憲法前文はパクッて、パクッて、パッチワークの「つぎはぎ文」
憲法前文ほど屈辱的な文章はありません。改正の第一歩は前文の書き直しからです。ぜひ、この項は真剣に読んでいたたきたいと思います。憲法は法治国家の最高法規です。そして、前文は、その国の基本的なあり方、国柄そして憲法そのものの理念を表すものですから、とくに重要です。また、現行憲法の草案をつくったアメリカの占領政策の目標・目的は、日本がアメリカやその他の国に、二度と刃向かうことのないよう「日本を無力化する」ことでした。この二つの前提を頭に入れながら、現行憲法の「難解」な前文を、「虚心坦懐」に「何回」も読んでみてください。日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。参考のために、英文では、こういう書き出しです。We,the Japanese People……。お手本は、もちろん「アメリカ合衆国憲法」。その書き出しは、We,the People of the United States……です。大日本帝国憲法改正のための最初の閣議で配布された日本語訳は、「我等日本人民は……」となっていたようですが、現在の『日本国憲法』は「日本国民は」から始まっています。Weで始まっていたのに、「われわれ」を訳していないのも不思議ですね。「われわれ」を入れたほうが、より強い文章になるはずです。おそらく、書き出しから合衆国憲法と同じでは、日本国憲法はMade in USAだという「カラクリ」がすぐにバレてしまうと考えたのでしょうね(考えすぎですかね)。次の文章を読んでください。アメリカ合衆国憲法の前文です。<われら合衆国国民は、より完全な連邦を形成し、正義を樹立し、国内の平安を保証し、共同の防衛に備え、一般の福祉を増進し、われらとわれらの子孫に対する自由の恵沢を確保する目的で、アメリカ合衆国のためにこの憲法を確定する> あきれるほど日本国憲法の前文とよ~く似ていますね。日米は二卵性双生児だと言われて当然です。反米・親中の人たちは、米軍基地撤退を叫ぶ前に、憲法前文の削除を叫ぶべきでしょうね。 ここで、注目すべきは、「国内の平安を保証し、共同の防衛に備え」という国家として、いちばん大切な「国民と国を守る」という部分を日本国憲法では見事に省いていることです。なぜかは、もうおわかりでしょう。アメリカの日本占領政策の目的は「二度と欧米諸国に立ち向かわないよう、日本を無力化する」ことでしたね。これが、憲法第九条にも及ぶアメリカの本音です。アメリカが平和を願ったのではなく、恐ろしい日本を丸裸にして、アメリカのタレを滲みこませた「かば焼き」にするため、骨を抜いてしまったのです。憲法は、旧かなづかいが使われています。これは、新かなづかいに改める必要があります。「よつて」、「わたつて」の「つ」は促音ですから、現在は「っ」と表記すべきです。また、「ことのないやうに」は当然「ことのないように」ですね。このほか、「であつて」、「努めてゐる」、「思ふ」、「いづれ」、「従ふ」、「立たう」、「誓ふ」など前文には、17ヵ所も訂正しなければならない「不適切なかなづかい」があります。これは、憲法改正ではなく、憲法校正ですかね? 一般書や教科書なら即訂正でしょ。明らかにおかしな部分も「直さない、直せない」とは、あまりに無責任です。日本国憲法の原本は漢字も旧字で、「國民」、「國會」などと表記されていたはずです。漢字は新字体に直し、仮名は旧かなづかいのままというのは、いかにもおざなり。注意力散漫としか感じられません。この憲法を理想だと力説する護憲学者なら、自分の文章も「旧かなづかい」で書かなければなりません。実際には、改憲派学者にしか旧かなを使う人はいません。おもしろい国です。さらに、驚いたことに、憲法は書き出しから事実に反しているのです。まず、「日本国民」が主語になっています。それから、切れ目のないダラダラした文章がつづき、「この憲法を確定する」で終わっています(アメリカ合衆国憲法と同じ構文)。ところが、実際は、日本国民が、この憲法を確定したわけではありません。帝国議会(まだ国会とは言いませんでした)では、大日本帝国憲法の改正手続きにのっとり、改正の審議をしたのです。新たに憲法をつくるための国会ではありませんでした。もちろん、国民投票もしていません。この新しい憲法に対して、最終的に「OK」を出したのは天皇です。そんなことを真剣に考えもせず、GHQの草案だから文句も言えずに、翻訳だけして「どうせ反対してもGHQに逆らえない」から認めておこうとなったのです。憲法学者や教師の多くは、現在の日本国憲法は国民がつくったと説明しています。もちろん、うそです。前に紹介しましたが、もう一度、確認しておきましょう!<この点で(引用者注:憲法の制定手続きを他国と比較して)やや異例とおもわれるのは、日本国憲法である。その前文では、「日本国民は……この憲法を確定する」といっているが、それは明治憲法の改定という形で成立し、国民投票はもとより、憲法議会が制定するという手続もとられなかった。