☆大津皇子 二上山墓


大和国葛下郡
奈良県葛城市加守(「二上山」山頂)
(登拝は葛木倭文坐天羽雷命神社境内から1時間程度)


悲劇の皇子とされる大津皇子の治定墓、「二上山」雄岳の山頂にあります。

天武天皇の第三皇子。この時代辺りから皇位継承などを巡っての政争が多く、その犠牲になった一例かと。

有力な皇位継承者でした。ところが即位反対派からの密告があり、謀叛の疑いをかけられたために自害…というのが一般的な解釈。

この時代はやや専門外でもありますが、特に異論はありません。

悲劇の始まりは母の死。

天武天皇(当時は大海人皇子)に大田皇女が后となり、生まれたのが大津皇子。

ところが即位前に薨去。
皇后の第一候補であったとも言われます。

また同母妹である大來目皇女は斎王として伊勢に。つまり近親者は父(天武天皇)以外に皆無。

かなり不利な状態ですが、勉強をよくしており武芸にも秀で、容姿体格も素晴らしく、性格は気さく…(あくまで記紀の記述)な、大津皇子。信望も厚かったとか。

このままだと天皇になってしまう!…と危惧したのが鵜飼野讃良皇后(ウノノサララコウゴウ)。後の持統天皇。

黒幕…なのでしょうね。

天武天皇との間に生まれた草壁皇子を何とか即位させようと、大津皇子を失脚させたと考えられています。

ま…壬申の乱で、それはもう大変なご苦労があったと思われます。気持ちは理解できなくもないですが。

大津皇子を排除したものの、草壁皇子はまだ幼少、自らが即位し場つなぎを行いました。
罰が下ったのか草壁皇子は間もなく病死しますが。それでも孫の軽皇子を即位させたのは、さすがやり手の女帝というべきでしょうか。

大津皇子の御陵がこのような場所にあるはずがないという考えは古来よりあり、當麻山口神社の近く、鳥谷口古墳ではないかとする説が根強くあります。

確かに「二上山」の山頂などという畏れ多い場所に葬るというのは尋常ではなく(尋常ではないことが起こったのですが)、やはり他の場所であろうと。

鳥谷口古墳なら大津皇子の墓である条件を備えていそうですが、何せこの周辺は古墳だらけで、おそらく古墳認定されていないものがまだ千、二千基くらいはあるのだろうと思っています。

したがって鳥谷口古墳をもって、大津皇子の墓と断定しようがないと考えています。