和な人生が送れる」。そう夢見ながら、日本人は長い間、安心して眠ってきました。しかし、これまで私たちが享受してきた「平和」は、憲法の「おかげ」などでは決してありません。日本の平和憲法が本当に平和を築く力をもっているのなら、世界中で絶え間なく戦争が起こるわけはありません。現在の世界情勢を見ても、ただただ、日本だけが平和なのですから、すべては、アメリカの「おかげ」だということを素直に認めるべきでしょう。アメリカではドナルド・トランプが日本の安全保障「ただ乗り」を批判していました。日本もいいかげんに、「自分の国は自分が守る」という意志を持たないと、アメリカに見放された場合、「お手上げ」です。1年前、ほとんどの日本の学者、評論家、ジャーナリストは「トランプを支持するアメリカ国民はほとんどいない。ごく一部の金持ちだけだ」と断言していました。これが、まったく「的外れ」だったのは、今のアメリカがますます「内向き」になっていることを、見抜けなかったからです。平和安全法制の議論のとき、アメリカの戦争に巻き込まれると騒いでいた愚か者たちも、「同じ穴の無知な」人というべきでしょう。戦後、日本が平和を保つことができた最初の「ラッキー」は、連合国(戦勝国)の共同統治ではなく、実質的にアメリカ合衆国単独の占領だったことです。若い人はよく知らないと思いますが、日本が戦争に負けたあと、ソ連(ロシア)は「北海道を占領させろ」、「せめて北海道の半分をよこせ」とアメリカに迫っています。それをアメリカが断固はねのけてくれたからこそ、北海道は日本の領土のままだったのです。ソ連の要求をアメリカが飲んでいたら、日本はドイツの東西や朝鮮半島の南北と同様、共産主義国家と民主主義国家に分断されていたはずです。当時、日本にうようよいた共産主義者たちは当然、北海道に「天国」を求めて移住したでしょう。ただ、結果は、「なんてバカな幻想を見ていたのか」と「脱北者」が続出していたと思います。もっとも、日本は領土を分断されなかった代わりに、憲法という名の国民を分断する、とても困った贈り物をいただいてしまったのです。お酒は1滴も飲めず、スイーツ大好きなお父さんと甘味は苦手、でも、お酒ならなんでもいけるお母さんのところに、ウイスキーボンボンが贈られてきたようなものです(あまりに比喩がひどすぎますが)。日本は戦後、アメリカの「おかげで」民主的な憲法をマッカーサーから賜り、アメリカの援助の「おかげで」奇跡の経済復興を成し遂げ、アメリカの軍事力の「おかげで」平和を維持してきました。伊勢の「おかげ横丁」ならぬアメリカの「おかげ横丁」で暮らしてきたようなものです。それなのに、「アメリカのいいなりになるな」、「アメリカ軍は日本からから出ていけ」とはあまりに恩知らず。日本人の美徳「恩返し」の精神はどこにいったのでしょうか。もっとも、こう言っている人の大半は、アメリカよりソ連(ロシア)や中国のほうが民主的だと思っていたのですから、おそろしい妄想です。とはいえ(実は、ここからが大切です)、アメリカの「おかげ」で、日本がすっかりアメリカの属国に堕してしまったのは悲しくも情けない現実です。そろそろアメリカの「おかげ横丁」から引っ越さなければ、日本の独立はいつまでたっても果たせません。日本では、詩集『草の葉』で知られる詩人ウォールト・ホイットマンが祖国アメリカに捧げた詩があります。 アメリカ合衆国に、すべての州に、すべての都市に向って私は告げる──「抵抗は強く、服従は少なく」と。 ひとたび無条件に服従すれば、すぐに奴隷になってしまう、 ひとたび奴隷になれば、この地上のどんな国家も、州も、都市も、その自由をふたたび取り戻すことは永遠にできないのである。(「アメリカ合衆国に」佐渡谷重信訳)まるで、敗戦直後の日本に対し、注意を促しているようにも響きます。ホイットマンは「草の葉」の原稿に死ぬまで手を入れつづけ、改訂版を何度も出していたそうです。日本の憲法もこれぐらいの熱心さで、より良いものへ、さらにより良いものへと、「改正」していきたいものですね。
