☆鳥谷口古墳



大和国葛下郡
奈良県葛城市染野字鳥谷口679
(當麻山口神社に停めて10分ほど歩きました)


■形状
方墳
■全長
一辺7.6m
■築造時期
7世紀後半から末頃
■埋葬施設
横穴式石槨
■出土品
須恵器、土師器等
■周辺の状況
霊峰二上山(ふたかみやま)の大和側尾根上
すぐ南に當麻山口神社が鎮座、伝承旧社地も西500mほど(当麻寺境内説も有)、古代からの霊地であったと想像される
■被葬者
大津皇子説が根強い



二上山の尾根、しかも式内大社 當麻山口神社のすぐ北にある古墳。

この地(二上山)がどれほど重要かは奈良県民なら、容易に理解できるかと思いますが…

奈良県民以外の方向けに簡単に説明してみます。


大和朝廷が営まれたのは「大和盆地」。
ほとんど起伏の無い平坦地が延々と続きます。

「盆地」というからには四方は山に囲まれています。

*北→「寧楽山(ならやま)」という丘陵レベルの低い山並み
*南→吉野の山々、さらに熊野へ果てしなく山が続きます
*東→「日本の神奈備」三輪山があり、その奥に霊峰「與喜山」が控え、さらに宇陀の奥深い山々が続きます。北方には高円山(たかまどやま)や龍王山などがあります
西→北から生駒山麓、二上山、そして大和葛城山と金剛山と河内国(大阪府)との境に延々と山麓が走ります


さて、当古墳が築造されたのは飛鳥時代。
この時代はまだ大和盆地の南部が中心でした。

大和盆地南部にいて
東を見ると→美しい「三輪山」
西を見ると→美しい「二上山」

現在でもそう思うのに、建物がほとんど無かった古代ならなおさらのこと。

春秋分の日に三輪山頂から朝日が昇るところ、「二上山」の間に夕陽が沈むところ、その場所はすべて「日祀り」を行う地でした。

当然のことながら東西一直線になるわけですが、それが有名な「太陽の道」と呼ばれるものです。

このライン上に主要な神社(神社が破壊されて寺院に乗っ取られたものも)が並びます。

*三輪山と二上山の間には檜原神社箸墓古墳多坐弥志理都比古神社など。
*東には長谷寺(元は與喜天満神社の聖地)、室生寺、伊勢の斎宮、伊勢湾の神島など。

少々脱線しましたが、「二上山」がどれほど重要な山であるのかを先に書いてみました。


「二上山」というからには二山が並びます。

雄岳と雌岳。雄岳の山頂に大津皇子は葬られたとされています。

これは万葉集に記される、
「うつそみの人なる我や明日よりは 二上山を弟(いろせ)と我が見む」(大來皇女、同母姉)とあるもの。

これをもって宮内庁は治定墓を雄岳山頂としています(→ 「大津皇子 二上山墓」)。

ところが多くの研究者が指摘しているように、謀反人とされる大津皇子をこのような霊地に葬るものかと。


ここで大津皇子について概略を。

天武天皇の皇子であり、有力な皇位継承候補でした。ところが天武天皇崩御後は皇后の持統天皇が即位、その皇子の草壁皇子が立太子。

持統天皇は、大津皇子の母である大田皇女の妹。つまり大津皇子と草壁皇子はいとこの関係。

持統天皇は我が子の草壁皇子に即位してもらいたいがために、甥である大津皇子を排除しようと企みます。

そうして無実の罪を被せられ、自害したと考えられています。

草壁皇子は3年後に崩御、また代わりに即位させた文武天皇も早々と崩御。
大津皇子の祟りであると恐れられました。


この祟り神を二上山の山頂に葬るなどということはあり得ないというわけです。

山頂からは大和盆地が見渡せられます。

祟り神に常に見下ろされ睨み付けられている…恐ろしくて夜も寝られない…なんてことになるはず。


そこで当古墳が有力になります。

ところが問題は現地でも確認したところ、
50~60cmほどの開口部しか無いこと。
通常の石棺を入れることはできません。

真相はどうなのでしょうか。





こちらが開口部。