予想どおり、籠池氏の「引き分け大作戦」は成功と言っていいでしょう。駅の売店には夕刊紙の「昭恵夫人クロ」と書かれた的外れな陳ビラが下がっていました。

テレ朝を見れば、木村草太という世間知らずの憲法学者が、与党は「籠池氏の人格を攻撃するしか手がない」と“おっしゃられて”いましたが、あんな学校をつくる籠池氏の人格はおかしいと、最初に騒いでいたのは野党の人間だったはずです。

 

マスコミとは何と愚かなものだろうと、つくづく思います。

真相解明の前に「安倍政権を陥れよう」という目的が先にあるから、しょうがないといえば、しょうがないのですが、まともな勉強をしているとは、とても思えず、恥ずかしく、情けない! こういう恥ずかしさは、私のようなジジイに言われるまでもなく、自分たちが気づくべきことなのです


「何らかの異常な行動、予期せぬ出来事、常識では考えられない場面などに遭遇したとき、私たちはどうやって理解に努めるだろう? 伝統的な手法をとるなら、その行動の当事者個人の気質を解明することになる。」(スタンフォード大学心理学名誉教授フィリップ・ジンバルドー『ルシファー・エフェクト』)
(ただし、ジンバルドーは伝統的手法を推奨しているわけではありません。当人の置かれてきた状況、環境の影響を軽視してはいけないと述べています)。

 

私は、何年か前、このブログで、ダグラス・マッカーサーは典型的な演技性人格障害だと書いています。籠池氏も同じ演技性人格障害っぽいでしょう。加えて、自己愛性人格障害っぽくもあると思います。マッカーサーは故人でしたから、断定しましたが、生存している籠池氏は対しては「人格障害っぽい」と穏やかに表現しておきますね。

 

彼はいま、日本の主役になって、大いに自己愛を満足させていると思います。

「あんな長時間、よく平気で質問に答えられるな」と感心していた友人もいましたが、籠池氏にとっては、一世一代(=人生で一度しかない)の晴れ舞台でしたから、疲れるどころか、心の中は高揚しっぱなし。うれしくてたまらない至福の一日だったと言っていいでしょう。

 

 そして、これは大事なことですが、事実でないことを自分の願いどおりに思い込む妄想性人格障害っぽいのも、人格上の大きな特徴です。これらの「障害っぽさ」が三位一体となって、いま、ウソの大爆発を起こしているのです。

マスコミは、評論家や政治家にご登場願う前に、精神科医に(一般論として)人格の解説をしてもらうと、他誌、他紙、他局と観点の違う、シャープな切り口ができると思います。

ただし、名誉棄損、人権侵害で訴えられる可能性もありますから、かなり高度な作り方が必要になってきます。当然、そんなめんどうなこと、やりませんね。

 

天皇崇拝の籠池氏は「天皇陛下に来園していただけたらいいな」という想いが、やがて「天皇陛下ご来園」という妄想に代わり、安倍首相ファンゆえに「安倍首相の冠がついた小学校ができればいいな」という願望が、いつのまにか「安倍晋三記念小学校」として実現したように錯覚し、それを現実と思い込んでしまったのだと思います。

(追加:友人から、心理学者が「籠池さんは、反社会性人格障害の疑いもある」と言っていたという話を聞きました。調べてみると、これは「社会の常識的なこと、ルールが守れず、自分の利益のために、他人をだまし、利用するのを何とも思わない人」のようです。かなり合致?)