世の中には懲(こ)りない人がいるものですね。 病気を売り物にしているテレビタレントが、またまたしゃしゃり出てきました。 ジャーナリストだと言っているそうです。ジャーナリストが「してはならないこと」。最低四つあります。権力の座につこうとすること。コマーシャルに登場すること。特定の政党から担(かつ)がれること。事実でないことを事実のごとく書き、発言すること。都知事選に出ることによって、鳥越はすべての禁を破ることになりました。口先だけで、ジャーナリズムうんぬんを語っても、彼がジャーナリズムとは正反対の位置にいることは明確ですね。これまでも、虚偽の発言を数々してきました(たぶん、ネットにたくさん出ているでしょう)。BS-フジの「プライム・ニュース」を見ていて、さらにあきれ果てました。増田寛也、小池百合子、鳥越俊太郎が出演していましたが、増田、小池が自信満々に語るのに比べて、鳥越は、言いたいことも不明で、かわいそうなくらいにみじめでした。ロレツも回らないような状態で、「できたら2期8年やりたい」と発言し、増田から「それは、あまりに不遜(ふそん)ですよ」と、たしなめられる有様。私の経験では、鳥越のように大病を患った人間は、大きく二つの生き方に分かれるように思います。穏やかになる人と、怒りが強くなる人です。利己的な人の多くは「怒りが強く」なります。むろん鳥越はこのカテゴリーです。これは、冷静な判断ができないということですから、都知事になろうなどと考えてはいけないのです。鳥越のこれまでの言動を観察していると、ジャーナリストと名乗るもおこがましい、単なる目立ちたがり屋にすぎません。東京都民のために、今からでも遅くありませんから、「体調不良のため、立候補取り下げ」を発表しましょう。一気に評価が上がると思いますよ。この人は、国政と地方自治の違いもわからず、憲法改正させないように立候補したともおっしゃってますね。こんな人に都をまかせたら、万が一、直下型地震が起こった場合、右往左往じゃない、左往左往して、とても危険です。 注意1票、大けが4年! 危ない! 危ない!
「のど元すぎれば、熱さ忘れる」ということわざがあります。 刹那的(せつなてき)な人間が多くなった日本は、いまこそ、この言葉をかみしめなければなりません。 いまだに、安倍政権の暴走を止めろ!って、安倍政権は暴走などしていません。快走しているだけです。 あの民主党政権の「日本を壊滅させる」のでないかと思うほど、ひどい政治を忘れてはいけませんよ。これまで、安倍政権は民主党政治の尻拭いをしていただけです。 それでも、瀕死(ひんし)の日本はここまで立ち直ってきました。外交でも、圧倒的な存在感を見せ、とくに中国の拡大主義に脅えるアジアでは日本への信頼と期待が大いに高まっています。アベノミクスの失敗をあげつらう野党ですが、これだけグローバリズムが進むと、不確定要素が多くなり、経済は国内の経済政策どおりには、なかなかいかないものです。それでも、世界の情勢が激変、大混乱している中で、日本はそこそこコントロールできていると思います その一方で、民主党は民進党と看板を代え、またまた、バカな代表を生み出してしまいました。 共産党と協力? 信じられません。「貧すれば鈍す」ということわざがあります。前にも一度述べましたが、ひたすら選挙のために野合しているだけですから、ここは惨敗させてあげることが大切だったのです。そこで、初めて自分たちの愚さに気づくはずだったのです(愚か者は気づかない? そうかも)。でも、日本人はだまされやすいですから(神経科医の和田秀樹は『世界一だまされやすい日本人』という本を出しています)野党を惨敗にまで追い込むことはできませんでした。民進党のために、残念です。そして、共産党は議席を増やしました。選挙前、共産党員の友人に聞いたところ「10人はいける」と自信ありげでした。それを考えると、6人はやっぱり敗北感があると思います。SEALDs(シールズ)という知性なき集団を「若い市民団体」などと持ち上げているだけで、もう失敗です。ところが、今日の新聞を見たら、そのシールズが編集したらしい、香港(雨傘運動)、台湾(ひまわり学生運動)のグループとの「東アジア学生対話集」という書籍の広告が出ていました。このバカさかげんには「おそれいりました」としか言いようがありません。香港の学生も台湾の学生も、共産党独裁政権と闘っているのです。しかも、香港は、下手をすれば逮捕、極刑もあるという状況下の運動です。 