>(『世界憲法集 第四版』宮沢俊義編・岩波文庫) この指摘は、東大法学部出身の憲法学者に引き継がれているはずです。それなのに、ほとんどの憲法学者は、自らの著作では述べているのにもかかわらず、現行憲法成立の異常さに、公には触れようとしません。まったく、潔くないですね。 諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し……の部分はどうでしょうか。まず、「わたつて」は「わたって」ですね。戦後からこれまで、「諸国民との協和による成果」はあったでしょうか。護憲派が大反対したPKO派遣がそうだったような気もしますが、日本人には、かなりわかりにくいですね。「自由のもたらす恵沢」とは何でしょうか。他人の迷惑もかえりみず、勝手気ままにふるまうことが「自由のもたらす恵沢」だとしたら、アメリカも罪な前文をつくったものです。「恵沢」を辞書で引くと「めぐみ、なさけ」と出てきます。自由のめぐみ? 自由の女神の間違いじゃないの? 自由のなさけでは、もっと情けない。政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。旧かなづかいは先に上げたとおりです。憲法改正に「よって」、間違いの「ないように」したいものです。そして、戦争は政府の行為だけで起こるものではありません。前文だけ見ると、政府ではなく、主権を持つ日本国民のテロリストが起こす戦争なら、許されるのではないかとも受け取れます。実際、「イスラム国」は小さなテロから始まり、戦争(紛争ではない)まで起こして、領土をかすめ取り、いまや国らしきものをつくっています。そして、「決意し」、「宣言し」、「確定する」という文章のつづきもおかしいですね。また、最初に述べたように「この憲法を確定する。」の主語は最初の「日本国民は」です。なんとしたダラダラ文でしょうか。アメリカ合衆国憲法の前文をむりやり日本国憲法の前文に当てはめようとしたから、こうなったのです。次にいきましょう。そもそも国政は、国民の(Government of the people)厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来(from the people)し、その権力は国民の(of the people)代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する(are enjoyed by the people)。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。原文この部分は、リンカーンのゲティスバーグ演説(1863年11月)が発想の源です。<人民の人民による人民のための政府はこの地上から決して滅びないであろう>(government of the people,by the people,for the people)ところで、あなたは、「厳粛な信託」で国政に参加していますか。おそらく、していないと思います。それは、「厳粛な信託」からは生まれないような議員がたくさんいることで、証明されているといえるでしょう。とくに参議院議員に多いですね。税金を払うのがばかばかしくなります。それにしても、「厳粛な信託」なんて言葉、理解できますか。 池上彰の『超訳 日本国憲法』では、「国民の厳粛な信託によるもの」を、「国民によって任されたもの」と超訳しています。厳粛は訳していません。これは、一つの見識かもしれません。日本の選挙の実態を見れば、「厳粛」にはほど遠いと思います。「その権威は国民に由来し」とあります。権力が国民の代表にあるのは当然ですが、権威が国民に由来すると考えたのは、浅はかな思い込みからきています。すでに述べましたが、日本では、歴史的に「権威は天皇、権力は武家」という諸外国では見られない阿吽(あうん)の呼吸による「二権分立」がつづいてきました。ですから、天皇制を維持している限り、権力は国民の代表にあり、権威は天皇に預けられていると考えるべきなのです。ここにもGHQが歴史を無視した(無知でもあった)矛盾が出ているような気がします。しかし、前文を考える際、「天皇とは何か」など、考慮にも入れなかったのです。天皇の権威とは、欧米人には想像もつかない「ふわっと」したものではないでしょうか。だいたい、日本の国民に権威などありますか? 東北大震災のとき、国民の代表である菅直人首相が被災地の避難所を訪れた際、「お前、もう帰るのか」と罵声を浴びせられたのを覚えている人もいるでしょう。しかし、天皇皇后両陛下が訪問されたときには、誰もが頭を垂れ、涙を流したのです。これだけでも、日本版の「権威」がどこにあるか明確です。天皇の権威を認めたくないなら、前文に権威という言葉を織り込まなければいいだけの話です。権威などというあいまいな言葉は本来、前文に書き込むべきではないと思いますね。(つづく)