 

稀代(きだい=世にもまれな、ありえない)のウソつきの上に、これだけ人格に疑問があるのですから、木村草太の「人格攻撃はよくない」といった趣旨の指摘は、もしかして、単なる詐欺事件かもしれないこの問題の大事な論点をズラしているだけにすぎないでしょう。

相手はなにしろ「籠池さんだぞう!」。

 

木村草太が出てきたので、ついでに彼についても少し触れておきましょう。

 

 木村草太は、その著書の中で、こう述べています。

言うまでもなく、憲法九条は、日本の侵略戦争の歴史への強い反省から生まれたものです>(『憲法という希望』講談社現代新書)

 

左寄りのジャーナリストが嘘をつくのは、今や常識になっています。しかし、学者がそうではいけません。なぜなら、他人に教えるという責任ある立場にいるからです。ところが、憲法学に限っては、戦後ずっと、平気で嘘をつく学者が恥じることなく「幹線道路」を歩きつづけてきました。

 

 すでに二度も!紹介しましたが、戦後、東大法学部の憲法学は宮沢俊義を元祖として、芦部信喜、さらに長谷部恭男などがつづき、木村草太は今のところ、その流れの末端、宮沢のひ孫弟子と言っていいでしょう。

中央大学名誉教授の長尾一紘によれば、宮沢は、論文で「法の解釈は政治的実践である」と述べていたそうです。つまり、憲法といえども、自分の政治的立場から、主観的に、思いのままに解釈していいということです。

法の分野で、こんな態度が許されるのでしょうか。フツーの感覚ではちょっと信じられません。しかし、長谷部や木村の言動を見ていると、そう思わざるをえないのが、悲しい日本の現実です。

 

長尾一紘は、もともと護憲学者でしたが、しっかり「お勉強」した結果、改憲派に「寝返って」います。そのため、護憲派からは「裏切り者」呼ばわりされているようです。

しかし、まじめに日本国憲法を研究すれば、「こりゃ、変な憲法だぞ」と思うのが当然です。その意味で、「長尾は成長した」と讃えられるべきでしょう。

まったく成長の兆しが見られない護憲学者こそ、日本国に対する「裏切り者」で、中国、北朝鮮、韓国にとっては「ういやつ」(愛すべき者)なのです。

 

 先に上げた、木村草太の「言うまでもなく」とは、「これは誰でも知っている常識だからね」ということですが、それにつづく文章は、常識どころか、実は嘘なのです。

 

(このブログを見ている人には)言うまでもなく、憲法九条は、「欧米に対して、二度と刃向かうことのないよう日本を無力化する」というアメリカの占領政策と「マッカーサー・ノート」と呼ばれる占領軍最高司令官ダグラス・マッカーサーの「指令」(私は怨念だと思っていますが)から生まれたものです。こんなわかりきったことを、なぜ、いまさら隠そうとするのでしょうか。

 

「侵略戦争の歴史」などという考え方も、憲法制定当時、日本にあったわけはありません。20世紀まで、世界の歴史が侵略戦争の歴史だったのです。もっとも、21世紀に入ってから、またもロシアや中国は再び侵略の歴史を繰り返そうとしていますね。

 

木村の『憲法という希望』には、木村らしい子どもっぽい「希望」が述べられています。

<憲法を学んだ先に希望がある。私はそう確信している。>(同書)

 

木村は希望があると確信しているので、憲法九条がアメリカの強い圧力から生まれてきたという事実を前提にしてしまうと、憲法に夢も希望もなくなるのです。

 そこで、このくらいの嘘なら許されると思ったのですよ、たぶん。

 

こうした悪い癖は、宮沢派憲法学者に共通した欠陥です。

 東大法学部出身といえば、多くの人が恐れ入ってしまいますから、彼らの言うことが正しいと、つい錯覚してしまいます。でも、よく考えてみましょう。東大法学部卒という履歴を持ちながら、学者のなかでも地位が低いといわれる憲法学者になりたがる人はそういません。優秀な人たちは官僚を目指すでしょう。あるいは、大手企業に入って、経営者になるという選択をするかもしれません。

 

 憲法学者の道を選んだ木村に「恐れ入る」ことはなにもないのです。宮沢憲法学を学んできたため、マスコミ好みの解釈ができる便利な学者だということです。

 

 なんだか、このブログも、支離滅裂になってきました。後半部分はよけいなことかもしれません。

 しかし、二つの話には共通点もあるでしょう。

 みなさん、特に若い人は「人を見る目をしっかり養いましょう」ということですかね。