一方のシールズは、共産党に支えられ、おかしな大人におだてられ、「安倍のバカ」、「安倍を許さない」とわめいても、おとがめ一つない国でのお遊びのような運動です。 香港と台湾の学生運動と同列に思っているとは! 頭、大丈夫でしょうか。 台湾は習近平共産党政権にすり寄る馬英九に「おかしいぞ」と声を上げた、実質的な反中国運動ですよ。その結果、民進党の蔡英文総裁が誕生し、めでたし、めでたしの台湾になったのです。まさか、民進党を日本の民進党と同じだと勘違いしたのではないでしょうね。 本当に台湾、香港の学生たちと一緒に闘いたいなら、日本共産党を徹底的に否定するしかありません。 できますか?民主主義国家の日本で、共産党など、本来、存在できないはずですが、やっぱり「世界一だまされやすい」からでしょうか、共産党はうそをつきつつ生き延びてきました。立花隆の名著『日本共産党の研究』を読めば、共産党の暴力的、独断的、排他的な体質がよくわかります。彼は想像するも恐ろしい取材妨害、徹底的な誹謗中傷をされています。「私もこの道(ジャーナリストの道)に入ってそう浅くない経験を積んでいるつもりだが、これほど組織的で悪質な取材妨害にぶつかったのは初めての経験である。共産党が政権をとると、こういう形での悪がしこい報道機関への取材妨害が広汎に(広範と同じ)おこなわれるようになるのだろうかと、空恐ろしく思っている」(同著から)民進党の某議員は「若いころ共産党にシンパシーを持っていたが、立花さんの本を読んで、目が覚めました」と話しています。本当は怖い共産党です。この本は30年近く前に書かれたものですから、共産党は「昔のことだ。今は違う」と逃げるでしょう。しかし、政党の体質は自民党はじめ、そうかんたんに変わるものではありません。ましてや、締め付けの厳しい共産党ですから、変わるはずがありません。「バカのひとつ覚え」ということわざがあります。「憲法改正すると戦争になる」という「ひとつ覚え」はバカを通り越して、空想的バカイズムと揶揄(やゆ)すべきものでしょう。 反論するのもバカバカしい妄言に、安倍政権はどう対応すればいいのか。かんたんです。共産党とこんなカケをすればいいのです。「もし憲法を改正して、日本が戦争をするようになったら、共産党さまに無条件で政権をお譲りしますよ。その代わり、戦争しなかったら詐欺罪で訴えます」。さて、このカケに、共産党は乗るでしょうか。実に魅力的な提案です。結党以来の悲願である共産主義国家を無条件で手に入れられる可能性があるわけですからね。それに、カケに負けても、詐欺罪に問われるだけです。でも乗らないでしょう。憲法を改正しても、戦争にならないことはわかりきったことだからです。共産党のことを書きつつ、突然、思い出したことがあります。こんな笑える話がありました。小学校の運動会が終わったあと、銭湯で、運動会の話をしていたら、ある爺さんから「ボクは何等?」と、徒競走の順位を聞かれて「共産党」と答えた子がいたのです(お父さんが区会議員だったような?)。子どもは無邪気で遠慮しませんから、それを聞いて、みんなで「わー、アカだ、アカだ」とからかったところ、今度は「ボクはシロ組だよ」。うそのようなホントの話です。共産党の人は普通の人となかなかかみ合わないということですね(あまり、適切なエピソードではないかも)。共産党はそもそも日米安保条約に反対してきました。存在すら否定しています。ここでも、アメリカと一緒になって戦争をするようになると言ってきました。日米安保条約締結から50年以上も経つのに、戦争が起きません。安保法制ができても地球の裏側で戦争をしていません。不思議ですね。いや、困ったことですね。もう、ここまで「予測」が外れれば、憲法を改正して戦争が起きるかどうか試してみるしかありません。これが、うそつきでないと証明する最後のチャンスです。それにしても、オオカミ少年はいつまで生き延びていくのでしょうか。「負け犬の遠吠え」ということわざがあります。与党が勝ったことを認めたくない人たちは、「投票率が低いから信任されたとはいえない」と、まさに、負け犬の恥ずかしさを隠そうともしません。テレビでも、そう発言しているオバマではない、おバカさんがいて、驚きました。日本のような安定した先進国で投票率が高くなることはありえません。