淡海三船「有職故実」より *画像はWikiより






◆ 「真の持統女帝」顕彰
~反骨と苦悩の生涯~ (21)






今回は「大津皇子事件」の真の犯人を突き止めます。

2日続けての記事UPとなります。
続けないと意味がないので。

一気に2記事分を起こしました。
やればできる!


■ 大津皇子の事件 3

昨日の記事で、「懐風藻」の記述は「誤り」であると判明しました。僧行心による「註誤」は無かったということに。

その「誤り」が意図したものなのか、そう捉えられていた時世であったのか、…までを含めて解いていかねばなりません。



◎河島皇子による密告

「懐風藻」の河島皇子の項を見ると、「密告」したと記されています。ところがこれは紀には無い記述。「謀叛が発覚した」とあるだけ。

━━大津皇子と莫逆(きわめて親密な間柄)の契を為し 津(大津皇子)の逆しを謀るに及びて 島(河島皇子)即ち變(変)を告く━━「懐風藻」より

河島皇子は大津皇子と親友であったと記されます。河島皇子は天智天皇の子。天武天皇の子であった大津皇子とは「いとこ」の関係。幼い頃からの仲良しだったのでしょうか。

事件後、河島皇子は何ら褒賞を授かっていません。これを紀が伏せるとは考えにくい。

そうすると、またしても「懐風藻」の記述は「誤り」となりそうです。しかもこればかりは、褒賞の有る無しという白黒はっきりとしたものであるが故、これはもう「黒」ですね。

「懐風藻」は記述そのものが「誤り」であると。



◎淡海三船は「ウソつき」?

淡海三船(おそらく編纂者)が「意図して」異なることを書いたとしか考えられません。

「懐風藻」は「漢詩集」。「漢詩」を扱えるほどの当代きっての良才が、漢文形式の「日本書紀」を読んでいないはずはなかろうと思われます。
そもそも正史を知らずして、歴代天皇の諡号など付けようもない!熟読していたはずです。

また、「註誤」(=欺く)という言葉、「日本書紀」では大津皇子が30人余りの役人に対して、「懐風藻」では僧行心が大津皇子に対して使われていますが、他に使用例の無いような稀有な言葉を双方が用いています。
偶然にも同じ事件の記事で用いられた…などということはあり得ない!

淡海三船は「日本書紀」の記述を知っていながらにして、「ウソ」を書いているということなのでしょう。



◎淡海三船という人物

━━聡明で鋭敏な性質で、多数の書物を読破し文学や歴史に通じていた。また書を書くことを非常に好んだという。…(中略)…若いときに唐人の薫陶を受けた僧であったこともあり、外展・漢詩にも優れていた━━(Wikiより)

歴代天皇の漢風諡号を考案し採択するという、大変な重責を任された人物。そりゃもう大変な人物だったと想像されます。

父は池辺王、祖父は葛野王(カドノオウ)、曾祖父は弘文天皇(大友皇子)。

そうなのです!
大友皇子側の人なのです。大海人皇子(天武天皇)に敗れた近江朝側の人なのです。だから「淡海(近江)」なのです。



◎天武天皇・持統天皇を認めない!

淡海三船の時代は既に、天武系から天智系の天皇に戻っていました。つまり堂々と天武・持統朝を批判することは可能でした。

何よりも中国の歴史や文化に通じていた淡海三船。「長子相続制」を貫く中国に倣うべきだという信念を抱いていました(長くなるので詳細は割愛します)。天武・持統朝は…弟・妻…。天武天皇・持統天皇など許せるはずもない!



◎「懐風藻」とは

既に天武天皇・持統天皇は崩御して久しく、堂々と批判しているのが「懐風藻」であるということが見えてきます。

「漢詩集」とは言われるも、なぜか3皇子(大友皇子・河島皇子・大津皇子)が選出されて、しかも経歴が載せられています。「漢詩」だけ載せてればいいのに、敢えて経歴まで。そして大友皇子の良才ぶりはとことん記されています。

大津皇子に関しては、「日本書紀」が良才ぶりをけっこう記しているのに、「懐風藻」はあっさりと。代わりに武勇ぶりや自由奔放ぶりが記されています。もうどれが本当なのかは分からないですが…。



◎「日本書紀」も「懐風藻」も「ウソつき」

「日本書紀」は天武天皇・持統天皇、特に持統天皇の思惑が込められている書。おそらくは大津皇子事件の記述に関しても、かなり歪められているのでしょう。

大友皇子の良才ぶりに関する記述など無し。淡海三船にとって「日本書紀」は、「ウソつき」の書と捉えていたのではないかと思うのです。

「日本書紀」は大津皇子が「詩賦の興り」(漢詩の始まり)と記していますが、本当は大友皇子だったのではないか?そんな思いもあります。

淡海三船にとっては、河島皇子であろうが大津皇子であろうが、そちらに深い関心はありません。こちらも「ウソつき」をしてやれ!「目には目」だとばかりに。

「日本書紀」の「ウソ付き」を、「懐風藻」の中で「ウソ付き」でやり返してやれ!そして天武天皇、特に持統天皇を貶めてやれ!

少々乱暴な書き口とはなりました。つまるところ「懐風藻」そのものが、天武天皇・持統天皇を貶めるために編纂がなされた書だったのではないか?そのように考えています。



◎果て…「大津皇子事件」の真相は?

「ウソつき」の両書を比較検討し精査したところで、真相を導き出すことは不可能。あくまでも推論を恐る恐る出すのが精一杯かと。

両書を見る限り、事件の黒幕が鸕野讚良(持統天皇)であるとは書かれていません。
「日本書紀」がそう書かないのは当然ですが、持統天皇を貶めたいはずの「懐風藻」ですら鸕野讚良が黒幕であるといったことは示唆すらもされていません。

そこから恐る恐る導き出す答えは…
「鸕野讚良は白」です。

そもそもで言うと、「大津皇子の事件」は起こった「環境」と「時」とが偶然にも、鸕野讚良が黒幕だと見られてもおかしくはないものであったため、恐る恐る出された推論であったはず。

どの文献を探ろうが、鸕野讚良が黒幕であったとは記されません。つまり後の時代に出された推論なのです。

それが独り歩きし、あたかも精査して導き出された正論が如くに、いつの間にか昇華したもの。

母の大田皇女が亡くなりさえしなければ天武天皇の皇后となり、大津皇子は皇太子となっていたはず。そして即位していたはず。
そういう点で大津皇子は「悲劇の皇子」に変わりはありません。

「万葉集」の「うつそみの 人にある我や 明日よりは 二上山を 弟背と我が見む」という姉の大来皇女の歌。どこからどう詠もうが、「悲劇の皇子」の歌にしか思えません。

本当は後世の作ではないかとされます。いつの頃からか「悲劇の皇子」に仕立て上げられ、鸕野讚良が黒幕と捉えられるようになってしまったのでしょう。


以上から鸕野讚良は大津皇子事件に於いて「白」、黒幕ではなかったと。
僧行心からの多少の入れ知恵はあった可能性はあるも、あくまでも大津皇子が自身で判断した単独犯行(未遂)であったと結論付けます。


[大和国十市郡] 吉備春日神社 境内の大津皇子を祀る磐座。




今回はここまで。

「大津皇子事件」の鸕野讚良による関与は無し、「白」という結論を出しました。

次回はまた異なる話題に。
通常通りに1ヶ月頃先をメドにUPします。



*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。