世界中が戒厳令なみの非常事態宣言をしているのに、日本は、なぜ厳しい規制ができなか

ったのでしょうか。

 まずは、(世界が非難したにもかかわらず)ダイヤモンド・プリンセス号の初動に「結

果として」そこそこ成功したからです。宿泊施設も病床も確保できないのに、下船させていたら、その後、大変なことになっていたと思います。

 次には「全員PCR検査をすべきだ」という無知なマスコミ報道(程度の低い医療関係コメンテーターの起用)や野党の声に対して、聞く耳を持たなかったからです。そして、多くの人が「うがい、手洗い」を実行し、外出、会合の自粛に「ある程度」応えたからです。注目するべきは、感染者数ではなく、死者数だということです。全員検査をしていたら、遠の昔に医療崩壊、死者数も激増していたでしょう。

 さらに、科学音痴の立憲民主党・蓮舫の「休校に科学的根拠があるんですか」というバカ丸出し(今は本人も恥ずかしかったと思っているでしょう)の考えを無視して、多くの自治体が休校に踏み切ったからです。いち早く発車した北海道知事の英断は見事でした。

 

 そこで、日本はこんなにうまくいっている、そろそろ自粛しなくてもいいのではないか、という空気が生まれてしまったのです。ここから、日本はおかしくなっていきました。

 しかし、考えてもみてください。日本は島国という安心感から、世界で最も遅い出入国制限をした国です。感染者が少ないわけはありません。案の定、海外からの帰国者に続々、感染が確認されています。

 さらに悪いことは、「若い人は、感染しても、無症状か軽症だから外出してもあまり問題ではない」、「マスクは予防効果がない」などと、無責任なことを「したり顔」で解説するインチキ野郎がテレビに登場してきたことです。まだ、実態がつかめていないウイルスに町の医者が正しいことを言えるわけはありません。

 

 話は突然変わりますが、

 作家の井上ひさし(私と違い、護憲論者でしたが)の、憲法に向き合うときの新鮮で謙虚な考え方には、いつも目を開かされました。たとえば、司馬遼太郎さんとの対談で、こんなことを述べています。

 

<憲法は法のなかの法だから、大切なこと、法治国家の精神はこの憲法のなかにあるはずだというふうには、われわれは憲法を使っていない。いつもどこかに置いておいて、誰か気づいた人が時に憲法を持ち出すけれども、その持ち出し方が通りいっぺんで、しかも正義面をして妙な引用のしかたをする。だからわれわれはますます嫌いになってしまうんです。

 憲法にしろ自治にしろ、みんなで決めたことを拠(よ)りどころにして目の前の問題を考えていくという修練を、日本人はあまりやってきていない。あまりに平和で、うまくいきすぎたからでしょうか。しかしこれからは、そのあたりの修業もあらためてやっておく必要があるという気がしています。>(「昭和」は何を誤ったか。1996年)

 

 今回の「武漢ウイウス」(と、アメリカのペンス副大統領が呼びました。責任の所在をはっきりさせるためには、適格な名称だと思います)によるパンデミックに際して、私はこの対談を思い起こしました。日本のウイルス対応が「歯切れが悪い」原因の一つに「日本国憲法」の存在があることに気づいた人が少なかったからです。

 この歯切れの悪さこそ日本に蔓延する「憲法病」ではないかと思います。私たちは、戦後ずっと平和な環境で暮らしてきたために、免疫力が弱っていて(比喩ですよ)、こうした危機に対応できないのです。テレビを見ても、新型のウイルスだから、ほとんど科学的根拠がないにもかかわらず、ひまな医師が適当なことを言って、お茶を濁しています。

 

 そして、もう一つ思い出したことがあります。こちらは、なんとも愚かしい例です。

 立憲民主党の“お笑いクイズ坊や”こと小西洋之は民主党時代、安倍首相に「憲法でいちばん大切な条文を一つだけ挙げてください」と、国会の場とは思えない質問をしていました。予算審議の中で、首相がこんな質問に答えるはずもありません。それに、憲法の条項に優劣をつけるのは、憲法差別主義です。にもかかわらず、小西は勝ち誇ったような卑しい表情を浮かべ、「憲法13条ですよ」だと、この人おかしくないですか。

 

 例えば、第1条の「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」。

 これが、いちばん大切な条項だと答える人もいるはずです。なぜなら、大日本帝国憲法と日本国憲法とで、決定的に変わったのが天皇の地位と国民主権だからです。

 また、絶対に第9条だと言う人もいるでしょう。要するに、小西の質問は、無意味な質問で、総理が答えられないことを想定して発した「いやがらせ」なのです。こんな幼稚なことを考える国会議員がいることに日本の政治の後進性があるのだと思います。

 

 さて、こんなことを平気でやる議員のいる野党ですから、武漢ウイルスが大問題になっているにもかかわらず、国会では、何事も起こっていないかのごとく、「桜満開!」でした。

 国民があきれ果てていることに気づいた野党は、いきなりUターン。ウイルスに対する対応が遅い!とは、どの口でこんなことが言えるのでしょうか。たぶん異常にゆがんだ口だと思いますから、一度、口腔内科に相談してみてはいかがでしょうか。「手遅れです」と言われるかもしれませんが。

