◆ 「二上山」慕情
【~15 二上山麓を辿る道 (3)】






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■過去記事

~1 序

~2 「二上山」の誕生

~3 旧石器人の宝物「サヌカイト」

~4 縄文人と「二上山」

~5 弥生人と「二上山」(1)

~6 弥生人と「二上山」(2)

~7 古墳時代と「二上山」(1)

~8 古墳時代と「二上山」(2)

~9 王族の魂と「二上山」(1)

~10 「二上山」の神々
~11 王族の魂と「二上山」(2)
~12 「二上山」と万葉浪漫
~13 二上山麓を辿る道(1)
~14 二上山麓を辿る道(2)
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黄緑色の手書き線が「竹内峠」越えルート(竹内街道)。紫色の手書き線が「穴虫峠」越えルート(長尾街道)。手書きであるが故、大体の場所を示しているということで御容赦願います。



■ 「竹内峠」越えルートの遺跡 (1)

「二上山」の南側麓を通るルート。前回の記事では、街道沿いの「磯長谷古墳群」という、5基の陵墓を記事としてまとめました。今回は陵墓以外の遺跡を紹介します。




「磯長谷(しながだに)」の地名由来となったと思われる社。式内社。級長津彦命(シナツヒコノミコト)・級長津姫命を主祭神とします。

かつては「二上山」上に鎮座したとされ、祀られるのは風神。この神を祀るのは大抵の場合において、製銅・製鉄が行われていた地。踏鞴(たたら)に必要な暴風を祈っての信仰とされます。

「二上山」では南側から西側の麓にかけて3体の銅鐸が出土(正確な出土地は太子町立 竹内街道歴史資料館の学芸員もご存知なく、確認できていません)。製銅・製鉄を裏付けるもの。






級長神社の鳥居前から長い石段を登った丘の頂きにある塚。15 × 11mの楕円形であるとか。これが小野妹子の墓であると伝承されています。

小野妹子と言えば…
初の遣隋使に、聖徳太子による国書「日出づる処の天子、書を日没する処の天子へ致す、恙(つつが)無き哉」を携えて出発。隋の煬帝を不興を買った…云々で知られる官人。

和珥氏(ワニノウジ)の枝氏である小野氏の一人。近江国滋賀郡「小野郷」を拠点とし、平安時代には小野篁(オノノタカムラ)や小野道風(トウフウ)、小野小町等が有名どころ。

その「小野郷」の伝承墓が有力視されますが、聖徳太子や推古天皇の御陵が築かれたこの地に、寄り添うように築かれたとしても、何ら不思議は無いかと思います。おそらくはこの由緒ある地に分霊されたのだろうとは思いますが。





◎一須賀古墳群

「竹内峠」越えルートの南方、太子町葉室から河南町一須賀・東山・大宝・平石に渡る丘陵地帯に築かれた群集墳。確認されている現存数で262基。大規模な宅地造成工事で30基以上が消滅済み。「大阪府立近つ飛鳥風土記の丘」として公園整備されています。

ほとんどが30m以下の円墳。6世紀前半~7世紀前半頃に築造されたもの。

ミニチュア炊飯具、韓式土器が多くの古墳で副葬されており、石室の構造からも渡来系氏族のものと考えられています。なかでも百済系、漢人系であるとされ、また蘇我氏との密接な関係があるようです。西端には蘇我氏の本支族が奉斎した式内社 壹須賀神社(一須賀神社)が鎮座。


一須賀古墳群 E-1号墳の横穴式石室
*画像はWikiより




宗我石川宿禰(武内宿禰の第三子)を祀るとされる社。現在は江戸時代に勧請されたという異なるご祭神が祀られます。

鎮座地は「一須賀古墳群」の西端。元は古墳上にあったとされ、それが石川宿禰の墳丘上だったという説もあるようです。つまり遷座されたということかと。旧社地などの詳細は不明。「一須賀古墳群」の西部は開発で破壊されましたが、その一基だったのでしょうか。

石川宿禰は蘇我氏の祖とされます。武内宿禰からは御子たちが、葛城氏、紀氏(紀朝臣)、平群氏、波多氏、巨勢氏のそれぞれ祖となっています。





◎三ツ塚古墳群


「竹内峠」から「平石峠」への分岐点に築かれた古墳群。16基の横穴式石室を有する円墳と方墳で構成。別に墳丘を持たず横穴式石室のみが14基確認されています。道路建設時に数基は破壊消滅済み。築造時期は6世紀末~7世紀末頃。

街道の分岐点に築かれる古墳は、大和盆地においては大王墓、豪族の首長墓となる例が多いようです。当古墳群もそれに該当する可能性があるとされます。



◎竹内古墳群と竹内遺跡

「二上山」より南東へ派生した尾根の東端、「キトラ山」(標高約150m)を中心に築かれた群集墳。
前方後円墳1基、方墳1基を含む全34基が現存しているようです。5世紀末頃~6世紀中頃築造。

一帯は「キトラ山遺跡」とされ、弥生式土器等が出土しています。
そして東側麓に隣接するのが「竹内遺跡」。こちらからは弥生前期と晩期以降の遺物が出土。現在の竹内集落(南方)にも広がるとみられますが未調査。また古墳時代中・後期の大量の須恵器が発見されているとのこと。一集落で使用する量を遥かに凌駕しているため、この「竹内遺跡」が河内方面からの物資供給所として機能していたという考えもあるようです。

「茶山古墳」(第34号墳)では組合せ式家型石棺であることが確認。第22号墳は全長45mの前方後円墳。変形四獣鏡や須恵器杯などが出土した一楽山古墳も、この古墳群の一基であるものの、現在はどの古墳かが分からなくなっているようです。

「三ツ塚古墳群」「竹内古墳群」ともに葛城氏の勢力圏。ところが安康天皇三年(456年)の「眉輪王(マヨワオウ)の変」にて、頂点を極めていた葛城氏が一気に没落しています。
両古墳群の被葬氏族は葛城氏の残党なのか、或いは取って変わる新興の氏族、例えば蘇我氏なのか…分かりかねるところです。




「竹内街道」と「長尾街道」の起点となる位置に鎮座するのが式内大社 長尾神社。「長尾街道」は「穴虫峠」越えルートのこと。
西側は「竹内街道」「長尾街道」ですが、東側は「横大路」、さらにその先は「初瀬街道(伊勢本街道)」。この上ない要衝に建てられた社であることが分かります。また一の鳥居は「二上山」が最も美しく見られる地に建てられたのではないかとするのは当社宮司。

現在はさほど大きい社ではないものの、大変に興味深い由緒歴史を多く抱えています。本題とは直接関係無いため割愛しますが、私個人的に由緒と知名度が釣り合っていないと考える社の一つ。


長尾神社の一の鳥居と二上山。



今回はここまで。

次回から「穴虫峠」越えルートをみていきます。



*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。