(二上山「屯鶴峯(どんづるぼう)」)
◆ 「二上山」慕情
【 ~7 古墳時代と二上山 (1)】
とうとう古墳時代にまで来ましたか…。
後は飛鳥時代をやったら終わり!?
このテーマは個人的にもお気に入りなので、
いつまでもやってたいが…。
なので、小分けにします(笑)
だから、記事は少々短めにて。
近頃、「丹後の原像」「古事記翻訳」この「二上山慕情」といった企画物テーマ、「神名」などの記事がずいぶん捗ってますが…
それもこれもコロナのせい!
参拝社数があまりに少なく
記事を上げる神社が無いから。
1日3記事を上げて1年で1,000社足らず、
10年あまりで10,000社を登録することを目標にしてます。
それくらいやりゃ
ちょっとは大きい顔もできるかな~と。
(まだ2,500社なので小顔ですが)
1泊2日の旅行に行けば40社以上を目処に参拝。
月に2回も旅行へ行けば、1ヶ月分ほどの記事を上げる神社が出てきて…
そりゃもう…てんやわんや!
苦し紛れにテーマ記事を上げたり、過去のあまりに拙い記事を改定したりで、
穴埋めゴマカシを…。
いやいや…ゴマカシではなく
こっちの方が1本の記事を上げる負荷は遥かに大きいのですが。
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恒例の余談を済ませ
とっとと本題へ入ります。
旧石器時代より
すぐそこの身近な山として、サヌカイトが採れる貴重な山として、
また麓より見上げれば美しい山として、
「二上山」は愛されてきました。
縄文時代は前時代を受け継いだものの、
弥生時代になると霊峰「二上山」への信仰が再び盛り返したように思います。
これは稲作が始まり、田植え・稲刈りの開始時期を、「三輪山」「二上山」山頂に「太陽」が昇沈する日(春秋分の日)に行うという習わしになったため。
それはやがて神事へと発展。
また「日読み」或いは「日知り」、つまり暦が生まれ、「日知り」は「聖」となり、権力者へとなっていく…
と、前回の記事に書くつもりが
書けてなかったな…。
さて…古墳時代。
旧石器時代や縄文時代に逆戻りしたかの如く、
「二上山」を掘りはじめます。
いや、それどころではなく掘り漁ったとでもいうべきか。
この時代はサヌカイトではなく「凝灰岩」。
古墳石室などに使われました。
(「二上山博物館」内に据えられる石室)
「二上山」の北部に延々と広がる凝灰岩の地層、「屯鶴峯(どんづるぼう)」と呼ばれます。
千数百万年に起こった火山活動の火山灰や火砕流が、地震等で徐々に隆起してきたもの。
あまりに広大で採っても採っても採り尽くせないほどのもの。現在でもガリガリと削っています。
大和国内はもちろん、「二上山」の西側麓は「古市古墳群」。さらにその先は「百舌鳥古墳群」。
2019年世界文化遺産登録された、あの「百舌鳥古市古墳群」。
舌鳥の方は仁徳天皇陵(記事未作成)、反正天皇陵、ニサンザイ古墳(未拝)等々、登録された巨大古墳だけでも49基。
常時切り出しが行われていたように思います。
香芝西中学校の建設工事の際に、生々しい切り出し跡が発見されたとのこと。またすぐ近くの高山台ニュータウンの造成工事の際にもいくつか発見されているようです。
この「屯鶴峯」と呼ばれる凝灰岩が剥き出しの場所は、「二上山」山頂からは少々離れています。
北側に「雄岳」、南側に「雌岳」が並びますが、北側の「雄岳」山頂から2kmほど北麓。
サヌカイトの採鉱もそうですが、麓であるからこそ切り出しができたのではないかと。
やはり本山というべきところからは採掘はできない、或いは限られた者以外の侵入は禁止。いわゆる禁足地だったのかもしれません。
「二上山」に対する信仰はまったく変わっていなかったのかもしれません。