考えてみてください。たとえば、あまり帰属意識のない住民が多い東京都で有権者の半数以上が投票したということは、大変なことですよ。歩くのも不自由な年寄りもたくさんいますしね。それに、参議院議員選挙ですし。そんなことも頭に入れず、「バカのひとつ覚え」のように「もっと、投票にいくべきです」、「意識が低い」とのたまう人間こそ、意識が低いのです。アメリカの大統領選挙が盛り上がっていますが、11月の投票率は今回の参院選より、さらに低いかもしれませんね。政権を担えないことがはっきりしている政党に期待するのは、もうやめにして、自民党に期待をふくらませ、どんどん注文をつけていくべきだと思いますが、どうでしょうか。こういう内容のことは、本来、選挙前に書いたほうがいいのかもしれません。でも、それでは民進党や共産党のマイナスになり悪いな、と思って遠慮したのです。優しく、潔癖な私でした。
憲法という言葉は日本の中で、すっかり定着しています。ですから、いまさら言ってもしょうがないのですが、実は「憲法」という日本語自体に「憲法」の問題点が包み隠されているのですよ。憲法の憲の訓読みは「のり」、法の訓も「のり」。ともに、法律、法規と同じ「決まり」、「掟(おきて)」を意味しています。同じ意味の漢字を重ねた熟語、絵画、河川、表現などと同じですね。憲法を訓で読めば「のりのり」ですから、改正もその勢いで進めたいものです。同じ意味が二つも重なっているので、憲法は「法律の親玉」だと思っています。しかし、法律は国民をしばるもの、憲法は国家権力をしばるものという根本的な違いがあります。ただ、これだけでは、もう一つの側面が忘れられてしまいます。憲法は国のありかた、国のかたちを示すものでもあるのです。日本には聖徳太子が定めたとされる「十七条憲法」がありました。しかし、「十七条憲法」と「大日本帝国憲法」、「日本国憲法」とでは、「憲法」の性格がまったく違います。十七条憲法は官僚たちの心得を示した内輪の「決まり」です。そんな憲法が、明治憲法や現行憲法と同じはずがありません。大日本帝国憲法、日本国憲法の「憲法」は、英語のコンスティテュ-ション(constitution)をムリヤリ訳したものです。「国制」、「国憲」、「政体」などという訳が候補に上がったようですが、訳語の合意ができないまま、十七条憲法から「借りておくか」と思いついたのでしょう。英和辞典でコンスティテュ-ションを引くと、構成、構造、組織、組成などが最初に出てくる『ジーニアス英和辞典』(大修館)、『講談社英和中辞典』、『英和中辞典』(旺文社)、『新グローバル英和辞典』(三省堂)と、体格、体質、ほねぐみ、素質が最初に出てくる『ニュー・アンカー英和辞典』(学研)、『英和基本語小辞典』(講談社)などがありますが、憲法が最初に出てくる辞典はありません。それで、念のため私が持っている英和辞典のなかで最も古い『新英和大辞典』(研究社/昭和28年初版で、昭和33年46版のもの)を見てみると、1.制定、設定、設置、2.構成、組成、構造、組織、3.(構成の)骨子、本質、4.体格、体質、5.素質、性質、たち、6.政体、とあって、7番目にやっと、憲法が出てきます。ところが、同じ研究社の『リーダーズ英和辞典』(1984年初版、2002年7刷)では、最後まで「憲法」の訳語が出てきません。近い訳語として、慣行、慣例、制度、法があるだけです。英和辞典で、憲法は意外に影が薄いのでした。さらに、しつこいようですが(確かにしつこい)、学生時代に使っていた英英辞典『WEBSTER’S NEW WORLD DICTIONARY』を開いてみると、ここでも7番目にようやく、「政府、州、社会、共同体などの基本的な法と原則の制度」という解釈が出てきます。こう見てくると、コンスティテュ-ションを憲法と訳したのは失敗だったと思えてきませんか。コンスティテュ-ションは基本的に「構造」という意味の言葉です。より適切に訳すなら、国のかたちを表す「国家構造法」、「国家構成法」、「国家骨格法」、「国制法」、「国政法」、「国憲」といったものではないかと思います。実際、明治初期に存在した立法機関の元老院は1867年と70年に「国憲」案というのをつくっています。 