與喜天満神社
(よきてんまじんじゃ)


大和国城上郡
奈良県桜井市初瀬1
(Pは長谷寺駐車場を利用500円~、徒歩10~15分程度石段を登る)

■延喜式神名帳
志貴御縣坐神社 大 月次新嘗 の論社
長谷山口坐神社 大 月次新嘗 の論社

■旧社格
郷社

■祭神 
菅原道真公


「與喜山」(天神山とも)の中腹、桜井市東部の「初瀬(はせ)」に鎮座する社。「初瀬川」を挟み西側には長谷寺という仏教施設あり。
◎ここはまさしく古代の聖地。大和の神奈備山である「三輪山」と東の同緯度にあり、いわゆる「太陽の道(レイライン)」上に。天照大神の御魂を持ち出し同経度の北へ遷し、戻って来たのがこちら。このあと同経度の西へ遷します。
「三輪山」から見て、春秋分の日に太陽が上るのはこの「與喜山」から。また天武天皇の御代に斎王として大來皇女が伊勢に向かう前に潔斎を済ませたのもこちら、「泊瀬斎宮」だったと考えれています。
◎当社は日本最古の天神信仰の社とされています。菅公は後の時代に被さったものとして、この社をどう見るかかなり昔からいろんな説が展開されています。
◎山頂にはおそらく堝倉神社が鎮座していたものと考えられています。そちらは麓の素盞雄神社に合祀されていたものが、近年再興。そして当社の鎮座地は長谷山口坐神社であったとするのが有力な説。
◎ただし個人的には疑問を感じています。当社の社伝に「與喜山」には往古より一切斧を入れていないとあります。そもそも山口神社というのは、朝廷の宮殿などの造営に必要な用材を切り出した特別な場所を祀る社であり、矛盾が生じています。
◎堝倉神社は山頂に祀られているとして、長谷山口坐神社はさらに下った現社地でいいのではないかと。そして当社は単純に、菅公が被さっただけであるということでいいのではないでしょうか。
◎ただしこれにも問題があります。なぜこれほどの社が式内社ではないのか。社伝では天暦2年(948年)に「與喜山」に天照大神が降臨したとされます。これを正しい創建説話とするなら、神名帳が編纂された後からの創建であり、辻褄は合いますが。
◎大倉比賣が頂上に降臨、この大倉比賣を下照姫神のことと仮定して、このことは天を照らす天照神ではなく下(地上)を照らす下照神が降ったと考えます。天照神の分身という考え方もできるかもしれません。だから天照の御魂がここに持ち出されたのでしょうか。
◎別に元は鴨氏の聖地であったという考えもあります。「與喜山」を菅公に譲ったのは滝蔵権現(瀧蔵神社のこと)であるという伝承もありますが、上流に祀られる天落神六社権現の六柱のうち主とされるのはアヂスキタカヒコネ神、鴨大神。他にも鴨氏と密接に結びつきます。鴨氏と言えば葛城地域がイメージされますが、元々支配していたのは鴨氏だったのではないかとも言えそうです。国譲りだったのでしょうか。

*写真は過去数年の参拝時のものが混在しています。

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令和二年秋にご本殿改修工事がなされました。


手前向かって左手が「沓形石」、奥向かって右手が「掌石」。

磐境と思われます。


大鳥居を向かって右へ折れると「上化粧坂(かみけはひさか)」へ。

参道の途中にある八王子社、真ん中より左上に小さく見える祠です。手前には磐座が座しています。

磐の上に建つ原始的な社殿。天照大神とスサノオ神の誓約(うけひ)でなった八王子神が祀られているようです。

令和二年夏頃に突如として祠が消え失せました。

令和二年秋にこのように生まれ変わりました。

境内社の泊瀬稲荷社。

裏参道、素盞雄神社からそのまま登ります。

途中でこのような神々しい景色に。表参道・裏参道ともに歩くことをおすすめします。