 おそらく、政府がもっと早く、あるいは、もっと厳しく規制をしたら、野党は、個人の自由や権利を侵害するな、と、大反対をしたでしょう。

 いつまで経っても成長しない駄々っ子の集団です。

 

 ここまで読んでも、なぜ、井上ひさしの文章と、小西の13条とが、武漢ウイルスに結びつくのかわからなかったと思います。

 答えは、ウイルス対策に憲法が影響しているということ。そして、今こそ、井上ひさしが言っていたように、みんなで憲法修業に入りましょうということです。

 まず、小西に代表されるような人にとって、いちばん大切だと思っている第13条は、「個人の尊重」です。

 今回、武漢からチャーター機で帰国した日本人の中で、2人が検査を拒否しました。

 憲法にある「個人の尊重」のほうが「検査の要請」より大切なのですから、許されるのです。

 陽性と診断された男が「他人にうつしてやる」と、飲み屋をはしごしていた事件もありました。陽性の人は、自宅で2週間待機という要請も「個人の尊重」の前には無力なのです。

 K1の開催中止も要請しかできませんでした。「中止させたいなら、金を保障しろ」と、金儲け第一主義がまかり通っている世の中です。

 感染経路不明が多いのも、正直に話せない事情があるからで、無責任の最たるものです。

 まあ、小西憲法説は、日本人は何をやろうが、個人の自由がいちばんだと言っているようなものです。しかし、13条には、「公共の福祉に反しない限り」という縛りがあることを忘れてはいけません。

 

 こんな国会議員が出現するとは予測していなかっただろうと思いますが、日本国憲法が施行された1947年5月3日、憲法に関するやさしい解説書『新しい憲法 明るい生活』が2000万部発行され、全国の家庭に配布されています。

 

 憲法第13条と密接につながっている第12条「自由・権利の保持と公共の福祉」には、<この憲法が国民に保証する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない、又、国民はこれを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ>とあり、これを説明するにあたり、「義務と責任が大切」と見出しをつけ、こう説明しています。

 

<私たちは新憲法によって、ずいぶん多くの自由や権利を与えられたが、一生懸命努力して、これを大切に守っていく義務がある。自由といっても他人の迷惑も考えずに勝手気ままにふるまうことではない。権利だからといって無暗やたらにこれをふり廻(回)してはならない。私たちは自分の自由や権利を、いつでもできるだけ多くの人々のしあわせに役立つよう使うことが大切である。(第十二条)

 もしも各人がこの心がけを持たないで、民主主義をはき違え自分勝手なことばかりしていたなら世の中は今までよりも一そう住みにくいものになってしまうだろう。私たちは権利や自由が常に義務と責任を伴うことを忘れてはならない。>(『あたらしい憲法のはなし 他二篇』岩波現代文庫)

 

「個人の尊重」の前に、個人にも義務と責任が伴うのだ、ということを国民に明確に伝えているのです。国民というより人間として当然のことを言っているのだと思います。

しかし、宮澤俊義を始祖とする東大憲法学者は「憲法は権力を縛るものだ」という変形SM同好会ですから、権力は縛ることができても、義務や責任を縛る技は持っていません。

 

<現代の社会的風潮の顕著な特徴は、市民の権利が強調される反面、市民の義務がほとんど欠落していることである。>

今の日本そして日本人に向けられているように思いますが、これは福祉政策研究の第一人者、ウイリアム・A・ロブソンが『福祉国家と福祉社会』(東大出版会UP選書)で述べている至言です。

 

 最後に、「憲法第9条病」にも触れておきましょう。

 第9条2項にある「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」についての実にいいかげんな「戦力」の解釈は「必要最小限」の戦力は許されるというものです。

 そこで、日本人のメンタリティは、「必要最小限」しかできない、「必要最小限」ならできるという呪縛にかかってしまったのです。

 今回、政府も、おそるおそる「必要最小限」の対応をしているということです。

 なぜ政府は、細かい指示ができないのか、という声もよく聞きます。

 しかし、法律上は、自治体の首長にまかせることになっていますから、「必要最小限」の指示しか出せないのです。今回の特措法で、緊急事態宣言を発令しても、政府は、ガイドラインを示し、強い要請をすることしかできませんでした。空しい国ではありませんか。

 

 人命より人権・自由を優先すべきだという偽善的「思い込み」から脱皮しないと、「賢者は最悪に備えよ」という危機管理の基本すら守れません。どうする、ニッポン!

 

 こんなときには、役立たずの「日本国憲法」より、聖徳太子の「十七条憲法」のほうが優れた力を発揮するだろうと思います。

<第一条:お互いの心が和らいで協力することが貴いのであって、むやみに反抗することのないようにせよ。それが基本的態度でなければならぬ。ところが人にはそれぞれ党派心があり、大局を見通している者は少ない。だから主君や父に従わず、あるいは近隣の人びとと争いを起こすようになる。しかしながら、人びとが上も下も和らぎ睦まじく話し合いができるならば、事柄はおのずから道理にかない、何ごとも成しとげられないことはない。>(中村元現代語訳)

 

 まさに、「ワン・チーム」こそが難局を乗り越えるための基本だと説いているのです。