◆ 「二上山」慕情
【~18 二上山麓を辿る道 (6)】







復活した【「二上山」慕情】のテーマ記事。

「二上山麓を辿る道」と題して6回目となりましたが、今回がラストの投稿となります。

記事作成は負荷が大きく大変なのですが、楽しみつつ、学びつつ、励みました。
少々寂しい気もしますが、一先ずはここで終えたいと思います。



「過去記事一覧」を作成しました。



■ 「二上山」東麓の交通路

◎「横大路」への連結路

「二上山」東麓地域に交通路が開かれたのは、サヌカイトを石器の原材料とした、縄文時代からと考えられています。もちろん弥生時代の製作遺跡もあります。

サヌカイトの産出は北麓。南東の「竹内遺跡」(→ 詳細は第15回目の記事にて)まで運搬する物流路があったとみられています。

古墳時代中期には、河内地域の開発が進んだことにより、大和盆地と河内を結ぶ水上・陸上の交通路が重要視。
水上は「大和川」、陸上は「関屋峠」越え・「田尻峠」越え・「穴虫峠」越え・「岩屋峠」越え・「竹内峠」越え・「平石峠」越えの6ルートがその役割を担ったと想定できます。

これらの6ルートは大和側では「横大路」に繋がり、河内側では「丹比道(竹内街道)」、「大津道(長尾街道)」に繋がります。

*「横大路」
後の時代にできた道。大和盆地の東の玄関口「墨坂」(参照 → 墨坂神社)から、西の玄関口の一つである「竹内街道」に直結する道(参照 → 長尾神社)。大和盆地の南部を横断しています。
5世紀後半には雄略天皇の宮跡と想定される脇本遺跡が沿道に形成され、この頃は大和盆地の主要道の一つとして意識されていたと考えられます。そのことが「二上山」周辺の各交通路が「横大路」に集結されたと思われます。


「二上山」周辺の各交通路が集結し、「横大路」への起点となった地に創建された長尾神社


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◎首子遺跡

「二上山」東麓の緩やかな傾斜面の遺跡。「長尾街道」の西側、「岩屋峠」越えルートの北側に位置します。「竹内遺跡」からは500mほど北。

・東西約560m、南北約400m。
・古墳時代後期の竪穴住居一棟
・古墳時代中期~後期の掘立柱建物6棟(床面積10㎡と小規模)
・7世紀後半の掘立柱建物
・只塚廃寺
・首子古墳群(6世紀前半~7世紀前半)(帆立貝式前方後円墳1基、円墳6基、方墳3基)

古墳時代から続く集落の造営集団が、7世紀後半になって自らの居住地近くに仏教施設を建立したと考えられています。

*「竹内遺跡」との関係
ほぼ同時期に近接して2つの集落遺跡がありました。「竹内遺跡」は多量の須恵器が出土していることから、河内地域からもたらされた物資の一時的な集積地としての役割を担っていたのではないかと考えられています。つまりヤマト王権が介在する公的な空間であったと。
一方で「首子遺跡」は、「その意を受けて交通路を含めて地域を管理する集団が本拠とした」とみています。


ちょうど車が走っている左側辺り(切れてしまっています)に、首子第4号・第5号墳があります。

「首子遺跡」「竹内遺跡」出土品



◎「岩屋峠」越えルート

「長尾街道」から分岐、當麻寺の門前通りを通り「二上山」の南麓を抜けるルート。江戸時代の「西国三十三所名所図会」には、「道すこぶる難所多し」と記されています。河内側からは當麻寺の参詣ルートして利用されました。
なお當麻寺は当初、「竹内峠」越えルート上にあったとされます(詳細地は諸説有り)。

「長尾街道」からの分岐点は「當麻衢(たぎまのちまた)」と称され、壬申の乱で戦場となりました。

*「當麻」と「但馬」「丹後」
當麻寺という仏教施設の創建は、概ね2説上げられています。
・葛城氏の創建説(氏寺であった)
・麻呂子親王(聖徳太子の弟)の創建説

麻呂子親王(当麻皇子)については、丹後や但馬(丹波国より丹後国と但馬国が独立分離)との関わりが多くみてとれます。丹後の鬼退治伝説、異母兄の母であった穴穂部間人皇后(はしうどこうごう)の丹後隠棲生活など。

麻呂子親王は息長氏系の血を持つ血筋。母の舎人皇女の祖父は継体天皇。息長氏のルーツは始祖 天日槍神に始まり、田道間守(タヂマモリ)等、但馬から丹後に所縁があります。また息長帯比売(神功皇后)の母は葛城高顙媛。「當麻(たぎま)」の由来は「但馬(たじま)」ではないかとも考えています。