福沢諭吉は『西洋事情』の中で、アメリカの憲法を「律例」と訳し、東大学長の加藤弘之は「国憲」、津田真道は『泰西国法論』で、「根本律法」、「朝綱」、「国制」という言葉を使い、大日本帝国憲法の草案づくりに携わった井上毅はプロイセン憲法を訳したとき、「建国法」としたそうです(出典を思い出せません)。当時の学者などは誰もコンスティテューションを「十七条憲法」の「憲法」と同じだとは考えていなかったのです。 ですから、憲法を改正するときには、国の骨格を定めるという憲法のもう一つの側面を明確にするため、憲法という名称も「思い切って」変えたほうがいいのではないかと、個人的には思います。それによって、憲法とはどんなものか、その性格がよりはっきりと理解されるようになるのではないでしょうか。まあ、そこまで議論するまじめさは、いまの日本人にはありませんね。 薄っぺらな憲法学者も国家構成法学者、国家骨格法学者なんて呼ばれるようになったら、少しは緊張して真剣に国のことを考える(はずはありませんね)。 『「日本国憲法」を読み直す』(講談社/1994年)という憲法学者・樋口陽一と作家・井上ひさしの対談集があります。ここから、コンスティチューションに触れている部分を抜き出してみましょう。井上 憲法は、樋口さんのおっしゃるコンスチチューション、社会の基本構造そのものでしょう。語の意味としても、憲法はその国の「本質をなす」ものでしょう。自分たちが生きて仕事をして、恋をして結婚して、泣いたり笑ったりしているのも、その基本構造の上で、つまり、憲法の上で成り立っているはずなのに、われわれ日本人はどうもそう思っていないところがある。樋口 そういう意識の違いはたいへん大きい。たとえば合衆国憲法二百年を記念したシンポジウム、その記録集の表題が「そして憲法がアメリカを創った」。アメリカという国が憲法をつくったのではなく、憲法がアメリカという国をつくった、人間の頭と意志の働きの結果として憲法なるものを自分たちがつくったから、アメリカ合衆国ができたという考え方です。井上 自分の血とか肉とか知恵から国家というものができていると覚悟しているところがありますね。樋口 フランスも同じで、建国記念日は七月十四日でしょう。もちろん血筋とか土地とかいう意味では大昔から国としてはあったんだが、いまのフランスという近代国家は一七八九年七月十四日に基本的な価値にコミットして、一つの共同社会に生まれたんだということです。かつての日本人が神武元年の二月十一日だと思っていたのと対照的です。 井上ひさしは「難しいことはよりやさしく、やさしいことはより深く」と言っていた作家ですから、この本はとてもわかりやすく展開され、たいへん勉強になりました。また、憲法を「国を縛るもの」と解釈していないこともわかりますね。 ただ、二人とも激しく護憲の立場から話していますので、「まてよ」という個所がいくつも出てきます。引用した対話もそうです。 アメリカにせよ、フランスにせよ、革命や戦争によって、「建国」した国と日本を比較して、米仏をあがめたてまつるのは、どんなものでしょうか。国の「つくられ方」がまったく違うのですからね。たかだか2~300年の歴史しか持たない国と2000年の歴史を持つ国です。そうかんたんに全面的な西欧的普遍主義に日本の精神は移行できないと思います。そして、日本の場合「憲法がアメリカを創った」という理想のストーリーではなく、「憲法をアメリカが創った」のです。文字づらでは、ちょっとの違いですが、実際はとんでもなく大きな違いです。現在の憲法を、たとえば、日本国構成法という名称にしたとします。すると、憲法はまず、国のありかた、かたちを決めるものだという重要な一面がクローズアップされてきます。現在の日本国憲法に「国」の概念がまったくないのは、アメリカが「日本国」を国民と分断する意図があったからです。すでに紹介してきましたが、日本国憲法前文の書き出しは、アメリカ合衆国憲法前文のまったくパクリにもかかわらず、「日本国民は……ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」という日本国憲法に対して、合衆国憲法は「われら合衆国国民は……アメリカ合衆国のためにこの憲法を確定する」となっていましたね。