また葛城氏も神功皇后の右腕として活躍した武内宿禰を遠祖とし、葛城襲津彦を祖とする氏族。「當麻」と「但馬」「丹後」は深い関係にあったと思います。


「穴虫峠」越えルート上に鎮座する式内大社 當麻山口神社。ご本殿左右脇には麻呂子親王(當麻都比古)と當麻都比売命を祀る式内社 當麻都比古神社が鎮座。


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家形石棺の材料となった二上山の凝灰岩。



◎凝灰岩の採取

「岩屋峠」越えルートが「竹内峠」越えルートに接続する辺りでは、多くの石切場跡がみられます。

*石棺材への利用
凝灰岩は「家形石棺」の棺材として、古墳時代終末期には「横口式石槨」として利用されました。飛鳥・奈良時代には寺院や宮。建築材として。

「家形石棺」を使用する古墳は、「二上山」から「大和葛城山」周辺に集中し、20基ほどが発見されています。この地域は「刳抜式家形石棺」から、比較的早くより「組合せ家形式石棺」が採用された地域。
特にその石材となる凝灰岩は「岩屋峠」周辺から石切場から採取されたようで、このルートの整備は石材を運び出すことが始まりだったと考えられています。



葛城市太田の弥宮池1号墳 Bの「刳抜式家形石棺」(二上山の凝灰岩製)。
隣接する小山2号墳の「組合せ式家形石棺」(二上山の凝灰岩製)。


*石工集団の統括者
「組合せ式家形石棺」は、複数の場所で切り出された凝灰岩を組合せていた例が多く見受けられます。
例えば上の写真の小山2号墳や下部掲載の島ノ山1号墳では、「ドンズルボー」(二上山北側)・「岩屋峠」・「鹿谷寺北方」(竹内峠)の3ヶ所から切り出したものが組合されています。

作業工程としては
・石材の切り出し
・石材の集積
・石棺制作
以上の3工程が想定され、一連の作業をまとめ上げる「石工(いしく)集団」の統括者の存在が見えてきます。彼らもまた地域首長の統括下に組み込まれていた可能性が考えられます。



島ノ山1号墳の「組合せ式家形石棺」。



「岩屋峠」越えルート上にあるのが鳥谷口古墳。こちらは悲劇の死を遂げた大津皇子の、真の陵墓とされるもの。治定墓は「二上山」山頂の「大津皇子 二上山墓」ですが。

「二上山」凝灰岩を用いた横口式石槨。不揃いな石材を用いた急拵えの石槨とも見なされますが、石工集団の統括者の介在があれば、必ずしも不測の事態を理由にする必要のないことが分かります。






◎その他の史跡等

その他いくつかの史跡を抽出して挙げておきます。なお仏教関連史跡、中世以降のものは省略します。

*「千股池」
奈良時代の郡役所跡ではないかとされる「新在家遺跡」の真東の池。「長尾街道」から分岐して、西の「新在家遺跡」へ向かう道が敷かれていたと想定され、おそらく「衢(ちまた)」が「千股」に転訛したものと考えられています。

また偶然なのか必然なのか、「二上山 雄岳」山頂のほぼ真東に当たります。春秋分の日には池越しに夕陽が沈む瞬間を撮影するため、写真家等で溢れかえります。

またこの池は「壬申の乱」においての、大伴吹負(大海人皇子軍)と壱伎史韓国(近江軍)との戦場「葦池」の有力な候補地の一つとなっています。

「二上山」東麓の「加守」に鎮座する式内大社。全国倭文神社の根本社・葛木二上神社の里宮・掃守神社の三社からなります。

日本最初の「棚機祭(七夕祭)」が行われたとされます。染色技術を持つ置始氏(オキソメノウジ)や機織技術を持つ倭文氏(シドリノウジ)などの伴造(とものみやつこ)が関わったものと考えられます。
当社脇からは「二上山 雄岳」への登山道がありますが、その登拝にはこちらが利用されてきたようです。
また雄略天皇代より宮殿の掃除や舗設に関わった加守(蟹守、掃守)家が当地を拠点としたようです。




垂仁天皇七年、「出雲」(大和国城上郡出雲と出雲国と二説有り)の野見宿禰と大和国葛下郡「當麻邑」の當麻蹶速(タギマノケハヤ)が、御前で「角力」を行いました。「角力」とは現在の相撲の原型となったもので、当時は相手が死ぬまで戦ったのでしょう。

当地はその「角力」が行われたという伝承地。ところがもう1ヶ所、城上郡「穴師邑」の穴師坐兵主神社の境内社 相撲神社が上げられています。そちらの方は垂仁天皇の「纏向玉城宮」跡のお膝元。天覧試合ということを考えるとそちらが妥当かと思われます。




*蹶速塚
當麻寺へ向かう参道の途中に當麻蹶速の塚とされる「蹶速塚」があります。残念ながら五輪塔などという仏教施設の造形物が設けられてしまっていますが。もちろん當麻蹶速が生きた時代に仏教などという新興宗教は伝来しておらず、蹶速に対しては礼を失したもの。

塚状の高まり等は存在しません。隣接して「葛城市相撲館」が建てられています。


*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。