日本国憲法が「日本の国」をすっぽり抜かしていることがわかるでしょう。これまで、多くの人たちは「憲法とは、権力をしばる、あるいは制限するものだ」という解釈しか教えられてきませんでした。誰がしばるのかと言えば、国民です。しかし、日本国憲法の場合、アメリカが「がんじがらめに」しばったのです。日本がいまだにアメリカの呪縛から解き放たれないのは当然でしょう。それはさておき、コンスティチューションという原語から判断すれば、国のかたち、骨格、構造というのが、憲法の「全体像」だと思います。日本国の骨格をなすのは国民主権と国際平和主義(今は一国平和主義に陥っていますね)、そして、自由、平等と人権を守る民主主義です。さらに、国のかたちの中心には、日本を象徴する天皇がいます。ところが、共産党をはじめとして、憲法死守隊の中には、天皇を廃して、社会主義共和国をつくることを夢見ている人たちがいます。ということは、憲法を改正しないかぎり、あるいは革命を起こさないかぎり、夢は実現しないのです。にもかかわらず、憲法改正反対を叫ぶのはなぜでしょうか。そもそも、共産党は社会主義革命を目的に結党されたはずです。暴力による革命を断念した(?)現在、日本を社会主義共和国につくりかえるという党の悲願を達成するには憲法改正しかありません。自民党の改正案を批判しているヒマがあるのなら、理想の共産党案を一刻も早く提示すべきでしょ。なにをボヤボヤしているのですか。共産党の改正案が国民に受け入れられ、共産党のめざす国家ができた場合を想定(しにくいが、ムリヤリ)してみましょう。アメリカをはじめとした民主主義国家に対抗するために、間違いなく現在より軍事力を増強するはずです。共産主義国はどこも軍事第一。「権力は銃口から生まれる」と言ったのは、中国共産党の毛沢東でしたね。自衛隊は違憲だと言っていた日本共産党委員長の志位和夫は外人記者クラブで、「政権をとった場合、有事が起こったら、自衛隊はどうするのか」と言う質問に「自衛隊も在日米軍の出動も認める」と答えていたそうです。なんだかおかしくない?日本には軍拡をする風土がなくなりましたから、共産党が政権をとったら(とりませんがね)中国の軍事力に頼らざるをえません。なんだ、沖縄基地の利用者がアメリカから中国に代わるだけじゃないですか。そんな日本共産党が野党を引っぱろうとしているのです。母さん、怖いよ!これは、私が勝手に想像しているだけではなく、かつて田原総一朗も左側勢力が掲げた非武装平和運動の「まやかし」を経験しています。田原は反体制派のジャーナリストでしたが、社会党(現社民党)の理論中枢だった向坂逸郎(さきさかいつろう)にインタビューして、反戦平和幻想から目覚めています。田原の『日本の戦後(上)』(講談社)から、<当時、社会党は「反戦平和」「非武装中立」を金看板にしていた。そして、自衛隊の存在も、日米安保条約にも全面的に強固に反対していた。憲法違反だというわけである。> という状況のなかで1977年5月に、向坂を取材しています。向坂は、共産主義の国々が軍隊を持っていて、軍事同盟を結んでいようと、日本は非武装中立であるべきだと強調していました。<そこで私が「もしも日本が社会主義政権になり、日米安保を廃棄した場合はどうするのか」と問うと、「そのときは軍備を持った方がよいかどうかを考える。とにかく、現体制で日米安保条約下は、非武装中立でいくべきだ」と答えた。ということは、社会主義政権になれば、軍隊を持ち、軍事同盟を組むことも吝(やぶさ)かでないということになる。向坂に「ソ連との軍事同盟もありですね」と重ねて問うと、向坂は力強く大きく「ウン」とうなずいた。 向坂を「教祖」とする社会党は、どうやら平和主義でも軍事同盟に反対でもなく、彼らのいう「反戦平和」の正体見たりと思わざるを得なかった。>(同書)共産党も社会党も、そして旧民主党の左派も、国家の運営などに本当は無関心で、「ただ、選挙のため」に、できもしないこと、日本のマイナスになることを平気で口にして、国民をあざむいているだけです。ですから、民主党が政権をとったとたん、日本が壊滅状態に陥ったのは、当然なのです。口先ばかりの政治家にだまされないよう、政治は現実そのものだということを肝に銘じておきたいものです。